逆井城
関東のこの辺りはほんとに平たいです。
今年もシャガが咲き始めました。
あけましておめでとうございます。
たまに食べたくなるもの。
春ごろに、スーパーで値引きされ298円だったパパイヤの苗を、猫の額ほどの庭に植えておいたのです。
ひとの少なそうなところを歩くのが、貴重なお出かけとなった最近。
陽が沈むと寒い。
ところどころに氷が。
風もないので樹が映り込む。
椿の花びらも痛んでしまった。
水鳥のばさばさっという羽音にドキッ。甲高く鳴きかう。暗い中でも鳥は活動しているらしい。鳥目は大丈夫なのかな?とか。
落ちるように暗くなっていく
民家の灯りがぽつんと。この先が森の出口。
スマホのライトで照らしながら出てきました。
夜の森なら ColdPlay - Midnight- (youtube)
ちょっと木島櫻谷「寒月」を思い出す。
雨の翌日の森歩き。
森の入り口は、東南アジアの山岳地帯みたいな竹と芭蕉。芭蕉の葉の破れ具合がいい感じ。
その先に山茶花(←椿から訂正)
黄色いもみじ、赤いもみじ
もみじの折重なる橋を渡り、
~竜田川 からくれないに 水くくるとは~ 上の句はなんだったかな
鳥の鳴き声しか聞こえない
先日はるばる川口まで行ってみてきた、浅見貴子さんの木の作品が時折重なる。すばらしい展覧会だったなあ。(川口市立アートギャラリーアトリア 浅見貴子「樹々あそぶ庭」12月9日まで)
雨の次の日だったから、しずくが。
ススキが輝いていた
まだまだがんばるアザミ
玉つゆ
もっと奥へ。
小径のまんなかに、一輪だけの椿。入るものを上から見ているような、不思議な気配。
入りますよと思いながら通り抜けた先は、紅葉源郷。
西日を受けて輝く、最高の時間に着ついた幸運。
樹齢何年くらいなのか、太い幹。両手を大きく広げるような枝。
自分が踏んだ枝のバキッという音に、どきっとする。もみじの乗る橋を渡ってから、だれにも会っていない。しんとした音に、軽い戦慄。
さかさづりになったひとのような・・
お、メタセコイヤだ。
むかし実家にもメタセコイアの大木があった。父がこどもの頃どこだったかかから小さいのを抜いてきて植えたら、こんなに大きくなってしまったんだと言っていた。私にとっては生まれた時からあり、ネコと登って遊んでいたのに、当の父が増築する時に業者に切らせてしまった。せめて切り株くらい置いといてイスとかにしよーよーと言ってみたのだけど、しろありとか来るからムリと。。
虎カラーでなかなかおしゃれに変色。
つつじ?
タンポポ
よくわからない季節になっている。
もくれん?
山茶花が満開
小枝の先端には、ぽつっと赤い芽。
樹の穴、ヤマネとかいるとうれしいんだけど。
とのんきなことを考えていると、行き止まり、戻り、方向を見失い。そこにいちまつの心地よさ。クマやイノシシが出るわけでもないので。
これはなにかな。点々と小さな花がついている
実も。
枯れた蓮の影が映って、幾何学的な。
晩年の若冲が、こんな枯れた蓮を描いていた。1788年の天明の大火で焼け出されたあと、墨の「蓮池図」襖絵(1790年)
荒涼としたなかに、若冲は小さくてもしっかりとしたつぼみと、折れそうになりつつ首を保った種を描いていた。
さすがに12月ではつぼみは発見できなかったけど。
終始emotionalな森歩きだった。
森の外に出てきたら、絵にかいたような菊に妙に感動。この自然な感じ。
帰宅すると服にたくさんついていた草の実
私は俳句の世界にうといのだけど、
たった17文字の言葉がこんなに視界と五感を広げてくれるのか、と心動かされている。
つい先ほど目にした俳句、
一瞬に心つかまれ、その後にじわじわと様々な思いへ広がっていく。
〈かき氷 含めば青き 海となる〉
さーっと、私の目の前に青が広がった瞬間だった。
小林凛さん。
現在は17歳くらいかな。
いじめを受けた小学生の頃から俳句を作り、句集も発表。ご存知の方も多いのでしょう
俳句のはのじもよくわからない私が、引き込まれて、次々と別の句も読み進めてしまった。
〈 葱坊主触れたくなりし下校道 〉
小さいもの、弱いものと共にある。まさにそこに彼自身が立っている。
小さいものが、めいっぱいに抱える心情が、こらえきれずに堰を切ってしまいそう。
〈いじめられ 行きたしいけぬ 春の雨〉
日野原重明さんに送った句は、思いつめて苦しくなるようなときにも、ぽーんと天井が抜けて、空が見えそう。
〈 百歳は 僕の十倍 天高し 〉
こんなに素直な思いを表現にできるってすごい。
うそのない、虚飾もない、素直な優しいものの見方をするひとを想像。
そして孤独を知るひとの強さ。
小林一茶の「やせガエル 負けるな 一茶これにあり」、が一番好きな句なのだそう。
〈春の虫 踏むなせっかく 生きてきた〉
これはいつ頃の句だろう。
〈生まれしを 幸かと聞かれ 春の宵〉
10代のひとの句に、ひとつひとつ立ち止まる、人生後半の私。
生きるとはなにか
生きるとは「抗う」ことである
と。
こちらから
以下、yahooニュースからの転載
壮絶ないじめ体験を乗り越えた注目俳人、小林凜に長谷川櫂氏が贈った大きなエール
7/18(水) 6:00配信
壮絶ないじめ体験を乗り越えた注目俳人、小林凜に長谷川櫂氏が贈った大きなエール
エッセイにも登場する愛犬すみれと小林凜
地球上にはさまざまな人がいる。いてもいい、いや、いるべきなのだという思想は二十一世紀の現代に確実に広まりつつある。しかし、それはまだ社会の表面のできごとにすぎず、いったん人々の日常に分け入れば、世界には人種、民族、性別、障害などによる差別や迫害に苦しむ無数の受難者がいる。
小林凜君をはじめて知ったのは十年近く前のことになる。毎週、朝日俳壇に寄せられる六、七千枚のハガキの中に「小林凜 小三」と書いた一枚がまじっていた。
紅葉で神が染めたる天地かな
小学校三年生にしては、ずいぶん大人びた句だと思った。同時に九歳の子どもを早々と大人びさせてしまった巨大な孤独の存在を一枚のハガキの向こうに感じた。
あとで知ったことだが、凜君は九四四グラムの未熟児で生まれ、その後も発達が遅れたために小学校では、彼の言葉を借りれば「クラスメートの格好のオモチャにされた」。中学校に進んだものの「いじめ」のために不登校になってしまう。
知っておくべきことは、凜君をいじめたのは子どもたちばかりでなく、多くの場合、学校と先生たちも「いじめ」を否定し無視するという形で「いじめ」に加担したことである。悲しいことにこれが学校の現実である。こうした孤立無援のただなかで凜君は俳句に出会い、俳句を作りつづけてきた。
今、俳句は小学校から教える。子どもたちは友だちや先生といっしょに俳句を作る。たしかにそれは学校における幸せな俳句の姿といえるかもしれない。凜君と俳句の関係はこれとは明らかに異なる。クラスメートや先生の「いじめ」に対抗してただ一人、凜君が俳句という無防備な砦に立てこもっている構図になるだろうか。
田に帰す小さき命やちび蛙
葱坊主触れたくなりし下校道
壮絶ないじめ体験を乗り越えた注目俳人、小林凜に長谷川櫂氏が贈った大きなエール
『生きる』小林凜[著]小学館
雀、蛙、蜘蛛。凜君はしばしば小さな動物を詠む。あるいはタンポポや葱坊主のような小さな植物。どの句からも凜君の思いやりと優しい心が感じられる。しかし、これらの句は小さな動物、小さな植物を虐げるものへの抗議と抵抗であることを忘れてはならない。
生きるとはなにか
生きるとは「抗う」ことである
「生きるとは」という詩の冒頭の二行。平均的な十六歳(当時)の高校生の人生観と比べれば、悲壮すぎるくらい悲壮である。しかし悲壮には悲壮でなければならない理由がある。
これからも凜君は俳句とともに闘いつづけるだろう。そして俳句とともに闘うことの苦難と幸福をやがて知るだろう。
存分に闘いたまえ、小林凜君。
[レビュアー]長谷川櫂(俳人)
1954年熊本県生まれ。俳人。朝日俳壇選者、ネット歳時記「きごさい」代表、東海大学文芸創作学科特任教授、神奈川近代文学館副館長。「蛇笏賞」「奥の細道文学賞」「ドナルド・キーン大賞」選考委員。『俳句の宇宙』でサントリー学芸賞、句集『虚空』で読売文学賞受賞。『俳句の誕生』『四季のうた』ほか著書多数。読売新聞に詩歌コラム「四季」を連載中
小学館 2018年7月18日 掲載
船とか軍事とか疎いのですが、横須賀の軍港巡りクルーズに行ってみました。HP
猿島に渡るのと同じ船会社なのですね。完売の日も多いようで、ネットから予約して行きました。
ほんとに物知らずゆえ、
横須賀の湾がこんなにぐるりと米軍の軍艦や自衛艦に囲まれていたとは、知りませんでした。
船に乗ると、前方に潜水艦がすーっと進んでいました。甲板には乗組員さんたちが見えました
ガイドさんのお話は盛りだくさん。
あれが駆逐艦、イージス艦、護衛艦、、と、艦名や役割を聞いたのですが、覚えきれず、、
空母ロナルドレーガン
その横(赤白のクレーンの左がわ)に、見えにくいですが、米軍の原子力潜水艦。
今朝か昨日だったかに、着岸したそうです。
日により、軍艦は着港したり、他へ移動したり。
ガイドさんのお話では、この船はいつもは呉にいますが、数日前にこちらへ来ました、とか、
今日は日本の潜水艦の4隻が横須賀に来ていますよ、とか。
日々移動があるのですね。この変化を毎日見ていたら、地元の方は有事の気配に気づくのかもしれません。
日産の工場と車も見えます。
「あさぎり」。今の艦長は女性の方なのだそうです。
砲台が見えます。ここから発射したら鎌倉くらいまで届く距離なのだとか。
吾妻島は、日米の共同管理ということで、一般の立ち入りはできません
先程移動していた潜水艦が着岸していました。
驚く事ばかりの軍港巡りでした。
それから、ドブ板通りへ。
スタジャンがたくさん。
アメリカン?なパブが並んでいますが、昼間だからかまだ閉まっているお店が多かったです。
横須賀バーガーのお店はいくつかあいていました。
エジプト人シェフのお店には、フムスのピタサンドもありました^^。
仁和寺展や常設展を観に行ったのだけど、なかなか日記に書けないでいます。
待ち時間に、スマホから散歩写真だけ貼ります。
いつも上野駅のJR公園口から直行直帰するところ、この日はアメ横側から。
数日前からどうしてもタイ料理を食べたくて、
マルイ裏の雑居ビルの三階の「シャー・トムヤムクン・ポーチャナー」へ直行。
大通りから一本入るだけで、多国籍でdeepなエリア。
たいていのタイ料理屋と同じく、先の王様や、王女様(現王様の姉)の写真が飾られている。今の王様の写真を掛けてあるお店は、まだ見たことがない…。
パッタイ(^-^)
私は太い平麺のが好きなのだけど、こちらのは中細麺。
でも美味しい〜(^-^)。けっこう辛い〜🔥(^-^)。
さて、何年かぶりに西郷さん側から上野公園内に入る
大河のせごとんで、この像の除幕式に妻(黒木華)が「こんひとはうちのひとじゃごわはん〜」と叫んでおりましたっけね。
こんなのがありました。「上野華灯篭 浮世絵行脚」
不忍池風景。この展望台はいまはどこのあたりだろう??
昔の今も、上野のお花見は大騒ぎ🍶
絵は、昇斎一景のようだ。一景は明治の文明開化時期の風俗画を残しており、ここにも洋服の男性がいる。目隠しをした洋服の男性は、隣の宴席に飛び込んでしまったのか?迷惑がられているみたい。敷物にこぼれたお酒をなめている男性もいる。
こちらは歌川豊国「江戸名所百人美女」。後ろの小間絵に、”上野 山下”とある。やっぱり満開の桜。
神社があるのに初めて気づいた。
花園稲荷神社
カップル多し。もたもた写真撮ってると、ちょっとじゃまものな感じだったので、お参りもせずに退散。縁結びのパワースポットとして知られるらしい。
またね、狛犬さんたち。
おおー久しぶりのパゴダ。昭和42年築。
精養軒の駐車場に誘導するパンダ
上野東照宮。 1616年、徳川家康の遺言に従い、 天海僧正と藤堂高虎が開山。社殿は1651年に徳川家光公が造営したものが、現存している。数々の火災や戦乱、空襲をかいくぐったというのは、奇跡的では。
牡丹園が見頃だそうだけど、先を急ぎますのでまた今度。
この売店、甘酒やお面、江戸っぽいおもちゃなど、キッチュで懐かしい店がまえ。繁盛してました。
オリンピックに向けてか、上野ではあちこちで工事が進んでいるけれど、このお店は存続するんだろうか。
動物園の前にあった小さな遊園地は、2016年にこのようなお知らせ看板に無念をを託し、閉園した。
「この度、地主である東京都から『動物園の魅力を高めることを目的とした、正門前広場の整備工事』の支障になると許可を取り消されましたので、やむを得ず8月31日(水)をもちまして廃棄いたしました。」
この売店は東照宮の敷地内だとしたら、都とは関係ないかもしれないけど、どうなるのかな。
お団子茶屋。パッタイでお腹ぱんぱんでなければ入るところだけど。
知らないところがたくさんありました。美術館と動物園以外、ほとんどまわったことがなかったのです。
こんどは不忍池も行ってみよう。
もうすぐ東博に到着。横の木立のなかでは、この日も炊き出しに長い行列ができている。上野では週に数回、炊き出しがおこなわれている。
美術館に一歩入れば、値段もつけようのない宝物や美術品が並ぶけれども、その外側はいろんな要素が混在する上野。
けっしてとりすましてすむ街ではない。
公園内に限っても、オリンピックのために、都は”魅力ある”公園として”整備”を急ピッチですすめるのだろうけれど、どんなふうになるのだろう。
個人的には、
・公園内の暗いアスファルトの色の道路が何とかならないかな。
・東博にちょっとひと休みできるくらいのカフェができないかな。(宝物館と東洋館のオークラ系列のレストランも好きだけれど、本館にほしい。オークラほどりっぱじゃなくていいので、誰でも気軽にコーヒーが飲めるくらいの。)外の移動店舗カーのは夏冬は厳しいし、平成館の鶴屋吉信は企画展の時だけだし・・。
明けましておめでとうございます。
うちの伝統的お雑煮
京風の白味噌仕立て、丸もちです
京人参がなかったので普通の人参です^_^;
今年もよろしくお願いいたします。
珍しく食材の話になるのですが、シイタケを買いましたら、兵庫県産「春日局の里」とありまして。
春日の局って兵庫生まれ?。
丹波市春日町で生誕したそうな。それで春日局と。
ドラマ「大奥」の松下由樹さんの顔が浮かんできますが。
道の駅のHPから
お福の父・斉藤利三は明智光秀の重臣で、光秀が丹波攻めで黒井城を落とした後、その下館を陣屋に改めました。これが現在の興禅寺で、お福はここで生まれ、三歳までを過ごしています。下館とは戦国時代の城主が合戦がない平時に住んだ場所のこと。興禅寺は水をたたえた七軒堀や高い石垣・白壁など、当時の下館の様子をよく残すものとして、国の史跡に指定されています。
境内には「お福の腰かけ石」や「お福の産湯の井戸」などがあり、江戸幕府を裏から支えた春日局の幼少期に思いを馳せることができます。
所在地
〒669-4141 兵庫県丹波市春日町黒井2263
肉厚でおいしいシイタケでした。
芸大美術館の帰り、ふと芸大と上野公園の間の道を右折してみた。
よく通るのに、道を変えたのは初めて。
今工事中の「旧東京音楽学校奏楽堂」の壁が、仮囲いの上から見える。
う、動物っぽい臭いがすると思ったら、上野動物園の裏手。見上げると、そびえる金網の鳥舎に大きな鷲?コンドル?がとまっていた。
クラシックな建造物は、動物園の「旧正門」
現在の表門と池之端門の他にも門があったとは。
明治44年に建てられたもの。門番小屋、切符売り場も見える。現在は、一般には使用されておらず、皇族方が来園する際などに開けられるそう。
植え込みで見つけた小さな花
全て名前がわからない、、
↑この形、なにか見た覚えのある形状だと思ったら、これか。(ウィキペディアから)