はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●松岡美術館「屏風と掛軸ー大画面の魅力・多福対」前期

2017-11-30 | Art

松岡美術館 「松岡コレクション 屏風と掛軸ー大画面の魅力・多福対」

前期2017年10月4日~11月26日、後期2017年11月28日~2018年1月21日

(今は後期展なのですが、前期の日記です)

前から楽しみにしていた展覧会です。
魅惑の大画面。
西洋画の宗教壁画などの大きい画も素晴らしいですが、日本の大画面は格別。
シンプルで数本くらいの線で描いただけでも、その部屋を豊潤な別世界にしてしまう。
かと思えば、この大画面にそこまで描き込むか⁉ってくらいに、ウォーリー君もびっくりな細密なものもある。

HPに展示リストがなかったのですが、行ってみてびっくりのビッグネームぞろい。前宣伝に力を入れる展覧会が多い中、なんと謙虚な。

以下、とりわけ心に残ったものの記録です。(スマホのシャッター音が出ないように設定すれば、写真も可)

**

まずは狩野春笑(1646~1715)「養老勅使図」で和む。

お金持ちの発注と思しきりっぱな金屏風だけれど、人物がゆるくていいのよ。

狩野の中でもやまと絵寄りの鮮やかな屏風。あちこちにお花見スポットだって散りばめてある。

狩野春笑は、狩野秀頼(元信の次男)を祖とする分家筋の山下狩野の絵師。この雅びさ明るさは、先日京博の国宝展一期で見た、秀頼の「観楓図屏風」を継承しているのだろうか。



作者未詳の「源平合戦図」江戸時代 数ある源平合戦図でもこれは秀逸。細密の極み。
六曲一双の屏風なのに、全体を撮り忘れるという失態を犯してしまったのですが、
右隻は「一ノ谷の合戦」、左隻は「屋島の合戦」。(パウチした解説が何枚か置いてあるので、手にもって見比べられます)

有名シーンだけでなく、私などでは知らない小ストーリーまで描きこんである!。これだけで源平合戦が学べそう。

全部でいったいどのくらいの人がいるのだろう。千人は超えていると思う。

たいへん細密なのに、その一人一人の動きは生き生きと臨場感がある。人物は大きめの目でかわいい感じゆえ印象に残る。描きこんだ場面からは、ウマの足音、合戦の雄たけびまで聞こえそうなほど。

また、着物の柄の美しさ、波の青の美しさや、木々の描き分けの豊かさまで、細やかに丁寧に仕上げてある。一分のスキもないのでは。

内裏の内には、安徳天皇、母の建礼門院、祖母の時子が見える。御簾の透け感まで気を抜かない。

一の谷の合戦前夜に、愛妾を呼び寄せた平通盛。それをいさめる弟の教経。

有名なひよどり越えの逆落とし。90度(‼)傾斜をものともせず、向かう方向は(ちょうど映り込んでしまった非常口の)矢印通りに平家の陣に一直線。

平家の越中前司盛俊は、猪俣則綱に騙され、田んぼに突き落とされて討たれる。

薩摩守忠度(清盛の弟)は、右腕を切られ、六野太忠純に討たれる。くっ無念じゃっ。

そして合戦の舞台は、瀬戸内海の屋島へ向かう。

左隻は青色と白波の海がたいへん鮮やか。海の美しさがこの屏風の特徴の一つでしょう。

でも現場では、海上の混戦ぶりがすごい。イモ洗い状態に人馬がひしめき合ってる。

那須与一の扇を射抜くシーン。この絵では、すでに扇が射抜かれて宙を舞っている。

弁慶がいた。7つ道具で身を固めているとのこと。熊手,薙鎌,鉄の棒,木槌,鋸,鉞,さすまた(諸説あり)のうちのいくつかが見える。

屋島の安徳天皇の内裏に火を放つ。木々まで、緊迫感を感じているよな。陰影や立体感まで丁寧に描かれている。

あっちもこっちもドラマ満載。いくら時間があっても足りないほど素晴らしいのに、作者は未詳とは。いったいナニモノだろう?。きっとほかにも屏風や絵巻を手掛けているはず。いつかこの人、または工房と思しき「作者未詳」の作に出会えるかもしれない。

 

始めの二作ですっかり時間を取られてしまった。閉館時間は5時。後は急ぎ足に。


この日の床の間は、松花堂昭乗「菊図」。畠山美術館でこの人の鶏とひよこを見てからファンなのだ(日記)。

小さいので細部は単眼鏡でも見えにくかったけれども、一輪の菊と、それを待っているかのように置かれた花入れ。床の間全体がいいしつらえ。

解説によると、一枝の菊を描くのは、唐時代の「折枝花」という画題。昭乗はよく折枝花を描いており、特に菊は「一本菊」と称して知られるとのこと。ちなみに後期では、応挙が昭乗の菊を模して描いた「菊図」が展示される。これも行かねば。

昭乗は、書は近衛前久に、画は狩野山楽、山雪に学んだとのこと。師匠も素晴らしい。

荒木十畝「春秋花鳥図」は、前期は右隻の展示。春の情景。

桜の木もいいけれど、むしろ地面に目が行く。ほんのりと桃色の桜の花びら、土筆、スミレ、雀が、たっぷりとした余白に遊ぶ。春の地表の情景。

左隻は後期展示。

円山応挙の大きい作が2点も。これを独り占めできる至福の時間。

円山応挙「遊鯉水禽図」1971(48歳)

右隻は夏の木陰。金の雲間を漂いながら、いつの間にか水中に。水の透明感は幽玄な深い藍だった。

水辺に、カメ、鯉。その自由さは、さらさらと気持ちがよくて、肩の力も抜ける。

カメの泳ぐ姿って、癒される。なんであんなに重い甲羅を背負っているのに沈まないんだろう・・

鯉がいい顔している。

さすがは応挙、鯉のうろこや、水辺の鳥も毛や足まで細密に描いている。青紅葉、シダや萩の葉も清々しい。

左隻では、季節は一変。凍てつく雪景色。湖面は凍っている。

厳しい自然環境と対照的に、雁たちはとても温かみをもって描かれている。

雪を目で追うものもいる。そこには一時、日差しがさしてほんのり。

応挙の人柄が偲ばれるような屏風だった。

 

円山応挙のもう一作は、「猿鶴之図」18世紀 のちの大正天皇の立太子礼のお祝いとして、一条侯爵が献上したもの。

両幅の枝が呼応し、大きな弧を描いている。猿の視線は二羽の鶴へと受け継がれ、ここにも円環が。贈り物としても円満な感じ。

猿がピースフルな顔で

両福で、縁:少しの黒:さらに少しの赤。この比率と配置がいい感じ。

これも応挙のハートフルな作だった。

寺崎廣業「春海雪中松図」1914 角がないふっくらした感じがお気に入り。

右隻は、松林のすきまを海風が通り抜ける感じで清々しい。海面のさざ波も涼しげ。

対して、左隻は、しんと留まった空気。動きはない。

でも重苦しい空気ではなくて、雪の翌日の晴れた日の明るさ。ぽってりとした雪がいいなあ。

 *

狩野常信は二点。どちらもとてもよかった。

二幅対「富士三穂図」 いろいろな世俗事に悩まされた後の、今はもう達観して凪いだ境地のよう。

右幅 すうっとした稜線が心地よい。松も海も、各々が主張せず、静か。

左幅

右が高さなら、こちらは水平。海と雄大な山々を遠くに望み、小さなことなど忘れそう。

でも着陸すると、太平洋の波が寄せ、松の確かな息遣い。そこにいるような気持ちになる。

手慣れた描きぶり。大人の平常心。でもふと細部には経てきたドラマティックがあるような?。もはや受け入れて久しく、少し孤独さが漂っているかもしれない。

 

常信のもう一点は、「林和靖・山水」。画風も変わって、漢画的なしっかりとした線。

すりすりとペットみたいについてくる鶴。それを見遣る林和靖の優しい表情。

上村観山もこのように優しく愛情深い表情で林和靖を描いているけれど、この画を見たことがあっただろうか。

これは晩年の70歳頃の作。常信は、狩野探幽の弟の尚信の息子。14歳で父を亡くし、木挽町狩野を継ぐ。叔父の安信に疎まれ、老年になってやっと法眼の地位を賜ったとのこと。これはその後の絵。

お父さんの尚信も好きだけれど(そんなに見てないけど)、常信の絵も上滑りな感じでなくて、余計な力が入ってるわけじゃないのに、しっかり中身がある感じ。狩野のそれ風な絵をただ描くのではなくて、描く対象に気持ちも入れて描いているような。だからしみじみと見入ってしまう。

 

その常信を邪険にしたらしい、叔父の狩野安信の絵もあった。安信って自分が探幽にコケにされたから、負の連鎖で画力のある常信に転嫁いびりしてた?。邪推だったら安信に申し訳ない。

安信の絵も、ちょっとゆるいところがいいお味。これはこれでこのままでいいのでは。

狩野安信「衣通姫・明石・須磨」17世紀 こちらはやまと絵風。

解説では、衣通姫の伝説と、明石・須磨の風景は関係がないけれども、源氏物語の配流と結び付けたもの。衣通姫は、古事記の「貴種流離譚」のヒロイン。同母兄の木梨軽皇子と恋に落ち、皇子は伊予に流される。姫は命を絶ったという悲しいお話。

姫は悲し気。(でもちょっとゆるい系な・・)

解説では、安信は学究肌の理論家。「画道要訣」を著し、資画(天性の才能による絵)よりも、学画(古典学習を通して習得した絵)を重視した。それは資質の異なる後進の育成には有効であろうけれども、尚信や常信にはセマ苦しいかもしれない。

橋本雅邦も二点。どちらもさすがの貫禄の作。

「春秋楼閣山水」1902 達観している感。線もさすがの美しさ、滝も惚れ惚れ。

 

雅邦の欄間の「藤図」は圧巻。大胆にして洒脱。

生木の木目が、向こう側の間まで透けてゆくように見えてくる。木なのにまったく遮断しない。

こんな欄間がはめ込んであったお宅って、いったいどんな家なんだろう。後期にはこの裏面が展示される。同じ藤の夜の情景とのこと。これは見に行かねば。

**

4幅の文人画にはさらにびっくり。大好きな山本梅逸と、浦上春琴がある。そうと知っていれば、もっと時間を残しておいたのに。そして小田海僭、貫名海屋

一見は似ているけれども、それぞれ個性的。

彼らは同年代。これらの作はほぼ同じ年に描かれたもの。皆、60才代、地位も安定したころでしょうか。

先日から泉屋博古館と静嘉堂文庫で明清絵画を見て、その多彩さや個性に驚いているところ。そして日本の絵師や文人たちが、輸入された作を見に行ったり、模写したり、模写を借りて模写したりと、せっせと学んでいたことも知った。この4人も、そんな風にして学び、同世代の絵師たちと切磋琢磨しあっていたんでしょう。

山本梅逸(1783~1856)「夏景山水図」1843

ああやはり濃い描きこみぶり。濃淡の極まりも、近景から遠景まで緩めず強い。これがいい。たまにはこってり系も。

ジグザグ構造とともに遠近も感じられるようで、ふっと西洋画のようにも感じる。明清画家でも西洋の遠近を取り入れた画家がいたということなので、梅逸はそういう作を好んだんだろうか。

解説では、梅逸は親友の中林竹洞とともに、古書画の収集家である名古屋の豪商、神谷天遊の庇護を受け、明清画の研究に励む。1802年から諸国を遊歴し、頼山陽や谷文晁との交流を持った、とのこと。

 

梅逸の後で見たら、浦上春琴(1779~1846)「秋景山水図」1842、は穏やかな感じ。

全体を通して安定していて、いいなあ。お父さんの玉堂よりも人気だったと言われるのも、そういうところなんだろうか。

解説では、春琴は頼山陽、岡田半江、貫名海屋らと親交が深かったそう。

 

小田海僊(1785~1865)「春嶽帰樵図」1842 は初めて名前を知ったけれど、とてもお気に入り。

達者な描きぶりで、かつどことなくなくほのぼの。山も岩も木の枝も、こんもり丸々な集合体。

牛と人物がとくにお気に入り。樹の間から顔がのぞく麦わら帽子みたいなおじさんがかわいい。そして童子とハチマキのおじさん。

南画では牛をひく人はよく登場するけれども、海僊は三人三様きちんとキャラ設定をして、動作もきちんと描いている。

(麦わら帽子のおじさんは、もしかして自分か知り合いの誰かだったりするかな)

検索すると海僊の人物画も良さそう。写実的な視線というか。

解説では、海僊は、周防生まれ。下関の染物業小田屋の養子になった。1802年、17歳で上洛。はじめ松村呉春の門下に入るも、頼山陽と親しみ南画に転向した。萩藩の御用絵師になり、特に臨模に長じたとある。詳しい方が見たら、この画も誰か中国の画家の影響があるか気が付くのかもしれないなあ。

 

ここで5時を過ぎてしまい、抱一の「布引の滝・旭鶏・月兎」が見られなかった(涙涙)。

写真だけ撮ってきたけれど、とてもよさそう。

 *

これらがすべて所蔵品というのは素晴らしいです。

しかも一つ一つの作が、心があるというか。心に残る品が多いと思うのです。名前のバリューに関わらず、気に入ったものを買い求めたのでしょう。コレクションのほとんどは、創設者である松岡清二郎が一代で蒐集したものだそう。

後期こそ、一階も併せてゆっくり見に来よう。(前期に行くと後期の半額割引券がいただけます😊)

美術館と白金高輪駅の間にあるオスロコーヒーで、モンブランワッフルを食べてしまいましたわ。


●佐藤美術館「吾輩の猫」展にフジイフランソワさんの猫

2017-11-25 | Art

佐藤美術館 「吾輩の猫展」  2017年11月7日(火)~ 12月24日(日)

 

夏目漱石の生誕150年。新宿区の「漱石山房記念館」と新宿フィールドミュージアムの連携イベントとして開催された展覧会。

佐藤美術館が、現代作家たちに「猫」をテーマにした作品を依頼。その数70名。猫は70匹越えです。(写真可。但しSNS等に乗せる時は、展覧会、作家・タイトル名を記載のうえ、とありました)

会場はエレベーターで3,4,5階。夢の貸し切り状態になるときもありました。

 

絵のモデル猫たちの写真も、各階に展示。これだけでも楽しい。

ネコ絵をたっぷり堪能して、楽しい展覧会でした。とりわけお気に入りの絵・お気に入りのネコの備忘録です。

個人的TOP3を。

楽しみにしていたのは、フジイフランソワさん。

「威を借るねこ」  古典を咀嚼してダークサイドに擬態?するネコがなんてステキ。国芳みたいにたっぷりいる。

やだもう最高。悪そう~。

キミは風神のつもりなの?天女だったらゴメンね!

おお、あねさんと呼びたい絢爛な模様。狩野風のタカ?右のはカッパ?

ふっ

他にもいろいろ。ツチノコぽいのもいた。もう一回見に行きたいくらい。このナナメな愛こそが、日本の戯画や妖怪絵に通じる気がする。

以前からどうやって描いているのだろうと思っていましたが、素材欄に「和紙・膠・墨・鉛筆・胡粉・ルイボスティー・水彩」と。なるほど。

 

池永康晟「猫・習作・神園町あたり」

展示作のなかでも小さい絵、抑えた色調なのに、絵の前に来るとやはり出色。

池永さんの現代美人画はたいへん人気だけれど、これまで実物を見たことはなかった。あの10年かかって作り上げたという独特の色調が、ネコを描いてもなんともいえない味わいになっている。古雅で現代的というか。

ネコの表情から目が離せないくらい。美人画に負けていないほど、目線や口元に繊細に留意している。

美人画もがぜん実物を見てみたくなった。

 

70作見ながら思うのは、動物の絵ってなかなか難しい。毛描きも、なまじに中途半端な細密では残念な感じになってしまうし。フジイフランソワさんや池永さんのように線で輪郭を描くのも、シンプルゆえに簡単ではなさそう。

技術的な上手さはよくわかないけれど、ネコの人格を尊重している絵が印象に残る。

伊勢田理沙「触りたくても触れさせぬ君」

これだけもふもふのお腹をみせておいて、手を出すときっとびしゃっとやるのでしょう。あんまりな。

落ち葉のかけらがついている。それが何だというんだ、と。

 

3つに決められなくてもうひとつ。

加茂幸子「守護猫ーサバンナの星」

狛ねこ?。この頼りがいのありそうな顔。安心感。背中にもたれかかりたくなる。このままこの女の子を乗せて、星の砂漠をひとっ飛びしそう。

選び難いので無理やり分類してみましょう。

 

《妖かし編》

フジイフランソワもそうですが、他にもいい作品がいっぱい。

北村さゆり「足音」「ネコまた」 猫ビーム。赤く垂れそうな輪っかがなんとも・・

こう見えて、又兵衛的な凄惨なシーンもある。カンガルーはなんだろうね?

 

《ネコの気持ち編》

染谷香理「向こう側」

疎外感のような。自分だけ入れない感じ、あるよね。

 

斎正機「ハイイロノネコノキモチ」 こんなことを考えているんだね。浮遊する金魚がきれいだなあ。

 

野地美樹子「揺れる想い」 下の子にかかりきりなお母さんに、甘えたいのに甘えられない上のお子さんにのせて描いたそう。

こんなに寂しい目なのに、蝶なんか見て平気を装おうこの表情が、切なくて、今見返してもじわっと(涙)。しっぽまで切ない。

筆致も丁寧でとても美しく、コスモスにもしみじみと見惚れてしまった。

 

《ネコの尊厳編》

TOP3の伊勢田理沙「触りたくても触れさせぬ君」もここでしょうか。

忠田愛「雨の日も風の日も」も圧倒される。

人生しょってる。戸嶋靖昌を思い出した重厚さ。

 

《二人の関係編》

佛淵静子「ねこの集会」 間延びした猫と、きゅっとした猫。なんとも不思議な間合いの絵。二人の関係はよくわからないが。

 

金丸悠児「BLACK&WHITE」 ほのぼの。家族を描いてみようと思ったそう。

 

《負けまへんで編》

松崎綾子「攻防」 猫とブロッコリーは、それぞれ闘っているのだ。生きるために。そして画家自身も。

ダイエットと、害虫取りと。

 

海老洋「サクラノウマ ボタンノネコ」 ネコ:ばかにしてんのかぁ(怒) 。ウマ:ヒヒっ(嘲)。←勝手な見解

 

《花鳥画編》

幸田文香「春待つ」 霞んだ色彩がきれいだなあ。植物を根元から描いてあるのが個人的に好き。

 

京都絵美「猫」 まあ、きれい。牡丹に百合に美猫。

 

阿部清子「墨玉」 折れた猫じゃらし。ネコの仕業であろうけれど、まだかすかに殺気の片鱗が残っている。猫じゃらしにとってみれば無情と言えようか。

 

《どこにも分類できないが、すごくて好き編》

山田りえ「すべてはここから始まった」

壮大なスケール。

 

永井桃子「祭りの日に」

祭りの神性と熱気がさく裂。

 

《あの作家さんがネコ描くとこうなるのね編》

諏訪敦「Campanilla」 良き相棒。留学中のスペインで二年間ともに暮らし、連れ帰った猫。

 

岩田壮平「黒き猫と蜂」

いつも鮮烈な彩色が印象深い岩田さんだけど、こちらは黒猫に内から少し色が放たれている。ネコと蜂は双方別方向を向きつつ、不穏な緊張感。

 

こうしてピックアップしてみると、クセのある猫が多いような。筆者の性格がでるのかしらね。

70点中マイペース猫が多めなのも、これが猫好きの特徴かもしれません。

イヌ絵だったら、応挙や芳中、芦雪のイヌみたいにころんころんのかわいいのが多くなるのかもしれない。

 

新進の作家さんを応援する佐藤美術館。統一テーマで描いてもらう企画、作家さんらしい作風だったり、意外性もあったり。知らなかった作家さんに出会えるのも、先入観なしで見ることができて、とてもうれしい。次回を期待しております。

 


●「子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。」芸大美術館

2017-11-21 | Art

藝大美術館へ「皇室の彩」展を見に行きましたら、外まで連なる長蛇の列。

藝大美術館で混雑とは何かの間違い?と、《ここから20分》のプラカードをもつ方に聞いてみたら、先週からこうなんですよとのこと。

甘く見ていたッ。

展示室内も混雑で、上階から先に見ようかなと3階に上がったら、別の展覧会でした。(皇室展は地下だけでした。)

でもチラ見のつもりの3階の展覧会に、すっかりはまってしまったのです。以下備忘録です。

東京藝術大学130周年記念事業
全国美術・教育リサーチプロジェクト- 文化芸術基盤の拡大を目指して-
「子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。パブロ・ピカソ」

2017年11月17日(金)- 12月3日(日)

 *

藝大の130 周年記念事業として、幼児期からつながる美術教育を問う、という主旨らしい。

入口には、藝大教授でもある日比野克彦さんとOJUNさんの、子供時代と現在の作品が並び展示されている。

 

日比野克彦さん 左側:「バラ」10歳 右側:「26 Aug, 016 in Brasil]Aug」2016

どちらが大人か子供かわからない。子供のころからそのまま保ち続けている、強さ、新鮮さ。日比野さんてすごい。

「どちらの絵も絵を描いた時のことはよく覚えている。(略)その二つの絵の間には、紙が一枚くらいしか入らないほどの隙間しかないのに。絵の外の時間と、絵の中の時間と、二つの時間が私にはあるような気がする。」

10歳も今も、画業として乖離してない!ほんの昨日のように密に続いている。いや、子供に負けないパワーを、画業を通して増している。

 

OJUNさん 左側:「夜の新宿」10歳  右側:「雪景」57歳

 

子供の時からうまいし、色彩感覚が豊かなんですねぇ。Ojunさんは、絵画教室帰りの西武新宿線のホームから見た歌舞伎町の景色を、「紙の上をキックするように描くのが楽しかった。それは今も同じ」と。

「雪景」は2011年3月から描き始めた。途中でやめたりしながら、人手に渡ってからもその方のお宅に頼み込んで上がり込み、2013年まで描き継いだとのこと。「こんな描き方をしたのは後にも先にもない」と。

何が描き足りなくて、何を埋めようと、あの2011年の3月から描き続けたのだろう。生きていること、次の瞬間にすべてが変わってしまうこと。そのはざまかもしれない今の瞬間に、自分がしていること、ただ描くこと。無心で無欲なタッチのように見える。

子供のころ「キックするように描くのが楽しかった」と言っていた。それは「今も同じ」と。そのタッチだ。その原点というべき自己が、2011年から一度はやめた画行を救ったんだろうか。

 

子供のころの絵の持つ意味の大きさに最初っから打たれてしまう。

 

さて中に入ると、幼稚園から、小、中、高、支援学校やろう学校の児童・生徒から、芸大の現役生・卒業生の作品が、等しく展示されている。

とりわけ心を動かされたのは、子供の作品。見ていて、とてもうれしくなった。

絵が強い。

「皆に感動を与えたいです」という抱負をなにかとよく聞くけれども、そんなことも考えてない作品に、これほどの感動や元気をもらっている。

(1枚を除き写真可。学校名と名前も表示されているけれど、ここでは題と学年だけ載せます)

 

「宇宙人」 幼稚園年中 4歳

おおこれほどの絵を大人になって破綻なく描けるだろうか。幼稚園の頃にかけたことが描けなくなる。保ち続けるむずかしさ。

 

「ヤンティとバナナ」幼稚園年長 6歳  図画の教科書にも採用されている。

「ぞうのヤンティがだいすきなバナナをいっぱいもらってよろこんでいて、わたしもうれしいきもちでかきました。ぞうがうれしそうなきもちになるように、いろをまぜながらぬりました」

私もうれしいきもちになりました。

 

「エティエン100%」 小学3年 今の自分を出し切ろうという思いで描いたので、100%というタイトルになったそう。

その時の身体を巡った軌跡。尊いとすら思うこのひたすらな行為。コレを、後に展示されている大人の画家たちの絵にも感じ取れたことに、改めて感動。

 

すばらしい絵巻も。今年は国宝も含め素晴らしい絵巻をたくさん見たけれども、これがダントツ。

「魚宴」山梨県立ろう学校中等部 小学二年(表示はこうなっていたけれど、検索すると11歳の時に描いたという記事があった)

池大雅も浦上玉堂も裸足で逃げ出す、いや、すぐにお友達になっちゃいそうな、このパワー。墨の線も、ふっくら力強く、もたもたしていなくて本当に気持ちがいい。

 

素晴らしい。なんといっても顔がいい~。

魚やイカタコたちの皮膚の表面を、長短、濃淡、多彩なタッチで描き分けている。

細密にして大胆。お魚たちやイカ足の動きや、身体のひねりがまた良くて

ナポレオンフィッシュに殴られているヤツがいる

子供なのに、この酔っ払いの境地を具象化するとは、タダモノではない。

チンアナゴがいる~

ああ楽しい。いいものを見せていただいた。

この子は今も絵を描いているだろうか。続編が見たいし、他の作品も見せてほしい。ファン一号のお願いです。

 

子供の絵だからって、天真爛漫・元気いっぱいに描いてるだけじゃありません。

黒い感情だって表現する。

「不快感」 中学3年

うわっものすごく伝わる。しかもざわつきが一度でなく、波のように多重に寄せてくる。それを何度も浴びた最後の一撃が、この爪に。

 

微妙なシュールさもね。(ポスターコンクールの受賞作。中学3年)

 

貯金箱コンクールの作も楽しいものぞろい。

「しあわせこいコイちょ金ばこ」

 

おやこトキかわいい~

 

造形も

「翼」中学1年

 

高校生の作品になると、感受性の繊細さ、鋭さに、こちらの心がどきりと振動する。

不意に突きつけられる、社会の不都合さ。ちゃんと見ているのだ。

「カーブミラー」

 

「除染」

 

いいないいなと見ていたら、最後に自分自身に問われて、うろたえる始末。

藝大の在校生、卒業生の作品で特に印象的だったもの。

上田智之「なんでもない研究」

「ものは、見ればみるほど味わいがあります。でも最後は見ないでかければ、一番いい。そうやって描いたものには愛を持ちます。」

 

佐野圭亮「夜の訪れ」

 

安田拓也「晩夏」

 

「生命の連鎖」盛田亜矢

万物と人と境界すらない。毛細血管でつながっている。

 

 油画教授の坂田哲也さんの「花の洗礼」は、子供の作品に混じって展示されていた(部分)。横にはご自身の10歳の作も(撮影不可)あったのだけど、よく似た印象。三つ子の魂100までも、というか、興味関心、感性って、つながっているのですよね。

 

中園孔ニ「無題」2015

 

宮崎瑞土「丹花」

「棘棘」

 

小柳景義「巨岩」

見る者の目線を起点に、下部は見下ろすように、上部は見上げる視線で描かれている。

細部を凝視するには虫メガネが必要・・。牛、ヤギ、滝・・

 このひたすらな行為に打たれる。子供に負けない。無垢というと子供を美化しすぎかもしれないけれど、なんと言おうか、要領の良さはない。人はこれを無駄という。 

 

山田彩加「命の森」

技術の高さはもちろんだけれど、見る者としては、その描く世界に完成を求めているわけではないのだ。

未だ熟さない内面性に惹かれるときがある。

 

「孤月への誘い」(部分)

 

向井大祐 勝川春章の現状模写及び装こう 

 

山口晃「来迎図」

「自明なことは見えづらいので、過去の形式を使うことで位相として何とかあぶりだせればという狙いです。などという理屈を考えながら、平置きにして墨を垂らすところから始め、あとは筆が転がるに任せるわけです」

 

すばらしい画家っていっても、幼少期のなにかから切り離されるわけではなく、連綿とつながっている。

大人の画家たちの絵は、子供の絵と変わらないのかも。結局は同じことを書こうとしている。

表現したいこと、率直な感情や心の奥深くに潜むものを、なんとか表現しようと、自分の手や体を動かし続ける。

問題は、タイトルにあるように、「大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」。

その意味では、ここに展示されている芸大の画家たちは、大人になっても芸術家でいる人たちなんでしょう。

子供のような、子供に負けない、無我さや無防備さを感じる絵が多かった。絵の好きな子供がその後も磨滅することなく描き続け、ふだんは眠っていても何かの時には飛び出してきてパワーになるのかもしれない。

日々葛藤して苦心しているかもしれないけれど。

 

藝大に行くような才能の持ち主じゃなくても、展示の冒頭では、美術教育の役割を、《価値観が多様化する現代に於いて、「自分を生き生きと表現する」若者を育成し、「生きる力を喚起し創造力ある」社会をつくるため》と言っている。

子供たちの絵は、自分を表現したよ、描ききったよっていう喜びを感じ取れたし、それを見て私も心動かされたのでした。


●ソピアップ・ピッチ展 六本木TOMIO KOYAMA GALLERY /渋谷ヒカリエ

2017-11-19 | Art

ソピアップ・ピッチ「desire line」

小山登美夫ギャラリー 2017年10月28日 - 11月25日

・渋谷ヒカリエ8F 2017年10月27日‐ 11月20日

 

ソピアップ・ピッチ展、渋谷と六本木の二つのギャラリーで同時開催されています。(写真可) とてもよかったので、別の日に両方行ってきました。以下備忘録です。

ソピアップさんは、1971年生まれのカンボジア人。

ポルポト政権下の惨禍から逃れ、8才から5年間をタイ国境の難民キャンプで暮らす。そこでNGOが運営するアートスクールに通いペインティングに興味を持つ。

13歳の時に一家でアメリカ移住、マサチューセッツ大で医学を学ぶが、その後ファインアート専攻に転部。シカゴ美術館付属美術大学ペインティング専攻を修了。

2002年にカンボジアに帰国、農村で暮らす。2004年から立体作品を手掛ける。

 

カンボジアそのものを具象した作品ではないと思う。社会的なメッセージを直接的に伝えてくる感じでもない。

でも、形状や素材の有機性というか、その根底にながれるものはどこかアジア的な安らぎ。無自覚に重なり、自然に受容できる感覚。

竹やラタン、麻布、蜜蝋といった、素材自体への親しみもあるかもしれない。金属やプラスティック素材の現代アートとは違う、ねばつきや騒がしさがない。

 

「すべての作品にテーマがある。貧しさ、内と外との関係性、はかなさと堂々とした大きさの関係性、軽さへの感覚、相互依存の比喩である」

 

「炎」

竹を割いて、ワイヤーで組んでいる。蓮の花、古い遺跡の残影、平等院の浄土のような雲中供養塔菩薩、寺院にともるろうそくの炎、そういう韻律を奏でるような形状。 

ただ、今こうして写真で全体を見ると、もしやこれは戦火だろうか?と不安になっている。

近くで見ていたときは、竹という素材を手仕事にかけた、とつとつとした長い時間を感じること自体が、安らぎのように思っていた。

「彫刻を作るために、刃を立ててラタンや竹を薄く切ったり、ワイヤーを結んだりすることは、とても瞑想的なことだ」

渋谷では、4m以上あったか、大きな花が咲いていた。

花の生命エネルギーが自由に伸び行くのを感じつつも、どこか悲しい感じがする。仏教的な無常感というか、右から左への風に吹かれているせいか。

冒頭の彼の言葉の中から取り出すならば、「はかなさと堂々とした大きさの関係性」をあてはめていいんだろうか。

それにしても竹の曲線の美しさ。線の先が分断されることなく、血管のようにどこかに戻っていくのがいいなあと思う。

つなぎ目も丁寧に、途切れることがない。

 

素材とのやりとりの楽しさを感じる作もある。

魚のやなを思い出した(ごんぎつねで、よひょうがウナギを取ろうと川に仕掛けたやつ)作品(左側)。

「私にとってアートは遊びであり、物事を試してみることだからだ」

自然のなかから持ってきた、異なる素材。自然というとおおげさだけれど、おそらくは彼の住まいのほど近い所にある林や川。身近な、普通過ぎる存在のもの。

古木の先端には、竹を進ませ、曲線を描いて、また古木に戻っていく。なんか広がるぞ。偶然の産物なのか、素材とのふれあいの先に必然的に生まれたものなのか。どちらにしても、過程も結果も楽しそう。

 

ちなみに、タイトルの表示は作品ごとにはついていなくて、受付のファイルに記載があっただけなので、気づかずに好きに見ていた。

とんちんかんな読み取りだったら恥ずかしい。でも、勝手にいろいろな想像に身をゆだね、たいそう楽しい時間を過ごすとができて、良かったかもしれない。(ちなみに上の魚のやなのようなのは「Miroiise」! 右側は「 The Moonstone」!。ひゃー・・・。

 

生活、現実を感じる作品もある。竹の枠組みに、蜜蝋を塗りこめてある。

民家のような。

茶けた色に、カンボジアの農村で見たみずみずしい感覚が一体となって重なる。(↓旅行中に撮った写真)

 

でも「Crater」というタイトル。これがただの穴でなく、「爆弾であいた穴」という意味のクレーターであったら。思わず愕然とする。

一方で、障子やすだれのような、幾何学的に連続する日常感。

点在する少しの赤や青の色は、内の中の生活用具でもあり、すだれ越しに見える外の花や緑であり。

この壁は、家の内と外を分断しておらず、すだれ越しの風や視界のように、室内と戸外が互いに通り抜ける余白がある。

「内と外との関係性」ってこういうこと?

 

もう一点は、夜かな。

よ~~く見ると、青みがかかっている。

月夜の闇の色のような。少し緑ががっている青でもあり、高島野十郎が描き続けた、月光の周りの色のようでもある。

町屋の引き戸のような。人々の暮らしと月を同時に見るような。

そうすると伝統的な日本の建物や暮らしと違和感がない。彼は、柳宗悦による工芸の精神、民芸運動の影響も受けているという。

 

これは、発展目覚ましい都会のような?。忙しそう。

(後でタイトルを見たら、「樹木園」だった~。全然都会じゃないし(恥))

 

ペインティングのシリーズは、とりわけ好きな作品。いつまでもずっと見えていたくなる。

すだれ越しに見る、外の光のうつりかわりのような印象。

朝方、昼さがり、夕方ごろと、ゆっくりとしたなんともいえない時間の経過。

光があたる波のしじまのようにもみえてくる。

こんなに美しいものがあるんだなあ。

志村ふくみさんを思い出した。自然から採ったなんともいえない色。

 

渋谷のほうにも二枚。上の六本木の三点とは少し趣が違う。

真昼の白昼夢のような。

 

これは光ではないような、重さ。これはタイトルは「地層1」。うん、なるほど。

 

これらのペインティングは、竹を並べて版画のようにしたのかと思ったら、細い竹に塗料に浸して、一回一回押し当てている。

 

こちら(youtube)で、その制作風景が紹介されている(英語)。

彼のバックボーン、アメリカ時代、スカルプチュアへの転向。医学を学んだことを感じ取れる作品も紹介されている。

そして現在の彼のカンボジアのアトリエでの彼とスタッフさんたちの作業風景。

林から竹を切り出し、蜜蝋と炭を似て塗料を作り、竹を細く割く 。手仕事の安らぎ。彼とスタッフさんのその光景自体が、こころ休まる感じ。素材の使い古しの麻袋は、素材に残る文字跡や破れが、とても大事だという。

「私の作品は、人々にゆっくりしたペースをもたらし、時間や労働に価値を与え、自由や可能性の感覚を与えるだろう。」

自然光の入る工房。

さまざまなことを経てきた彼の、目の端に穏やかな微笑みを保ちながら語る表情自体に、安らぎを感じる。作品に通じる魅力そのもの。

 六本木と渋谷の喧騒の奥で、音のない幸せな時間を過ごしました。


●永青文庫と関口芭蕉庵

2017-11-15 | Art

スマホから日記です。

永青文庫

野間記念館

松岡美術館

というお休みのある日。

関口芭蕉庵の芭蕉の様子を見に。定点観測のようになってきた(以前の日記)。

少し枯れてきたけど、周りの木が葉を落としたので、見えやすくなった。



芭蕉は、葉の破れもいい感じなのよね


Heart of bananaとマレーシア人におしえてもらった花も、夏と同じ位置にそのままにまだついている。


幹はか細くなったけれど、がんばっている

横から新芽が出てくるというのはいつ頃なのかな。

















リフレッシュ^^

それから永青文庫へ

一休みしたく、絵を見る前からカフェへ直行してしまう。
熊本城総合事務所から先週届いたという、「肥後菊」という菊がありましたよ


ひとえの奥ゆかしい菊。
段々に並べて鑑賞するのだと、カフェのスタッフさんがおっしゃっていました。

ひと花ひと花、とてもきれい!
名前がついている

乙女の舞


初雪


紅葉狩


稔の秋


窓からの自然光が、ここをこんなに居心地良くしているのでしょうね

100円でお菓子とセルフ飲み物というのもなんてステキな。

お楽しみの熊本銘菓「加勢以多」

楚々としたお菓子、大好きです^^

リフレッシュ^^

永青文庫の壁に映る影も、楽しみのひとつ


毎回、違う文様




さて、絵の記録を、というところで、電車がつきましたので次回に。


●日展 2017年

2017-11-11 | Art

国立新美術館で日展を見てきました。

改組 新第4回日本美術展覧会  2017 11 3 -12 10 日 /国立新美術館



神谷町から、泉屋博古館の明清絵画⇒ 小山登美夫ギャラリーのソピアップ展⇒ 新美術館と、六本木を歩き通したので、ヘトヘト。頭もいっぱいいっぱいゆえ、日本画だけ見ました。

今年は同階で安藤忠雄展が開催されており、少し手狭。日本画は、会場が二つの階、しかも三か所に分かれ、展示壁も幾何学的な迷路みたい。全部は見れませんでしたが、以下、印象に残ったものの記録です。

***

今までの日展、日春展で見てお気に入りし、今年も楽しみにしていた画から。(撮影は、平日のみ記名して申請すれば可)


加藤晋さんワールドは真っ先に探しましたよ。今年もいろんなものが、こっそりといる

「こちらの向こう側」 

お嫁入りの行列には、正体をあらわしちゃったキツネがいる。狐の嫁入りのシーンは何人もの画家が描いているけれど、こういうのもフフフ。

木には、七福神が。

スケール大きすぎに山に擬態したキツネが寝そべっている。別のところでは龍も寝ていましたよ。

男女とつばめがいるのは、「おやゆび姫」のお話?。おやキリスト様?もなにげにいる。大きな木の幹にもなにか仕込まれてる気がする。

わくわく。

その上に、この絵に魅せられてしまうのは、田や森、山の奥行き。ずうと見通すと、思い出の幻影のようななんともいえない、青く緑の色。

木から向こうは、「向こう側」の世界。はるか記憶の奥まで遠く、入っていく。

木の幹にこっそり、「こちら」を見ている小鬼がいる。目が合って、向こう側とこちらの私がつながる瞬間。

 

 

諏訪智美「聲」(こえ?セイ?読み方がわからない) 今年も魚の世界が好きな作品。

魚群は一方向へ向かい、一斉に散るような印象。でも別の方向へのベクトルもあり、いくつかの魚群が交錯しているのだ。もちろん、一人で好きに進む魚もいるし、さらにその下には岩陰にもかくれているのがいる。魚の動きに、川の肥沃な水は濁りをみせ、そこへ微妙な光も入っている。石が玉石のように揺らめく。

細密で安定した筆致も美しいなあ。やはり丁寧に描かれた日本画って素晴らしいなあと思う。

 

池内璋美「縁陰」 日春展では金地に和風の犬がかわいらしかったけれど、おお、こんどは日本ザルの母子では


母猿の両手の間に安全圏を確保した子猿がかわいいなあ。お母さんの微妙な表情。この毛並み!森狙仙越え。

動物の親子ってかわいいなあ。そうだ、池内さんにこそ、いまのうちに上野のパンダ親子を描いて欲しい。シャンシャンが雑に背中にメジャー当てられて身長測定されてるの、もうすぐ見られなくなっちゃうものね。



藤島大千「VITAE」

VITAEとは??。イタリア語かラテン語で「女性」の複数形のよう。生、生命、存続、といった意味もあるよう。


実は日展を見ても、現代人物画では、あまり好きな作品がない。今風なお洋服を着た現代社会の化身のような女性だったり、たまにエロティックなのもある。彼女たちは、「人間」なのだ。でも私はおばはんなので、普遍的な域の人物画にひかれる。日常の中の女性でも別格の上村松園や、仏性をまとったような女性や、安田靫彦や高山辰雄みたいなオーラを放つ女性が好き。たとえ「人間」でも、小径、土牛、片岡球子、小倉遊亀などで好きな作品が止まってる。

そんな私でも、この方の女性には毎年足が止まる。モデルは現代の人間なのに、神秘的で普遍的な感じ。東洋なのか西洋なのかも超越している。そしてシャープ。

今年の女性は、なにか魔術的な妖しさ。

スカートにうごめくもの。モチーフはギリシャ風でもある。赤黒くそして金に輝く背景にも、ナニカイル。カエル、胎児?、トカゲ?、そして異形のもの。この女性の手下?。

妖しくも神秘的なこの手、足、この肌。こんなゴージャスな犬も、まるでシモベ。その手はなにか印を踏む指に呼応するよう。

官能的ですらある足。

でも下品にならない美しさ。神殿の奥に迷い込んだら、そこはこの女性の王国。もう戻れない。この犬たちみたいに、超越した女性にかしずく極上の幸せ…ってあるかしら。そういうのもいいと思う。

 

土屋禮一「雄飛」

見上げた水と空がまじり合って、光もにじんでいる。塗り重ねられているのに、奥へ透けるような深み。アシカの単純な構成なのに、こんなに素晴らしく描けるんだなあ。

 

米谷清和「朝の陽ざしと」

なにげない日常を独特にトリミングする。黒、白、青の分量比がすごい。黄金比率のよう。黒の動きに流されるように、青に目が行く。時間とともにこれから、その青が占める比率は増えていくのでしょう。11/15~23まで多摩美大美術館で米谷清和展が開催される。

 

鍵谷節子「葡萄の丘」 葡萄の色が素敵で、幸せな気持ちになる。

 

***

今年初めて印象に残った方の作品

服部泰一「机上のスクランブル交差点」 特選受賞作

?。特選?。?。と最初思ってしまったが、よく見るととても面白かった。

スクランブル交差点上の人も車も模型パーツ。着色され忘れたニンゲンもいるし、袋から出してさらに投入しようとさえしている。

最初に「??」と思った素人っぽい並木や車の彩色も、模型パーツに着色したものだからなんだと気づく。

洛中洛外図や日本の絵巻並みの小さくて大勢の人物は、たしかに日本由来のものなのかもしれない。でも、全く違う。

現実か虚構なのか、揺らぐのは、現代の諸相そのものかも。

ふっと、私って模型パーツだったっけ?と自らに確かめてみたり。

でも、渋谷のスクランブル交差点を通ると、本当に人間がおもちゃみたいに見えてくるよね。

服部さんは、1969年愛知県生まれ、小学校に入る頃滋賀県彦根市へ移り住み高校卒業までを過ごす。名古屋芸術大学美術学部で日本画を学び在学中、日春展に初入選。1991年に同校を卒業し上京。現在日展会友。 (こちらから)

来年も楽しみにしていよう。

 

星野宏喜「大地を師とし、天に拳を」 

今年は東博でいくつか牛の屏風をみて重量感に押されてしまったけれど、こいつみたいに野心をたぎらせたヤツはいなかった。目が赤くぎらつく。

 

諏訪千晴「アンペールの象」

日本画でもこんなにきれいに光を通すのだなあ。吉田博を思い出したり。旅先をへんに聖地化していなくて、とても素直な印象の色遣いが好きだなあ。

 

吉田千恵「予感」

雪が舞う中、目の端に見える少しの白木蓮が、遠い春の訪れをアナウンスしている。

 

西野千恵子「流転」

全体としても圧倒されるけれども、細部にも驚いた。幹は爬虫類のうろこのような、蝶の斑紋のような。

 

木田雅之「樹」 やっぱり木の絵が好きらしい私。

 

山本隆「東海道 滋賀・追分」 線描のみで車なども書き入れられている。松本峻介を思い出したり。

 

山崎隆夫「雲映ゆる」 色がきれいで、どこを見ても吸い込まれそう。水中、水面、水上、空、境界もあいまいに、重なっている。

全体的に青色が美しいのに、細部もとてもきれい。光の粒子が溶け込んで様々な色で彩られているのだ。魚たちもカラフルにかわいい。

水面には落ち葉が浮かんで、空と雲が映る。この蓮、いいなあああ。

 

林和緒「刻を待つ」

来るぞ、来るぞ。その刻を慎重に息をつめて待つ。

 

一木恵理「下町慕情」 瓦屋根にのれんのうどん屋と、キッチュな洋風(にした)店舗が混在しているのが、下町の魅力。

たらしこみの瓦が美しく、カラフルなドット文様の洋壁も楽しく、細部も見どころ満載。あまり塗り重ねたり盛りあげたりしていなくて、地の色が見えそうなくらいなのも、好みかも。

勝手に二階に棚台作って植木鉢とか置いているけれど、落ちたらあぶないよ~とか私が移入してどうする。

 

藩星道「TOUKEI」 これも特選受賞作鶏の瞬時をとらえる、若冲の墨の鶏のような、動体視力。コンマ1秒の軌跡を線で描きだすのも、若冲のよう。

 

他にも心惹かれた絵がいくつもありましたが、きりがないのでこの辺で。

 

厚く描き込んだ作が多いのは日展の特徴かもしれませんが、今年は受賞作の傾向が少し特徴的だったように思いました。

浮遊する現代社会の諸相、掴みにくい現代の若者たちの間によぎる感覚。そういうものの断片を切り取った、現代の日本画。日展を続けて見初めてまだ三年ゆえ、知らないだけで、流れとしてはこの傾向なのかもしれません。線や余白の美しさや四季の情感といった古来の美しさを求めると、受賞作のいくつかには違和感を覚えるかもしれません。

日展は、むしろ若い人の感性を評価している。現代を生きる者による、現代を写した日本画。表現としても、古来にかかわらない、型にはまらないことを審査員の方たちは求めている。そんな感じがしました。

先日、東京近代美術館で、高山辰雄、東山魁夷、杉山寧の日展の1964年の出品作が、当時の配置を再現して展示されていましたが、それぞれ個性的。今の感覚では大御所ですが、あの三作もその当時の現代的な表現だったのでしょう。そして50年経ってもちっとも古びれず、普遍的に感動を与えている。今年の日展の出品作のいくつかも、50年後の人がみてるのかもしれない。

工芸も見たかったですが、もう一枚チケットがあるのでまた行けるといいかな。
 


●田村彰英「午後」より 東京近代美術館

2017-11-10 | Art

11月5日で終わってしまったけれど、東京近代美術館のコレクション展で、田村彰英さんの写真が展示されていた。

MOMATコレクション田村彰英「午後」シリーズ展示
8/15~11/5まで3F9室にて

 

この日の近代美術館は、東山魁夷の特集。「道」も展示されていた。

東山魁夷「道」1950

解説の要約:青森の種差牧場に取材して描いた。余計なものを省いて単純な構図にまとめることで、心象風景に高めている。魁夷は「遠くの空を少し明るくし、遠くの道がやや右上がりに画面の外に消えていくことによって、これから歩もうとする道という感じが強くなった」という。戦後の日本の再出発への希望が託された絵。

 

一度実物を見たいと思っていたのに、この日はこの絵にぴんと来ない。その日の気分によるし…とちょっと残念に思いながら、先へ進む。

 

それから写真ルームで、魁夷に似た構図の写真に出会った。

田村彰英「午後」より 1971

 

魁夷の道にはピンと来なかったのに、この「道」にはずんと引き付けられた。

おそらく、歩いている自分を感じる写真だったからなんだと思いあたる。私は、真夏の強い光にさらされた道の上にいる。足元にその実感がある。

写真の目線も、まさに私の目線と違わない。

その現実感。

いやでもなんでも、何にもないつまんない道でも、私が何者であっても、とにかくもうこの道を歩いている。

明確なモノクロの対比は、余情をさしはさむ余地もない。そこになにか特別なドラマなんてない。

道の上にいる自分。それ以上でも、それ以下でもない。

 

それだから、惹かれた。

なんだかね...最近現実どっぷりだからね...。

 

魁夷の道は、抒情的で、目線は人間の背丈より少し上のほうなので、人間の足で道の地面を踏んでいる感じがしない。だから今の私にピンと来なかったんでしょう。

解説にあったように、魁夷の道は、戦後の希望を「託した」絵なのだ。

託した、と、自分が歩いてる の違い。

総論 vs.各論 みたいかな

はるかな日本の希望、と、大きな考えはまた別にして毎日のことでただ歩く。の違い。

 

魁夷の道は、道のど真ん中に目線がある。その先は少し曲がっているけれども、足元を見ると、その重さ。歩いている目線でなく、道を見る目線。

田村彰英の道は、道は少し画面の右にふれ、しかも立っているのはその道の左寄り。重圧はない。向こうからは淡々と歩いてくる人もいる。ただそれだけのこと。そこにこそある、乾いたやすらぎ。

 

もしかしたら、魁夷の道に重荷を感じたのかも。希望っていう大きなもの、遠い遠い先まで続くこと。茫然とした不安。いまの私にはムリ・頭に入らない。

きっと魁夷はそんなつもりで描いてはいないのだろうけど。魁夷は、何の押し付けもなく、個人的な要望も排して、この道を描いているのだろうし。いつか魁夷の道が、じんわりと響く時もあるかもしれない。それまで、ごめんね。

 

ともかくも、田村さんの写真、なんというか、言葉に置き換えるのに窮するけれど、いいなあと思う。大げさなものもなく、声高に叫ぶなにかもない。

(解説)社会的な意味が重視された当時の写真界にあって、風景に対し、半ば抽象的にその感覚のみをとらえようとする手法は田村独特のもの」と。

今私が感じるよりも、当時の重圧の中ではもっと安らいだかもしれない。

「午後」シリーズは、1971〜73年の美術手帖の中扉に掲載された、30点の写真を中心に構成された。

なにということもなく、よぎって、通り過ぎていく感覚。

 

米軍基地をイメージさせる写真もある。

べトナム戦争、70年安保の時代に撮られたのに、政治的、社会的な様相は感じられない。それは当時に批判の対象になったこともあったそう。

 

「71年にこの写真を撮り始めたころは、特にものが写っているというのが嫌だった。70年安保のシンドかった時代を通った後で、重いものと何もないものが交錯するあたりで撮っていた。」

イデオロギーや声高に叫ぶ時代にも、普通に、現実的にあるものを、無機質にカメラを通して平面におとす。

大きな矛盾。

でもそんなもの。武器にも基地にも、美しい風景はあってしまう。

 

現実感のなかに、軽いやすらぎ。乾いた包容力。

どうしてかなと、写真を見返してみて最後に思ったのは、田村さんの写真のなかに、大きな分量の空があるからかもしれない。

わざわざ見上げるのではないけど、広やかな空。無意識のさらにその基底を満たす感覚。

魁夷の「道」の絵との重荷感の差は、空の量もあったかもしれない。

 


●高山辰雄「穹」ほか~東京近代美術館でお月見

2017-11-04 | Art

日がたってしまったけど、10月も終わりの平日、東京近代美術館の常設の記録です。(11月5日までの展示)

チケット売り場が珍しく10人以上の行列。帰りには20人以上並んでいました。東山魁夷がまとまって展示されているからかな?

菱田春草「王昭君」1902 実物にやっと対面。横3.7m、こんなに大きな作だったとは。

正直者が損をする・・の見本みたいな場面なのに、すべてを飲み込んだ王昭君の表情。きよらかではかなげな白と薄い水色の透ける衣。

白い衣は下書きの後も見えた。

他の女官たちの顔が見もの。他人事な顔、私じゃなくてよかったって顔、一応悲しそうに装う顔。28歳の春草の人間観察。

女官たちの顔は白いのに、手指がさほど美しくない。顔ならお化粧でごまかせても、手はごまかせないってことをあらわしたのかな?。たまたまかな?

王昭君の手は見えない。顔では感情を表に出さなくても、衣に隠した手では泣いているかもしれない。

春草は新しい日本画を模索するも、朦朧体と非難を浴びる日々。岡倉天心は色彩を明快にするようにアドバイスし、春草はこの絵を描き上げた。

この翌年、春草は大観とインドやアメリカを周る。この後も色はさらに夢のように純化し、「落葉」や「黒猫」(白猫も)が生まれる。

 

加山又造「千羽鶴」1970

この普遍的で圧倒的な世界が、現代の絵だとは。加山又造は、鹿児島の出水で数銭の鶴が飛び立つのを目撃し、宗達の「鶴下絵」に着想を得た。

右隻から屏風とともに歩くと、水辺から鶴が一斉に月を超えて飛び立つ。水上を旋回し、やがて降下する。左隻には荒れ狂う波が一層激しさを増す。突如出現した岩。目の前の太陽。鶴はまた宙へ舞い上がる。私は呑まれるしかない。

もしこの絵を畳に置いたら、太陽は目下に見え、鳥たちの舞い上がる様子はさらに激しいでしょう。いっそうの抑揚感に違いない。くらっ。

近づくと、その質感の多様なこと。闇でさえ幾重にも塗り重ねられ、輝き、動きがある。月の表面はごつごつと岩石のよう。

波には切箔や砂子でしぶきがたっている。技法の見本帳のように様々な伝統的な細工を駆使している。これは加山又造ならではなのでしょう。

2001年の国立新美術館の回顧展では、又造が伝統的技法を再現しながらも、革新的なチャレンジャーであることに驚いた。

これも又造にとっての金銀の意味がとても伝わる作品。

「(略)その金銀色の持つ重さは、経過していく時間をさえ吸収してしまうのだ。」

「私は優しい静けさを求めて金銀を使用する。もしさわがしさを出し始め、深い重さを失ったら、私にとって金銀の意味はない。」

金銀が時間を超越した色であることに、深く納得。

加山又造では日本画ルームにも「天の川」1968(撮影不可)。琳派風の彩色の鮮やかな屏風。

 

 

梅原龍三郎「北京晴天」は先日も見たけれど、やっぱり好きだなあ。秋の空は高い。気持ちいい。

並びには松本俊介「黒い花」。解説の「都会の人の心理的な距離感」ってとてもよくわかるし、ちょっとしゅんとなりながら、やっぱり梅原の空を思い出す。

 

隣の部屋にお目当てのひとつ、野田九浦「辻説法」1907  布教に情熱を燃やす、雄々しき日蓮

ノーベル賞受賞のころのテレビで、大村智先生が、若いころに初めて勝った絵が野田九浦の「芭蕉」だと紹介されていて、その詫びた静かな芭蕉爺がとても良くて、ずっと気になっていた九浦。

でもこの作品は、全く違う印象。28歳、文展の二等を取った作。若く野心に満ちて、まだまだあの芭蕉爺のように詫びてはおれませぬね。日露戦後のナショナリズムの高揚と関係もあるのでは、と解説にある。

先日の高崎タワー美術館で見た紅児会のメンバーの若いころの作にも似ている。ちょうど時期も同じ。だれしも通る道なのかな。

 

小林古径「加賀鳶」1910 こちらも27歳の若いころだけれど、たいへんお気に入り。

加賀鳶は前田藩江戸屋敷のお抱え火消し。特異な衣装と威勢のよさで知られたそう。(ちょうど東博の常設に、江戸時代の素敵な火消し衣装が展示されている。)

炎がすごい!黒々とした煙がすごい!火の粉は街に降りかかり、火中でも屋根の上の鳶は退かない。闇に火炎で浮かび上がる、全体の微妙な照度。

古径は、平安時代の絵巻を研究し、日本の絵画史上にのこる火炎表現を目指した、と。「清姫」の業火といい、「火炎」に対する古径の執着。

細部にも見どころたっぷり。慌てふためき、画面の左下へと逃げ出す町人。逆に火消しは中央へ向かっていく。

建物は構造物としてまっすぐな線で冷静に描かれ、逃げる人間と対照的に、なすすべもない感じが増す。建物だって、走って逃げれれば逃げたいよね。

建物の縦横のライン、煙や人の同線のナナメのライン。それで一層絵中の回転速度が増しているような。

洋画の部屋

ココシュカの「アルマ・マーラーの肖像」は何度見てもやっぱり怖い。でもアルマも気の毒かもしれない。本来は、小悪魔的なかわいい女なのかもしれないのに。年下の男は自分に執着し、絶対的な存在として勝手に怖がられ。ココシュカはアルマにふられてどん底を見たけれど、やがて立ち直って大成する。なのにアルマは、こんなに冷たいオーラで永遠に描き残されてしまった。

 

それに比べ、ヤウレンスキー「救世主の顔」1921の、哀しくも優しい顔。人の痛みに寄り添いすぎて、ともに泣いてくれているよう。絵の持つ力ってすごいと思った一枚。

 

マックス・エルンスト「つかの間の静寂」

荒野の夜の、安らぎのような。一番星がでている。この木の額縁もお気に入り。

次の部屋にこの三人の月が並んでいる。

左から、高山辰雄「穹」1964、東山魁夷「冬華」1964、杉山寧「穹」。

ほぼ同世代の三人の同じ年に日展に出品された作品。当時もこの配置で展示されたのだそう。高山と寧はタイトルも同じ。「穹」とは、広く張った大地という意味だそう。

 

高山辰雄の月に照らされたこの道、この里。泣けてきそう。高山の他の絵でもこういう場所、大好きなのだ。

月の光が、森や道と交感しあっているように見える。

月が宇宙であるならば、地球上の万物もまた宇宙と一体である。地球上の生命体は、細胞レベルで月の満ち引きとともに、寄せたりひいたり。

月に照らされるものは、月と距離がない感じ。ともにある。

しゃがんで下から見てみた。自分もこの里山の中に入って、一緒に月の光を身体の中に受け入れられるかもと。

写真では明るくなってしまったけれど、下から見上げると、月の光の明るさが増して、月の光の粒子がしんしんと降り注いでくるような感じだったのだ。そして里の歓び。

この絵では月の光は、あいだの雲と、この里山周辺だけを照らしている。背景や他のところは暗い。彼らだけが月に向かって体を開き、交感しているからなんでしょう。

 

杉山寧と東山魁夷の月もそうなのかしら?と行ってみるけれども、二人の月には細胞レベルの交感みたいなものは感じられなかった。二人はそこではなくて、全く別の世界を描いているのでしょう。

 

この日は、「東山魁夷」の特集だった。「残照」「百夜光」「山かげ」「谷間」「暮潮」…など17点。近美が所蔵する東山魁夷作品を全て展示。他館への貸し出しが多いので、一堂に揃うのは珍しいことなのだそう。

幼稚園の子供たちが来ていて、先生が魁夷の絵の感想を聞いていた。女の子が少し考えて「しずかなかんじ」と答え、先生が「どうしてそう思うのかなあ」と突っ込む。女の子はまた少し考えてから、「木がたくさんあるところ」と。ふふ、ほんとだ。ちゃんと見て魁夷の絵から感じてるんだなあ。マナーもよい子たちだった(先生のかん高い声だけ響いていた(笑))。

 *

それから、この日は、「月」特集。月・つき・お月様。

子供のころ月の夜道を歩いていると、月がついてくるのがずっと不思議だった。どんなに歩いても月を引き離せない。どうしてなのか、何回も隣を歩く母に訪ねた記憶がある。実は今でも、月の出ている帰り道に、あ、月がついてきてると思っていたりする。

さて、どうでもいいことを思い出してしまったけど、日本画ルームの気になった月を以下に。

 

中村大三郎「三井寺」1939 観阿弥の能の、子を探し”物狂い”となり、中秋の名月の三井寺にたどり着いた女性。山種の「百萬」で森田曠平は、桜の花とともにこの母を描いていたけれど、こちらはかなげ。月夜の幻想のよう。手に持つ笠は月の影のよう。

母の顔の清らかで美しいこと。子を探しまわる悲しみの果ての母の顔は”物狂い”というよりも、忘我。見る私も、その哀しい母の姿に、自分の心を寄せてしまう。

 

ところが”物狂い”の状況にあっても、次に突然出現する、徳岡神泉(1896~1966)「狂女」1919は全く違う。うわっとおののく。フェイントだ、月なんか描かれていないのに。

この人に会うのは二回目。できれば直視したくない。もしゃもしゃの髪。汚れた、不気味に赤みのある手。この目。絵の表面がずいぶん痛んでいるけど、なんてリアルな。この女と後ろにうごめく闇にとりこまれそう。

「心を寄せる」なんて気になれないのは、他人事ではないから。神泉の狂女に、私の中にも潜んでないとはいえない可能性を見るからなんでしょう。精神の平衡が、向こう側への垣根を越えてしまうきっかけは、そう特別なことではなく、誰にでもありえる。神泉はこのころに鬱になっていた。

 

そして9年後。神泉の(名前を忘れてしまった)もう一点は、月夜の静かな晩だった。ほっ…。

ススキ、月光、葉は琳派のように戯れ。虫は気づかないくらいにそっと描かれている。微細な揺れにそっと振れる、神泉の繊細な美意識。

小さな生きものたち。細くてもしっかり立ってるススキ。葉の美しい弧。神泉の心が平安を取り戻したのでありますよう。

 

近藤弘明(1924~2015)「無限」1997

花の向こうの彼方に蓮が重なっている。浮遊する蝶。仏の世界、彼方の世界。のような。

一輪の花の咲く時間は、ほんの一瞬のことなんだけど、輪廻の輪の中で無限に続く。ような。

 

菱田春草「松に月」1906 

 「松葉を緻密に描くなど表現を工夫したのも成功した要因」と。この年に春草は五浦に移り住んだ。春草は他にも、この五浦海岸を月とともに静かに描いている。春草の足跡を感じられて、少し寂し気な月夜。

 

児玉希望「仏蘭西山水絵巻」1958

絵巻好き(のビギナー)としては面白い。南仏のようだけれど、温かい空気を水墨で描くとこうなるのね。

ヤシの木のところ、好きだなあ。

松に月は、日本と変わらないような。ちょっと空気が温んでいるかな。

 

写真ルームでは、田村彰英の「午後」シリーズが心に残ったのだけれど、次回に。

 


●高橋和子写真展 「大地のハーモニー」

2017-11-04 | Art

高橋和子写真展「大地のハーモニー」  富士フイルムフォトサロン 東京 

2017年10月27日(金)~2017年11月2日(木)

仕事を定年退職してから、旅行会社の撮影ツアーに参加するようになり、北海道の景色に魅せられてしまいました。
特に、冬の風景や、瞬時に形が変わる「氷・霧氷・樹氷・虹」に興味を持ち、テーマにしました。そして、昼間の景色より、朝・夕の時間帯を選び、微妙に変化する色彩に重点を置いて、色を探し回りました。
その美しい発色が永遠に記録に残るよう願いながら、フィルムにこだわって中判カメラ(6×4.5サイズ)でシャッターを押し続けました。
10年以上かけて捉えた、北海道の美しい四季をお楽しみください。高橋 和子


狩野元信展3回目に行った時にふと入ってみましたら、これはいいものを見ました。
風景でなくて、光景と言いたくなるような。
北海道はじめ各地の四季折々の、出来事。その時だけ。
いろいろな光が風景を輝かせる。


どれも美しいのですが、とりわけお気に入りを。(撮影可)

「閑寂の森」北海道 望岳台

牧谿の水墨のような。本当にあるんだ、見えるか見えないかのかすかな樹影。


風景を包む光がとても印象的な写真が続きます。
光を自分の手に当ててみたい。触れてみたい。と思う。

「天国という居場所」北海道阿寒町


光の降臨」北海道阿寒町



「冬珊湖」摩周湖

 

「銀色の斜里」北海道斜里町

夕方のあいまいな時間。私も一番好きな時間だ。夏に訪れた時のカモメの声が耳に響く。



生き物たちも光を浴びていました。

「春のワルツ」網走市

 

(タイトルを忘れてしまった)エゾ鹿おいしいんだよね。



北海道以外の光景でも、もううっとり。

「蒔絵のごとく」志賀高原

 

「朝の挨拶」新潟県津南市

土筆の子たちがそれに向かって伸び育つ。朝の光が気持ち良さそう。おはよう。

 

賛歌でした。

高橋和子さんは、雪でも寒くても森に分け入って、海岸で日没まで粘って、輝くたくさんのものを見つけてきたんだろう。たいへんなのかもしれない。でもいいなあ。私も知床の山や網走の海はまた是非行きたいと思うところの一つ。

今日はふと入ってみて、本当によかった。ありがとうございます。


ミッドタウンでは11月2日で終わってしまいましたが、新潟に巡回するようです。
12ドナルドキーンセンター柏崎 ロビー展  2017年11月15日(水)~11月29日(水)