茨城県の常総市へ。
豪農屋敷「坂野家住宅」を見学してきました。
大河ドラマの「篤姫」「龍馬伝」や「JINー仁」など多くのロケ地としても使用されているとのこと。いわれてみれば、既視感が確かにありました。
坂野家は500年ほど前に、旧大生郷村のこのあたりに土着し、有力な名主だったそうです。
竹林に囲まれた3000坪の敷地に、主屋、二階建ての書院、蔵、数棟の納屋などが建っていました。
主屋は元禄時代(1688~1704年)に建てられ、その後1838年ごろに座敷の棟などが増築されたようです。月波楼と呼ばれる二階建ての書院は、平屋だったのを大正時代に二階を増築したようです。
平成10年に市が土地・建物を譲り受け、解体修理が行われました。
建物内には、当時の掛け軸や襖絵がそのまま使用されていました。それがさらっと、奥原晴湖だったり!、藤田東湖や山岡鉄舟だったり!。
幕末・明治期、11代当主・坂野耕雨(1802-62)、その嫡子の12代当主・坂野行斎は、二人とも文人当主と呼ばれたそうで、二人の交流が偲ばれました。
所蔵品目録を見ても、亀田鵬斎、田能村竹田、立原杏所、木村武山、菅井梅関、椿椿山など、茨城や栃木ゆかりの人物を中心とした書家や画家の作品がてんこ盛り。
二人の当主の趣向や、この家を行き来した文人たちの足跡が感じられて、興味ひかれました。
周辺は水田や林が広がる、民家もまばらなところ。
豪農の屋敷ですが、門構えは武家屋敷のよう。
薬医門(元禄時代:国指定重要文化財)
坂野家は幕府の役人が逗留することもあったため、城郭や武家屋敷などに認められた薬医門の形になっているとのこと。
室内も、武家屋敷と豪農屋敷、商家がミックスされたような感じを受けました。500年前の新田開発の頭取を命じられて以来、この地域のさまざまな役目をになってきたのかなと思いました。
二宮金次郎も、天保期(1830~1844年)に荒地再興の為、坂野家住宅に滞在したそうで、書簡などが残されています。
向かって右側の主屋が元禄時代の築。(国指定重要文化財)
左側の棟が、1838年の増築部分でしょうか。この棟の玄関は、式台を設けてあり、最も格式の高い座敷に続きます。この玄関は、身分の高い人のためのもので、当主でさえ使用することはなかったそう。
主屋は、土間、茶の間、仏間など生活感のあるスペースと、身分の高い人物を迎え入れる「座敷部」で構成されていました。
帳場
茶の間。奥に土間。
かまどとお鍋が大きかった!
冷蔵庫
蔀戸(しとみど)
横にスライドさせて、通風や採光を調節可。天井から下がる金具に引っ掛けて全面開放することもできる優れもの。
戸の上に槍が。撮り忘れましたが、別の戸には、天狗党が押し入った際の刀傷と言われる跡がついていました。
脇玄関襖絵(右襖) 「富貴図」根本愚洲 ((1806-73)、大槻磐溪賛
この日は一面しか見えませんでしたが、左襖は、岡本秋暉筆ですと!
岡本秋暉(1807~62)といえば、展覧会で何度か、千葉県柏市の名主・寺嶋家の摘水軒コレクションからの出品だと拝見したことがあるけれど、秋暉は1846年ごろに寺嶋家に逗留していたとか。時期が合うけれど、双方つながりはあったのでしょうか。寺嶋家は、私の好きな亀田鵬斎とも交流があったとのこと、坂野家の所蔵品のなかにも亀田鵬斎の書があり、気になるところです。
摘水軒コレクションは、秋暉はじめ、北斎や若冲でも色鮮やかな肉筆絵画がたくさんあるようなのですが、坂野家には、カラフルな画はなかった印象です。ほぼ墨だけで描かれた画ばかりで、むしろ書が多い。坂野家に泊まった客人が書いていった、主と書簡をやりとりした、文人つながりで入手した、そういう経緯の画や書をたいせつに保管したり、室内に設けたりしてきたのでしょうか。
座敷部分は、一の間、二の間、三の間と見渡せます。
一の間は、二の間、三の間に比べて天井も高く、最も格式の高い部屋。
一の間
床の間の掛け軸は、奥原晴湖。
脇床の違い棚に置かれた額は、藤田東湖。
脇床の天袋に貼りこまれた絵は、特に解説がなかったのですが、なにか由緒ありげな…。
と思ってあとで検索してみたら、「漁師図」は、高久隆古(高久靄厓の跡継ぎ)。
「驟雨図」は、福田半香。
菊は、小池池旭(大沼枕山(知らないけど漢詩人だそう)の妹)。
この絵も気になるのですが、誰かわからず。
高久隆古、福田半香、池旭・枕山兄妹は、11代当主・耕雨のとき、ともに坂野家に滞在し、その折に描かれたようです。筆を渡されれば即興で描ける、皆で興にのって描くって憧れます。
一の間の欄間も見もの。
左右で文様が違いますが、家人はずっと家紋の蔦の欄間(上の一枚目の写真)と思っていたところ、あるとき蔦の部分が落ち、下から菊の透かしが現れたそう。江戸時代には菊で作られていたが、明治に入り天皇家と同じでは恐れ多いということで、蔦を取り付けたのかも、と解説シートにありました。
ほかの欄間もひとつひとつがどれも佳い風合いでした。
屋敷全体に、華美にはしないように心掛けつつ、格式を高く設えたことが感じられました。
仏間
掛け軸は、当主・坂野耕雨によるもの。
渡り廊下から二階建ての書院・月波楼へ。
もとは主屋とともに平屋で建てられたものを、大正9年に2階に建て直したとのこと。
月波楼は、この地方の文化サロンの拠点であり、江戸からも文人墨客を招聘したそうです。
相当多くの人が一同に集うことが多かったのでは。あの大かまどといい、そして印象的なのが、坂野家はトイレが多いこと。主屋にもいくつかありましたし、月波楼の一階、二階にもそれぞれふたつずつ。
月波楼の一階座敷
書は、富岡鉄舟。
その右側、書院の地袋と組子障子。
地袋はだれかわからず。
二階へ
月波楼の二階は眺望良好。月も見えたのでは。
当時のままのガラスは、ゆらぎがいい風合い。
掛け軸は、1858年に、鷲津毅堂・西村以寧・秋場桂園・坂野耕雨による連句を、鷲津毅堂が記したもの。
押入の襖は、川村雨谷の四君子。扁額の「月波楼」の書は中村不折。
二つの間を仕切る襖の絵も、川村雨谷。
富貴平安・歳寒二友図を4面に。開けてあったので梅と牡丹のみ拝見できました。
その裏の襖絵は落款もなくだれということもないのかもしれないけれど、ほのぼのしていてお気に入り。
月波楼の組子も、どれもさりげなく美しくて目移り。六本木の小山富美男ギャラリーで見たソピアップ・ピッチを思い出しました。
二階の欄間 真ん中で別の模様に切り替わっています。
どこだったかな?(広くて順路に随って回っているうちに自分がどこにいるかわからなくなります)
こちらの障子もさりげなくそよ風な感じがいいです。月波楼だけに、さざ波か月光かも。
月波楼の一階の浴室。
タイルが大正モダン。
見上げてびっくり、天井が六角形。から傘天井というらしい。
このお風呂は、沸かすところはなく、女中さんが主屋で沸かしたお湯を運んできたそう。
「文庫蔵」
「三番蔵」
農産物の蔵?。屋敷内では文人的側面が印象的でしたが、やはり豪農の屋敷だと実感。
地面のこういうぬかるみ後の乾き方、久しぶりに見ました。
出てくると月がでていました。
興味尽きないお屋敷でした。坂野家の多くの所蔵品は、常総市のデジタルミュージアムで見られますが、いつか展覧会が開催されることを期待します。
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