はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●先日の東博常設2 野口幽谷・池大雅

2016-10-31 | Art

東博の常設にふらっと。 2016年の10月中旬のメモ続き

◆ショップ奥の18室は、この日は花鳥画ルーム。(迎賓館の下絵(渡辺省亭・荒木寛畝)は別日記)

省亭、寛畝もそうだけど、花鳥といっても華やかなばかりではない。もの寂しかったり厳しかったりする美しさ。

野口幽谷182798 「菊花激潭」1886(明治18

幽谷は、皇居の杉戸絵など宮中の御用画家であり、清貧な人柄である、と。

岩にも意識がこもっている。

岩と対照的に、菊は細やかで生気あふれて。蕾やひらきかけた花の花びらの様子なんか、17世紀オランダ絵画のよう。

枯れ始めた葉もあり、がくまでしっかり写し取っている。岩場の厳しい環境に咲く菊は特別に瑞々しい。ここで咲いてみせた花の喜び。堂々と、気高さのある絵だった。

幽谷は、椿椿山の画塾に入門。生活が苦しく、母の生活を支えるため日中は製図の仕事、夜に書と画を学んだ。5年後、1854年27歳の時、師の椿山がなくなると、寺子屋を開きながら、独学で画を続ける。

 渡辺崋山に私淑したらしい。仕事に追われながら絵に打ち込み、一方で家族の生活の糧のためにも絵を描いたところも、二人は似ている。

 椿山は崋山の弟子。椿山が、崋山の三回忌から10年をかけて崋山の肖像画を完成させたのは、1853年。幽谷が椿山のもとにいた時期と数年は重なっている。幽谷が14歳頃にすでに崋山は命を絶っているけれど、椿山からどんな話を聞いたのだろう。崋山の肉筆の絵を借り受け、模写もしただろうか。幽谷が崋山の絵に感じたものは、どんなことだろう。
幽谷の絵の知的で、瑞々しく怜悧な印象は、崋山に似ていると思った。

明治維新以降、45歳頃には、海外(ウイーン博覧会?)にも出品し、宮中の障壁画も任された。ようやく生活も安定したのでは。名をなしてからも、落款に「幽谷生写」と修学中を意味する「生」の字を使い続け、「自分は未だ崋山先生や椿山先生を超える絵を描けていない。両先生以上の絵を描けるまで「生」の字をつけるのをやめる気はない」と。

幕末・明治の社会の変動に動じなかった人が、ここにも一人。

(その幽谷の弟子が松林桂月。谷文晁→渡辺崋山→椿椿山→野口幽谷→松林桂月、と好きな絵ばかりのこの系譜。)

 

花鳥以外では:

今尾景年18451924「松間朧月」1912 は、特に好きな作品。

描かれない月の明るさ。下からかがんで見上げると、神秘的な美しさだった。松の枝がかぶさってくるようで、自分が虫くらいに小さく感じて妙に心楽しい。

荒い線の美しさは、画家というだけでなく、心のある職人技のようにも感じた。日本橋高島屋で見た鶉も心に残っているけれど、これもいいなあ。

 

狩野芳崖(182288)の六曲二双の屏風、すばらしかったのに名前を忘れてしまった。どこだったかお寺の所蔵で、写真不可。1868年の作だった。

雪舟を彷彿とさせると解説に。岩が特に雪舟のよう。大きくいうと、対角線というかすり鉢構造というか、両端にそびえる山。人里へと続き、そこから海へ。よくある山水画だけれど、この屏風はとりわけ、帆柱の高い舟が入る入江の様子が素敵だった。

霞ような果てなき山並み。そこで積み荷を降ろす人。太古からの風景とひとの暮らしが同時に胸に広がる。いつもこういう境地でいられたら、仙人様のような心持ちで生涯を過ごせそう。

細部にズームすると、どこでもそこにまた見どころがある。梅の木の下には天秤をかつぐひとがいた。こういう小さな発見をいくつも提供してくれて、お得な絵といえるかも。

 

◆アイヌ民族の暮らしのコーナーは、今回の展示はとりわけ心に残った。船の模型が印象深い。

秦檍丸(はたあわきまろ)1800「蝦夷島奇観」,村上貞介「蝦夷生計図説」1823 は、二人の名を初めて知った。

それぞれ時期は違えど、鮭やとどの漁の様子、狐用のわな等、暮らしの様子を細かく記録している。あわきまろと村上貞介の関心は生活目線。現地で暮らしの中に入り、彼らの生活の工夫に、感心をもって見ていたのじゃないかな。松前藩家老の蠣崎波響がアイヌ民族の首長たちを衣装も色鮮やかに細やかな筆致に描いているのとは全然違う。アイヌの人々にとって、自分たちを見ては描く二人はどんな男だっただろう。

ふたりとも、アツシ織に使われる、樹皮を剥いで糸にするまでを順に描いていた。積年の謎が解けてうれしい。あんなに固い樹皮から柔らかな布へと、こうして織られるのですね。

 

鮭の靴 は心を打たれた。涙がでそうなくらい。本当にうまく作ってある。

鮭のひれの部分がそのまま残してあるけれど、雪道を滑らないようにということなのだろうか。深めのブーツ使用にしてある。誰かのふだんの暮らしの工夫や知恵に心からじーんときてしまう。

 

◆二階では、林十江の異彩にひかれる。「蝦蟇図」はガマの上下がちょっとよくわからなかったけれど、「鰻図」は記憶にすっと刻まれる。

鰻ってわりに移動が速いらしい。二匹が時間差でするりするり。

墨の線だけで描き出す。しかも瞬間。かすれがすてき。上の方の墨は、二匹が動いたことで泥が湧いた濁りでしょうか。

 

俵屋宗達の「竜樹菩薩図」のゆるさに、目がくぎづけ。

1602年に中国で出版された「仙仏奇踪」をさっそく取り入れたものだそう。この版本がたいへん楽しい。似たような絵を江戸時代のいろいろな絵師の絵に見た気がするので、これもネタ元なのでしょう。(仙仏奇踪は京都大学附属図書館HPで見られます。)

宗達の絵はこの仙仏奇踪から図柄をとってあるけれど、宗達らしい墨のふんわり感がとってもいい。ぽわんと僧の魂が抜け出たみたいな月が、またよくて。

 

「酔李白図」池大雅172376は、千鳥足の楽しい絵。

奥へ上へ連なる様子は若冲の伏見人形図みたい。先生を押す童子たちも楽しい顔をしている。眉毛もまるい形で、丸々と平和。池大雅の筆にはいつも見とれるけれど、自分も酔っていたんじゃないかと思うような線は特に何物にも代えがたい。計算や狙いを超えた線のようでいて、自在に強弱濃淡を操っていて。

 

◆絵巻物では、写真禁止だったけれど、14世紀の法然上人絵巻は興味深かった。讃岐に流された法然、塩飽で地頭の歓待を受ける。弘法大師ゆかりの善通寺などに参詣。赦免が決定する場面。この前後の場面の間に描かれた山は、都と讃岐の遠さを表したもの、と解説に。使者から赦免を告げられ、びっくりする顔。ひと事ながら、よかったねと思う。

狩野元信の「枇杷、レンコン、ザクロ、柿図」 も大仙院の所蔵。牧谿の花卉雜画巻に触発されたそう。ザクロが生々しくも、実直。

酒井抱一の「夏草秋草図」1821年 は、尾形光琳の風神雷神図のうらに描かれたもの。将軍家斉の父の依頼というのがさすがお殿様抱一。雷神のうらが夏草、風神のうらが秋草。隠れた百合。

大きな余白。金の葉脈。流れる金の迷いない線。はかなげな朝顔(私が描いたのはこれ)。雨にうたれる花や葉。

ちぎれ飛ぶ蔦、葛も飛ぶ。夜の風の強さ。ふじばかまも倒されている。

大きな空白そのものが、大気。風神雷神のまきおこした風と雨。抱一の余白は、例えば月の絵なら、月の光が萩やすすきと遊んでいるその波長のように感じてくる。大きな銀の空間は風であり雨であり。光琳の風神雷神のその下で、地上の草や花たちはこんなにたいへんなことになっているとは。思えば、抱一自身が描いた風神雷神図は、風神雷神以上に彼らがまきおこしたものが印象的だった。

 

宮川長春「紫式部」は、秋の夜長にぴったりの好きな絵。

紅葉の赤がほんのり。水面に月が映って、書き物をしながら月も愛でられるなんて。霞む山の中の空気に、内も外も包まれている。今の高断熱型密閉住宅もいこういう空間もいいなあ。式部の着物に散る花びらが美しかった。


宮川長春「乗鶴美人図」もかわいらしい。

鶴は重くて大変だろうけれど、しっかりカーブを描いて方向転換。すごいバランス力の美人。しかも眼はしっかり本をとらえている。この状態での集中、すごい。対角線のベクトルが面白い。

 

喜多川歌麿「手をふく美人図」、極めて美しい遊女。

しっかり手をぬぐい、覚めた目線。終わったことはきれいに流しふき取る。肢体のなだらかな線。白い着物に、少しの赤と黒髪。最後に少しべっこう色を挿す。歌麿の色って印象的。

「微笑」 菱田春草189723歳の作。釈迦が蓮の花をひねった時に、弟子の大迦葉だけがその意味を理解し微笑して応じた。以心伝心の逸話。線描主体の伝統的な技法で厳かな場面を描いていると、解説に。

春草の若さを感じるような。線がゆるゆるしているのは狙ったのかな。山下先生は春草の線はあまりうまくないって言っていたけれど、本当に丁寧に慎重に描かれている。この大場面を描く、自他の期待に応えようとしたものかもとふと思った。

今回もいい作品がたくさん、楽しい時間でした。


●先日の東博常設1 渡辺省亭

2016-10-27 | Art

先日の東博、本館の常設へ。

中でも、「赤坂離宮花鳥図画帖」というシリーズにはまりこみ、渡辺省亭に惚れこんだ。

四谷の迎賓館の壁に飾られている、七宝焼き30枚の下絵。

1909(明治42)、東宮御所として建設された迎賓館。花鳥の間(大食堂)の壁を飾る花鳥画は、荒木寛畝(1831~1915)と渡辺省亭(1852~1918)下絵が発注される。実際には渡辺省亭のものが選ばれ、涛川惣助(!)が七宝に作り上げた。

荒木寛畝も渡辺省亭も、洋風表現を学んだ日本画家。省亭も涛川惣助も、当時からリアルタイムで海外で人気が高かったらしいから、賓客のおもてなしに最適タッグといえましょう。

ベルサイユ宮殿みたいなあの建物にこの花鳥画たちが、と思うと、明治が生んだ産物にうっとり。

迎賓館 花鳥の間(内閣府のHPより  http://www8.cao.go.jp/geihinkan/akasaka/photo.html 公開日の日程もでています)

 

下絵は、額のかたちの卵型。鉛筆のあとも見えました。

荒木寛畝のものも選にはもれたけれど、こちらもすごい。                                                                     

荒木寛畝「蝦・鰈(えびかれい)」 緻密。口を上に開けたカレイといい、イセエビと言い、生々しい。もうすでに食材になっている感。生きてはいないのが伝わるのに、迫力。

「雉」も「秋草に鶉」も精緻。鳥の目の、なんというか日本刀のようなキレ。尊厳をみなぎらせている。

産毛のふんわりしたところも、長い尾も、眼を見張る写実ぶり。

寛畝の鳥に対する畏敬の念の凄み。

「鵞鳥」では、喉から胸へのラインがくなりくなりと。こういう野生の美に日々触れていたら、こんなに取りつかれたような絵になるのかな。

首から胸の張った肉感。二羽のこの様子は、”強い男にかわいい女”といったキャスティングかな。

 

寛畝では、同室に掛け軸も展示されていた。

 「芦辺游鴨」1912(大正元年)


寛畝は花鳥一筋。時代が西洋化にさらされても、かたくなに貫いたらしい。

でもしっかり西洋画のいい所どりをしているみたいでもある。西洋の水辺風景のようなふんわり感。水墨タッチだけれど、すすきのふんわりとした奥行き。枯葉で守られた鴨ファミリーの安心感。

一方、水紋は応挙を思い出したり。

それにしてもこの鴨も細部まですごい。鳥に肉薄するまなざし。 鳥に人格すら感じたほどでした。

 

そして同じサイズの渡辺省亭の下絵へ。寛畝とモチーフは似ていても、全く違う。見ていくほどに、どんどん引き込まれる。

寛畝に同じく緻密。でも比べると、構図のバランスが絶妙。改めて、寛畝は鳥の独壇場だったと思う。

対して省亭は、鳥とまわりの全体からなる情感が伝わってくるような。

「水鶏(くいな)」は、まるでデュ―ラーのデッサンのような緻密さ。でも萩は月に透けて物寂しさが。くいなのたたずみ方にも、少し曲げた目線にも、孤独な気持ちになる。構図とかよくわからないけれど、きっと、月と萩と水鶏の配置と分量のバランスが、究極なんだろな。

「烏瓜に鶫(からすうりにつぐみ)」は、動きがライブで見える感じ。

からすうりも鳥も丸っこく、そこから三方につんつん出たくちばしのリズムが楽し。卵型の画面に、すくうようなおしゃもじ型の枝。なんだかおしゃれで心地よい。気づけば枝先もつんつん。

どれも構成のはめ込み方、配置の仕方が、きっと絶妙。

 しかも一瞬の緊迫感。

「山蔦に啄木鳥(やまつたにきつつき)」は、こちらは後ろから見ているのだけれど、逆にこちらに視点を定めた鳥の目。たじろいでしまったじゃないですか。凝集した緊迫感。

 

省亭の世界は、花鳥を描きつつも、全く甘く優美な世界じゃない。線もストイック。柴田是真に傾倒していたというのもわかるような。リアリスティック。

「夾竹桃につばめ」は、色鮮やかな花びらの端は茶色びていた。

温室栽培の商品みたいに傷つかないで終わる花はないのかも。鳥はほんのり体温感じるけれど。

それにしても、華やかな迎賓館に省亭のこのまなざし。東宮御所の人々や海外からの賓客は、かえって記憶に刻まれたでしょう。

 

「黄蜀葵に四十雀(とろろあおいにしじゅうから)」に至ると、枯れることも堂々としたものだと思えてきた。

葉先は変色し欠け落ち、花も端から痛みはじめ。でもなんの遜色もない。花や葉の必定であり、生命のひとつの時期であるだけ。ぼろぼろの一枚の葉を改めて直視してみると、無常感と強さが同居したような世界。

四十雀はなにかを警戒して、影に隠れているのかな。画面を斜めに交錯するラインが何本も走っているような動きのある世界でした。

 

「杜若に小鳥」は、うって変わって停止した感。

こちらの存在に気付いて、固まったのかな。眼のきらめきが焦点をなしつつ、杜若の色合いが美しいなあ。

先ほどのトロロアオイの葉は斜め交錯でしたが、こちらは縦の直線。

 

省亭ワールドにすっかりはまりました。デザイナー的センスというのか。この卵型の制約された画面だから、よけいに計算された構成のキレと妙味にはまるのかも。省亭の生んだ黄金比率。

色も、印象的。大きく3色くらいの色に抑えているけど、ひとつひとうの色が効果的というか、色の分量も配置も計算しているよう。奥村土牛は「色の気持ちを大切に」とまるで自分が色の中に入ったようだったけれど、省亭の色は冷静に最大限に活かされている感じ。

 

幕末生まれの省亭の線のすばらしさは、厳しい修行の日々からきているらしい。16歳で入門した師の菊池容斎は、入門してから3年間は絵筆を握らせず、ひたすらお習字をさせた。迷いなく自在な筆致は下積み時代のたまものなんでしょう。

そして省亭の、緊迫感ある一瞬の焼きつけかたも、修業のたまものかも。お習字三年のあと、「容斎は省亭を連れて散歩し自宅へ帰ってくると、町で見かけた人物の着物や柄・ひだの様子がどうだったか諮問し、淀みなく答えないと大目玉食らわしたという。後年、省亭は以後見たものを目に焼き付けるようになり、これが写生力を養うのに役立ったと回想している」(wikiより)。

では、この洗練された構成はどこからきたのか?。才能を買われ、23歳で、輸出用の美術品を扱っていた日本最初の貿易会社である「起立工商会社」に就職し、ここでの図案の仕事を通じて養われたよう。画家であり、絵師であり、プロのデザイナー。

そして省亭の西洋的な写実表現は、この会社の嘱託としてパリに留学した間に、学んだらしい(1878年ごろ、26歳頃?)。ここで西洋風な色彩感覚や写実的な描写を身に着けた、と。印象派画家は彼の技術に驚き、特にドガは大きな影響を受けたらしい(かじり読みであいまいですがとりあえず書いておきます)。

制約ある画面の活かし方がすごいなあと思ったけれど、(何で読んだかうろ覚えなのですが)留学中にアールヌーボーに触れたことがあると。なんとなく納得できるような。

ウィキペディアに出ている、竹内栖鳳の「アレ夕立ちに」「絵になる最初」に対する省亭の毒舌ぶりが面白い。確かに納得してしまう。さすがの栖鳳も、わずかなスキが見抜かれているよう。省亭が重視したもの、一寸のゆるみも排した姿勢が、垣間見える。

日本で最も早く西洋留学した日本画画家が省亭だったとは(洋画でも黒田清輝より6年も早く留学)。それにしても吉田博といい川村清雄といい、最近はひと知れず留学していた画家(私が知らないだけか)に打たれることが多い。

 

晩年は画壇から距離を置き、悠々自適、すきなものを描いていたらしい。画集で見た限りですが、そのころのの掛け軸などが、しみじみと気持ちににじんでくるようで、美しくてよさそう。

来年平成29年は省亭の100回忌にあたる。観られる機会に恵まれそうで、うれしいです。(http://www.watanabeseitei.org/


●日本橋高島屋「日本美術と高島屋~交流が育てた秘蔵コレクション~」

2016-10-24 | Art

日本橋高島屋「日本美術と高島屋~交流が育てた秘蔵コレクション~」2016.10.12~10.24

日本橋高島屋の8階ギャラリーにて、無料でした。

 

横山大観「蓬莱山」昭和24年(1949) 入口で大きく出迎えてくれました。二帖くらいあります。

希望、あたたかい、そういう言葉が浮かぶ。大観の絵を観てあたたかいと思うことは、あまりなかったのですが。

戦後の混乱の中、大観はじめ日本美術院の画家たちに協力したのが、高島屋の当時の社長、原田直次郎。高島屋大阪店の地下食堂跡で、戦後間もない1947年に再興院展が開催されます。大観はその感謝の意を込めて、この絵を描いて贈ったのだそう。

蓬莱山に鶴と定番の取り合わせですが、金で描かれた雲海のむこうに富士山。

蓬莱山は、墨の色みも筆の置き方も朴とつであたたかい感じ。

同じ方向へ飛ぶ鶴たちがかわいい♪。小さいけれどちゃんと赤と黒の模様も。

一羽だけが木にとまっていて、そこは安心感のようなものが醸し出されていて。

雲間から見える満開の桜は小さな赤い点々も添えられて、細やかな心遣い。

81歳。大観ってたまに偉そうだな~と思うけれど、これは大御所の威光とは無縁の作。画力をゆったりと使い、気持ちが伝わる絵のように思いました。

 

この展覧会は、高島屋の美術部門の歴史とともに、明治以降の画家たちとの交流が紹介されていました。

 第一章

1831年、京都の米穀問屋、飯田家の婿養子となった飯田新七が独立し、古着木綿の店を開いたところから高島屋の歴史が始まります。

明治維新を迎えた三代目の時代、外国人客の求めるお土産物の需要の高まり。今のインバウンドと重なります。人気の壁掛けや綴錦に仕立てる友禅や刺繍の下絵を描く画工室が設けられます。1885年のこと。

 1889年当時の画工さん(デザイナーさん)たちの勤務簿が展示されていました。25歳の竹内栖鳳の名も。若き彼らにアトリエや住まいも用意したり、経験を積ませようと保津川や正倉院へ写生に連れて行ったり。直近の成果だけにとらわれない支援の在り方が、質の高い商品を送り出すことにつながったとありました。

栖鳳は在籍したのは一年余りのようですが、その後も原画を描くだけでなく、4代目社長に助言したりプロデュ―ス的なかかわりを続けたようです。

竹内栖鳳「富士」1893(明治26年)は、墨と筆意の迫力に圧倒されました。

竹内栖鳳「アレ夕立に」1909(明治42)は、「アレ夕立に濡れ偲ぶ」清元「山姥」の一説から(清元とは、浄瑠璃の流れをくむ音楽で、独立して歌れたり、歌舞伎の伴奏にもなる、と初めて知った)。帯をたくさん高島屋から取り寄せたそうですが、結局柄は水墨タッチで創作したそうです。

画像で見たときは繊細な絵かと思っていましたが、栖鳳の荒いタッチの筆目まで見えます。速水御舟の「京の舞妓」の青い沃火が立ち上るような細密な絵を見た後ですので、正反対な印象。明快な青や赤が澄んでいました。

栖鳳では「国瑞」1937(昭和12年) が個人的にイチオシ。

文化勲章の喜びの中で描かれたそう。墨の濃淡だけで描かれた鯉の頭。ぬるりと黒々、迫力。鱗と尾の付け根のあたりの重量感にぞわりとしたほど。

 

1910年(明治43年)の日英博覧会に出展したビロード友禅壁掛「世界三景 雪月花」の下絵は驚きました。

畳二枚くらいの大きい掛け軸、三点を三人がかりで。

都路華香「吉野の桜」

流れるような圧巻の桜。花びらの上に、刷毛で散らした花吹雪も舞っていました。これを再度友禅で描きなおすのは至難の業では。

 

竹内栖鳳「ベニスの月」1904

山紫水明なベニス。うっすら月と雲、透き通る海に見とれました。ベニスの地形の魅力が水墨でこそ引き出せせているかもしれない。建物は荒い筆致でとらえていました。

何段階もの墨の色のグレード。無から黒に至る間にはこれだけ多くの色があり、しかもにじみ、ぼかし。これも友禅の職人さん泣かせな。。

栖鳳も1900年から視察のため渡欧しています。でも西洋のモチーフを描いても、全くぶれない姿勢。帰国後の講演で栖鳳は、

・実物観察や光の陰影など西洋美術の形態把握の手法をとりいれること

・同時に日本の水墨表現は是非保存すること、

というようなことを述べています。この強さが栖鳳の筆意にそのまま出ているようでした。

 

山元春挙「ロッキーの雪」1905

墨でロッキー山脈。そびえる山並みも雪も大気も、墨ならではの表現だと感心。前の栖鳳の墨よりも青みがかった墨で、雪山の空気がすがすがしいです。もう一枚、豊田家所蔵の「渓山帰牧図」の雪山も心に残りましたので、春挙って山岳画家なのかなと思うほど、実感と迫力がありました。前年に渡米しているようですので、実際に見たのでしょうか。ロッキーには山小屋が、渓山帰牧図には人が、どちらも小さく描かれていました。それでますます山の実感を感じたかもしれません。

仕上がったビロード友禅も見てみたいですが、「吉野の桜」は行方不明、「ベニスの月」と「ロッキーの雪」は大英博物館所蔵だそうです。

 

他にも外国人向けの商品は、下絵のすばらしさはもちろんとしても、友禅や刺繍の超絶な技術の高さに感嘆しました。

 「金地虎の図」は、岸竹堂の下絵と、村上嘉兵衛の友禅が並んでいました。(写真は友禅)

もふもふ感も、金をはたいた感じも、そっくり。なにか違うとこあら捜ししたくらい。村上嘉兵衛の技術の高さに感動。

 

同じく岸竹堂と村上嘉兵衛の「旭陽桐花鳳凰図」は、どことなく若冲のような。(写真は下絵)。羽のすじ目から色彩のグラデーションまで、友禅の染色の細密ぶりのほうに、見とれました。

 

今尾景年「秋草に鶉」1890(明治23年)には、見入りました。

これが下絵をもとにした織物とは思えないほど。伊達彌助(五代)の唐織です。表装も一体の織物で、現代では再現不可能だそう。銀地のきらめき、葉の少しゆるりとした筆のスピードまで感じられました。景年の原画も観たいところですが、これほどの唐織ならば満足かも。

 

川端龍子「潮騒」1937は圧巻。

この原画をもとに仕上げられた綴錦の壁掛けが、ヒトラーへの手土産として藤原銀次郎(米内内閣以降、終戦まで大臣を歴任した)に納められたそう。8曲もある大画面の壁掛け、その後どうなったのだろう?

それはともかく、左隻の海の青さ、深さ。高揚感、浮遊感がすごい。カモメの目線を見ていると、スパイラルに巻き込まれ、くらり。白波がカモメの残像のように感じました。

右隻になると、カモメがどんと地に足をつけ、一気に安定。海は浅いのか、碧色。

大田区の川端龍子のアトリエを訪ねたことがありますが、あの広さも納得です。

 

緞帳の下絵もありました。高島屋は歌舞伎座など多くの緞帳を受注し、現在も続いているそう。

都路華香「岩戸開き図」1910は、大阪の帝国座の川上音二郎のこけら落とし公演の緞帳のもの。

前田青邨「みやまの四季」は、毎日ホールのもの。一部の刺繍が展示されていましたが、下絵がさらに糸の輝きを放って美しかったです。横一列に職人さんたちが縫って、一日に15センチほどしか仕上がらないそうです。

部分

 

ポスターも見ものでした。

北野恒富「婦人図」1929 肌の美しさときたら。

原画では、パーマをかけた髪のつやも見えました。着物からちらり除く赤い袖口。微妙な漆黒加減のバックと女性の間にも、赤いラインが入れてありました。

 

第二章は、1911年高島屋に美術部が創設されて以降。関係の深い画家の絵の所蔵品が展示されていました。

 大観と観山の合作の金屏風に引き込まれました。「竹の図」

右隻が観山。まっすぐ進めれば楽だけれども、まわり道、曲がり道、戻り道を余儀なくされ。でもなんとか伸びていく。感じるところがあったりします。そして最後に竹の先端は消えているけれども、小さな枝葉がいくつも伸びている。

左隻が大観。筆致も異なっていました。大観の気質か、まっすぐ伸びています。若いタケノコが伸びてくることへの期待も込めているよう。

どちらも、一筆ではらった笹の葉が心地いいです。

 

大観、観山、今村紫紅らの合作、東海道五十三次絵巻もありました。皆で一か月かけて旅しながら、順番に描いたもの。四日市でお金が尽き、高島屋に電報を打ったところ、美術部の「谷口君」がお金をもって駆けつけてくれたとか。

 

富岡渓仙「風神雷神」1917は、天真爛漫。

風神は座って風を送る手抜きぶり、雷神はつまずいてこけそうになっているのかな。トラしまパンツに顔が♪。ネコっぽくてかわいい。

渓仙は狩野派を学び、都路華香に師事。大観に見出され日本美術院の同人に。早くから高島屋美術部を舞台に個展を開催していたそうです。

 

山本丘人「雨季」は特に心に残りました。

湖のむこうの山が拒絶するように見えたからかも。水田には雲が映りこんで、あじさいも見えますが、うらはらに山と湖は厳しく荘厳な感じ。

丘人の弟子の稗田一穂は「高島屋は本流から外れた新生団体に早くから門戸を開き(中略)。丘人も感謝していた。」と語っているそう。

 

高島屋がお客様に配った扇子の原画もありました。加山又造、上村淳之、山口蓬春、秋野不矩など、どれも花をアレンジしたきれいな原画。一番好きなのを選ぶとしたら、今回は片岡球子に。

 

≪特別展示≫として、飯田家・豊田家の寄贈品も展示されていました。

高島屋とトヨタが親戚筋であったとは。4代目の飯田新七の娘が、大正12年に、トヨタ自動車を創業する豊田喜一郎と結婚しての縁だそう。(喜一郎はトヨタ創業者の豊田佐吉の息子。)

その婚礼の着物の豪華さ、細やかな仕事ぶりに見とれました。

色打掛は、友禅、絞り、刺繍、金の箔置き、と技術の粋を尽くしていました。刺繍の鶴が色鮮やかで美しかった。

掛下は、総絞り!鶴の模様を絞りだしていました。

これらの着物は、現在でも豊田家で使われているそうです。

 

豊田家の所蔵品のなかでは、特に竹内栖鳳「小心胆大」にひかれました。

蟻がいる(!)

薄い色彩で、ヘチマのこの重さ。迷いない筆で描き出されたヘチマには、三匹の蟻が堂々と上っていきます。ぐしゃしゃっと一瞬で描かれた葉も感嘆。栖鳳の筆のReady Go!の瞬間を見てみたい。

 

木島櫻谷「雪中松鹿図」1908は、8号くらいだったか、わりに小さな絵。でも、鹿の目線で見上げていくと、そびえる山やま、雪雲。とても大きな世界に上りあがるの。雲を見ていると、この絵の小ささをすっかり忘れます。松はどこか激しい。

他には、前田青邨「立葵」、金島桂華「鯉」、山口華陽「春蘭」が心に残っています。

 

飯田家所蔵の中では、都路華香「果物尽くし」が、迫力でした。たわわにこぼれるほどの枇杷、葉からのぞく西瓜、四方に散るキイチゴ。果物はそれを食べる人間や動物の生命の糧であるけれども、自らも生命として結実させている。力と豊穣感があふれていました。

他には、竹内栖鳳「白梅」、佐藤朝山「女神」、平櫛田中「内裏雛」など。

これでもかと見ごたえある作品の数々でした。


●川村清雄「ベニス風景」 (中村屋サロン美術館「近代洋画への道」2)

2016-10-23 | Art

先日東博で見た川村清雄(1852~1934)「形見の直垂」が心に残っていたところに、中村屋サロン美術館でも素敵な絵に出会えました。

川村清雄「ベニス風景」

クリアファイルになっていたので、購入したものです。

ヴェネチアの風景画といえばそうなのですけれど、なんだか重たさがなくて、気持ちが瑞々しくなる感じ。

解説には、左側の余白に水墨山水画を思わせるとありました。

1852年、幕臣の家に生まれた清雄は、子供のころから手習いとして南画や花鳥画を学び、開成所の画学局で高橋由一、川上冬崖らから西洋画も学びます。

清雄が画家になることを決意したのは、徳川家給費生としての19歳での渡米がきっかけ。画業のための留学ではありませんでしたが、絵を学びます。二年後にパリへ、24歳の時にヴェネチア美術学校へ入学。29歳の時に、留学の延長が認められずに、帰国。

ヴェネチアでの先輩格でジャポニズムを好んだスペイン人画家、マルティン・リコは、清雄に、日本的なものを失わないようにということを伝えたそうです。

この絵が、日本的なものを意識したのか、それとも幼いころから南画や花鳥画を描いた清雄の自然な感性だったのか。

構図は確かに水墨のような割り方。

でもそれ以上に、私は線に見惚れたのかもしれません。水墨の筆のような潔さ。木の葉には、溌墨のような。空を描く筆は、速さと集中した精神の軌跡のような。

屋根やヨットの帆、雲などは、塗り込めず下地の色を活かし、筆目を残しているのも、日本の古い絵に通じるような。

水墨や掛け軸や屏風が、余白を残してなにも塗らず描かず、それでもその余白に世界や気配が広がっているのは、構図のなせる技だけではなくて、花鳥や山水などを形づくったその線の意思が、筆を下ろしていないその先までも見せる力があるからではと思ったりするのですが、

清雄の線も、そんな力があるように感じ、目で追うと心地よかったです。墨が緑や白の絵の具に変わったかのような、一心の勢い。

清雄の絵は西洋画なのだけれど、系譜ということでいうなら、室町や江戸中期への流れにあるのではと思うくらい。

数年前には清雄展が続いた時があったというのに、知らずに残念。

 

ちなみに、マルティン・リコがヴェネチアを描いた作品も魅力的。(ウィキペディアより)

La Riva degli Schiavoni en Venecia (1873)

マルティン・リコの他の絵も、画像で見る限りですが、なんだかとてもよさそうです。


●山下りんの模写と工部美術学校 (中村屋サロン美術館「日本近代洋画への道」1)

2016-10-23 | Art

中村屋サロン美術館「日本近代洋画への道」 2016.9.1012.11

 山下りんと川村清雄を見たくて行ってきました。

 山下りん(18571939)については、以前の日記に書きましたが、イコン画がお茶の水のニコライ堂はじめ各地の教会に残されています。明治にイコン画を学ぶためにロシアの修道院へ派遣されますが、イコンよりもラファエロなどのイタリア絵画に魅せられ、エルミタージュへ模写に通い詰めていました。

今回展示されている模写は、その短いロシア滞在中のもの。

「ヤコブ像(使徒の図)」

グイド・レーニGuido Reni15751642、ボローニャの画家)の模写です。

りんは、晩年、故郷の笠間で暮らすようになってもこの絵を手元に置き、最後まで寝起きする部屋に架けておいたそう。

グイド・レーニの絵もこの絵のオリジナルも見たことがないですが、ロシアに渡る前からすでに、工部美術学校でフォンタネージの指導を受け、成績も学年10位、女子では1位と優秀であったりんですから、その腕は確か。

模写だとしても、この絵に心打たれました。ひたむきな絵だと思いました。

完成形の表面に塗り隠されたものまで写し取ることは難しいことだろうと思うけれど、この絵をみていると、それを補うものがあるように思えました。

尊敬していたフォンタネージの帰国を契機に、りんはじめ他の学生たちも工部美術学校を退学。そこで一度閉ざされてしまった自分の求める絵画への道が、エルミタージュで再び開けた。描きたいというあふれる思いが、模写にとどまらず、余りあり。

しかし その後、修道院ではエルミタージュに行くのを禁止され、半軟禁状態でイコンの習得を課せられることに。体調を崩し、予定を早めて1年半で帰国。また、好きなものを描ける環境ではなくなってしまいます。

 美の巨人では、唯一りんの署名があるイコン画「ウラジーミルの聖母」も終生手元に置いたことが紹介されていました。「ヤコブ像」の模写とともに、描きたいものを描ききったと思える絵だったのでしょう。

 

◆今回の展覧会では、りんが学んだ工部美術学校(1876~1883)ゆかりの、五姓田 義松、山本芳翠、小山正太郎の作品が見れました。

工部美術学校は、フランスではなく、フォンタネージ、ラグーザとイタリア人を招聘し、彼らは学生からも慕われていたようです。ここから出た画家の絵には好きな絵が多いので、当時の政府担当者、good jobですが、その後日本美術の再興を訴えるフェノロサの提言もあり国粋主義の台頭、さらには黒田清輝らフランス帰りの外光派が主流をなすなか、彼らは傍流へと追いやられてしまいます。最近見直されてきているというのは、もっと見る機会が増えそうでうれしいです。

 吉田博展以来見たかった、不同舎での師である小山正太郎の風景に出会えました。

小山正太郎(1857~1916)「青梅風景」1902

りんと同い年で、フォンターネージの帰国とともに退学。(りんは学校で10位でしたが、首位は小山。)その後、不同舎を主催し、廃校となった工部美術学校の学生たちは、ここの門をたたく者も。今回展示されていた中村不折、満谷国四郎、鹿子木孟郎、青木繁もここで学んでいます。高橋由一の息子も、ここで指導していたというのも興味深いです。

日本の景色を西洋画の技法で描く。ですが特に気負ったところも過ぎたところもなく、(本人たちは苦労したのかもしれませんが)、自然でいいなあとしばらく見ていました。とっても上手ですし。

コローの森のような癒し感があるからでしょうか。竹も心地よく、にわとりがかわいい。見てて心地よかったです。

 

ラグーザの妻の玉の作品も。ラグーザ玉「保津川の渓流」

制昨年は不明ですが、実践女子大学香雪記念資料館で見たシチリアの海を思いだします。やはりこの絵も明晰な感じがしました。

 

◆他には、五姓田芳柳「上杉景勝一笑図」(絶対笑わない景勝が猿をみて、フッと笑う)、山内愚僊「住吉神社」、岡精一「捜索」(障子にうつる刀をぬいた人のシルエットが怖い) が印象に残りました。


川村清雄は次のページに。