帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百十七〕侘しげに見ゆるもの

2011-07-14 00:11:30 | 古典

   



                                         帯とけの枕草子〔百十七〕侘しげに見ゆるもの 



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔百十七〕侘しげに見ゆるもの


 侘しげに見ゆるもの、六七月の午ひつじの時ばかりに、きたなげなる車に、ゑせ牛かけて、ゆるがしいく物。

 (みすぼらしく見えるもの、残暑の候の昼から昼下がりに、汚げな車に、品の悪い牛を掛けて、車体を・揺るがして行く者……失望する感じに見えるもの、みな尽き、夫身尽きの憂し泌じの時ばかりに、穢なげなものに、見かけだおしの憂し兼ねて、身を・揺るがし逝くもの)。


 言の戯れと言の心

「わびしげ…みすぼらしいさま…ものたりない感じ」「侘…失望するさま」「見…覯…媾…まぐあい」「六月…みなつき…水無月…皆尽き」「七月…ふみつき…文月…夫身尽き…不見尽き」「牛…丑…憂し…気がすすまない…つらそう」「ひつじ…未…泌じ」「ひつ…漬つ…泌つ…濡れる」「し…子…じ…児…おとこ」「車…しゃ…者…もの」「えせ……似非…質が悪い…見掛倒し」「かけて…掛けて…二つ兼ねて」「いく…行く…逝く」。



 雨の降らない日に張り筵している車。

たいそう寒い折りや暑い頃に、げす女の身なりの悪いのが子を背負っている。

老いた乞食。

小さな板葺きの屋の黒く汚げなのが雨に濡れている。また、雨がひどく降るのに小さな馬に乗って御さきがけしている人。冬はそれでもよい、夏は上着も下着も、汗で・一つになってぴったりくっついている。

 
 「わびしげ…みすぼらしいさま…苦しそうなさま…つらそうなさま」。



 枕草子は、おとなの女たちには「そうよねえ」と同意するようなことが書いてある。

伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず    (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による


帯とけの枕草子〔百十六〕いみじう心づきなきもの

2011-07-13 00:58:52 | 古典

   



                   帯とけの枕草子〔百十六〕
いみじう心づきなきもの 



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
 



 清少納言枕草子〔百十六〕
いみじう心づきなきもの


 いみじう心づきなきもの、まつり、みそぎなど、すべて男の物見るに、只ひとりのりて見るこそあれ。いかなる心にかあらん。やんごとなからずとも、若きおのこなどの、ゆかしがるをも、ひきのせよかし。すきかげに只ひとりたゞよひて、心ひとつにまもりゐたらんよ。いかばかり心せばく、けにくきならんとぞおぼゆる。
(まったく気にくわない情況、祭り、禊など全て、男が物見するのに、ただ独り車に乗って見ることがある。如何なる心でしょうか。格別な人でなくても、若い男などが、見たがっているのを、ひき乗せよよ。透き影で、独りただ酔って一心に何かを守っているのでしょうね、どれほど心狭く、気持ちは憎らしいだろうかと思える……ひどく不快なこと、賀茂の祭り、斎宮の禊ぎなどす辺て、男がもの見するのに、ただ独りのりて、みることがある。如何なる心でしょうか、格別でなくとも、若い男などの見たがるおでも、ひき乗せてやれよ。すき陰に、ただ独り多々酔いて、一心に、間堀り、射ているのでしょうよ。どれほど心狭く、気持が憎らしいのかと思える)。


 物見へ行き、寺へも詣でる日の雨。

使用人などが、「われをば、主人は・思ってくださらず、誰々は、ただ今の時の人」などと言うのを、ほのかに聞いている。

 人よりは小憎らしいと思う人が、あて推量しはじめて、むやみに他人を恨んで、我が賢いとなっている。

 
言の戯れを知り言の心を心得ましょう。

「心づきなし…気にくわない…不愉快…不快」「まつり…賀茂の祭…斎王の御出まし」「みそぎ…禊…川水で心身を清めること…斎王のみそぎ」「すべて…全て…す辺て…すのあたり」「す…女」「物見る…見物する…もの覯する…まぐあう」「ひとりのり見る…独り車に乗って見物する…独り興にのって覯する」「見…覯…媾…まぐあい…ここでは独りまぐあい」「ゆかしがるを…慕わしがるものを…見たがるお」「すきかげ…透き影…透き間より見える様」「ただよひて…漂いて…不安定な情況にいる…多々酔いて」「まぼりゐたらん…守り居るのだろう…間堀り射るのでしょう」「ま…間…股間」「掘り…まぐあい…ここでは独りまぐあい」「ゐ…居…射」。


 
祭見物では車がひしめいていて一つ車に大勢乗っているのが普通。それで、ただ独り乗りの男を非難して、気に入らないと、声高に語っていると同時に、低音で最低の事を語っている。まだ男色の方がましだと言っているのであって、男色(合子ともいう)のすすめではない。


 

伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず    (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による


 


帯とけの枕草子〔百十五〕正月に寺にこもりたるは

2011-07-12 01:22:22 | 古典

 



                   帯とけの枕草子〔百十五〕正月に寺にこもりたるは



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔百十五〕正月に寺にこもりたるは

 
 正月に寺にこもりたるは、いみじう寒く、雪がちにこほりたるこそをかしけれ。雨うちふりぬるけしきはいとわるし。

 (正月に寺に籠もっているのは、たいそう寒く雪がちで凍っているのは、風情があることよ。雨、降った景色はひどくわるい……睦つきに、士におかれて、籠もっておられるのはひどく心寒く、ゆきがちに、こ掘っているのこそ、興があることよ。お雨、降ってしまった気色はひどくわるい)。

 言の戯れと言の心

 「正月…むつき…睦月…睦ましきつき」「つき…突き…尽き」「に…時を示す」「寺…じ…し…士…児…子…おとこ」「に…場所を示す…におかれては…主語に敬意を表わす」「寒…心が寒い」「雪…行き…逝き」「こほる…凍る…子掘る…井掘ると同じくまぐあう」「雨…おとこ雨」「ぬる…ぬ…完了の意を表わす」「けしき…景色…気色」。



 清水など(清水寺)に詣でて、局(仕切りの間)を設ける間、階段のある廊下のもとに車引き寄せて停めていると、衣はだけて帯ばかりした法師らが、足駄というものを履いて、いささかも包み隠すことなく、下り上りするということで、何でもない経の端を読み、倶舎の頌など誦し歩きまわるのは、所には相応しく趣があることよ。われが上るのはとっても危うく思えて傍らに寄って欄干を押さえて行くものを、彼らは・ただ板敷きのように思っているのもおかしい。

「御局してございます。さっそくどうぞ」と言えば、沓など持て来て車より降ろす。衣を上の方へ折り返しているのも居る。女たちは・裳、唐衣などものものししく装束しているのもいて、深沓、半沓など履いて、廊のあたりを沓擦りながら局に入るのは内裏のようで、これもまたおかしい。出入り許された若い男たち、家の子など多数立ち並んで、「そこもとには落ちた所(段差)がございます、そこは上がっています」などと教えながら行く。主人は何者であろうか。間近くに歩み寄り、先立つ者などのことを、「しばしお待ち、他人がいらっしゃるものを、そうはしないものでしょう」などと言うのを、「げに(そうですね)」と、すこし心ある者もいる。また聞きも入れず、先ず我が仏の御前にと思って行くのもいる。局に入るときも、人の居並んでる前を通って入るので、まったくいやな感じだけれど、犬ふせぎ(仏堂の内と外陣との隔ての格子)の内を見入る心地はたいそう尊く、どうしてこの数カ月詣でないで過ごしていたのだろうと、道心もおこる。

 御灯明が常燈ではなく、内にあって、それに他人の奉納したもので、恐ろしいまでに燃えているので、仏像がきらきらとお見えなるのはたいそう尊いうえに、手毎に願文を捧げて、仏前の礼盤(高座)で、ゆらゆら身揺るがして誓うのも、これほど堂を揺すり、声が満ちていては、聞きとりそこなって解することはできないが、つとめて絞り出している声々が、さすがにそのうえ紛れはしないものだ、「千燈の御志しは、何某の御為」などは、かすかに聞こえている。帯うち(掛帯)して拝み奉るときに、「ここで、使うのでございます」といって、しきびの枝を折って持って来たが、香りなどがとっても高貴なのも、趣がある。犬防ぎの方より法師が寄って来て「(願文は)全く滞りなく申しました。幾日ほどお籠りされるおつもりでしょう。他にはしかじかの人が籠もっておられます」などと言い聞かせて行く。すぐに火桶や果物など持って続かせて、湯水注ぐ半ざふ(取手付きの器)に手水を入れて、取手がないたらいなどもある。「お供の人は、あちらの坊に」などといって、呼ぶのにつれて次々に行く。読経の鐘の音など我が為なりと聞くと頼もしく思える。

局の隣に、まあまあの男がまったくひっそりとして、額突き(礼拝)などの立ち居の程度も心ある人と感じられるが、ひどく思い込んだ気色で、少しも寝ないでお勤めするのには、感心する。こちらが休んでいる間は経を声高に聞こえない程度に読んでいるのも尊げである。遠慮せず声を出させてあげたいのに、まして鼻などを、めだって聞きにくくないように忍びやかにかんでいるのは、何事を思う人だろうかと、その願を成就させてあげたいなんて思える。

 
 数日籠もってるいときに、昼はすこしのどかで、さきほどまで居た供の者、法師の坊に、男ども女も童もみな行って、することもないときに、傍らで法螺貝をにわかに吹きだしたのには、ひどく驚かされる。清げな立文を供の者に持たせた男が、読経の布施をさっと置いて、堂の童子を呼ぶ声、山彦のように響き合って、きわだって聞こえる。鐘の音が響きを増して、どこのお勤めだろうと思うちに、やんごとなき所の名を言い出して、「お産、たいらかに」など、霊験ありげに申しているのなど、なんとなく、どうなんだろうと気がかりに思われるのだ。これは平日のことだかららしい、正月などはただたいそう騒がしい。もの望み頼みの人など、隙間なく詣でるのを見ていると、こちらの勤めもそっちのけになる。

 
 日が暮れるころに詣でるのは籠もるようである。たちの持ち歩けるものではないのに、鬼屏風の高いのをよく移動して、畳なども置いていると見ていると、ただ局に局を立てていく、犬防ぎに簾をさらさらとうちかける。よくし慣れている、容易そうである。そよそよと大勢車より降りてきて、大人びた人の卑しからぬ声が忍びやかな気配をさせて、帰る人たちにであろうか、「その事あやうし。火の事、せいせよ(そのことが不安だ、火の事、管制せよ)」など言っている人がいる。七つ八つばかりの男の子が、声に愛嬌があって、偉そうな声で、侍の男たちを呼びつけものなど言っている、とってもおかしい。また、三つばかりの稚児が寝ぼけて咳きしているのも、とってもかわいい、乳母の名、母などのも言い出しているが、主は誰であろうかと知りたい。

 一晩中大声でお勤めして明かすので、寝入ることもできなかったが、夜も明け方になって少しうとうとしている寝耳に、その寺の仏のお経をたいそう粗あらしく尊く読みだしたのが、けっして特別に尊くもない。修行中らしい法師がいつもは敷物を敷いている者が読むのだろうと、ふと目が覚めて、哀れに聞こえる。

 また、夜などは籠もらずに、相当の身分の人が、青鈍の指貫の、綿を入れた白い衣を数多く着て、子供だろうと見える若い男のかわいらしいの、衣装を整えた童ら、侍のような者ども、数多かしこまって居て、念じているのも趣がある。仮に屏風だけ立てて、額突きを少ししているようである。顔知らないのは誰だろうと知りたい。知っているのは、そうなんだろうなと見ているのもおかしい。

若い者たちは、とかく局のあたりに立ちさ迷うて、仏の御方に目も向け奉らない。別当(寺の長)を呼び出して、ささやくように話をして出て行った、ただ者とは見えない。

 
 二月つもごり、三月一日、花盛りに寺に籠もっているのも趣がある。清げな若い男たちの、主人と見える二・三人、桜のあお(狩衣)、柳(表白、裏青)などたいそう立派なのを着て、括り上げた指貫の裾も艶やかに見えている。それ相応の男に装飾が綺麗にしてある餌袋を抱き持たせて、小舎人童たちには、紅梅・萌黄の狩衣、色々の衣、摺染めの斑模様にした袴など着せている。花など折らせて持って、侍めかした細やかな者を伴って、こんぐ(金鼓)を打っているのは、趣があることよ。あの人だと見える人もいるけれど、どうして誰と知られるだろうか。すっと過ぎて行くのがもの足りなかったので、「けしきをみせまし物を(ものでも言いかけてくだされば、気のあるところを見せましょうものを)」などと言うのもおかしい。


 このようにして寺に籠もり、すべて通常でない所にただ使用人だけと居るのは、かいがないように思える。猶同じ程にて一つ心にをかしき事もにくき事も、様ざまにいひ合せつべき人(やはり思いが同じ程度で、共感し合って趣ある事も気に入らない事もさまざまに言い合わせられる人)、必ず一人二人、多数でも誘いたい。ここにいる人(使用人)の中にも、がっかりさせない受け応えする者も居るが、いつもの慣れた言葉だからだろう。男なども、そう(気心同じ者と来たい)と思うからでしょう、わざわざ局を尋ね呼び歩くのは。

 
 言の戯れと言の心
 「同じ程にて、一つ心にをかしき事もにくき事も、様ざまに言い合わせつべき人……同じ程度に、色好みで、言の心を心得ていて、聞き耳異なる言葉の意味を同じように聞いて、和歌など大人たちの表現が裏も表も時には深みもあると知っている人で、おかしき事もにくきことにも、そうよねえと、言い合わせられる人」。



 もの詣は里の使用人を供として来ている私事ながら、宮仕えを忘れているのではない、ここでは、願文から、その人が誰で、願い事は何かがわかる。紛れも無い実情である。「お産たひらかに」という願文を「誰某の御為」と聞けば、近いうちに、あの人に子どもが生まれると、噂では無い確かな情報が得られる。「その事、危うし、火の事制せよ」などと、我が家の火事を非常に心配する男は誰か、なぜかなど知る必要があれば、「犬」に嗅ぎまわらせることもできる。


伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず    (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による

 


帯とけの枕草子〔百十四〕あはれなるもの

2011-07-10 00:06:27 | 古典

   



                                  帯とけの枕草子〔百十四〕あはれなるもの 



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
 



 清少納言枕草子〔百十四〕あはれなるもの

 あはれなるもの、孝ある人の子。よきをとこのわかきが、みたけさうじしたる。たてへだてゐて、うちおこなひたる暁のぬか、いみじうあはれなり。むつまじき人などのめさましてきくらん、思ひやる。


 清げな姿

しみじみと感動するもの、親孝行な人の子。身分よき若者が御獄に詣でる為に精進している。閉め隔てて居て、行っている暁の額突き(礼拝)など、しみじみとした感慨がある。睦ましい人らが目覚めて聞くでしょうと、思いやられる。


 心におかしきところ

感動するもの、媾ある・効ある、男の子の君。よき男の若ものが山ばの峰めざして精出している。立てへ立て射て、うち行った赤尽きの、こうべ垂れひれ伏し、とってもあわれである。睦み合う女などが、めざめて効くでしょう、思い晴れる。


 言の戯れと言の心

「孝…孝行…効…効果…媾…まぐあい」「御獄…吉野の山…峰…絶頂」「め…目…女」「さめる…覚める…めざめる…初めて喜びなどを知る」「あかつき…暁…赤突き…赤尽き」「赤…元気色」「きく…聞く…効く」「思ひやる…思い遣る…心配する…思いをはらす」。



 (精進終えて実際に御嶽に)詣でるときの有様、どうだろうかなどと、慎みおそれていて、平穏にもの詣して帰り着いたのは、とってもめでたいことよ。烏帽子の有様などは、少し人目に悪い、やはり、たいそう立派な人といえども、これ以上ないやつれた有様で詣でるものと聞き知っている。

右衛門の佐、宣孝という人は「(やつれた有様では)みっともないことである。ただ良き衣着て詣でるのに何ということがあろうか。必ず、よもや、奇妙ななりで詣でよと御獄(権現)が宣ったりしない」といって、三月つごもりに、紫のとっても濃い指貫、白い狩衣、山吹色のけばけばしいのを着て、息子の隆光の主殿の助には、青色の狩衣、紅の衣、派手に擦り模様した水干という袴はかせて、連れ立って詣でたが、帰る人も今詣でる者も、珍しく奇妙な事に、すべて昔よりこの山にこのような姿の人は見えなかったと浅ましがったところが、四月一日に帰って六月の十日ごろに、筑前の守が辞任したので後任になったのこそ、なるほど、言っていたことは間違っていなかったのだ。これは「あはれなる・哀れな・感動的な」ことではないけれど、御獄のついでである。



 (あはれなるものつづき)

男も女も若くきよげなるが、いとくろききぬきたるこそ哀なれ。

(男も女も若く清げな者が、とっても黒い衣・喪服を着ているのは、哀れである……男も女も若くて綺麗な者が、とっても黒い衣・汚れた衣を着ているのは、哀れである)。

 
九月つもごり、十月ついたちの程に、只あるかなきかにきゝつけたるきりぎりすの声。

(九月末十月一日の頃に、ただ有るか無きかに聞きつけた、きりぎりすの声……長つきの果て、十つきのつい立ちのころに、ただあるか無きかに聞きつけた限り限りすの声)。


 には鳥の子いだきてふしたる。

(鶏が卵抱いて臥している……女が子の君抱いて寝ている)。


 秋ふかき庭のあさぢに露の色いろの玉のやうにておきたる。

(秋深い庭の浅茅に、露が色々の玉のようにおりている……飽き満ち足りた浅はかなおとこに、つゆが色々と白玉のようについている)。


 夕暮暁にかは竹の風に吹かれたる、めさましてきゝたる。又よるなどもすべて。

(夕暮れや暁に、河竹が風に吹かれているのを目覚めて聞いている。また夜もすべて……ものの果て、赤尽きに、川にある竹が心風に吹かれているのを、め冷めてきいている。股、寄るもののす経て)。


 山里のゆき。

(山里の雪…山ばのさ門の白ゆき)。

 
 思かはしたるわかき人のなかの、せくかたありて、心にもまかせぬ。

(思い交わす若い人の仲が、邪魔する人あって、意のままにならない……思いを交わしている若い人の中の、あせる片方あって、心のままにならない)。


 
 言の戯れを知り言の心を心得ましょう。

「にわとり…鶏…女」「には…庭…ものごとが行われるところ…女」「鳥…女」「あさぢ…浅茅…すすきの類い…情の薄く浅い男」「露…白つゆ」「河…川…女」「竹…君…男」「風…心に吹く風」「めさまして…目覚めて…め冷まして」「め…女」「きく…聞く…受ける…感じる」「又…股」「よる…夜…寄る」「すへて…全て…す経て…す過ぎ去って」「す…女」「山…山ば」「里…女…さ門」「雪…逝き…白ゆき…おとこの情念」「せく…塞く…妨害する…急く…あせる」。



 おとなの女たちが、色々な思いを込めて「あはれ」という事柄が書いてある。

 
ついでながら、「右衛門の佐、宣孝といひたる人」は、後に紫式部の夫となった。長保元年(999)のこと。宣孝は夫婦となって二年ばかりで亡くなった。紫式部が宮仕えに出たのは一年喪に服した後で、長保四年(1002)のこと。

 長保二年十二月定子皇后崩御。清女三十六歳は、長保三年(1001)に宮仕えを辞去した。これを書いているときは、
宣孝の妻が宮仕えに出る事など知る由も無い。


 

伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず   (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による


帯とけの枕草子〔百十三〕冬は

2011-07-09 00:02:35 | 古典

 



                                      帯とけの枕草子〔百十三〕冬は



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 清少納言枕草子〔百十三〕冬は


 冬はいみじう寒き、夏は世にしらずあつき。

(冬はひどく寒い、夏はほかに知らぬほど暑い……終は・
尽き果ては、ひどく心がさむい。撫つは、夜にしらず熱い)。
 
 
言の戯れを知り言の心を心得ましょう。

 「冬…四季のおわり…終…尽き果て」「寒い…身が寒い…心が寒い」「夏…なつ…なづ…撫でる…愛撫する」「世…余…その他…夜」「しらず…知らず」「あつき…暑い…熱い…情熱で熱い」。
 

 
藤原公任撰「和漢朗詠集」の「冬夜」にある紀貫之の和歌を聞きましょう。

おもひかねいもがりゆけばふゆのよの  かはかぜさむみちどりなくなり

 (思いに堪えかねて彼女の許に行けば、川風寒くて、千鳥が鳴いている……思いに堪えかねて、愛するひと、かりゆけば、ひとの心風さむく、しきりに泣いている)。
 
 
「がり…許に…かり…狩り…猟り…あさり…むさぼり…まぐあい」「川…女」「風…心に吹く風」「千鳥…しば鳴く小鳥…鳥…女」「なく…鳴く…泣く」。
 

 
藤原公任撰「和漢朗詠集」の「夏夜」にある紀貫之の和歌を聞きましょう。

なつのよのふすかとすればほとゝぎす なくひとこゑにあくるしのゝめ

(夏の短夜が、臥すかとすれば、ほととぎす鳴くひと声に、明ける東の空……撫づの夜が、伏すかとすれば、かつこう、泣くひと声に、飽くるしののめ)。


 「なつ…夏…暑い…懐…撫づ…熱い」「ふす…臥す…床につく…伏す…立つものがたおれ伏す」「ほととぎす…時鳥…ほと伽す…郭公…且つ乞う」「鳥…女」「ひと…一…人…女」「あく…明く…夜が明ける…飽く…満ち足りる」「しの…篠…細竹…しなやかなさま」「め…女」。

 枕草子の文は、このような和歌と表現様式は同じで、言の心も変わらない。
 

 
伝授 清原のおうな

聞書 かき人知らず   (2015・9月、改定しました)


  原文は、「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」 による