帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第一 春 (三十一)(三十二)

2015-02-03 00:17:42 | 古典

        



                     帯とけの拾遺抄



 「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。

紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の「心根」である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。


 

拾遺抄 巻第一 春 五十五首


       題不知                      読み人しらず

三十一 さくらがりあめはふりきぬおなじくは ぬるとも花の影にかくれむ

題しらず                     よみ人しらず(女の歌として聞く)

(桜狩り、雨は降って来た、同じことならば、濡れるとしても花の影に隠れましょう……おとこ花かりして、お雨は降って来てしまった、同じことならば、寝るとしても、お花のかげに隠れて・眠るわ)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「さくら…桜…木の花…男花…おとこ花」「がり…狩り…猟…漁り…伐採…まぐあい」「あめ…雨…春雨…おとこ雨…ことの果て」「ぬ…完了した意を表す…してしまった」「ぬる…濡る…寝る」「花…木の花…言の心は男」「かげ…影…陰…ものかげ…後ろに寄り添って」「む…意志を表す」

 

歌の清げな姿は、春雨に降られた桜狩り風景。

心におかしきところは、おとこ雨にて果ててしまったお花に、つつましやかな女の覚悟。

 

 

天暦御時麗景殿女御と中将更衣歌合し侍りけるに        元輔

三十二 春がすみ立ちなへだてそはなざかり 見てだにあかぬやまのさくらを

天暦御時、麗景殿女御と中将更衣歌合をされたときに     (清原元輔・清少納言の父)

(春霞立つな、隔てるな、花盛り、見ているだけでも飽きない山の桜を……張るが済み、絶つな、隔てるな、お花盛り、見てこそ飽きることのない、山ばのおとこ花を)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「春…季節の春…春情…張る」「かすみ…霞…見えなくなる隔て…か済み…彼澄み」「たちな…立ちな…絶つな」「へだてそ…隔てるな…離れるな」「はなざかり…花盛り…盛りの山ばのお花」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「やまのさくら…山桜…山ばのおとこ花」「を…対象を示す…感嘆・詠嘆を表す…おとこ」

 

歌の清げな姿は、(女房たちの色々な心根の顕れる歌合にて)山の桜を見えなくするなと春霞への呼びかけ。

心におかしきところは、おとこ花への叱咤激励。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


 

 以下は、当時の人たちの捉えた和歌の真髄である。原文を掲げる。


 紀貫之の歌論の表われた部分を古今和歌集『仮名序』より書き出す。

○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。

○歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて、今を恋いざらめかも。


 藤原公任の歌論は『新撰髄脳』の「優れた歌の定義」にすべてが表われている。

○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。


 清少納言は『枕草子』で、歌について、このようなこと言っている。

○その人の後と言われぬ身なりせば、こよひの歌を先ずぞ詠ままし。つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、これより出でもうで来まし。


 藤原俊成は『古来風躰抄』に、よき歌について、次のように述べている。

○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶にも、あはれにも、聞こゆることのあるなるべし。

 

上のうち、「歌のさま」「ことの心」「心におかしきところ」「つつむこと」「艶に聞こゆるところ」が何であるかは、近世から現代の学問的な和歌解釈では消えてしまった。「事の心」「慎む事」「優美に聞こゆる」などと無難に曲解するほかない。それでは歌論がよく解らないため、当時の当時者たちの歌論が無視されてしまったようである。