はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●森岡書店と「間取りと妄想」

2017-06-24 | Art

森岡書店銀座店は、期間ごとに一冊だけの本を売る本屋さん。

6月20~25日は大竹昭子さんの「間取りと妄想」という本を売っています。(Amazon

挿絵を描いた、たけなみゆうこさんのイラストも一緒に展示されています。(写真可)

(「たけなみゆうこのスケッチブック」)

 一冊購入して、心躍りながら半分まで読んだところ。以下、展示も合わせて備忘録です。

13の間取りに13の短編。物語を読み進めながら、何度も間取り図と照らし合わせて、それでまた読み進め、頭の中にその部屋、家が立体化し、バーチャルリアリティのようになかに入っていく。

と思ったら、お話は思いもよらぬ展開を迎える。えええそっち?とか、それあぶないひとでしょ、とか。

といっても、大きな出来事がおこるわけではない。小さな出来事、小さな妄想。そのせいか、微妙にシュール。

「妄想」は自由(この場合、空想というより妄想)。そして部屋のなかでどんなことしてたって、自由。1話の女性のように、川の音、たたきつける雨に煽られて部屋で裸になって叫んでたっていいわけだし。みんな外には見せられないヘンなことを、外壁の内側ではしちゃってるでしょう。

踊ってみたりとか。(しないか...)

 

以前13階に住んでいた時、向こうに平行に見えるマンションのいくつかは、ベランダの手すりがパイプ柵で、夜なんかみな高層階の気安さか掃き出し窓のカーテンを閉めずに、ちょこちょこ動いていた(別にのぞいてないですよ(←重要))。小さなシェルを並べたような箱の中でうごめく小さい小人のようだった。

それはけっこうシュールな感じだった。たけなみさんの絵を見て、そのときの感じがよぎった。(絵の一部)

そうそう、私がマンションから見ていたのは、形状としてはこんな感じ。

私は夜の光景として遠くから眺めていたけど、このたけなみさんの絵は「中」から見ているのだ。時間の移り変わりが描かれている。たけなみさんは「空想の窓の光と影を一日定点観測しました。ここはいろんな人やいきものやおばけの秘密基地です(略)」と。

ここが特にお気に入り(右下の絵の下のほうに・・(^-^))

 

たけなみさんの絵は、なぜか落ち着く。

淡々というか、ひょうひょうというか。音がないせいか?。

気配はあるんだけど。たまにちょっと不穏で。

くすぐってくる。

 

ちょっと一皮めくればへんなとことか、ドアを閉めたとたんスキップしたとこみちゃったような。ちょっと黒い部分とか。実は狙ってる部分とか。

影がすてきな絵なのでした。

なんていいんでしょう~~💛

 

階段の踊り場って、いつもなにかふっと浮かんだりとか。

 

大竹さんの本と、たけなみさんの絵、おなじにおいがする(笑)。

仕事柄、間取り図は私も大好きだったりする。「間取り」周辺には、いわくありげなことがいっぱいまとわりついている。妙なこともいっぱい絡んでくる。美しい人も紳士も、不思議なこと言い出しちゃったりする。つきない魅力がある。

 

森岡書店の辺りは、静かな場所。

1929年築のビル(!)の一階にあります

森岡書店さんも、小さな間口から奥へと、物言わぬ不思議な存在感があります。

 

 

 


●暁斎の周辺 河鍋暁斎記念美術館

2017-06-20 | Art

河鍋暁斎記念美術館 企画展「暁斎 その交流さまざま」

2017.5.1~6.25(5月、6月で展示替え)

 

暁斎の交流に注目した企画展。後期の6月にいきました。初の蕨市。

暁斎の周辺って、おもしろそうなのですもん。

鈴木其一が嫁の父。コンドルが弟子。ギメが家に来る。先日のBunkamuraでの暁斎展で見た「野菜尽くし・魚介尽くし」では、松本楓湖、野口幽谷、渡辺省亭、川端玉章、佐竹永湖、滝和亭、柴田是真らとの合作。同じ場で、同じ墨と筆をまわして描いたのでしょう。みんな私の興味惹かれる絵師ばかり。(日記1日記2

ほかにもいろいろな人がでてくるハズとにらんでおりましたら、期待通り。出てくる出てくる。

以下、備忘録です。

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コンドルが弟子というのは有名だけど、こんなにうまいとは!。暁斎が目の前で書いてくれた「鯉魚遊泳図」(↓画像)(1885年)の一部を模写した、コンドル筆「鯉の図」が展示されていた。暁斎の絵にそっくり。ネイティブかと思うような筆の流暢さ。

コンドルは来日して4年後の1881年に暁斎に入門し、3年後には内国絵画共進会なる場で褒状をいただく。暁斎は、狩野派のセオリーに従い弟子にメモを取ることを許さなかったけれど、コンドルにだけはメモを許し、熱心に教えた。

暁斎日記には、「コンデエル君」がよく登場するけれど、寝転がって書いていたり(正座ができないから)、きょとんとかわいい感じ。おひげのおじさんに見えてしまうのだけど、入門したときは28歳、まだおにいさん。コンドルは本気でがんばっていたんだなあ。

そのメモをもとにコンドルが出版した本、「Painting and studies by Kawanabe Kyousai (1911年)」も展示されていた。

 

絵の同業者との交流も、多彩。
小林永濯とは、かなり親しい友達だったらしいのは、永濯好きにとってはとってもうれしい。

暁斎の明治18年の絵日記には、長いあごひげで、宴会?のお重を前に座る永濯が登場していた。日本橋の魚問屋の三浦屋に生まれた永濯。狩野派を学び、彦根の井伊家に仕える話があるも、維新で立ち消え。浮世絵に転向。他にも、外国人向けの英語やドイツ語の本の挿絵や、劇画みたいな店頭ポスターなども、悳さんのコレクションで見て印象的だった。永濯は狩野派仕込みの確かな画力で、西洋画風の風景や風俗画やぶっとんだ絵を描いたり、徽宗皇帝風の化け猫みたいな猫を描いたりする。暁斎も狩野派絵師としても確かな腕前。相通ずるものがあるのかも。

永濯は、維新後困窮して暁斎の家に居候し、暁斎は永濯になにくれと便宜をはかったりして助けた。暁斎は、永濯が成功すると自分のことのように喜び、永濯もそのことをずっと忘れなかったそう。

 

◆その小林永濯と、渡辺省亭、鈴木鷲湖、佐竹永湖、柴田是真暁斎が合作した「節婦奇女」は、今回の展示のなかでも一番の見もの。こんなぜいたくなコラボは西欧画にはないでしょう。双福の本格的な掛け軸。「本格的」というのは、上の魚野菜の絵のように’’宴会の時の余興かな?’’みたいなのではなく(それもとっても好ましいのけど)、本気モードの美人画。

節婦の幅には、下から暁斎「静御前」、小林永濯「大磯虎図」、渡辺省亭「常盤御前」が、流麗な縦のラインに合わさって描かれている。

暁斎は、「静御前」をスピーディに描き、着物には薄墨で陰影をつけて、凛とした女性に。永濯の「虎」(この女性についてはこちらに)は、長いキセルを持ち、はっとするようなシトラス系の小粋で美しい女。細密に描かれ、着物の赤い絞りや少し寂し気な千鳥模様など、とても美しかった。省亭の旅姿の「常盤」は、人目を忍ぶ様子。省亭らしくさっさっと描かれつつも、金のラインのもみじや水流など細部に細やかに手を入れている。三人三様の画風で、たいへん美しい掛け軸に見とれてしまった。

左幅の奇女とは、たぐいまれな行いのあった女性のこととか。下から鈴木鷲湖「茎塚図」、佐竹永湖「秋色女図」、柴田是真「千代能」が一枚におさまる。茎塚についてはよくわからなかった。是真の「千代能」は、鎌倉の海蔵寺「底脱の井」にまつわるお話。安達泰盛の娘の千代能は、一族を滅ぼされ出家。水汲みにきたところ、桶の底が抜けた。「千代能がいただく桶の底抜けて、水たまらねば月もやどらず」と、心のわだかまりもとけた心情をうたう。是真は空に一筆でさっと月を描き、尼姿の千代能が見上げている。きゅっと束ねた髪は細密だけど、尼衣は筆でさっと描きだされていた。「秋色女」は、頭に手拭い、腰に前掛け、箱を持って立ち働いている。和菓子屋さんの娘で、江戸時代の俳人。色調も抑え目だった。

この二幅は、席書ではなく、持ち回りで描いたようだけれど、売れっ子どおしで一枚に一発勝負で描くなんて、プレッシャーじゃないのかな。


◆「しん板流行名画尽1」「同2」明治16年は、一枚を16分割し、当時売れっ子の画家、書家を紹介する大錦絵。当時のアート業界ってこんな感じか。

1では、暁斎・福島柳甫・大沼枕山・九世団十郎・奥原晴湖・滝和亭・小野湖山・川端玉章・飯島光蛾・柴田是真など。それぞれが得意の画題で紹介されている。暁斎は、「古木寒鴉図」が100円で売れた後で、鴉の図柄。晴湖は、莚に白装束のお侍。四十七士かな?。以前東博で現代画のような絵に驚いた飯島光蛾も、当時人気だったのだ。

2でも、飯島光蛾は、もみじにオナガドリ。花鳥画で名をはせていたのか際立っている。是真は遊女と童子の絵。花鳥のイメージの是真だけど、このころは美人画のほうで人気だったのかな?

 


◆「宝山松開花双六」は、明治10~14年ごろ、御髪油所堺屋さんがお客様に配った双六。東京の名所を、人気の画家(三代広重、国周、梅素、大素芳年、小林永濯、山口素岳など)の絵で進む。上りは、店の宣伝の絵。当時はどこが名所だったのかわかる。「三橋夕照」には当時できたばかりの上野の風車。永濯は不忍池に枯れた蓮、舟で荷下ろしする者、水までつかり作業をする者を描いた。暁斎は大仏と鐘堂に鴉が一羽。大素芳年は入谷落雁ということで、朝顔に急須と湯飲み。他には根岸、吉原に猫、雪の不忍池など。下町は今はちょっと懐かしい風情に思えるけれど、当時は流行の最先端エリアだったのでしょうね。

 

山岡鉄舟とは「電信柱図」を。電信は明治2年に開通したばかり。暁斎はしゅうっと一気に電信柱を描き、鉄舟が賛を入れる。

 

◆浮世絵絵師との仕事も多い。「東海道五十三駅名画」(1864~5)は、79歳、大御所の三代歌川豊国がメイン役者絵を描き、若干39歳の暁斎は上のコマ絵をかいたもの。豊国の門人の豊原周信とは、墨をつけたとかなんとかで、派手な喧嘩をして有名らしい。他にも三代広重や肉亭夏良なる絵師(小林清親説あり)との合作も。

 


作家とのつきあいも紹介されている。

◆「老なまづ」の大判錦絵、1855年。まだ江戸時代だ。暁斎25歳。安政の大地震の翌日に、戯作者の仮名垣魯文と組んで、風刺のきいた「なまず絵」を出版し、これが大いに当たる。なまずは、悪政の時に地震を起こすと思われていたそう。この2年後に其一の次女と結婚し、絵師として独立する。

 

仮名垣魯文とはこれ以降もタッグを組み、日本初の漫画雑誌「絵新聞日本地」や戯作本「安愚楽鍋」などを出版。

1860年に豹が来日し、見世物として巡回展示されたときには、「舶来虎豹絵説」を売り出し。魯文は、豹と虎との違いを解説している。(当時は、豹は虎の雌だと思われていた)

1830年ごろにも豹の見世物があり、山本梅逸が描いたのを見たことがあるけれど、巡業の精神的ストレスが相当たまったような気の毒な感じの豹だった。でも暁斎の豹はまだ野生を忘れず、元気そう。


◆歌舞伎の作者の黙阿弥との仕事は、「漂流奇譚西洋劇」の行灯絵製作。黙阿弥は日本初のオペレッタ仕立てにしたが、大失敗だったという

そのなかの「米国砂漠原野の場」の黙阿弥が描いた下絵が展示されていた(暁斎が描いた本画は、ドイツ人医師のベルツが持ち帰り、ドイツのビーティッヒハイム市立美術館に保管されている)。西部劇と「母を訪ねて三千里」を足したみたいなストーリーはとんでもないけど(爆笑)。明治は、いろいろ妙で面白いものが多い。

 

絵業界以外にも、何業というのかよくわからない、異業種つながりも面白い。

◆戯画の「鬼」(明治12年)は、勝海舟の注文を受けて暁斎が描いたという。慌てた様子の鬼だった。三条実美もちらっと出てきたけれど、なんだったか忘れてしまった。

 

「榊原鍵吉山中遊行図」は、有名な剣豪榊原鍵吉が、妖怪に取り巻かれながらも動じないシーン。榊原鍵吉も絵日記にもよく登場する、暁斎の友達。明治維新後に困窮する旧士族のために力を尽くした、強くて人情味ある人柄のよう。

 

松浦武四郎と交流があるのには、びっくり。武四郎も面白そうな人物。幕末に6度、当時の「蝦夷地」を歩き回る。

東博で先週まで、武四郎の「蝦夷漫画」1859年の複製が展示されていた。アイヌの文化や暮らしを表面的に描くだけでなく、祈りやしきたりの意味なども細やかに理解しようとしているように思えた。きっと蝦夷地を回っている間に、アイヌの人たちに親切にしてもらったり、泊めてもらったりしたんだろうと思う。

武四郎は維新後は北海道の開拓判官に任命されるも、開拓使のありかたに反発して辞職。その後は、全国行脚や骨とう品収集に没頭した。

明治18年の暁斎絵日記には、暁斎が武四郎のために、弟子の八十吉とともに「武四郎涅槃図」(収集した骨董に囲まれる武四郎図)を描いているシーンと、武四郎じいさまが「とよ(暁斎の娘・暁翠)」に画料を渡しているシーンがある。「画料廿円」と読み取れた。

「撥雲余響」松浦武四郎著(明治15年)は、武四郎が、収集した骨董や発掘品を模写させ、来歴などを記して出版した本。暁斎は挿絵を担当。ほかに福島柳甫と、渡辺崋山の息子の渡辺小華(47歳ごろ)‼も挿絵を描いたと解説にあったのを、目ざとく発見。小華は父亡き後、成長して田原藩家老を務めたけれど、維新後はどう生計をたてたのだろう。東京に出てきて、暁斎とも付き合いがあったのかな?。

 

外国人のお客様も、千客万来の暁斎家。

◆ギメとともに湯島の暁斎邸を訪れた折、フェリックス・レガメが描いた暁斎の絵も展示。ギメが出版したPROMEADES JAPONAISES TokioーNikko (1880 年)が展示されていた。芸能人お宅訪問番組みたいに室内の様子も描かれているのが個人的にうれしい。柱にお面がかかり、巻物や絵皿がたくさん。棚には、筆や壺など。暁斎は紙を前に、少しにたりとした顔。

そのギメの本を読んで、いろいろな外国人が暁斎邸にやってくる。フランス外交官のステナケルも訪れたことを暁斎は日記に書いている。そのほか日記には、弟子のイギリス人のブリンクリー(一時ブリンクリー邸にコンドルが居候していた)、イギリス人画家メンペス(ホイッスラーの弟子)も登場。

以上、記念館でいただいた解説をもとに拾ってみましたが、暁斎はとても交友が広い。仕事の幅も広い。

コンドルは、暁斎のことを「内気で思慮深い性質」(カフェで読んだ本より。本の名前を忘れてしまった。)といっているけど、なんのなんの千客万来では。でも振り返ってみると、市井の庶民、ちょっとかわりもんの絵師、要領よく立ち回れない気骨ある人、そういった人との付き合いが多いような気も。時々登場した渡辺省亭も画壇との付き合いを絶っていたし、武四郎も政府の方針に納得できず、職を辞した。

暁斎日記には、下町仲間や弟子のことが多い。いちいち絵日記に一緒に過ごしたことを描いているくらいだから、内気と言いつつ、みんなとの時間が好きで、お友達思い、仲間思い、弟子思いなんだろう。コンドルは、暁斎は有力者からの依頼にもきちんと応えたけれど、市井の人々からの依頼で制作するときが一番幸せだった、というようなことも書いている。

当時の江戸・明治の下町に遊びにいってみたくなりました。

中庭の紫陽花。

バスの本数が少ないので、併設カフェでお茶を飲みながら調整。アイスコーヒーにフルタのチョコつき(喜)。(記念館の入館者は50円引きになります)

 


●東博常設:崋山、椿山、英一蝶、梅逸、久隅守景など

2017-06-13 | Art

(東博の常設シカゴ・コロンブス博の続き)

上野公園にイヌタデがあちこちに咲いていた、6月のある日。

渡辺崋山、椿椿山、英一蝶、山本梅逸、久隅守景と好きな絵師たちがそろっているので、楽しみにしていました。いつもの備忘録です。

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山本梅逸「倣董源山水図」1844

梅逸の描きこんだ絵は、肌にざわざわ来る感じ。ぶつぶつのものを見た時のような。

調子を変えずに黙々と描き続けている。文人画でも、池大雅や玉堂は線も形状も大胆にぶっとんでいてのあの独特さだけれど、梅逸は平易な筆目なのに、微妙に看過できない不思議さ。

梅逸の三幅の花鳥図も。上に伸びてゆく花に、鳥の目線がひねりが効いててかわいい。あらこれはきれいな絵だわ、と最初は思うのだけど、ふっと、きれいなだけじゃない違和感。枝ぶりからして、プラスアルファの梅逸独特のなにか。梅逸が描くと自然にこうなったのか、何か狙ったのか?。

左幅は、菊の葉、菊の花、赤い実、つゆ草、笹。どの要素も面白くなっている。感じ方として抽象のように思えてくるのはなぜ。

中幅は、バラの幹の固く筋張ったところまでよく表れている。執拗な観察眼。性格なんだろう。

右幅は、ピンクの着色に見とれる。たんぽぽは本当にそこに咲いているみたい。

花鳥画も山水画も、定番の画題を丁寧に達者に描きながら、シュールという名のフリカケを少しかけたような。その妙さゆえ、離れられない梅逸。

 

同じ愛知出身つながりなのか、田原藩家老の渡辺崋山「十友双雀図」1826

梅逸どころか、普通を超えて尋常じゃない。

雀の目線を始点に上に伸びるような。凄い。うまい。崋山の速描きでシャープな花鳥画はこれまでもみたけれど、こんなに写実なのは初めて。華やかなのにキレがある。サムライが描いたボタニカルアートみたいな。

花もあやしいほど美しく、雀はかわいいというより鋭く。

崋山が蛮社の獄で蟄居となり、自害する頃の絵は((日記)(日記))は、生命が絶たれようとしている小さな生き物をまじまじと見ているような絵だった。これはまだ安定した立場のころだけれど、それでも明晰すぎて怖いほど。

 

その隣の椿椿山は崋山の弟子。「雑花果ら図」1852年、崋山の後で見ると、急にマイルドの思える。高速ジェットから各停に乗り換えたくらいの。

みかん、ビワ、ブドウ、へちま、栗、タケノコ、えんどう豆、エビネなどなど。ほのぼのして見える。

天寿を全うする人と、全うできず途中で峻烈な最期を遂げる人の差って、こういうことなんだろうか。

椿山は最後まで蟄居中の崋山のお世話をし、7歳で父を亡くした崋山の次男の小華に絵を教えた。小華は田原藩の家老にまで取り立てられる。田原市博物館では今、小華の企画展が開催中。行きたい...。

 

 

久隅守景「許由巣父図屏風」これは狩野派を離れる前だろうか?格調高い感じ(中村芳中の許由巣父図屏風と全然違う(笑))。

上からまっすぐに落ちる滝、波も心がすくような清々しさ。木陰も心地よい。許由も巣父も、しっかりとした線で描かれ、守景のたくましい腕を感じるよう。この人の描く絵は、強さがあるなあと思う。(でも牛はかわいかった)。

 

狩野派を学んだものの、のちに離れた人々の作は、惹かれる人が多い。久隅守景は庶民に目を向けている。

同じく江戸狩野を学んだ英一蝶「雨宿り図屏風」も、とてもひとくさい。

突然の夕立にひしめきあって雨宿りをする市井の人々に、興味津々。

各種の物売り、馬を拭いてあげる人、被り物を被った人、女性に子供、犬、よくわからない人。。江戸には多種多様な職業・珍商売があったらしい。あまり儲からないかもしれないけれど、食べていけるなら、江戸市中は楽しい社会なんじゃないかと思える。

靄や雨も描かれている。左隻のはじでは、雨が描かれつつも、少し空が明るくなってきたところかな。

 

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伝藤原公任筆石山切 伊勢集 

本願寺本の伊勢集の断簡。料紙の文様と内容と文字とで生み出す情感。4幅あった。

「をりける」 とんぼと紅葉舞う空

 

「おほそらに」 本当に空だ。

 

書では、夢想礎石「偈頌」14世紀 大きな牡丹の料紙に、草書の文字。のびやかにいい感じ。

禅僧の字は破格で個性的なことが多いが、この穏やかな和様の筆致は、師の一山一寧の影響。

 

「綱絵巻 」室町時代・16世紀 また楽しい絵巻に出会ってしまった。

酒呑童子では頼光とともに活躍していたあの渡辺綱が主役。二種類の鬼が登場。

前半では、羅生門に住む鬼を退治する。

不穏な風から始まる。この絵巻は、木や雲、風、雷などにいい演出をさせていた。

絵に描いたようなザ・鬼って感じの鬼が、馬の尻尾と綱の頭をひっぱる。綱が苦戦。うずまき雲がいい!。

詞書がなく、場面が省略されていてよくわからないのだけれど、後半では、綱は病にかかり、その原因が牛鬼だということで退治に出かけるという設定。

牛鬼が登場。何か食べているが、そこには骨らしきものが散らばっている。個人的にはけっこう愛らしいと思うし、子供のころ牛鬼の角が伝わるお寺を訪れた記憶があるので懐かしみさえ覚える。牛鬼伝説は西日本各地に残るらしい。

綱は、雲間から牛鬼の手にがしっと掴まれるも、手を切り落として持ち帰る。そのあと牛鬼は、綱の母に化けて「ちょっと見せておくれよ」と腕を取り返しに来る。この腕を取り返しに来るシーンは浅草の大絵馬でも柴田是真が描いていたが、あれは牛鬼ではなかったような。

牛鬼は腕は取り返したものの、今度は頭を切られてしまう。無事に牛鬼は逃げおおせたのだろうか?(どちらの味方...)

展示はここで終わっていた。結末が気になる。

 

伝狩野元信筆 旧大仙院方丈障壁画 

元信周辺によるものと解説にあったので、おそらく工房の者たちによるものなのでしょう。4月にここに展示されていた四季花鳥図屏風(個人蔵・写真不可だった)と共通する書き方もある。あれほどにのまれるほどの感動ではないかなと思ったりもしつつ、離れてみると強弱、墨の濃淡がきれいな作品。

西王母・東方朔図の場面

太公望・文王図の場面 文王が太公望を訪ねてやってきた。ふわりとした雲と立体感、好きな場面。

太公望。柳の詫びた感がいいなあ。

 

 

志野網干文水差 16~17世紀

網干文様、京博で見た海北友松の絵を思い出す。

 

曳蒔絵煙草盆 19世紀 も漁村の情景。漁村の風景に情感を感じるのは共通して持ち合わせる感覚なのかな。瀟湘八景でもなんともいえない漁村の風情が描かれている。

真ん中にたっぷりとられた余白。斜めに分断するライン。漁師と松まで斜めになり、右上に収束していく。

 

尾形光琳の「風迅雷神図屏風」は人だかりになっていた。色が鮮やかなのに驚き。

赤青緑白、各色が効いている。

以前の日記で、宗達、光琳、抱一、鈴木其一の風神雷神図がすべてそろった展覧会があって、「雲」がそれぞれ全然違うってことを書いたけれど、改めて見ると、光琳の雲がこんなになまなましく黒々していたとは。

足には雲がまとわりつくようだった。

風神雷神二人は息もぴったり、目線を合わせ、調子を合わせている。これが宗達の夏草秋草図の裏面に書かれたと思うと、あの舞い上がる風、吹き下す雨を感じるよう。

 

扇面流図屏風 宗達派(大倉集古館蔵)17世紀 も素晴らしかった。白波のたつ川の流れに、歌や花を描いた扇が波にもまれながら流されていく。右隻から左隻へ水流は激しさを増すようで、ついには多くの扇が左端に流れ込んでくる。扇は閉じたもの、開いたもの、色も様々。感情をあおるような激しい美しさだった。

 

18~19世紀の伊万里 絵柄の大胆さに見とれた。

 

「鸕鷀草葺不合尊降誕図 」狩野探幽 取り残された亡失感が。

 

「黄山谷・山水図」 狩野安信 瀬戸物のようにつるんとした手触り感が印象的。黄山谷(黄庭堅)は、北宋の詩人。黄山谷と鳥の目線がそれぞれ水平線を描いていた。

 

谷文晁「公余探勝図鑑」1793 30歳の若い文晁が、老中松平定信の伊豆相模視察に随行して描いた真景図。海防を念頭に置いて視察のせいか、20数枚中、入り江を俯瞰した絵が多かった。

鎌倉由比ヶ浜

大島が見える

三浦半島の海岸線、今と変わらないなあ

 

その他、一階のアイヌ文化のコーナーは、アイヌの祈りについて特集していた。蠣崎波響があったり、松浦武四郎の参考展示があったりとても興味深かかったのだけれど、また後日に。

本当は東博をさらっと見て、東京都美術館のバベルの塔展にいくつもりだったのに、もうへとへと。

ハイティーくらいの時間だけど遅いランチと一休みを兼ねて、東洋館のレストランゆりの木。ダイエット中につき一番軽そうなものを選んだら、中華がゆになりました。おいしい。


西洋美術館の庭に咲いていました。

上野公園も年々人が増えてくる気がする。赤ちゃんパンダがお目見えされたら、動物園もかなりの行列になるのかな。

 


●東博常設:シカゴ・コロンブス万博

2017-06-11 | Art

東京国立博物館、6月のある日の常設のメモ(1)です。

渡辺崋山と山本梅逸を楽しみに行ってきました。

いつも一階の18室「近代の美術」から見るクセあり。

この日は、明治26年(1893)のシカゴ・コロンブス世界博覧会に出品された作品を多く展示。

なぜコロンブス?と思ったら、アメリカ大陸発見400年を記念して命名されたとのこと。当時のアメリカの人口の半分の来場者という盛況ぶりだったという。

こうしてみると、博覧会での日本の展示品は逸品ぞろいだと思う。

それもそのはず、(Wikipediaから)交易促進、不平等条約撤廃を目指す日本政府は、この万博にかなり力を入れた。当時の世界博では、非西洋国は遊興地区での見世物的な扱いであったため、日本側はそれを避けるため、本格的な建築を提示しメイン会場での立地を交渉した。そして苦労して獲得した水辺の好立地。そこに大工を派遣して宇治の平等院鳳凰堂を模した「鳳凰殿」を建て日本館とした。残された写真を見るにすばらしい。

 ーー展示に戻ります。

展示物も、作り手が腕によりをかけて制作したとわかるもの揃いだった。選定したのは岡倉天心らとのこと、なるほど。どれも西洋の亜流みたいなものではなかった。当時のアメリカ人や各国パビリオンの外国人も、興味をもったのでは。

川端玉章「玩弄品行商 」1893は、じじの笛に誘われて子供たちが集まっている。そういえば、日本は子供にとって天国だ、と書き残したのはモ日本にやってきたモースだったっけ。

私もほしくなるようなものがたくさん。招き猫とか犬とか狸とか、かわいい!!

金魚のボール?提灯?かわいいなあ。鶴や民家の入った平鉢は、自分で好きなフィギュア?を置いてカスタマイズできるのかな。鉢の中の川には魚もいて芸が細かい😊。

じじも子供も犬も、そっちのけでおもちゃばかり見てしまった。アメリカ人は子供の髪型を見て不思議に思ったかも。


日本の風俗の紹介のような絵が続く。庶民の楽しそうな様子は、欧米の人を意外に思わせたかもしれない。

尾形月耕「江戸山王祭」1893 、美しく飾った車を引くフェスティバルはカトリックの国にもあったような。

 

日本の山紫水明な自然や、自然とともに暮らす自然観が伝わりそうな掛け軸も。

望月玉泉「保津川湍淵遊鱗」

個人的には、奥のほうでぴょんとしてる鯉が好き。

 

熊谷直彦「雨中山水 」

靄のかかる雨の水辺の水墨。牧谿以来の定番なのか?、靄の情景をやっぱり美しいと感じる私も日本人。昔見た「Silk」という2007年の日・仏・伊・英合作の突っ込みどころ満載の映画も、いくらなんでもそんなにもやもやじゃないよっていうくらい靄に包まれた幻想的な日本だったが。。

 

工芸品の職人の腕には感嘆。

鈴木長吉の鷲の置物、いつも18室の真ん中においてあるのだけれど、これも万博の出品作であったのか。

永楽善五郎(得全)「抹茶器」1892


壺などは輸出品としていい広告宣伝になったのでは。

七宝牡丹唐草文大瓶」梶佐太郎作

 

メタリックな作品は美しく技巧も惚れぼれ。

池田泰真(1825~1903)「江之島蒔絵額」1893

幅80センチくらいだったか大きくはないのに、どこの細部を見ても絵になっている。

漁村と漁民、江の島神社のお参りの家族連れや一行の様子。臨場感をこめて映し出している。

波の様子も金銀を使い分け。

幾何学的に山と家並みが美しかった。大きなかごや網を干した竿なども見える。旅館や店の家の窓には、人影まであった!

最初は柴田是真の作かと思っていたら、池田泰真は是真の弟子。そろってすごい。


加納夏雄「群鷺図額」1892は、「四分一地平象嵌」とあった。四分一とは金と銀の配合らしい。いぶし銀的な色調がいい。

 

横山孝茂・横山弥左衛門「頼光大江山入図大花瓶」明治5年(1872)は、ウイーン博の出品作。親子二代の作。

背丈ほどありそうな二体が一セット。超絶に細密。花瓶には酒呑童子のお伽話から、4つのシーンがおさまっている。

山越え川越え、退治に向かうシーン。頼光や渡辺綱らだけでなく、木々や水流、岩も迫真。

足台や持ち手、どこもここも見どころ。龍・みずち・鬼などのほか、見猿・言わ猿・聞か猿までいる。伝統的な文様もみっちり彫り込まれている。日本のバロック。

 

 

高岡出身とある。5月に高岡を訪れ、古い街並みに目を見張ったばかり。この街に育まれた名工なのでしょう

 

 

明治の技の高さに改めて感服。

そういえば前回展示されていた渡辺省亭「雪中群鶏図」も、このシカゴ博に出品されたものだった。省亭は、「博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもった(wiki)」らしく、これ以降、展覧会などに出品しなくなった。なにがあったのかわからないけれど、いろいろな政治力が働く様に嫌気がさしたのかもしれない。


万博終了後、鳳凰殿は、シカゴ市に寄贈され、庭園とともに整備されていたけれど、日米開戦により荒廃。1946年に放火により焼失してしまった。紆余曲折へて、今は再整備され、ジャクソン公園の中の「Garden of the Phoenix」となっている。

庭園を管理する財団のウェブサイトのタイムライン(http://www.gardenofthephoenix.org/#timeline)がたいへんおもしろい。ペリーが来て開国して王政復古・・から始まる日本の歴史、シカゴの歴史と発展。パールハーバー、ヒロシマ、ナガサキ。放火の新聞記事。日系人のオーサトファミリーの尽力、オノヨーコさんのオブジェ。当時のシカゴ博の写真など。英語だけど、短めな文章で画像が多いのなんとかいける。少し抜粋。

横浜居留地で西洋人に興味津々。1866年には西洋人が400人住んでいたとは、多いのか少ないのかわからないけど。

 

シカゴで鳳凰殿建設中の大工さん。耳あてやジカタビ、「エキゾチックな大工道具」に注目してたり、日本人って梯子もかけずに屋根までのぼっちゃうんだぜと驚愕したらしい。

 

若きフランク・ロイド・ライトはこの鳳凰殿に触発され、1905年に日本にやってきた。サイトでは、その時に日光から高松まで旅行したこと、二度目の来日と帝国ホテルの設計まで触れていた。

鳳凰殿で焼失を免れた欄間が4枚あるという。立派!いつか見てみたいなあ。

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脱線しましたが、万博以外で18室で心に残ったものの記録

河合玉堂「家鴨 」 静かな村の風景しか見たことがなかったので、こんなにはじけた玉堂を初めてみた。そおーれえ~と追い立てられるアヒルがガーガー騒がしい。

ガラスについたような水滴が不思議な感じ。

 

 

今村紫紅「近江八景」西洋絵画の影響がみられるとのこと。点描で海や山を描いていた。個人的には、8幅まとめてみた方が、近江を総合して感じられていいかなと思った。

 


森川杜園「能人形 牛若・弁慶 」20センチくらいだったか小さい。緊迫の配置が絶妙。

背後に神経を研ぎ澄ませる目線!

反対側から撮ってみたら、この緊迫!

殺気立つ瞬間だけれども、木なのでどこか朴訥。いろいろ並べ替えて遊んでみたい~。

 


川瀬巴水の「東京十二題」1919~21が12枚並んでいました。

一番好きな「駒形河岸」

 

「五月雨降る山王」

 

「木場の夕暮れ」

 12枚なんとなく眺めていると、一日の、または季節ごとの、空の変化が感じられて、静かな気持ちになる。

(二階へ続く)

 


●佐藤直樹個展「秘境の東京、そこで生えている」 アーツ千代田3331

2017-06-10 | Art

アーツ千代田3331 佐藤直樹個展「秘境の東京、そこで生えている」 

2017.4.30~6.11

 

いつも日記を書くのが会期が終わってしばらくたってからになるのですが、今回は急いで書きました。今もまさに増殖しつつある展覧会なのです。明日までですが、20時まで開いています。昨日の夜に行ってみたのです。写真も可ですが、実際のリアリティがうまく撮れていませんでした...

佐藤直樹さんは、1961年生まれ。ここアーツ千代田3331の立ち上げにもかかわり、画家というより、アートディレクターとして活躍されてきた方。

会場に入ると、あらかじめ情報を得ていたにもかかわらず、驚き。市販の高さ1.8mのベニヤ板がひたすら延長している。

合計ではその距離150mを超えるそう。会期前には86mだったそうなので、1か月超の会期中に増殖している。いっそう繁茂している。

木炭のみで描かれたそれに圧倒される。

熱帯雨林だ。密林だ。ジャングルだ。

 

だけれども、気づくとそのへんにある草や木だったりする。道端の植え込みや、ちょっと手入れがおいつかない庭のドクダミ。どこかのお宅の花。名も知らない、路側帯とか公園でよく見かける常緑樹。

あたりまえすぎて目を留めることもないけど、こうして描かれた葉を見ると、あ、よくあるやつだ、と確かな既視感。もらったのか買ったのか、鉢植えとかでよくある観葉植物とか。

そんなあたりまえすぎて気づきもしないそれらが、こんなに気を吐いている。

そこにいたんだ、と思う。その株のなかに分け入りさえすれば、密林のなか。東京でも。

植物の「精」というか「気」というか、「気配」の中で、この会場の中で、自分が小さめのただの生き物になった気がする。

ネイチャーツアーが好きでたまに行くのだけど、ガイドさんと行くのは、実は自然が怖いから。置いていかれないようにせっせと歩く。写真を撮るのに夢中になり、ふっと誰の人影もないのに気づくと、木に取り巻かれてて、ぞくりと怖い。なにかがいるんじゃないかと思う。

木の根元は、とりわけ生々しい。「生える」という言葉自体生々しいかも。

絵巻のように続くこの世界も、時々場所が変わっているようだ。佐藤さんの歩いた足跡も感じることができる。

私の好きなシャガが咲いている。都心では、上野公園や千鳥ヶ淵などで毎年きれいに咲いている。

たまに海が現れる。いくつかの海の場面には少し不安になる。

 

真ん中の小部屋には、一枚のベニヤに一本ずつが肖像画みたいに並んでいる。パンジーや唐辛子や小さめの鉢植えの植物のようなのも。人間に飼いならされたような、養殖の魚みたいなそんな植物からでさえ、佐藤さんはぬらぬらとした生気を受け取っている。等しくすくいとっている。なにかとても救われる思いがしてしまう。鉢植えみたいな世界で生きる者にとっても。

 

佐藤さんは、なぜひたすら描くのだろう。

木炭のみで描くぶん、頭でというよりも、動き。その草や木や花を前に、その気配や茎を流れる血脈みたいのを感じあいながら、頭を介することなくそのまま佐藤さんの腕に流れ、手から木炭はベニヤの上の草となり。リズムそのままに。エミリ・ウングワレーの絵を思い出す。描く者も、同じ呼吸をし、身を任せる。

そんなように感じながら、会場を絵とともにずりずり歩く。

濃厚すぎて、頭がからっぽになりそうな体験だった。

そもそも絵を描くってなんだろうと思う。子供のころは、なんにも考えないで気づけば紙と鉛筆とかクレヨンとかで、なにか書いてた。なにもみずに、きれいなお洋服をきた女の子とその横に太陽とチューリップくらいしか書けないんだけれども、今みたいにうまく描けないとか、そんなことは全くなかった。呼吸するくらい自然なことだった。

木炭でひたすら描くという行為の先に、佐藤さんもいつ終わろうと思うのか、何を目指しているのとか、超えてしまったのでしょうか。最後の方はまだ書きかけだった。

 

15分と45分に、10分間のサウンドインスタレーションというものが体験できる。インスタレーションってほとんど撃沈する私だけど、こてはずしんと胸にせまるものだった。

暗いお部屋に、はだか電球がひとつ。

耳を研ぎ澄ませると、森の音がする。かすかな草の音、虫の音、正体不明の、でも森の音。

そうか、森の気配だ・・と思っていた。と、ある現象が起こった。予想外で驚いた(会期中なので詳細は書きませんが)。風はだんだん強さを増す。そしてさらに起きるあの日のこと。おそらくその場にいたほぼすべての人が、共通して持っている記憶。

展示もインスタレーションも、心に残った展覧会でした。鑑賞するというよりも、体で感じる、自分のことも感じてしまう、という類の出来事でした。

 

地下の佐賀町アーカイブでは、関連展示があります。工房、アトリエ、ギャラリーが並ぶなか、B110というお部屋です。

写真の建物は、2010年から2011年に荻窪を歩き建物を描いたら廃墟みたいになってしまった、という絵。2010年ごろに再び絵を描き始めて、現在進行形である上の階の展示に至るまでを少したどれました

(抜粋)そのあと、地震があって、植物を眺めるようになっていた。植物はなにを考えているのだろう。描いて描いて描きまくったら少しは何かわかるようになるのだろうか。少しも何もわからなかったとしても、わかりたい気持ちが高まっているのだから、何とかしなければならない。

2010年より前の絵は、今見るとあまりにも何でもない。

 

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建物内のフェアトレードのお店で、おやつ購入。ゴマのは、岩おこしみたいでたいへんおいしかったです。

 


●山種美術館 「花・Flower・華ー琳派から現代へ」

2017-06-10 | Art

山種美術館 「花・Flower・華ー琳派から現代へ」 2017.4.22~6.18

花がいっぱいの展覧会。

名だたる日本画家たちが描いた四季の花が、一堂に会する。個性が出る。視線が見える。その画家の世界が映される。

私は先日、梅の花びらまできれいに描けていたのに、しべを元気いっぱい描きすぎて、先生を絶句させた。やってはいけないことだったらしい。

日本画の大家たちは、個性的に描いたり妖しく描いたりしても、やっぱり花の基本はしっかりおさえている。花に何を乗せても、花より花らしい。感嘆しながらしげしげと見てきました。

以下、気に入ったものの備忘録。

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展示は春夏秋冬の章立てを基本に、トランス季節、バイ季節な画もある。

異なる季節を一緒に描いたり、二幅、三幅の掛け軸で対幅にしたてたりするのも古来から好まれたそう。確かに、異なる季節を取り合わせると、あいだのところに、季節の移ろいと時間の幅も感じられて、いろんな空間が想像できる。

 

山元春挙「春秋草花」1921~23、二幅の掛け軸。大正ロマンといえばそうなのかも。ふっくら描かれた菜の花に蝶。桔梗にススキ、コオロギがこっそり。春挙もけっこうカラリストだ。

 

酒井鶯蒲「紅白蓮・白藤・夕もみぢ図」19世紀

安定した丁寧な筆致だった。紅・白・黄色に緑。藤は透け感がいいなあ。花びらはかすかな青みで、蕾には影もかすかに。もみじは、真ん中にたらしこみの太い幹、鮮烈な赤い紅葉。色の重なりとリズムに見飽きない。控えめにクリエイティブな鶯蒲。夭逝したのが惜しくてならない。(と思ったらあべまつ様のブログを拝見すると、これは本阿弥光甫の作に倣ったものだとか。検索すると、養父の酒井抱一も倣って描いている(こちらの方のブログに))。同じものを模しても抱一と鶯蒲でちょっと違う。藤田美術館にあるという光甫のも見てみたい。

 

鈴木其一「四季花鳥図」は、同じ抱一の弟子でも全く違う。其一も抱一が存命の間は控えめにしていたけれど、その後はぶっとぶ。

この屏風をお部屋においたら、植物がザワザワ主張してきてたいへんなことになりそう。お茶を飲んでいても気になって気になって。鳥の眼は凄みがあるし、ヒナには陰影までついて立体化し、ただのヒナではない。ああ言えばこう言う口達者な小学生みたいだ。

秋の隻も、風吹きすさび、さわがしい。ふと横の鶯蒲の絵にに目をやると、画面を超えることなく静かに淡々とそこに立っている。其一の絵は立てる波動が他の絵師と全く違う。

 

其一では「牡丹図」1851年も。

これはもう少し後、写実にのめりこんだ頃の作だろうか。初めて見たときは妖しさ、完璧なまでの細密さに圧倒されたけど、何度見てもやっぱりすごい。どの細部もみても線にも着色にも乱れがなく、尋常じゃない。

三の丸尚蔵館にある伝・趙昌に倣ったもので、其一の中国絵画への関心を示すものだそう。突然のはやり病で亡くならなければ、其一はどこまで到達していたのだろう。

 

大好きな奥村土牛が6点

「木蓮」1948は、深紅。土牛のいう「色の気持ち」という言葉を思い出す

「醍醐」1972が再び見られたのもうれしかった。

土牛展で見て以来、やはりこの絵は特別だと思う!。日本の宝だと思う(勝手に)。こんなに慈しみに満ちた桜が他にあるだろうか?。四季の移り変わり自体を幸せに思えるような。ささやかな幸せに。今回見ると、幹が年を経て傷み変色しているのを、土牛は大事に描いていたこと。

「ガーベラ」1975は、びんがかわいく楽しい形。ガーベラも自然の花じゃないけれど、愛でる85歳の土牛の眼を、かわいらしく感じてしまう。

 *

渡辺省亭「桜に雀」、西洋の写実を取り込んだ草分けの省亭。その時代の洋画がへんな写実になってしまいがちな中、省亭は巧みに取り込み昇華してしまっている。それにしてもこの素早さ。すべて頭に構築して、一気に書きだすのか?。写実の雀でさえ、瞬時に生み出されそう。

省亭では「牡丹図」も、加島美術さんで見て以来に再会。改めて見ると、一心に蜜を吸う黒アゲハがいっそう生々しい。牡丹はしべまで散り落ちていた。


石田武(1922~2010)「吉野」2000、初めて知る画家。動物図鑑のイラストなどから、日本画へ転向したとのこと。写実の風景。木や森や満開の桜や、描かれた要素がすべて生き生き立ち上っているよう。

 

【夏】では、山口華楊「芍薬」1976がすばらしくて、足が止まってしまう。花びらがきれている珍しい芍薬だった。円山四条派の流れをくむ華楊は写生をよくした画家だったのかな。技巧に凝るというよりは、細部まで意識が届いて、素直な感じ。隣に展示していた山口蓬春が「モダニズムを追求した」というのとはまた違う方に心を注いでいる。

 

高山辰雄「緑の影」1951、やっぱり難解な高山辰雄。

海が見える。上昇気流が立ち上っているようにも見える。地に生えた紫陽花ならわかりそうな気もするけれど、これは切り花になった紫陽花。緑に息が詰まるほどに濃密だった。

 


今回楽しみにしていたのが上村松篁の3作。

「花菖蒲」1977 75歳の作。ひらきかけの菖蒲が何とも言えないほど。

芥子」1979は、少し妖しさを漂わせつつも静かに咲いている。松篁は鳥にも優しいけど花を見る目も優しいな。なんだか見ていて気持ちが一緒に溶け合うような。(名作にもよくある)壁がないというか。それは華楊も同じ感じかもしれない。対象にうんと近づいて、同じ目の高さで話すように見ているからだろうか。

 

同じく松篁の「日本の花・日本の鳥」1970は、一双の大きな屏風。花、鳥それぞれ12ずつの扇が貼ってある。屏風の金の地も優しい色だった。そして扇の一つ一つも優しい。

右隻には花。紅白の梅、桜。牡丹はともすればエラそうな花だけれど、ひたむきに咲いてる感じ。燕子花は画面の端に寄せた縦のラインで、’’ここにいるよ、今年もさいたよ’’的に。赤い菊は横一文字。桔梗とススキは、動的な美しさを出したくて斜めの線を多用したとあった。

左隻の鳥は、いろいろな表現で、松篁が12か月分楽しんでいるのがわかる。12羽の登場人物みな特別ゲストさんといったように一番いい立ち姿を見せている。ウズラはやっぱり秋の月とともに。キジは黄色いモミジとともに、少し距離をとって陰に隠れるよう。暁の水面にはカモ(かな?)。(名前はわからないけど)渡り鳥の群れが、雪の中、画面の外へ飛んでいくところだった。私は鳥の名前に詳しくないけれど、間違えたら鳩の顔まで見分けられるという松篁に申し訳ないですね他の鳥は、鶯、こまどり、ルリ、キジバト、オシドリ、小千鳥がいる(解説より)。

 

木村武山「秋色」(大正)も見られてうれしい。幻影のような夢のような。実際、もみじはススキに透けていた。薄く影のような女郎花。蜘蛛の巣やトンボも、小さいものも入るのが武山らしい。

 

小林古径「白華小禽」1935は、強い調子に驚く。古径は静かで控えめな絵ばかりをこれまで見ていたからか。

ねっとりするほどに濃い何か。大輪の花が開ききって雄蕊を突き出す。次世代に受け継ごうという最後の役割のような。その後ろには黒い影があるけれども、若い蕾の背景には影はない。こちらは葉も若々しい色合い。鮮烈な青い鳥もちょっと不可思議な空間。

古径の「蓮」1932は、早朝の神秘的な空気だった。

 

【冬】の一角では、椿。江戸時代には椿の品種改良がブームだったそう。そういえば徳川の平和展で見た「椿図屏風」には、挿し木をしている椿が延々と並んでいたっけ。

作者不詳の「竹垣紅白梅椿図」17世紀も、ダイナミックな屏風だった。竹の生け垣は関西に多いそう。椿も梅も白と紅のものが踊っている。そこに動きに満ちた鳥が配置されてる。

 

小倉遊亀「咲き定まる」1974は、もう開ききって花の終わりごろなのだと思うけれど、それを遊亀は「咲き定まる」と。79歳の作。堂々と成熟し、悔いはない感じ。

 

最後の別室は牡丹ルーム。8点、全くちがう牡丹。文句なく美しくて大輪なのだけど、こうして集めると、さみしく無常感のようなものが漂ってくるのはどうしてだろう。

一番最後の一枚は、菱田春草の「白牡丹」1901だった。

 

この日のお菓子は、古径の泰山木をモチーフにしたお菓子を選びましたよん。

絵とちょっとイメージ違うかな。おいしくいただきました。

 


●篠田桃紅「昔日の彼方に」

2017-06-07 | Art

菊池寛実記念 智美術館  篠田桃紅「昔日の彼方に」

2017.3.29~5.28

篠田桃紅さん(1913~)の作品をずっと見たいと思っていた。

「103歳になってわかること」という本を見つけて、それはどんな事なんだろう?と。

ずっと、そんなに長生きしたくもないけれどと思っていたけど、もしかして100歳まで生きたらわかることがあって、何の悩みもすでに越えさっているのなら、そんな境地に一度浸ってから死ぬのもよさそうだ、と開眼?したのだ。人間の悩みの大部分って、社会や人間関係、家族など自分以外の人間について派生するものが大きいと思うけれど、100歳にもなったら、みんな先立ってしまって、さらに長い時間もたって、「辛い」とか「孤独」はもうその種すらなくなっているのだろうか?と。孤独はもはや孤独でなくなるんだろうか?と。篠田桃紅さん自身、幼いころから身内の死に何度も直面したり、死ぬような目に合ったりしている。

展覧会を待ちわびていました。

とはいえ、線だけの作品だから全くわからないかもと思いつつ行ってみると、よくわからないなりに、とても充たされた思いのする展覧会だった。

 

年代ごとではなく、共通する何かを感じ取れるように作品が並べられていたのかもしれない。タイトルと作品とを両方見ることで、心に広がってくるものがある。

「甃(いし)のうえ」1990、「花のたね」1958は、三好達治の詩から。読めないんだけれども、解説に詩があって、紙の色、字の流れやリズムで、その情景を感じることができた。


「Daybreak 夜明け」1967は、すった墨の、ぬるく豊潤な質感を感じた。


Vermillion Harvest みなぎる朱」2010は、銀に朱。実った小麦を感じる。ふととても暖かいものを感じてしまった。97才。ひとりであるからこそ、自然のもの、四季のものと近しく身をおくこともでき、自分と重なり、そのまま筆に流れ出る。筆から表されたものは、その風景であり、もう移ろってしまったその前の動きであり、風であり、そのままなんだろう。孤独のなかからこんなにあたたかい思いが出てくる。


「Discovery ひらく」1962は、それから50年も前。

49歳か50歳頃の乗りきったころは、野心、情熱をほとばしらせるような。感情と力。強く、先走るもの。重なる墨も幾重にもしぶきをあげる。

「Izumi 泉」1967も、まっすぐな線が潔かった。ぬるい曲線はない。研ぎ澄まされ、一気に下ろされ、走った、その軌跡を目で追うと、それでも泉には墨の豊潤さが。


「Sonority 響」1999、「Phases 相」2011のあたりは、心の中のなにかの感覚的な動きが。通り過ぎていく、自分の中の一瞬のもの。感情というほどでもなく思いというほどでもなく。

Sonorityは音楽のやり取りかも。Phasesは、楽しい遊びのひと時のよう。「Voyage 旅」2009は、飛行機でおり立って、異世界を目の当りにしたら、こんな感じだろうか。


「Chikara ちから」2011は、果敢な感じだった。なぜか小林麻央さんを思い出した。小さい子供がいて病と闘う麻央さんのブログを時々拝読していて、決して多くはない言葉のひとつひとつは心の深いところに触れ、こちらが力をもらうことがよくある(面識もない有名人の方にこういうのは初めてですが、早くよくなられるように祈らずにはいられないです)。この作を見ると、自分にどれほどの力があり、自分の中にどれほどのものがあるのかわからないけど、ただただひたむきに。この作品も、力をもらうような作だった。


「Quietude 静穏」1990は、急に静かさが立ち上がる。自分の中の静かさに響く。

 

「Fountain of Gold 黄泉」2016 

潤沢にここにいる、という感じ。

 

展示の最後に「Memories of Nara 奈良」2017 

親交のあった会津八一の歌を書いている

「あめつち(天地)に われひとりいて たつごとき このさびしさを きみはほほえむ」

なんだかもう、すごく大きなものに包まれたような。このさびしさをきみはほほえむ でなななんだか泣きそうに。


最初は、線だけの作品ってわからないかもと思ってきたけれど、なにかとてもあたたかいものが広がってくる展示でした。孤独がとてもあたたかいもののように思えるのです。立っているその地面に風景に四季に、ただ生きているだけでも、なにもないわけじゃない。力を感じるもの、実りや自然の豊潤さがある。なにかふわふわと包まれたような感じで、帰りました。

 

(追記:会場でもらった紙から)満ちてくるものを待つ時間、過ぎてゆくものを惜しむ時間、そんな物事にはっきりかかづらっている時間でない時間に、本当の時間が見えてくる気がする。 なんとなく有る時間、ひとがうつろいにうつろうまま任せる時間は、時は失われているようでそうではなく、そういう時、ひとはきっと静かな目を開いている。(篠田桃紅「その日の墨」1983年 新潮文庫)

 


●太田市美術館・図書館2 開館記念展「未来への狼火」 

2017-06-07 | Art

前回の太田市美術館・図書館の続き

開館記念展「未来への狼火」https://www.japandesign.ne.jp/event/amlo-opening-memorial/

(抜粋)本展では、「風土の発見」「創造の遺伝子」「未来への狼火」をキーワードに、こうした歴史的風土の中で生まれた絵画や工芸、写真、映像、詩、歌など、多ジャンルのアーティストの作品を新作も交えて紹介される。

群馬出身のアーティスト、または太田市をモチーフに制作したものを展示しています。1,3階は写真可。

 

1階には、淺井裕介(1981~)さんの泥絵。

太田市各所の土を集めて描かれている。土色だけなのに、豊かな色合いでした

「獣たちの家」2017

獣の体の中に、また人間含め獣がいて、その体内にはさらにまたいる。指さきにもいる。

[user、_image 50/84/027efca5b84359daa58c94aac160c909.jpg]

一個の体に、太古からの生命の発生と、地球と宇宙のいろいろなものにつながりあって内包していることを、一度にみた感じ。なんかすごく大きい形容になってしまったが・・


「家を運ぶ」2017 こんなふうに安心できる家を持ち運べたらいいなあ。

 安堵感がある気がする。


反対側には壁一面に、「言葉の先っぽで風と土が踊っている」2017 

一般の参加者たちと共同で描かれたもの。

なぜか「龍虎図屏風」を思い出したり。

細部には、いろいろなものがいる。体内に、指先に、あるものは仲間と安らいでいたり、追いかけられて困っていたり、眠っていたり。

言葉では言い尽くせないけれど、思いは踊る。描き手たちの心と原動力が、ストレートにこの壁で踊る。

不思議なものたちはファンタジーなのかもしれませんが、ファンタジックな感じはあまりしませんでした。土着的であり、胎内的な感じ。

いいもの見たなあ。

 

藤原泰佑(1988~)さんの「太田市街図」2017 は、岩佐又兵衛も山口晃さんもびっくりな。洛中洛外図超えの細密さ。

地元の金山という山から見た光景。航空写真みたいに正確な再現ではなく、丹念な取材を重ねたうえで、画面の中で街を再構築している、とのこと。

確かに、この方が実際に歩いた実感、目にして受けた印象、感じたことが、画面に載っていました。

ホームセンターやパチンコの大看板がやたら目立つとこが地方都市っぽい。地方都市育ちの私は妙に親しみがある。

歴史の記憶を呼び覚ましたり示唆するようなものがあちこちに浮かんでいます。

埴輪いるし、キツネいるし、鶴が飛んでいるし、へんなのいるし。

横で見ていた親子連れは、地元ネタで大盛り上がりしていました。

空にゼロ戦はなぜに??。

もの知らずで恥ずかしい限りですが、太田市はSUBARUの企業城下町(この美術館すぐのSUBARU群馬製作所(大きい!)の住所は「太田市スバル町」)。その前身は、富士重工から、1917年に設立された中島飛行機にさかのぼる(GHQに解体された)。縄文以降、農村、宿場町であるだけでなく、軍需産業の町でもあったのです。

こうやって大きく見ていると、何千年もまえからのものも一緒に見ているようで、現代も過去とさして変わってないような、時間軸的にはほんの一瞬の差くらいに思えてきました。

 

二階では、石内都さん(1947~)の「Mothers」のシリーズが10点。

お母さまの遺品を撮っています。

資生堂ギャラリーで石内さんがフリーダ・カーロの遺品を撮った写真(日記)を見ましたが、それとは違う感じ。フリーダでは、記憶をそっと包むような石内さんを感じ、遺品は今はもう自由に空を舞うように、かわいらしくさえあった。

でもここでのお母さまの品々への眼は、もっと複雑な感じ。入歯、ウイッグ、髪の毛のからんだままのブラシ、ドレス、ガードル、淡い水色のパンプスなど。高齢になってからの母だけでなく、娘は知らない、若い「女性」としても、浮かび上がってくる写真だった。

石内さんはお母様との確執を悔やんで、さよならの気持ちで撮ったという。石内さんがお母さまの名前である「都」を使っていると初めて知った。お母さまは中島飛行場で働いているときに学徒動員で来ていたお父さまと知り合ったという。

母の中に女を見、ひとりの人間を見、理想化した母ではなく。これは子としてはなかなか見たくはないかも。お母さんはお母さん、であってほしいと私もどこかで勝手に思っている。でも石内さんはそれをあえて目を背けない。

 

そしてその隣に、片山真理さん(1987~)の写真。セルフポートレイトを中心に10点。

「My legs」2017 の二点は、義足の写真。くるぶしから下のものと、太腿からのものハイヒールも掃いているのも。

My Body」2017は、義足を床に置き、ソファで、下着とネックレス、マニキュアだけをつけてこちら(カメラのほうなのでしょう)を見る片山さん。妊婦さんです。濃い口紅、アイラインとメイクをしたその女性は、率直に美しい印象。

片山さんは9歳の時から両足に義足を使っておられる。義足の写真は、石内都さんが撮ったフリーダの義足の写真を思い出したけれども、でも全く違う印象。私などがうまくとらえれませんが、重力があるような。今まさに自分を表現している、自然な意志が内からある感じ。

「We've only just begun」2017は、ソファにもたれ座るセルフポートレート。モノクロでソファの模様と洋服が同化したようなので、顔と手先、スカートからのぞく足、無造作に置かれた義足が浮かび上がっているよう。なんだか、骨というか、やはり固いもの、重力のようなものを感じる。

そして、17歳の作「あしをはかりに」2005年

義足は、生きるための必需品であり、装飾具であり、しかし道具でしかなくもある、と。無数のねじと結びつけられた義足、生々しくも伸び上がる竹林のなかで、足に泥がついた義足、ガラス玉やネックレスや金で装飾された義足。

この写真ではありませんが、展示ではこの三点の下に、赤ちゃんの自分と自分を抱く父母の写真がおかれていました。

義足を形容したときに、片山さんの中には「装飾」という要素がある。片山さんのHPでほかの作品も拝見すると、「身体」っていろんな表現にできうるんだなあと感じ入る。そして片山さんの手仕事による装飾は、細やかな感性が行き届いていて、上等な美しさって感じもする。女子力が高い。私はこんな風にアクセサリーや小物類などで飾りをつけたり、服でも組み合わせたりってことが不得手なほう。せいぜいネックレスひとつつけるのが精いっぱい。でも私もこんなふうにしてみたいんだほんとは。

まだ片山さんの作品を少ししかみていないので、なんともいえないけれど。あちこちで活躍されておられて、作品にお会いする機会も増えそう。ずっと年下の方ですが、ここを(勝手に)ご縁に、10年20年後の作を見ていきたいと思うと、楽しみでもあります。

 

他には太田市出身の詩人、清水房之丞(1903~1964)の詩や、ノート、スケッチブック。

「霜害警報」 桑農家の堂々たる言葉と気象とに、ぐぐっと手に力を握りしめてしまう。

外へも発して余りあるような。「風土」を再認識してしまう展示方法。

 

この図書館が私の家の近くにあればと思うことしきり。「美術館・図書館」という名もそのままな感じが、よくある正体不明の横文字の愛称(なんとかスクエアとか)でないのがいいかも。ストールを忘れてきてしまったことだし、取りに行きたいけれど、いつになるかな。

 


●太田市美術館・図書館1 &大泉町

2017-06-07 | Art

群馬県太田市に新しくできた、太田市美術館・図書館を見学してきました。http://www.artmuseumlibraryota.jp/

 

はるばる群馬まで行くので、ちょっと寄り道して大泉町でランチ。

日系ブラジル人の方が多く暮らす街なので、ブラジル料理のレストランもたくさん。前回来たときはシュラスコでお肉攻めでしたが、今回はささっとすませたいので、スーパーの中にあるレストランへ。

ブラジルの調味料、お野菜やどーんとかたまりのお肉、ポルトガル語の雑誌、調理器具など、多種多様。

パンコーナーがステキ✨。ポンデケージョは、卵入りやベーコン入りとか種類もいろいろ。

アミーゴでセニョーラな会話が飛び交っていますが、どう見ても日本人には日本語で話してくれます。

お土産も購入。全部おいしかった~。特にこのV字のパンは、中にクリームチーズ入りでとってもおいしい~。

 

 

店内の一角のレストラン。というか食堂みたいな「Rodeio grille」

「ソーセージ炒めランチ」は、ちょっとイメージが違ったけど、家庭的でいいかも。フェジョアーダ(豆のスープ)つき。ご飯は、塩バターライスって感じ。これはこれでおいしい。

ミックスランチ

プリンは練乳で作ってあるそうで、濃厚でおいしかった。普段は炭酸は飲まないのにガラナも。この一日で、体重が増えていた(泣)。

 

 **

やっと目的地、太田市美術館・図書館。4月に完成したばかり。

敷地と敷地外に明確な境界はない。少しひなびた感のあるエリアでこの建物だけが新しいのですが、通ってきた道の連続のその延長で、すうっと入り込める。

この施設は、郊外のロードサイドの商業施設へ人が流れ、閑散としてしまった「駅前」を再び魅力あるものにするためのきっかけとして構想された。設計は平田晃久さん。

中に入ると、回遊式というのか。メインスペースというのがない。廊下、階段、踊り場という概念を超えて、すべてはゆるやかに連続している。そして本はいつでもそこにあります。

子供の本のコーナーは、素足に木の感触が気持ちいい。

 

最短距離で早く効率よく移動できる動線ではなく、スロープでアールを描いて、いつのまにか上下の階に至っている感じ。(普通は部屋を出てはしの方にありがちなエレベーターやトイレすら、分断されることなく気づけばそこにあったりする。)

で、移動する間にも発見があって、出会いがあって、気に入った小さなスペースを見つけることができる。

時間と場所により、空調の効きにむらがあるのも、有機的かも(笑)。

カフェに本を持ち込むこともできます。

見たかった鹿島茂さんのグランヴィルの本を発見~(*^^)v。カフェに持ってきました。

外とも分断されていません。山が見える。

部活帰り風な高校生たちはクッションで寝ていました。ココ、寝転んで本読むのにちょうどいい!!

おや、と思ったらクッションには、ワークショップから始まった建築の様子が、日付とともにプリントされていました。

 

本はほぼアート系に特化し、雑誌、そして子供の本のコーナー。私の近所の図書館では年々購入取りやめになっていく雑誌が多い中、ここでは充実していました。

もしかしたらアート系に興味がない人、子供の本にご用のない人にとっては、図書館としてはちょっと残念だったかもしれない。でもちらっと一度足を踏み入れたら、回遊している(せざるを得ない)間にきっと、ふと手に取る一冊がありそう。空間のいざない効果??。

 

ここは、美術館との複合空間でもあります。

展示は1,2,3階に渡っていますが、入口も、階の移動も、図書館と分断されておらず、混じり合っていました。

開館記念展「未来への狼火」https://www.japandesign.ne.jp/event/amlo-opening-memorial/

(抜粋)本展では、「風土の発見」「創造の遺伝子」「未来への狼火」をキーワードに、こうした歴史的風土の中で生まれた絵画や工芸、写真、映像、詩、歌など、多ジャンルのアーティストの作品を新作も交えて紹介される。

群馬出身のアーティスト、または太田市をモチーフに制作したものを展示していました。(次回に)

 


●東京国立博物館「茶の湯」展 

2017-06-03 | Art

東京国立博物館 平成館 「茶の湯」展

2017.4.11~6.4

二か月弱の会期中で、全259点。これをなんと8期に分けてモザイクのように展示替え。

東博のHPでは展示目録が一覧になっていないのでこんがらがっていたけれど、東博前の横断歩道渡ったところに、立て看がおかれていた。

この表はHPなどでは発見できなかったけれど、どこかに載っていたのかな。1回しか行けなさそうなので、曜変天目は諦め、牧谿の絵を見られる日程を優先していったのは、6期。

構成

第1章:足利将軍家の茶の湯ー唐物荘厳と唐物数寄

第2章:わび茶の誕生ー心にかなうもの

第3章:わび茶の大成ー千利休とその時代

第4章:古典復活ー小堀遠州と松平不昧の茶

第5章:新たな創造ー近代数寄者の眼

茶道の心得がない私にも茶の湯の需要と変遷を俯瞰できる構成。茶の湯ってものを私なりに楽しんできました。

とりわけ社会の変化によって、茶の湯の様相が変わってゆくのは興味深い。おりしも、室町、戦国は、日本の歴史の中でも体制がドラマティックに大きく変容した時期。先日の江戸博の戦国時代展でも印象つけられたのは、民が力をつけた転換点になったということだった。それは茶の湯にも反映されていた。

印象深かったものを、タラタラと。

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第1章:喫茶は、12~3世紀ごろ、禅僧の往来により宋よりもたらされた。室町幕府の時代には足利将軍はじめ権力者は「唐物」を競って入手し、権力を誇示する。

楽しみにしていた牧谿。「牧谿様」のかすむような表現だけでなく、強弱、濃淡、細い太い、いろいろな線を自在に操る様を堪能。画題もバリエーション豊かな展示で、満足満足。

伝牧谿「蜆子和尚図」13世紀、これは楽しい。(画像はこちらの方のブログに

エビとシジミばかり取る和尚さんがいたそうな。エビを捕まえて高く持ち上げ、ほんとに嬉しそうな顔。解説では「悟りの境地か」と言う。俗人の私はそこまで読み取れず、開いたエビのしっぽをエビフライみたいだわとか思っていた。でもその瞬間、お食事にエビフライくらいじゃさして喜ばなくなってしまった今の自分に気づいて、ハッとする。その意味でやはりこの絵は禅画なのかもしれない多分そうじゃない...

牧谿はこのコミカルな和尚さんを、丁寧な線で描いていた。網は細く、服は太い線細い線を駆使し。もしかしてふんわり雨雲が下りた中にいるのだろうか。足もとは水に浸かっているのか、足元が悪そうななかで、しっかり足裏で支えていた。牧谿の観察眼の鋭さ、細やかさ。

 

この展覧会では、誰の旧蔵であったかが記されているのも興味深い。

牧谿「竹雀図」は、足利義満→義教へと伝わり、今は根津美術館所蔵。

「吹き墨」によるかすかな点点が雨のようで、濡れ雀として愛されてきたそう。濡れているのか少しパラパラになった羽根、くっつきあう二羽は、一羽はは縮こまり、一羽の目線は動きを。笹と枝だけなのに、雨中の空気の満ちた様子がこんなに豊かに描き出せるとは。

 

伝牧谿「叭々鳥図」は義満旧蔵。三幅だったもののうちの一幅。背景は描いていないのだけれど、叭々鳥の眼の位置からして、わりに高い位置にいるのでは。下からの枝が絶妙なバランス、叭々鳥の重みを支えている。ざっとした線なのに、研ぎ澄まされた感じ。寒さにくちばしを羽根の中に入れて縮こまる叭々鳥は、ほとんど目を閉じていた。枝には枯葉がわずかに残っているけれども、これもやがて散ってしまうのだろう。

 

牧谿「遠浦帰帆図」は織田信長の旧蔵。牧谿の瀟湘八景の一つのこの絵が、京博から12日間だけくるのを楽しみにしていた。もとは絵巻だったのを、座敷に掛けるために切断したのは義満とか。いくら誇示したいからって、恐ろしい暴挙。

帆船がなんとか2隻見える。靄の中を、村に帰ってきた。帆と木の様子で、風が右から吹いている。その木の葉は、横に弧を描くようにざっざっと短い筆跡だった。家の陰には二人、舟の帰りを待ってるんだろうか。もう二人岸辺にいるような。眼が慣れるまでに時間を要し、そのゆったりとした時間を過ごせたことに充福。

分断されてしまったこの8景のうち、煙寺晩鐘図(畠山記念館蔵) 、平沙落雁図(出光美術館蔵)は見たことがある。ふたつとも人は描かれていなかった。この遠浦帰帆図は人がいて、小さな暮らしのドラマのひとこまなのでしょう。「山市晴嵐」は所在不明だけれども、・漁村夕照図根津美術館蔵)・洞庭秋月図(徳川美術館蔵)・江天暮雪図(個人蔵)・瀟湘夜雨図(個人蔵) を当時のように横に並べて見るのが私の夢だったりする。

 

「遠浦帰帆図」では玉潤も展示されていた。

「六祖図」伝梁楷 無学祖元賛 南宋あるいは鎌倉時代、は、思いつめたように一心に修業に取り組む目線。強くすばやい筆にも強い意志が。強弱、細い太い、自在な線。陰影と、顔のしわやひげまで細かく。(部分)

 

「布袋図」伝胡直夫筆、南宋は、トレードマークの袋に、童子が眠っていて布袋さんは困っている。困っているけれど、ほほ笑む。その布袋さんの口元がかわいい。童子の寝姿もかわいい。

 

「朝陽対月図」無住子筆自賛、1295年は二幅対。

朝の画では、岩に腰掛けて、足に糸をかけて糸をよっている。後ろに糸巻きが。人は薄墨だけれど、岩の影と草は、濃い墨で少し激しく溌墨風。

月の画のほうは、経を読む人物が描かれている。人物はもっと薄くなって、ギリギリまで経を目に近づけている。月明りだけでは見えにくい夜の暗さを描いているのだろうか。それで岩まで薄くなっているのかな。朝の幅はもっと明暗もはっきりしていた。

どちらも一心に一点を見つめる緊張感と、この僧のかわいい顔のギャップが楽しくて。

 

徽宗「鴨図」南宋、12~3世紀、には圧倒された。徽宗といえば、栖鳳に「斑猫」を着想させた猫の画もすごかったけど、鴨もすごい。

くちばしを入れてカキカキする羽毛の乱れ。水かきのすじ、斑点、ふかふかの羽毛、固い尾羽、細部まで恐ろしいほどの細密ぶり。羽根は塗り残して描き出している。それが集大成して、こんなに妖しいほどののオーラを放つ。最後は捕らわれ、妻子まで悲惨な末路をたどることにならしめた徽宗、この絵や猫の絵は、彼の生涯の中のいつ頃に描かれたのだろう?。


「梅花双雀図」伝馬麟、南宋13世紀、解説通り、元絵をトリミングしたのかもしれない

 

「清水寺縁起」1517年は、伝狩野光信。清水寺の縁起と、坂上田村麻呂の東国平定、千手観音のさまざまな奇瑞霊験譚。展示場面は、祈祷と、別室でのお茶の用意の場面。大きな茶釜と、稚児がたくさんの人数分の茶碗に注いでいるところ。

展示の場面ではなかったけれども、合戦の場面で「蝦夷」が描かれているのはほかに例がないらしい。鎧兜姿の田村麻呂軍に対し、見たことがない者たちを「敵」というイメージだけで描いた「蝦夷」の姿ったら。当時の西国の人の感覚が知れる。(全画像)。

 

酒飯論」16世紀(文化庁)もたいへん楽しい絵巻。酒好き、飯好き、両方が持論を展開しあう。実は、天台の中道の優位を説くのだとか。絵巻きに時々登場するこの時代の「ご飯」って、お茶碗の丈の三倍くらいな山もりだけれど、実際もこのような盛り方だったのかな?

 

この時期の茶碗では、足利義政が愛したという南宋の青磁がチラシでも大きく掲載されていた。なのに、人だかりをさけてそのまま見逃してしまった(涙)

 


第2章:室町幕府は衰退し、町衆が力をつける。唐物だけでなく、日常の暮らしから心にかなうものを撮り合わせる「数寄」の文化。侘茶の誕生へ。

侘茶の祖とされる珠光(1423~1503)は、庶民も楽しめる茶の湯を提唱する。高価な唐物でなくとも「侘びた」陶器を使い始める。武野紹鴎(1502~1555)は侘茶を発展させ、境の商人、今井宗久や利休によって完成される。

「黄天目 珠光天目」元~明、確かに茶の湯の意識が変化したのかもしれない。誇示するものから、使うものへ。内面へと向かい、その時間を大切にするものへと。

「唐物茄子茶入 銘富士」南宋~元13~14世紀、は蓋が2.5センチくらいで、小さく愛らしかった。小さいものに癒しとかわいさを感じてしまうのは、昔も今も同じかな。名物狩りで召し上げて、秀吉から前田利家へと渡ったらしい。

 

高麗の茶碗も注目されたよう。日用品だけれども、素朴で荒いろくろ目が侘茶にかなうと人気が出たそう

朝鮮時代16世紀の「大井戸茶碗」喜左衛門井戸 (京都・孤蓬庵)は国宝。「見事な景色」と解説に。

「井戸」とは、高麗茶碗の中でも代表的な一群なのそう。同じく16世紀朝鮮王朝の「大井戸茶碗」宗久井戸は、青みのかかった枇杷色だった。

 

第3章:安土桃山時代。すでに茶の湯は、天下人、大名、町民まで広く浸透している。利休が新たに見出したもの、作り上げたもの、新たな道具を取り上げていた。

長谷川等伯が描いたとされる利休(1522~1591)の肖像があった。

七尾美術館で見た、等伯筆の僧の肖像などに筆致が似ているような。等伯の描く肖像画は、線が繊細で、瞳の奥まで浸透してみるような印象なのだ。

これは1583年の作。利休が秀吉の茶頭に就任した記念の肖像。この利休は、少し前に乗り出すような姿勢で、野心を感じるような強い瞳。フロンティアであり、秀吉にも屈することなく我が道を突き進んだ利休の強さ。人の意見に耳を貸さない頑なさと紙一重のようでもある。着物のひだのうねり、重なりは動きに満ちて、とても生々しい肖像だった。

等伯はこの年には、大徳寺の塔頭総見院に襖絵を描いた。利休を通じて大きな仕事を得られるようになったころ。この肖像の賛は、大徳寺の古渓宗陳。

 

その利休が創造したものに、自然素材の花入れ・漆黒の道具、楽茶碗などがある。自分ならどう使うかと、問いかけ、対峙する、とあった。モノそのものでなく、価値観や美意識を見せる利休。

「瓢花入 銘顔回」16世紀は、瓢箪の首を切って、花入れにしていた。「耳付籠花入」は竹かごの花入だった。こういう使い方は、今ならよく目にするけれども、ここが、日本の文化の源流がひとつ生まれた具体例なんでしょう。耳付籠は、細川三斎(忠興)送られ、増田鈍翁へ伝わったとか。

 

長次郎が数点。これはやっぱり感銘。手の中に楽茶碗をそっと持ったら、その風景がどんなに広がるのだろうかと。

「赤楽茶碗 銘白鷺」は、ごつりとしているのに、震えるような。生き物だ。

 

「黒楽茶碗 銘ムキ栗」は、四角と丸が一つの世界に。同時に手の中にある。禅の境地のような。頑張って伸び上がって上から少しでも覗き込むと、底のない暗い奥へ吸い込まれるようだった。

 

「黒楽茶碗 万代屋黒」は、娘婿に伝わるそう。ふっくらとした、早期の作とか。

「黒楽茶碗 銘俊寛」は、漆黒の闇、月のない夜の海のよう。圧倒的な存在感。手びねりで、持ったらきっと手に吸い付くだろうか。

こんな茶碗の数々を目にすると、手で包んでみたい、口に触れてみたい、との衝動がわく。ガラスケースを目の前に葛藤のひととき。

 

この後は、利休亡き後、古田織部、織田有楽斎、細川三斎へ。信楽、ベトナム茶椀へと広く展開していた。この流れは、他のことでもわりにありそうな気もする。

利休の一番弟子、古田織部はしきたりにとらわれない茶の湯を追求。

織部が愛した「伊賀耳付水差 銘破袋」17世紀は、自由をすぎて、もはや前衛アーティスト。

織部の茶室「燕庵」が再現されていた。これだけ写真可。

ビデオで紹介されていた、利休のはりつめたような「待庵」↓とは全くちがう。どこかおおらかなゆったりとした空間。

 

第4章:古典復興ー小堀遠州と松平不昧の茶

そして江戸時代へと。太平の世には、小堀遠州らを中心に、武家の茶を復興しようという動き。遠州の確立した茶風「きれいさび」の茶碗はじめ、江戸の茶道具は、ぜんたいに優美な印象。景徳鎮はじめ、朝鮮や明、台北の窯元の地図がパネル展示されていた。国内では、瀬戸、唐津、伊賀、丹波、京焼。

安土桃山の侘びとずいぶん趣が変わってきた。

油滴天目

 

野々村仁清が3点。形も愛らしいけれど、絵付けも美しい四季の光景が、画面の制約を超えて広がっていた。

「色絵鶴香合」は、座った鶴のくびのひねりがなんとも言えず。藍色の羽は金の線がひかれて美しかったし、赤いくちばしまで愛らしい。仁清の「色絵鱗波文茶碗」はやまと絵のごとき美しさ

「色絵若松図茶壷」は、黒釉の微妙な暗さ、輝き。松は楽し気に手を上げて踊るよう。素敵な夜だった。

 

第五章:明治維新後の混乱で放出された茶道具を収集し、茶の湯を受け継いだのは、財界人たち。平田露香、藤田香雪、益田鈍翁、原三渓についてのパネルとゆかりの品を展示。

 

だけれど、もうへとへとについて。私の心のオアシス、大好きな畠山美術館を遺してくれた鈍翁の写真に心で合掌しつつ、途中リタイア。


ラウンジでまだ営業していた鶴屋吉信で、あんトースト。開いていればいつもこれ。パン温、マスカルポーネとあん冷がおいしい☻

 

なんだかおなか一杯になると、元気復活、違うものが見たくなる。バロックでも見ようと歩き出し、この後はなぜか東洋館に入ったのでした。(東洋館の日記