■■■■■
帯とけの枕草子〔百十五〕正月に寺にこもりたるは
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔百十五〕正月に寺にこもりたるは
正月に寺にこもりたるは、いみじう寒く、雪がちにこほりたるこそをかしけれ。雨うちふりぬるけしきはいとわるし。
(正月に寺に籠もっているのは、たいそう寒く雪がちで凍っているのは、風情があることよ。雨、降った景色はひどくわるい……睦つきに、士におかれて、籠もっておられるのはひどく心寒く、ゆきがちに、こ掘っているのこそ、興があることよ。お雨、降ってしまった気色はひどくわるい)。
言の戯れと言の心
「正月…むつき…睦月…睦ましきつき」「つき…突き…尽き」「に…時を示す」「寺…じ…し…士…児…子…おとこ」「に…場所を示す…におかれては…主語に敬意を表わす」「寒…心が寒い」「雪…行き…逝き」「こほる…凍る…子掘る…井掘ると同じくまぐあう」「雨…おとこ雨」「ぬる…ぬ…完了の意を表わす」「けしき…景色…気色」。
清水など(清水寺)に詣でて、局(仕切りの間)を設ける間、階段のある廊下のもとに車引き寄せて停めていると、衣はだけて帯ばかりした法師らが、足駄というものを履いて、いささかも包み隠すことなく、下り上りするということで、何でもない経の端を読み、倶舎の頌など誦し歩きまわるのは、所には相応しく趣があることよ。われが上るのはとっても危うく思えて傍らに寄って欄干を押さえて行くものを、彼らは・ただ板敷きのように思っているのもおかしい。
「御局してございます。さっそくどうぞ」と言えば、沓など持て来て車より降ろす。衣を上の方へ折り返しているのも居る。女たちは・裳、唐衣などものものししく装束しているのもいて、深沓、半沓など履いて、廊のあたりを沓擦りながら局に入るのは内裏のようで、これもまたおかしい。出入り許された若い男たち、家の子など多数立ち並んで、「そこもとには落ちた所(段差)がございます、そこは上がっています」などと教えながら行く。主人は何者であろうか。間近くに歩み寄り、先立つ者などのことを、「しばしお待ち、他人がいらっしゃるものを、そうはしないものでしょう」などと言うのを、「げに(そうですね)」と、すこし心ある者もいる。また聞きも入れず、先ず我が仏の御前にと思って行くのもいる。局に入るときも、人の居並んでる前を通って入るので、まったくいやな感じだけれど、犬ふせぎ(仏堂の内と外陣との隔ての格子)の内を見入る心地はたいそう尊く、どうしてこの数カ月詣でないで過ごしていたのだろうと、道心もおこる。
御灯明が常燈ではなく、内にあって、それに他人の奉納したもので、恐ろしいまでに燃えているので、仏像がきらきらとお見えなるのはたいそう尊いうえに、手毎に願文を捧げて、仏前の礼盤(高座)で、ゆらゆら身揺るがして誓うのも、これほど堂を揺すり、声が満ちていては、聞きとりそこなって解することはできないが、つとめて絞り出している声々が、さすがにそのうえ紛れはしないものだ、「千燈の御志しは、何某の御為」などは、かすかに聞こえている。帯うち(掛帯)して拝み奉るときに、「ここで、使うのでございます」といって、しきびの枝を折って持って来たが、香りなどがとっても高貴なのも、趣がある。犬防ぎの方より法師が寄って来て「(願文は)全く滞りなく申しました。幾日ほどお籠りされるおつもりでしょう。他にはしかじかの人が籠もっておられます」などと言い聞かせて行く。すぐに火桶や果物など持って続かせて、湯水注ぐ半ざふ(取手付きの器)に手水を入れて、取手がないたらいなどもある。「お供の人は、あちらの坊に」などといって、呼ぶのにつれて次々に行く。読経の鐘の音など我が為なりと聞くと頼もしく思える。
局の隣に、まあまあの男がまったくひっそりとして、額突き(礼拝)などの立ち居の程度も心ある人と感じられるが、ひどく思い込んだ気色で、少しも寝ないでお勤めするのには、感心する。こちらが休んでいる間は経を声高に聞こえない程度に読んでいるのも尊げである。遠慮せず声を出させてあげたいのに、まして鼻などを、めだって聞きにくくないように忍びやかにかんでいるのは、何事を思う人だろうかと、その願を成就させてあげたいなんて思える。
数日籠もってるいときに、昼はすこしのどかで、さきほどまで居た供の者、法師の坊に、男ども女も童もみな行って、することもないときに、傍らで法螺貝をにわかに吹きだしたのには、ひどく驚かされる。清げな立文を供の者に持たせた男が、読経の布施をさっと置いて、堂の童子を呼ぶ声、山彦のように響き合って、きわだって聞こえる。鐘の音が響きを増して、どこのお勤めだろうと思うちに、やんごとなき所の名を言い出して、「お産、たいらかに」など、霊験ありげに申しているのなど、なんとなく、どうなんだろうと気がかりに思われるのだ。これは平日のことだかららしい、正月などはただたいそう騒がしい。もの望み頼みの人など、隙間なく詣でるのを見ていると、こちらの勤めもそっちのけになる。
日が暮れるころに詣でるのは籠もるようである。たちの持ち歩けるものではないのに、鬼屏風の高いのをよく移動して、畳なども置いていると見ていると、ただ局に局を立てていく、犬防ぎに簾をさらさらとうちかける。よくし慣れている、容易そうである。そよそよと大勢車より降りてきて、大人びた人の卑しからぬ声が忍びやかな気配をさせて、帰る人たちにであろうか、「その事あやうし。火の事、せいせよ(そのことが不安だ、火の事、管制せよ)」など言っている人がいる。七つ八つばかりの男の子が、声に愛嬌があって、偉そうな声で、侍の男たちを呼びつけものなど言っている、とってもおかしい。また、三つばかりの稚児が寝ぼけて咳きしているのも、とってもかわいい、乳母の名、母などのも言い出しているが、主は誰であろうかと知りたい。
一晩中大声でお勤めして明かすので、寝入ることもできなかったが、夜も明け方になって少しうとうとしている寝耳に、その寺の仏のお経をたいそう粗あらしく尊く読みだしたのが、けっして特別に尊くもない。修行中らしい法師がいつもは敷物を敷いている者が読むのだろうと、ふと目が覚めて、哀れに聞こえる。
また、夜などは籠もらずに、相当の身分の人が、青鈍の指貫の、綿を入れた白い衣を数多く着て、子供だろうと見える若い男のかわいらしいの、衣装を整えた童ら、侍のような者ども、数多かしこまって居て、念じているのも趣がある。仮に屏風だけ立てて、額突きを少ししているようである。顔知らないのは誰だろうと知りたい。知っているのは、そうなんだろうなと見ているのもおかしい。
若い者たちは、とかく局のあたりに立ちさ迷うて、仏の御方に目も向け奉らない。別当(寺の長)を呼び出して、ささやくように話をして出て行った、ただ者とは見えない。
二月つもごり、三月一日、花盛りに寺に籠もっているのも趣がある。清げな若い男たちの、主人と見える二・三人、桜のあお(狩衣)、柳(表白、裏青)などたいそう立派なのを着て、括り上げた指貫の裾も艶やかに見えている。それ相応の男に装飾が綺麗にしてある餌袋を抱き持たせて、小舎人童たちには、紅梅・萌黄の狩衣、色々の衣、摺染めの斑模様にした袴など着せている。花など折らせて持って、侍めかした細やかな者を伴って、こんぐ(金鼓)を打っているのは、趣があることよ。あの人だと見える人もいるけれど、どうして誰と知られるだろうか。すっと過ぎて行くのがもの足りなかったので、「けしきをみせまし物を(ものでも言いかけてくだされば、気のあるところを見せましょうものを)」などと言うのもおかしい。
このようにして寺に籠もり、すべて通常でない所にただ使用人だけと居るのは、かいがないように思える。猶同じ程にて一つ心にをかしき事もにくき事も、様ざまにいひ合せつべき人(やはり思いが同じ程度で、共感し合って趣ある事も気に入らない事もさまざまに言い合わせられる人)、必ず一人二人、多数でも誘いたい。ここにいる人(使用人)の中にも、がっかりさせない受け応えする者も居るが、いつもの慣れた言葉だからだろう。男なども、そう(気心同じ者と来たい)と思うからでしょう、わざわざ局を尋ね呼び歩くのは。
言の戯れと言の心
「同じ程にて、一つ心にをかしき事もにくき事も、様ざまに言い合わせつべき人……同じ程度に、色好みで、言の心を心得ていて、聞き耳異なる言葉の意味を同じように聞いて、和歌など大人たちの表現が裏も表も時には深みもあると知っている人で、おかしき事もにくきことにも、そうよねえと、言い合わせられる人」。
もの詣は里の使用人を供として来ている私事ながら、宮仕えを忘れているのではない、ここでは、願文から、その人が誰で、願い事は何かがわかる。紛れも無い実情である。「お産たひらかに」という願文を「誰某の御為」と聞けば、近いうちに、あの人に子どもが生まれると、噂では無い確かな情報が得られる。「その事、危うし、火の事制せよ」などと、我が家の火事を非常に心配する男は誰か、なぜかなど知る必要があれば、「犬」に嗅ぎまわらせることもできる。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による