東博の常設にふらっと。 2016年の10月中旬のメモ続き
◆ショップ奥の18室は、この日は花鳥画ルーム。(迎賓館の下絵(渡辺省亭・荒木寛畝)は別日記)
省亭、寛畝もそうだけど、花鳥といっても華やかなばかりではない。もの寂しかったり厳しかったりする美しさ。
野口幽谷1827~98 「菊花激潭」1886(明治18年)
幽谷は、皇居の杉戸絵など宮中の御用画家であり、清貧な人柄である、と。
岩にも意識がこもっている。
岩と対照的に、菊は細やかで生気あふれて。蕾やひらきかけた花の花びらの様子なんか、17世紀オランダ絵画のよう。
枯れ始めた葉もあり、がくまでしっかり写し取っている。岩場の厳しい環境に咲く菊は特別に瑞々しい。ここで咲いてみせた花の喜び。堂々と、気高さのある絵だった。
幽谷は、椿椿山の画塾に入門。生活が苦しく、母の生活を支えるため日中は製図の仕事、夜に書と画を学んだ。5年後、1854年27歳の時、師の椿山がなくなると、寺子屋を開きながら、独学で画を続ける。
渡辺崋山に私淑したらしい。仕事に追われながら絵に打ち込み、一方で家族の生活の糧のためにも絵を描いたところも、二人は似ている。
椿山は崋山の弟子。椿山が、崋山の三回忌から10年をかけて崋山の肖像画を完成させたのは、1853年。幽谷が椿山のもとにいた時期と数年は重なっている。幽谷が14歳頃にすでに崋山は命を絶っているけれど、椿山からどんな話を聞いたのだろう。崋山の肉筆の絵を借り受け、模写もしただろうか。幽谷が崋山の絵に感じたものは、どんなことだろう。
幽谷の絵の知的で、瑞々しく怜悧な印象は、崋山に似ていると思った。
明治維新以降、45歳頃には、海外(ウイーン博覧会?)にも出品し、宮中の障壁画も任された。ようやく生活も安定したのでは。名をなしてからも、落款に「幽谷生写」と修学中を意味する「生」の字を使い続け、「自分は未だ崋山先生や椿山先生を超える絵を描けていない。両先生以上の絵を描けるまで「生」の字をつけるのをやめる気はない」と。
幕末・明治の社会の変動に動じなかった人が、ここにも一人。
(その幽谷の弟子が松林桂月。谷文晁→渡辺崋山→椿椿山→野口幽谷→松林桂月、と好きな絵ばかりのこの系譜。)
花鳥以外では:
今尾景年1845~1924「松間朧月」1912 は、特に好きな作品。
描かれない月の明るさ。下からかがんで見上げると、神秘的な美しさだった。松の枝がかぶさってくるようで、自分が虫くらいに小さく感じて妙に心楽しい。
荒い線の美しさは、画家というだけでなく、心のある職人技のようにも感じた。日本橋高島屋で見た鶉も心に残っているけれど、これもいいなあ。
狩野芳崖(1822~88)の六曲二双の屏風、すばらしかったのに名前を忘れてしまった。どこだったかお寺の所蔵で、写真不可。1868年の作だった。
雪舟を彷彿とさせると解説に。岩が特に雪舟のよう。大きくいうと、対角線というかすり鉢構造というか、両端にそびえる山。人里へと続き、そこから海へ。よくある山水画だけれど、この屏風はとりわけ、帆柱の高い舟が入る入江の様子が素敵だった。
霞ような果てなき山並み。そこで積み荷を降ろす人。太古からの風景とひとの暮らしが同時に胸に広がる。いつもこういう境地でいられたら、仙人様のような心持ちで生涯を過ごせそう。
細部にズームすると、どこでもそこにまた見どころがある。梅の木の下には天秤をかつぐひとがいた。こういう小さな発見をいくつも提供してくれて、お得な絵といえるかも。
◆アイヌ民族の暮らしのコーナーは、今回の展示はとりわけ心に残った。船の模型が印象深い。
秦檍丸(はたあわきまろ)1800「蝦夷島奇観」,村上貞介「蝦夷生計図説」1823 は、二人の名を初めて知った。
それぞれ時期は違えど、鮭やとどの漁の様子、狐用のわな等、暮らしの様子を細かく記録している。あわきまろと村上貞介の関心は生活目線。現地で暮らしの中に入り、彼らの生活の工夫に、感心をもって見ていたのじゃないかな。松前藩家老の蠣崎波響がアイヌ民族の首長たちを衣装も色鮮やかに細やかな筆致に描いているのとは全然違う。アイヌの人々にとって、自分たちを見ては描く二人はどんな男だっただろう。
ふたりとも、アツシ織に使われる、樹皮を剥いで糸にするまでを順に描いていた。積年の謎が解けてうれしい。あんなに固い樹皮から柔らかな布へと、こうして織られるのですね。
鮭の靴 は心を打たれた。涙がでそうなくらい。本当にうまく作ってある。
鮭のひれの部分がそのまま残してあるけれど、雪道を滑らないようにということなのだろうか。深めのブーツ使用にしてある。誰かのふだんの暮らしの工夫や知恵に心からじーんときてしまう。
◆二階では、林十江の異彩にひかれる。「蝦蟇図」はガマの上下がちょっとよくわからなかったけれど、「鰻図」は記憶にすっと刻まれる。
鰻ってわりに移動が速いらしい。二匹が時間差でするりするり。
墨の線だけで描き出す。しかも瞬間。かすれがすてき。上の方の墨は、二匹が動いたことで泥が湧いた濁りでしょうか。
俵屋宗達の「竜樹菩薩図」のゆるさに、目がくぎづけ。
1602年に中国で出版された「仙仏奇踪」をさっそく取り入れたものだそう。この版本がたいへん楽しい。似たような絵を江戸時代のいろいろな絵師の絵に見た気がするので、これもネタ元なのでしょう。(仙仏奇踪は京都大学附属図書館HPで見られます。)
宗達の絵はこの仙仏奇踪から図柄をとってあるけれど、宗達らしい墨のふんわり感がとってもいい。ぽわんと僧の魂が抜け出たみたいな月が、またよくて。
「酔李白図」池大雅1723~76は、千鳥足の楽しい絵。
奥へ上へ連なる様子は若冲の伏見人形図みたい。先生を押す童子たちも楽しい顔をしている。眉毛もまるい形で、丸々と平和。池大雅の筆にはいつも見とれるけれど、自分も酔っていたんじゃないかと思うような線は特に何物にも代えがたい。計算や狙いを超えた線のようでいて、自在に強弱濃淡を操っていて。
◆絵巻物では、写真禁止だったけれど、14世紀の法然上人絵巻は興味深かった。讃岐に流された法然、塩飽で地頭の歓待を受ける。弘法大師ゆかりの善通寺などに参詣。赦免が決定する場面。この前後の場面の間に描かれた山は、都と讃岐の遠さを表したもの、と解説に。使者から赦免を告げられ、びっくりする顔。ひと事ながら、よかったねと思う。
狩野元信の「枇杷、レンコン、ザクロ、柿図」 も大仙院の所蔵。牧谿の花卉雜画巻に触発されたそう。ザクロが生々しくも、実直。
酒井抱一の「夏草秋草図」1821年 は、尾形光琳の風神雷神図のうらに描かれたもの。将軍家斉の父の依頼というのがさすがお殿様抱一。雷神のうらが夏草、風神のうらが秋草。隠れた百合。
大きな余白。金の葉脈。流れる金の迷いない線。はかなげな朝顔(私が描いたのはこれ)。雨にうたれる花や葉。
ちぎれ飛ぶ蔦、葛も飛ぶ。夜の風の強さ。ふじばかまも倒されている。
大きな空白そのものが、大気。風神雷神のまきおこした風と雨。抱一の余白は、例えば月の絵なら、月の光が萩やすすきと遊んでいるその波長のように感じてくる。大きな銀の空間は風であり雨であり。光琳の風神雷神のその下で、地上の草や花たちはこんなにたいへんなことになっているとは。思えば、抱一自身が描いた風神雷神図は、風神雷神以上に彼らがまきおこしたものが印象的だった。
宮川長春「紫式部」は、秋の夜長にぴったりの好きな絵。
紅葉の赤がほんのり。水面に月が映って、書き物をしながら月も愛でられるなんて。霞む山の中の空気に、内も外も包まれている。今の高断熱型密閉住宅もいこういう空間もいいなあ。式部の着物に散る花びらが美しかった。
宮川長春「乗鶴美人図」もかわいらしい。
鶴は重くて大変だろうけれど、しっかりカーブを描いて方向転換。すごいバランス力の美人。しかも眼はしっかり本をとらえている。この状態での集中、すごい。対角線のベクトルが面白い。
喜多川歌麿「手をふく美人図」、極めて美しい遊女。
しっかり手をぬぐい、覚めた目線。終わったことはきれいに流しふき取る。肢体のなだらかな線。白い着物に、少しの赤と黒髪。最後に少しべっこう色を挿す。歌麿の色って印象的。
「微笑」 菱田春草1897。23歳の作。釈迦が蓮の花をひねった時に、弟子の大迦葉だけがその意味を理解し微笑して応じた。以心伝心の逸話。線描主体の伝統的な技法で厳かな場面を描いていると、解説に。
春草の若さを感じるような。線がゆるゆるしているのは狙ったのかな。山下先生は春草の線はあまりうまくないって言っていたけれど、本当に丁寧に慎重に描かれている。この大場面を描く、自他の期待に応えようとしたものかもとふと思った。
今回もいい作品がたくさん、楽しい時間でした。