はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●東博 タイ展・東洋館

2017-08-20 | Art

先日の全生庵の幽霊画展から散歩して、東博のタイ展へ。

まずは東洋館のカフェゆりの木で、タイ展の期間メニューのマンゴームース。おいしい

コースターがトーハクくん

以下、タイ展の備忘録です。

日タイ修好130周年記念特別展「タイ ~仏の国の輝き~」 2017年7月4日(火) ~8月27日(日)

一緒に来た友人が、いとうせいこうさんとみうらじゅんさんの展覧会CMによると、全部の仏像が笑ってるらしい、と言う。

ほんとだ!

おお、こちらの仏様もそちらの仏様も、微笑んでいらっしゃっる。日本の仏像とはまた違う。なんとも優しい微笑み。

見終わって出てきたときには、なんだかとてもいい気持になっていたのだった。きっといい顔つきしていたと思う。

あれ、これで感想が終わってしまった。

これも笑ってるそれも笑ってるとつられて笑っておりましたので、細かいことをあまり覚えていない。それもなんなので、特設サイトでおさらいを少し。

 

第1章 タイ前夜 古代の仏教世界

《脱線》タイは大好きな国なのに、歴史をあまり知らなかったので、少し検索。先に亡くなられたプミポン国王のお写真が、お花とともに出口に掲げてあったけれど、プミポン国王はラーマ9世。1782年に首都をバンコクに移したラタナコーシン朝(チャクリ王朝)の系統。その前には、トンブリ王朝(1767-1782)、アユタヤ王朝(1351-1767)、スコータイ王朝(1240年頃-1438)、ランナータイ王国(1296~1558ミャンマーの属国)などへとさかのぼる。そのスコータイ王朝がタイ人による初めての統一王朝。タイ文字が作られ、1378年アユタヤの属国になるまで隆盛を極めた。

その前のタイは、各地に周辺の国との境もあいまいに、いくつかの国が起こり消えしていた。

この第1章では、統一王朝以前、インド文明を取り入れながら独自の仏教文化を育んでいたころに栄えた国々の展示物。ドヴァーラヴァティー国(チャオプラヤー川流域)、シュリーヴィジャヤ国(マレー半島周辺)、アンコール朝、ハリプンチャイ国(タイ北部、モン族の国)がある。

そういえば展示品は、バンコク国立博物館のほか、タイ各地の国立博物館から来ている。ドヴァーラヴァティー時代のものは、ウートーン国立博物館、プラパトムチェーディー国立博物館から。ハリプンチャイ国は、ハリプンチャイ国立博物館、チェンライ国立博物館から。アンコール時代のものは、ウボンラーチャターニー国立博物館、ナコーンシータンマラート国立博物館、ピマーイ国立博物館などから。スコータイは、サワンウォーラナーヨック国立博物館、ラームカムヘーン国立博物館など。アユタヤは、チャオサームプラヤー国立博物館。ほぼその王朝や国が栄えた地方にある博物館だ。

タイは国立博物館だらけなのね。日本と違うなあ。バンコク国立博物館以外は大きな博物館ではなさそうだけど、発掘や研究も行うという役割も考えると、遺跡があり、文化が息づくその地域にある意義は大きいのだろうと思う。タイを旅行すると、南タイ、北タイ、東北タイ、場所によって文化も言葉も食べ物もずいぶん違っている

 

8世紀のアルダナーリーシュヴァラ坐像は、ウボンラーチャターニー国立博物館蔵。東北タイでは仏教と同時に、クメール朝の影響でヒンドゥ教も信仰された。 

 

12世紀末~13世紀の「ナーガ上の仏陀坐像」シュリーヴィジャヤ様式。南部スラートターニー県伝来。

蛇が仏陀の傘となり守っているよう。とぐろを巻いた蛇のうろこも美しかった。クメール朝の影響。東南アジアでは、水と関係する蛇の神ナーガを大切されたそう。タイの仏像は、片手を地面につけている。

 

ドヴァーラヴァティー時代の菩薩立像(7世紀) などは、くいっと腰をひねったS字のラインが特徴だったかと記憶。インドの影響を受けているとのこと。

 

第2章 スコータイ 幸福の生まれ出づる国

スコータイは、1238年にタイ族がひらいた王朝。現在のタイ文化の基礎が築かれた時代とのこと。

スコータイの仏像の微笑みは格別だった。日本の仏像は、格調高くて、しんとするような厳しさの向こうに慈悲を持っているような感じだけれども、タイの仏さまは、ゆったりしている。

スコータイ時代 15世紀、サワンウォーラナーヨック国立博物館蔵

このお顔、このお姿の大きな仏像が、スコータイの遺跡では屋外に座っておられた。 歴代の王はスリランカから受容した上座仏教を信仰し、多くの寺院を建立した。頭の上の火焔の飾りはラッサミーという。多くの仏像が片手を地面につけている。

 

仏陀遊行像、スコータイ県シーサッチャナーライ郡ワット・サワンカラーム伝来、14 ~15世紀、サワンウォーラナーヨック国立博物館蔵

 

S字のラインが美しかった。あまり足を上げずにするるとした歩き方は、いまのタイ人の雰囲気っぽいなあ。仏陀の歩く姿は、亡くなった母のマーヤー夫人に説法するために三十三天に昇った仏陀が、地上へ降りてくる場面をあらわすと考えられているとのこと。歩いてても微笑んでいる。

 

第3章 アユタヤー 輝ける交易の都

金の精緻な装飾品が印象的な章だった。

アユタヤーは国際交易国家として繁栄した王朝。日本、琉球や東南アジアの国々、中東や西洋とも貿易を行ない、王様は莫大な富を蓄えた「大商人」だったと。

金象、アユタヤー県ワット・ラーチャブーラナ遺跡仏塔地下出土、15世紀初、チャオサームプラヤー国立博物館蔵

そして山田長政や日本町に関する展示へ続く。

 

第4章 シャム 日本人の見た南方の夢。

この章では、東博ほか日本国内の所蔵物が多い。交易、航海に関するものが興味深く、当時の日本とアユタヤの交流を想像できた。

「船具図巻」1800年は、平戸藩松浦家伝来、長崎・松浦史料博物館から。山田長政は長崎から朱印船に乗って、台湾経由でタイに渡った。

アジア航海図」安土桃山~江戸時代・16~17世紀、は北海道がちょっと小さいけれども当時にしてはわりに正確な地図。岡山藩池田家伝来。

「山田長政奉納戦艦図絵馬写」寛政元年(1789)静岡浅間神社所蔵。長政が神社に寄進した絵馬の写し。山田長政は駿河のひとだったのね。アユタヤにわたってから日本に一時帰国することもあったのだろうか。

 

「カティナ(功徳衣)法要図」ラタナコーシン時代 1918年、タイ国立図書館蔵)は、アユタヤ時代の日本人兵も描かれている。

なぎなたをもった坊主頭の一群が日本人部隊。

東博の1089ブログでは、アユタヤ、スコータイなどの街の様子も出ていて、学芸さんの文章もほのぼの楽しい。http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/category/87/

 

第5章 ラタナコーシン インドラ神の宝蔵

現王朝のラタナコーシン朝に蓄積された文物。アユタヤーの都を復元するようにバンコクに新しい都を築き、アユタヤーの芸術文化の復興に力を注いだとのこと。

 

 ラーマ2世王作の大扉、バンコク都ワット・スタット仏堂伝来、ラタナコーシン時代 19世紀、バンコク国立博物館蔵 (撮影可)は、1959年の火災で損傷したのを、2013 年から日タイで協力し修復したもの。

1807年創建のワット・スタットの正面扉。ラーマ2世(在位1809-1824)は自ら彫刻をほどこした。天界の雪山に住むとされる動物。ラーマ2世は同じような扉を作らせないように、使用した道具をすべてチャオプラヤー川に捨てさせたという。

前評判は聞いてはいたけど、精緻さと多重さに驚嘆。

絡み合うような花草の中に、鹿、いのしし、猿・・

開きかけた花は花弁の中やしべまで。横には枯れ始めた花も。仏教的だなと思う。

猿は何か考えているのか、何を見ているのか。心情も彫り込んでいる。

蓮はつぼみや、既に種になったものもある。葉は開きかけてる。

オオトカゲかな?

裏側には、寺院を守る鬼神たち。剥落しているけれど鮮やかさは健在。

 

タイといえば象。

展示の象の鞍は特別の品。サワットソーポン親王旧蔵(ラタナコーシン時代 18~19世紀、バンコク国立博物館蔵)とのことなので、王族の品なのでしょう。美しかった。

 

展示の最後は、等身大の象の上半身と鞍だった。そして悠々と歩き、水を噴き上げる象の映像が映し出される。

タイを旅行すると、お寺はそここにあるし、仏像も実に多彩。ど、どうしたと思うような明るい仏様もいるし、微笑みどころか大笑いする仏様もいらっしゃった。あの自由さ、ほがらかさ、身近さは、タイに統一王朝が成立するずっと前から、多文化を受容し、受け継がれ、はぐくまれて今に至ることを実感。

東洋館でも、インドや東南アジアの仏像が展示されているので、タイの仏像に影響を与えたモトはこれかと納得がいく。

ありがたいことに、長年もやもやと抱いてきた疑問への解説に出会ったので、ポイントのみ記載。

●最初に仏像が作られたのは? →→ブッダの死後500年程たった一世紀中ごろから。インドのマトゥラーとガンダーラでほぼ同時に作られるようになった。死後すぐに作られたわけではなかったらしい。

●ヒンドゥーの神様と仏像が、交じっている像があるのは? →→東南アジアでは古くからインドの影響を受けたので、仏教だけでなくヒンドゥー教も広まった。古代にはヒンドゥーのほうが優勢だった地域も多い中、タイやミャンマーの歴代王朝では、仏教が継続して信仰された。

●タイ展の展示の仏像でもっとも古いのが5~6世紀だったのは? →→東南アジアで仏像やヒンドゥー神像の造像がさかんになるのは、6世紀以降のよう。7~8世紀まではインド風の様式を示すものが多かったが、それ以降は地域色を反映したものになっていく。


●芸「大」コレクション第一期ーパンドラの箱が開いた

2017-08-16 | Art

芸「大」コレクションーパンドラの箱が開いたー

第一期:2017.7.11~8.6

近年珍しく?、ディスプレイに凝っていない展示が逆に新鮮でした。前のシミが残っているベーシックな壁に、作品が淡々と並んでいるのみ。なのにこれだけ濃い内容の展覧会を、自前のコレクションだけで構成できるとは、さすが藝大だと感嘆しました。しかも前後期でほとんどの作品が入れ替えになります。

【名品編】、【平櫛田中コレクション】、【卒業制作ー作家の原点】、【現代作家の若き日の自画像】などいくつかのコーナーで構成されていました。

だいぶたってしまったけれど、第一期の備忘録です。お得な二回券を買っているのだけど、二期になかなか行けないでいます

【名品編】

・「月光菩薩座像」奈良時代、こんなに破損しても、欠けるものなどなにもない。むしろ深く心打たれる。

 

・絵因果経、奈良時代、国宝。8世紀の絵巻がこんなに鮮やかとは。修復を終えたのだった。お釈迦様と修行僧。木や草むら、花も細やかで、なんだかほほえましく楽しい。

 

・「小野雪見行幸絵巻」鎌倉時代、肩に藁を積んだり、天秤をかつぐ庶民と、雪を見に出た帝の一行。庶民のひく牛はなんだかしょぼく、帝の一行の牛車は、牛まで立派な顔つきだった。木に雪がこんもりのったところもお気に入り。

 

・狩野永徳「唐子遊図」安土桃山時代、子供たちが思い思いに遊んでいる。先生もちょっと手に負えない感じの元気さ。

棒で鳥を狙い、石や鷹にひもをつけて走っているのは、鷹狩りのつもりかな。子供のくるくる変わる表情まで細やかに描いている。永徳がこんなに元気な子供たちを描くとは。それでもやはり、背景の木々や山影、手前の岩などは格調高い。永徳の本物を見たのは多分初めて。「等伯」「花鳥の夢」のイメージだったけれども、細やかな感性、実直に丁寧にまとめあげて描いている。さすが。

 

池大雅「三上孝軒・池大雅対話図」江戸時代、聞いているのが大雅かな。穏やかな話しぶり、じっと目を見て聞く。二人の真摯な対話ぶり。

 

「佐藤一斎像画稿」椿椿山、江戸時代、崋山もこの人を描いている。同じく、鋭く疑り深そうな目だった。椿山は崋山の死後にこの肖像を依頼されたのかな。

 

・橋本関雪「玄猿」昭和8年、墨の濃淡の吸い込まれそうな深遠さ。潔く、しかも相当練れた人の画という感じ。

 

・菱田春草「水鏡」明治30年、高さ2.5mを超える大きな作。

ぴたりと静止し、水に映る。紫陽花の一枝をまげて持ち、弧に反発力を感じる。「水鏡」という美しい題なので、もっと美しい情景なのかと思っていたら、そうではないのだろうか。紫陽花はもう色が茶色くなり始めている。ひょいとのぞき込むような天女の顔は、水に映った自分の容色とと季節の移ろいを見ている。

 

・小林古径「不動」昭和15年、57歳頃の作。

これも2mを超える大きな作だった。古径のこのような大きな作を見たのは初めて。圧倒される。少ない線と単調な色は小さな作品とかわらない。古径は小さな草や花にさえそっと息づく精気のようなものを感じて大好きなのだけど、これはありありと目に見える形で炎が描かれている。でも冷たい炎のようにも思える。実は、いまだにどうとらえていいかわからなく、困惑している。

 

前田青邨「白頭」昭和36年、今回最も心に残ったうちのひとつ。

 なんともいえない、深い自画像。眼鏡をはずして、じっと自分の描いた絵に向き合う。結局は孤の作業なんだなと思う。絵と自分の間の大きな余白。青邨の絵との語らいと、長い年月がたっぷりとそこに。顔のひとつひとつのしわも、跡をたどるようにひかれていた。

 

・原田直次郎「靴屋の親爺」明治10年、昨年の回顧展に行かなかったのが、あらためて悔やまれる(涙)。親爺の誇りと厳しさ。

 

・高橋由一の代表作の二点、「花魁」と「鮭」を一挙公開。由一ファンなのでうれしい。

「鮭」は、だいぶ長い間干されてる感じだった。

花魁」明治5年、パイオニアの由一。

大きな顔、かんざし、伝統的な大柄の模様の着物に、まずは迫力。誰かが言っていたけれど、由一は肖像画はあまりうまくないのだと。質感描写で言っても、大好きな「豆腐」ほどの細密な質感ではないけれども、この女性の微妙な若さ、肌の骨格が見える。口紅は、もとの唇の形をおしろいで塗り隠して、かなり口角を上げて紅をつけている。化粧をして、一枚層を乗せた顔。その下に透けて見える女性の元の骨相、肉付き、(意外に)きめ細やかですべすべした肌。化粧顔と素顔、その二枚の顔を、由一は同時にひとつの顔に描きつけている(!)。そうしたら、この絵、究極の写実ってことになろうかと思う。

 

・柴田是真「千草の間天井綴織下図」明治19年、これも大好きな作ゆえここから動きたくないくらい。

藝大もきっと好きなのだろう、平成25年に光村推古書院からこういう本を出している。

 明治6年に消失した皇居の再建のために明治17年に竣工し、1945年5月に戦火で消失した「明治宮殿」の、天井の綴織の下絵。

今回は5点展示されていた。1m四方の大きな円に驚くけれど、天井を下から見上げることを想像すると、うっとり。円への収めかたが、機知に富んでいて自然で洒脱。しかも立体に見える。

「木瓜」は、匂いたつような生気。

「レンギョウ」は、繁茂する枝ぶりまで見えるよう。

「槿(むくげ)」

「朝顔・美人焦」は、もう感動してしまって。美しくて、生命感と躍動感と。

「吾亦紅(われもこう)・桔梗」違うテイストの二種を合わせると、そこの気温まで醸し出してくる。桔梗のしべには魔力すら感じてしまう。

丸い宇宙に、是真の筆のライブ感。すばらしかった。

本でほかの作も見ると、どれも円への大胆な配置におおっと驚くことしきり。このすばらしい下絵は、痛みが激しいようで、クラウドファンディングによる修復の支援を呼び掛けていたらしい。https://readyfor.jp/projects/Zeshin1747修復後の公開が楽しみです。

 

狩野芳崖「悲母観音」、これが病の中で描かれたとは。もともと力のある人が、ここまでにすさまじい執念を発揮して描ききったら、こんな作になるのかと思う。この絵に仏が宿っているような。この世ならぬところにおわすのだけど、観音様のいる世界の空気感、水中の感じ、空間までもこの背景に描き切っている。深い海の底につながっていく。

 

 

【平櫛田中コレクション】

平櫛田中の「活人箭」、「禾山笑」を見るのは何度目かだけど、改めてすごい。かまえる矢の方向の前に立つと胸が苦しくなり、禾山笑の前に立つと一緒に口が開いてしまいそうになる。

平櫛田中「灰袋子」大正二年、中国の仙人が、病気の見舞いに来た人に、腹まで見せるくらいに元気だと。指さす方向は、大きく開いた口の中へと導かれ、本当におなかの中まで見えそう。いつも外に放つオーラがすごい田中の作にあって、これはやせたおなかの中へと引きこむすごい吸引力。

 

今回は田中が購入した弟子の作品を見られるのもうれしい。これほどの田中が認めた作品っていったいどんなものなのか。田中は1944年、72歳から芸大で指導した。自作、他作含め、後進の指導のために手本として見せようと作品を購入したそう。支援のためにと購入することもあったという。

・橋本平八の二点はすごい。田中は、38歳で亡くなった弟子の平八の作品が散逸するのを防ごうと、購入した。「花園に遊ぶ天女」昭和5年は、体に桜が彫り込まれた天女。今下り立ったばかりのような足つき。体つきはまだ年端もいかないよう。でもそこが微妙に官能的なのかも。

同じく橋本平八の「西王母」昭和5年は、不思議な印象。くるりと振り向く。前に歩く足。目線は後ろに。動きのある衣服。

・大内青圃も、小さくとも、田中に負けないほどに内から発するエネルギーがすごい。「観音と餓鬼」昭和24年は、荒い削り。「童子小像」昭和12年は、丸く滑らかに削ってある。

田中太郎も、田中の弟子。「ないしょう話」昭和24年、がっちり固まった中に、どんなことが交わされているのかな。肝心の耳だけそのスクラムの外にあるのが、不思議。

 

このあたりから時間が無くなったので、駆け足に。

【真似から学ぶ・比べて学ぶ】

・菱田春草が徽宗皇帝の「猫図」を模写しているのが興味深く。古画の模写の重要性を感じ、真似とは「精神と人格まで見、真に近づくということ」とある。

 

【卒業制作ー作家の原点】

・高山辰雄「砂丘」が念願かなって見られた。後年の高山の宇宙と細胞が交感するような響きは、このころからすでになにか感じられるだろうか?と思ってしげしげと見た。

 

板谷波山「元禄美人像」、木彫を見られるとは。力強い立ち姿。なのにこの柔らかさ、つややかさときたら。

 

松田権六「草花鳥獣文小手箱」はみもの。後ろ側のししから逃げている。繊細なかわいらしさは既にこのころにも。

 

 

【現代作家の若き日の自画像】

今活躍中の作家さんの原点。卒業前に自画像を制作する習わしなのだそう。20台前半でもうそのひとらしいものが表出している。

山口晃さん、おおなるほど。

 

松井冬子さん、すでにめっちゃ怖い。ベールに透ける首の...生々しく狂気の世界。背景の霊気も怖い。

 

村上龍さん、うん。

 

平林薫さん、斎藤芽生さん、鳥山玲さん、吉武弘樹さんも、気になっている。

 

そのほかのコーナーは、【美校の仏教彫刻コレクション】、【パンドラの箱】、【記録と制作】、【藤田嗣治資料】、【石膏原型一挙開陳】、【芸大コレクションの修復ー近年の取り組み】。これらは通期のものが多いので、第二期にみよう。ちらっと見た中では、「外科室」、長谷川路可ラグーザ「黄泉比良坂」の修復等が、気にかかっている。

 


●ホテルオークラ アートコレクション展「佳人礼讃」

2017-08-13 | Art

ホテルオークラ アートコレクション展「佳人礼讃」

2017.7.31~8.24

 

「監修者のあいさつ」に、プリニウスが登場していました。プリニウスは、ランプで壁に投じられた恋人の影をある娘がなぞって残したエピソードを伝え、これが「人の姿をうつす」芸術の起源の一つであると。

今回のテーマは、「美人」ではなく、「佳人」。美しい人に変わりはないけど、佳人というと、外面的な美しさにとどまらない、広やかな感じがします。それも納得の内容でした。

以下、備忘録です。

一枚目の絵からそれを納得。まさにこれから居並ぶ佳人たちの筆頭にふさわしい「芸術の女神」。

「ミューズ」19世紀末ギョーム・シニャック(1870~1924) 鹿子木孟郎が住友コレクションのために買い付けてきたもの。

ミューズは芸術の女神。書きつけているのは詩?絵?それともメロディ?。自分の個の中の知とアートに遊ぶこの生き生きした表情がいいなあ。自然の中でのこののびやかな境地は、文人画と同じかも。小さく描かれた青い花、黄色い花、ピンクのバラは、頭の中に次々浮かんでくる素敵なひらめきのよう。

 

 その横で張り詰めたような雰囲気を醸し出していたのは、岡田三郎助の妻。

岡田三郎助「支那絹の前」1920

ミューズと打って変わって、重い色彩。当時の日本の女性、という感じがしなくもない。刺繍の凹凸まで細密。シナ絹の模様は、中国といえばみたいな先のとがったあの桃。形はかわいいけれど、味はすっぱいらしい。

 

キスリングの二点はみもの。

「スペインの女」1925 は素敵だった。黒い髪と赤いストールが、確かにスペインらしい。都会的でおしゃれなのに、どこか土俗的な魅力。大きな手、見つめる瞳は、強く迫ってくるものがあった。

 

キスリング「水玉の服の少女」1934も、スペインの女と同じく、ピンクとブルーの二色に塗り分けられた背景。女性の微妙にうつろう内面か、隠し持つ二面性を暗示しているよう。女性はひとすじなわではいかない。この女性は、やわらかな光の中に描かれ、ちょっとつかみどころのない感じだった。

 

モディリアニ「婦人像」1917、口をとじ、感情をあえて打ち消した瞳。内に込めたら、逆にゆらりと放ってくるものがある。絵にかいた人でしかないのに、それを超えた存在感、普遍性。モディリアニってやっぱりすごい。

 

矢崎千代二「教鵡」1900は、言葉を教えていると思わしき少女の口元と、オウムの口に流れるやりとり。その少女の口元がかわいらしい。穏やかな午後の色彩、着物も合わせのピンクもいいなあ。

中澤弘光「静思」1941、後ろには各地からの土産と思われる人形たちの顔顔顔。その圧の前で自己をガードして自分の思索に入っている女性。

金山平三「祭りの日」1924、顔の描かれていない女性。特別な日の思いをあえて秘めているような。他の作品もみたくなった画家。

 

小倉遊亀「若いひと」1962、若い女性の、恐れも知らぬ生気あふれる不遜さが、オーラを放っている。爪だってきれいに整えられている。この世代を映しているような絵だった。この若い年齢の人を見つめる、67歳の遊亀の目。いまや自由で自我を大事にする時代になったのだ。これは吉野石膏さんのコレクション。こちらは高山辰雄の「聖家族」のシリーズをみせていただいたり、心に残る作品をお持ちなのだなあ。

 

ここまでは洋画だったけれど、(あれ?遊亀は油彩ではなかったような)、二章は日本美術、「美人画に見るうるわしき佇まい」

上村松園の5作が並ぶと、洗練された美しい空間になる。どれもシンプルなのに、実は練られた構成と構図にほれぼれ。

上村松園「三美人之図」1908

よく見ると三人いる。傘のジグザグが洒脱。足元へと散る花びらとともに、着物の柄に描きこまれた桜も舞っているよう。と、緑の着物の柄には、蝶も舞っている。一番若い女性の傘の中に、花びらか蝶でも入り込んだのかな。

 

上村松園「うつろふ春」1938、ため息しか出ない。大胆に対角線に分割された構成に、この目線ときたら。着物の美しさ、赤の分量が極まって。

ちょっと小悪魔的な魅力の女性。耳たぶのほのかな赤みはほろ酔いなのかな、カラバッジォのバッカス的なしどけなさ。目で追う花びらの一枚は少し色あせていて、春があっというまに過ぎてしまうのと同じように、女性の美しさも短いあいだのこと。女性は時間の流れにあらがうでもなく身を任せているようで、63歳の松園だからこそかけるのかも。

 

上村松園「円窓美人」1943

二つの大きな弧といくつかの小さな弧で構成されたリズミカルさなのに、女性は物憂げそう。窓に映る花影もどこかうつろ。あいまいな表情の女性を描いても、イメージだけのはりぼてのような美人にならず、女性の本体まで感じる松園の美人画。円窓と美人の組み合わせは、明清時代の「仕女図」に由来するもの、と。

 

伊藤小坡の2点、「醍醐の花」、「紅葉狩り」があったのも興味深い。制作年不詳とのこと、松岡美術館で見た絵なども思い起こすと、松園と同門になる以前、わりに初期のころのものなのかな?(勝手な解釈)。

 

伊東深水の3点も、うれしい。

伊東深水「香衣」1927、29歳の作。

妖艶な生々しさに目が釘付け。乱れた髪は情事のあと?、むしろ赤い唇、絞りの着物は蛇のうろこのようにも見えてきて、定まらない視線とともに、今まさに人間に化身したばかりなのか、と妄想。しかも土の地面ではないか。

 

伊東深水「小雨」1929も、とても上手い!緻密!。深水のどこか刹那的な美、好きだなあと思う。赤い半襟は秘めた激しさのよう、まだ表には出たことがない。

 

伊東深水「楽屋」1959、作った顔ではない、素の表情が美しい。一瞬を切り取って、実感があるなあ。楽屋裏に精通?した深水ならでは。ひたむきで自力で強く生きている女性を、率直に見つめている。

深水の三点、どれも髪飾りが美しかった。

 

中村大二郎「読書」1906、椅子に座り読書をする女性は油彩画にもよくあるけれど、これは日本画。ぺたんと塗っただけなのに、迫力があるなあ~。華やかなのは椅子の布張りだけ。少し見える向かい合わせの椅子の存在が、行きかうなにかのようで気になる。

 

第三章は、「人物画の魅力に出会う」。油彩、日本画問わず、多種多様な表現。

寛永期の洛中洛外図があった。

びっちり描きこんだタイプ。洛中洛外図を人物画と思ったことがなかったけれど、その概念を訂正せざるを得ない。小さくとも確かなキャラクターを与えられた人間が、ここに何百人もいる。お正月の情景、大晦日、祭列、お相撲さんも。

 

今回はプチ鏑木清方展ともいえそう。9点+雨月物語のシリーズの8場面。

「狐狗狸」1931、は、なんと。小学校の時に教室でやったあのこっくりさん。まんじりとした顔は、覚えがある。影が薄く、あやしいぞ。

「雨月物語」1921は、上田秋成の作の中から「蛇性の淫」の8場面。清方はよく古典研究をしていたとのこと、舞台設定も練られていた。

1「雨宿り」では、これから始まる物語を、波や雨が予感させる。 2「まろや」侍女のまろやも、セリフはないのに雰囲気醸し出すのに重要な役回りをおっている。 3「ちぎり」は、(蛇女)真女児のあやしく狙う視線。乱れた髪。紅葉は青紅葉と赤い紅葉が入交じり、萩も見え、秋の初めの様子が美しかった。室内のしつらえもばっちり。 5「もののけ」は、みどころのひとつ。朽ちた板、からまる蔦の荒れた屋敷。櫛をもち座る女は、かすかに笑みを浮かべている。不穏な雲のにじみがすばらしい。 6「泊瀬」男が再開した真女児とまろや。

7「吉野」は、正体を見破る老人の厳しい目。ばっと風が吹き、木々も迫力、桜が舞い散る、緊迫のシーン。 8「蛇身」は正体を現し、滝に飛び込んだ二人。激しい波と、妖しく泡立つ波頭。

金箔を用い、美しいやまと絵に仕上げていた。

 

島成園「お客様」1929は、今回最もお気に入りのひとつ。

長女と次女の性格の差を、目線の落とし方や手のしぐさで、こんなに繊細にあらわしている。緊張している二人は、扇に救いを求めているよう。あどけない二人の女の子のなかに、かすかに妖しいものが。

それにしても、現代的な感覚の絵だ。成園(1892~1970)は、独学で絵を描き始めたのに、若くして人気を博して活躍した大阪の女性。当時では過激な画題だったようで、マスコミや画壇からの逆風にも見舞われる。北野恒富、野田九帆に私淑し、助言を受けることがあったとか。1920年に親の圧力で結婚し、銀行員の夫について転居を繰り返す間は、描くことも少なかったよう。戦後に大阪に戻ってからまた絵筆を持ち、個展を開いたり後進の指導にもあたった。

「お客様」は、夫の転勤で大阪を離れ画業を休止する直前の作品。たいへん心にのこり興味惹かれる絵だったので、ショップにあった絵ハガキを買ってきました。

 

「女」1917 100年も前の絵とは到底思えない。しかも25歳の作とは。

 

「春宵」1921 クリムトみたいな美しさ

戦後の作も見てみたいもの。ショップにおいてあった本「あやしい美人画」に作品が出ているようなので、買おうか迷っている。。

 

他に印象深かったもの

三雲祥之助「馬と少年」1929、青い馬

小嶋悠司「母子像」1985、テンペラ画。母子は、不安そうでもあり、それでも母の強さ、母の表情を伺う子と、その関係性において安定ともいえ。

最後の一枚は、ミレイ「聖テレジアの少女時代」1893

カスティーリャの聖女、テレジアは、殉教者になろうとして、度々家出をした。ミレイは、イギリスのジョージ・エリオットの小説「ミドルマーチ」のなかから、この弟を連れたテレジアを描いた。コートだけ持って家出する女の子と、手を引かれた弟のあどけなさ。大人から見るとかわいらしいばかりだけれども、それでも強い瞳と固く結んだ口元のテレジアの姿には、この子ならばと将来も見えて、思わずリスペクトしてしまう。

ミレイは、美しい女性をたくさん描くけれども、いつもふわふわしただけでない女性の芯の強さをしっかりとらえていて、好きだなあと思う。

今回もたいへん見ごたえのある展覧会でした。来年も楽しみにしております。ちなみに、アスコットホールの絨毯がきれいだったのですが、「英国のウィルトン織り」だそう。

 

 


●全生庵「幽霊画展」と千駄木散歩

2017-08-13 | Art

谷中の全生庵の「幽霊画」の公開を見てきました。http://www.theway.jp/zen/yuureiga_goaisatsu.html

8月1日~8月31日(土日祝祭日も開館) 午前10時~午後5時迄、入館料:500円

掛け軸が40点ほど。美しいの、怖いの、妙なの、グロいのと勢ぞろい。

でも総じて、重くなくすうっと、涼やか。やはりコレは夏にこそです。少しですが、絵ハガキが売られていました。

以下備忘録です。

丸山応挙は、元祖・足のない幽霊。静かな笑みに高雅さを保ちつつ、すうっとそこにたたずんでいる。特に恨みを残してなさそうで、ほッ。

 

・おおっと見惚れたのは、渡辺省亭。(こちらの3Pめの右端)。 火鉢の前で、よよと泣き崩れる幽霊。どんなに悲しい思いを残して亡くなったんでしょう。袖で覆った顔は見えないのに、美人画といっても過言ではない美しさ。火鉢の火があやしく赤く、けむりがあの世かこの世か。かすかに着物から手の指と、座り込んだ足のかかとと足の裏が見えて、その美しいこと。

 

・さすが師匠、王道のうまさ!と拍手したくなったのが、松本楓湖「花籠と幽霊」1875 

今村紫紅や速水御舟ほか300人の師。片手では髪をつかみ、もう片手では花籠から恨みに任せてカーネーションをむしり取る。長押に掛けた画の月の光が、幽霊を浮かび上がらせる。線がたいへんに緻密に美しく、墨の濃淡も絶妙で、溜息もの。楓湖のお墓はこの全生庵にあるそうな。

 

・見られてうれしかったのが、飯島光峨。(こちらの1Pめの右端)。木魚が置かれているのだけど、不気味にどくろのよう。よく見ると、下方には無念さをストレートに放つ目が描かれている。これはむしろ付喪神とのこと。暁斎記念館以来の再会。当時は花鳥で売れっ子絵師だったそうなのに、今はなかなか見る機会がなく、ここで光峨にあえて良かった。

全生庵のHPを読むと、明治8年に柳橋の料亭「柳家」で円朝が怪談会を催し、会場に飾る幽霊画を、当時円朝が親交を結びはじめた光峨に依頼した、と。幽霊画はそういう催しの用途があったのね。

他にも円朝の旧蔵の幽霊画からは、円朝の交友関係が読み取れるという。川端玉章、光峨、永湖、暁斎、柴田是真、勝文斎は当時の「日本橋区」で円朝のご近所さん。そして彼らの弟子筋の幽霊画で構成されている。

 

月岡芳年も、暁斎の師国芳の弟子というつながり。

「宿場女郎図」

どこかの宿場で実際に見かけた女郎であると解説があった。幽霊というよりも、辛い境遇に病み、老いた女性の現実感。幽霊画にしてしまってはあまりな。

 

歌川芳延も国芳の門人。「カオナシ」みたい。

「うみぼうず

浅草にたぬき汁の店を開いたっていう逸話も頷けるかも。円朝の落語に海ぼうずってあるのかな?。

 

高橋由一の幽霊画が見られるとは嬉しい。

「幽冥無実の図」

由一は幼少期にから狩野派に学んでいただけあって、掛け軸の縦の余白などこなれているのかな。それにしても、この情けない感じの男性の幽霊と女性との関係は?。女性は遊女かな?。コメントをくださった方に、西洋では男性の幽霊のほうが多いと教えていただいた。由一が西洋画を描いていたってこと関係はないのでしょうけど。

それにしても由一の息子の源吉も浅草寺の大絵馬を描いていたし、高橋親子の地元とのつながりがどのようなものだったか、興味あるところ。

 

最後に、私的に一番怖いのはこれ。

中村芳中「枕元の幽霊」

ふと目を覚ますと、枕元の上でに~っと笑ってられるのが一番いやだ。

 

こちらのお寺のご本尊は、江戸城由来の葵の御紋の「葵正観世音」とのこと。この期間は本堂も上がっていいと教えて下さったので、お参りしてきました。

この日はたいへん涼しい日で、千駄木駅から全生庵経由で、東京国立博物館まで散歩。

前から行ってみたかった、千駄木の古民家のイタリアン「露地」。生ハムとプラム、フォカッチャ付きランチ。おいしい~。

 

谷根千エリアでも、日暮里から夕焼けだんだん界隈は行ったことがありますが、千駄木界隈は初めて。

お寺が多く静か。その合間に、小さなお店が点在していて楽しい。

創業明治元年の桐箱屋さん「箱義桐箱店 谷中店」(写真も、快くいいですよとおっしゃって下さいました)。

桐箱が並ぶと清々しいです。

お土産😊。

軽さにびっくり!桐は、木でなく草の仲間だそう。小箱でも、隙間やゆがみもなく、ぴったりとしまっています!

一目ぼれ。口がぱくぱく動く~。

お寺が多い界隈は静か。

カヤバ珈琲も一度は行ってみたいですが、並んでいました。

「谷中ビアホール」

共用スペース「みんなのざしき」

 

なんとなく東博に到着。

紅白のさるすべりが満開。

楽しい散歩でした。


●名刀礼賛ーもののふたちの美学ー 泉屋博古館文館

2017-08-07 | Art

「名刀礼賛ーもののふたちの美学ー」 泉屋博古館文館

2017.6.1~8.4

 

黒川古文化研究所と泉屋博古館との連携企画。

昨年、移転前の刀剣博物館を訪れた時も20代ごろの女性が多いのに驚きましたが、こちらでも食い入るように見つめている女の子たちが何人も。そして年齢性別問わず、国籍問わず、盛況でした。

私は全くビギナーですが、親切な解説がありましたので、以下、備忘録です。

ひとつめの展示室には、ずらりと、冷たく輝く刃が。思わず身が引き締まる。

古いものでは12世紀のものから。それが、ふつうにたくさん!。

まえに刀剣博物館のチケット売り場で、「本日の展示は江戸時代の新しいものばかりですが、よろしいですか?」と確認された意味を、いま実感。

1000年近くたつのに、こんなにも輝き、くもりも濁りもない。刀もすごいけど、お手入れをされてる方もすごい。

黒川古文化研究所が、車の排気ガスで文化財が痛むという理由で、芦屋から現在の西宮市苦楽園に移転したという解説にも、頷くしかない。


刀を鑑賞するポイントとしては、地肌・姿・刃文。直刃、地沸(ぢにえ)、匂、と。

すると、全部同じに見えるんだけどと思ってた刀が、それぞれ全然違うのが見えてきた!

また、岡山の長船(唯一知ってた)が刀で有名なのは、中国山地の鉄と木材、そして瀬戸内の水運によるものだとか。


ふたつめの展示室には、拵えとつば、刀装具。

つばは、最初は刀工が作っていたのが、専門の職人が作るようになったのは桃山時代ごろ。16世紀を代表するのは、「信家」、「全家」。

17世紀ごろでは、幕府や大名旗本の御用達の「御用彫り物師」の後藤家の代々。

 

18世紀には、後藤家から独立して、「町彫りの祖」といわれた横谷宗珉。父の宗与の作も。宗珉が英一蝶から図柄を提供してもらっていたというのは、当時の江戸市中の様子が想像できて興味深い。太平の世につれ、装飾性を増し、しだいに身近な題を用いるようになった。

石黒派では、開祖の石黒政常「松に鷹図鐔」が展示されていた。刀剣博物館で見たのは、この石黒派の刀装具(日記)。岡本秋暉も実家である石黒の父や兄たちに花鳥風月を美しく配置した図柄を提供していた。

 

それから、応挙と時期を同じくして、「写生」に基づいた事物の把握が表現されるようになったというのも、絵画史全体の流れとして興味深く。革新が町民から生まれるのも同じか。

「生写」は、御用彫り物師の後藤派にもおよび、革新をもたらした一乗は名工と呼ばれた

「能狂言図大小鐔」19世紀は、背景などなくシンプルに踊り手のみ。たっぷり余白をとった配置が絶妙。一乗の「瑞雲透鐔」1835年は、抽象の域。


荒木東明の粟穂の目貫は、とくにお気に入り。粟穂の細密な金のつぶつぶに見とれるばかり。私の4倍の単眼鏡では物足りないくらいだった。

 


実は今回の楽しみは、3章の「武士が描いた絵画」。

渡辺崋山の「乳狗図」1841を見たかったのだ。が、前期展示のみ。うそそんな。ちちいぬ見たかった

でも、弟子の椿椿山の「玉堂富貴・遊蝶・藻魚図」1840 がすばらしかった。崋山に似ている。

 右の藻魚の幅の湖底、湖面は、出光美術館で見た崋山の「ろじ捉魚図」を、中幅の花は先日の東博で見た崋山の「十友双雀図」絵を思い出す。それでも椿山の画は、崋山のようなあやうくキレてなく、どこか穏やか。

でもちょっと不思議な椿山の感覚。藻魚の幅は、上方の木々の葉から降りて、いつしか湖中に入り、湖中の水草とともにたなびいている。さらに魚は、魚を見下ろす視線と魚自体の視線が混じっている。画に様々な視線が交錯している。湖面の一枚の桜の花びらは、隣の幅の花海棠?からひらりと舞い降りたものらしい。(どちらでもいいことなのだけど、この魚はなんだろう?フナ?長さ的にはシシャモっぽい。)

靄の中を舞う蝶の幅は、いっそう不思議。現実ではないような。藻魚の幅が夢幻なら、蝶は幽幻な感じだろうか。なのによく見ると、羽紋も目も触覚も、おなかのふくらみやふかふかまで、大変に細密。

椿山ってこんな世界を描く人だったのかな。静かな空間がひそかにふわり揺らぐような。山種美術館の「久能山真景図」1837(日記)も、微妙に不思議な浮遊感だったっけ。これから約10年後の作、東博の「雑花果ら図」1852を崋山の後で見た時には、朴訥な感じだと思ったけれど、もう一度見たら違う感じがするかもしれない。信奉する師を追う絵を描き、師の早い死後は、似ていながらも自分の世界を築く。なんだか岸田劉生と椿貞雄のようだ。


さて、他の画も8点と少ないですが、見ごたえあり。

加藤文麗「富嶽図」18世紀は、大変筆が立ち、手慣れた感じ。三保の松原と海の向こうに富士とかすかに大きな月。おおらかな構図と、丸みのある筆と墨の色に、この人は懐の広い人だったのかな。伊予大洲藩主の子で、狩野常信、さらに子の狩野周信に学ぶ。弟子に谷文晁。


浦上玉堂の小さな「夏山瑞雨図」、浦上春琴の画帳「蔬果蟲魚図」1834 は親子で並んで展示。特に春琴の画帳は、タケノコ、笹など日常のものを穏やかに描きとめていた。玉堂は春琴の絵を「行灯絵」「針箱絵」と呼んだそうだけども、お父さんに連れられあれだけ落ちつかない環境でも実直に育った子供にそんな...って思う。


関口雪翁「雪中竹図」1828は、武士の精神性ってものがあるなら、確かにそれを感じるかきぶり。(画像はこちらから)

竹の枝に複雑に雪が積もっているのを、外隈で描きだしている。雪が積もっても細い枝はたゆまず、筆も先端の一点までゆるみなく集中を保っている。雪雲を思う深いグレーの余白も、見とれてしまった。竹は冬でも青々して、不屈の精神を象徴するのだとか。雪の下でも生気と意志を放つ葉が印象的。

関口雪翁は、新潟生まれの儒学者で津山藩に召し抱えられたとのこと。竹と雪の絵を多く描いている。


十字梅崖「十便十宜図」1801は、池大雅・蕪村の作の写し。池大雅や木村蒹葭堂と交流があったらしい。上田秋成と和歌で同門らしいけれど、性格は正反対のような気がする。

 

解説では、武士の画として、武士ならではの高い理想を求めた時に直面する、日常との矛盾や葛藤。「いかに生きるべきか」という導きとして、画を描くことに意味を見出した、と。「いかに生きるべきか」の答えとして、ここの8人の武士が見事に、8人8様。自分なりの答えがぎりぎりなまでに画に表れているのは、見事だった。

 


●芸能山城組ケチャまつり 新宿三井ビル

2017-08-04 | Art

第42回芸能山城組ケチャまつり
2017年8月2日(水・宵宮)~8月6日(日)
新宿三井ビルディング55HIROBA

都市における「未来のまつり」
最高峰のワールド・パフォーマンスで創る陶酔の祝祭空間

中学校の頃にテレビで見て以来、念願だった山城組。この催しはもう42回目だとか。

昼から開催されており、・バリ島の巨竹アンサンブル〈ジェゴグ〉・鹿踊、じゃんがら念佛踊り、・ブルガリア女声合唱・ジョージア男声合唱、と演目が進んでいますが、着いたのが7時過ぎだったため、ガムランとケチャだけ見てきました。

高層ビルの谷間に異空間が浮かび上がっていました。

19時から、ガムラン

この日は、「レゴン・ラッサム」

「レゴン・スマラダナ」の日もあるそう。

この音と響きと揺らぎ。新宿であることを忘れます。動画で乗せられないのが残念。

 

(ここで20分ほどの合間。雨上がりに薄着で寒かったので、横の丸亀製麺のさぬきうどん+イカ天で暖を取る)

20時から、ケチャ

バリは行ったことはあるのにケチャを見ていない。チャッチャッとこの場が一変。チャだけでなく、シーッとかほかの声もあるのですね。


ラーマーヤナの一節

日本語のナレーションがあって、展開がわかりやすかったです。講談師?のような節回しなのがなかなかな。

悪魔のランカ王にとらわれてしまったシータ姫と、慰めるランカ王の姪のトリジャタ


ラーマ王子のお使いのハヌマーンが登場

なかなか信用しないシータ姫

ハヌマーンが持ってきたラーマの指輪を見て信用し、自分の髪飾りを託す。


ラーマ王子と弟のラクサマナ王子も戦いへ

ラバナ王(の息子のメガナダかも??)が矢を射かける

神の声がして、ガルーダが登場。助けてくれる。

猿たちの王スグリワが登場し、ラーマはこの戦いを任せる

決着がつかぬまま、ケチャは最高潮に達する。

息もつかせぬ、あっという間の45分間でした。ちょっとだけ、演じる側のトランス状態を体験してみたいかな、男性じゃないから無理だけど。

無料なのが申し訳ないくらい。奉納箱がおいてありますので、心ばかりの寸志を入れてきました。

 

 

 


●「椿貞雄展」7階 千葉市美術館

2017-08-04 | Art

8の続き

ここまででもう体力も時間も尽きかけているのに、7階にはまだたっぷり半分あるのです。

8階が劉生とともに歩んだ椿の道なら、7階では、椿の独自の世界。劉生の存命中から端々に見え隠れしていた椿の個性が、表面に顕在化していました。

以下備忘録です。


3章:静物画の展開

静物画に特化してスピンオフのような形で取り上げられている。椿も劉生に劣らない突き詰め方だった。

 まずは「宋元画の影響」を受けたという油彩の静物画から。初期には劉生の影響そのままに、はりつめた緊迫感と写実のかぶ。

1926年の椿の「蕪にくわい」は、劉生と間違えられて1930年版の図録に乗ってしまったほど。

間違えられたという劉生の蕪の絵は、以前に3月に近代美術館でみた、1925年のこれかな?(↓画像は映り込みが激しかったので周囲トリミングしてあります)

私は内からむんむん発するエネルギーに圧倒され、劉生に興味を持った、思い出深いかぶの絵。

 

それが、1926年ごろ、冬瓜の絵あたりから二人の間には違いが生まれていた。

劉生の冬瓜からは、あの「むんむん」が薄れていた。

1926年、顔彩で絹に描いた劉生「冬瓜茄子図」 日本画的なあっさりめな冬瓜と茄子。神秘的でもあり、ちょっと抜けた面白さもあり。浮世絵の収集に没頭していたことも関係あるかな。

輪郭線にはそうとう集中して形をとっているよう。彩色も、重量感や内から発するものをあえて打ち消したような描き方。いっそ、日本画のようにぺたんと冬瓜を着色してみてはどうなるだろう。

 

1927年の油彩の劉生「冬瓜葡萄図」も、なにか抑制されている。筆致は以前のように緻密でなくなっている。重さを消した神秘に挑戦したのかな?

 

それに対し、椿の冬瓜の重量感、質感。強く放つ存在感ときたら。

椿貞雄「冬瓜茄子図」1942 

冬瓜を越えて、惑星のような。まるで冷たい太陽のようなエネルギー。そのエネルギーは神秘に昇華されている。

上の劉生の冬瓜と異なる方向性。劉生が次に行ってしまっても、椿は冬瓜から離れることなく、「日本的油絵」「宋元画のリアリズム」「写実の深い精神性」を深く突き詰め続けている。卵を産んだのは劉生でも、連綿と養分を与え、自分の考えを注入し、育ち上がった鶏は椿以外の何物でもない。精神性といったものだけでなく、独自に油彩の技術を追及し、背景を練り上げて、この世界を実現したのか。

椿は冬瓜をそれまで知らず、劉生の絵で初めて知ったという。椿の冬瓜の絵がずらり並ぶコーナーは、遠目にも圧巻で神秘的ですらあった。

一番最後のはなくなる前年の1956年。なんと30年にわたり、冬瓜を突き詰めている。

椿貞雄 1946年「冬瓜南京図」 ・・言葉もでない、、

重量感かあるのだけど、カボチャが不思議に軽そうな気もする。

 

椿の1949年「冬瓜図」は、3年にわたって、冬瓜を取り換えながら制作したもの。1947年に同じ構図の絵があったけれど、それも素晴らしいのに、さらに神秘性を増したようだった。

冬瓜を超えて時を超えて、普遍性を帯びている。冬瓜南京図も同様かもしれないけれど、物質と背景の間のラインが、微細に波動し時空ににじんでいるみたいな。

劉生は、「深く写実を追及すると不思議なイメージに達する。それは神秘である。実在の感じの奥は神秘である」といったけれども、その言葉を冬瓜に体現したのは、椿なのかもしれない。

 

そして、展示は、壺の絵に続く。質感にうたれるとともに、椿の貪欲さ、執拗なまでの地道さに気づく。温厚さの影に隠されていたけれども、実は劉生に負けず劣らずだったのかも。

1943年「黒い壺に南天」、壺を焼成した火の力まで感じるよう

光まで描きだしている。優しい色合いの空と光が、このごつごつと荒くれた表面を浮かび上がらせ、光でそっとなでているのが、印象的だった。


1947年「壺(白磁大壺に椿)」

「李朝の壺の魅力をどこまでも描写したい欲求を幾度かいても持つのである」。

 

1949年「窓辺早春」

縄文からワープしてきたようなこの壺は、今度は縁側で温められている。もはや単なる物質ではないように思える。

 

そして突然に、スパッ!。

1953年「生物ー冬瓜と包丁」

はっと我に返る。

これだけ冬瓜や壺を見せておいて、突然ざっくり切る。この展示順は、千葉市美術館のしくんだこと?。

中のしらじらとした果肉や種。

では今まで見てきた、冬瓜や壺の内部には何があったんだろう?。生命エネルギーか?時間か?ただの空洞か?。

劉生の人物画を思い出す。劉生は、その中の芯にまで見る者を引き込んだ。静物でも見えない中の圧力を描いて見せた。

戻って再度見た、椿の壺や冬瓜の内部に、私はなにかを想像できなかった(沈)。

むしろ表面に、時間やエネルギーが描きだされているように思える。内部よりも表面に執拗な留意を向け続けたのかもしれない。背景や光の力にも大切に目をけ、大いにその力を借りているんだと実感することはできたけれども。

(コメントを下さった方が、冬瓜は時間がたつと粉が吹いて白っぽくなると教えてくださった。私はお出汁で煮含めた冬瓜はいただいたことはあるけれど、自分で切ったり、丸ごと持ったことすらなかったのでした。)

それにしても、椿はどうしてこれだけ、スパッと切っちゃったんだろう。これで長い冬瓜との戦いに決着をつけたのかもしれないし、次への始まりなのかもしれない。そもそも分岐点と扱うこと自体、勝手な解釈かもしれない。

この後の展示では、冬瓜の絵は少し離れたところに一枚あった。荒く強いタッチに変わった花や鴨の一群の中に、1956年の「冬瓜葡萄図」がいた。

なんだかこれまでのように張り詰めた感じがないような。神秘の輝きは保ちつつ、さらに生き生きと輝いている。現実感があり、ここにきて不思議に内部を感じるような。上述の冬瓜たちには感じなかった内部をこれには想像でき、指で押したときにじくじくとした内部の感触、熟れ具合。

これが最も内からの生命感に彩られている、椿の冬瓜の到達点なのかもしれない。


そして、この章の最後は、椿の自画像(年不詳 山形美術館)と、この翌年1957年の絶筆の「椿花図」。

少年のころの自画像と比べると、もういいお年だ。でもまっすぐで強いまなざしは、ちっとも衰えを見せてない。あいかわらず挑み続けている。絶筆の花は、入院する日の朝、迎えの車が来るまでに一気に描いたもの。

4章では、概ね家族の肖像が並びます。

船橋の家で、家族に囲まれて絵を描いている。妻と娘たちと、穏やかな心持ち。

一章で登場した魔をまとわされちゃった親戚の「菊子ちゃん」や劉生の「麗子」と違い、妻や娘はなにかを表現するための「よりしろ」ではなく、ただただ大事な家族として描いている。

娘は健やかに育っていることが喜ばしく

 

「画家の妻」1943年 いつまでもこんなに美しく愛らしく描いてもらえるなんて、なんて幸せな夫婦

椿貞雄が、堅実に職を得て家を建てる道をはずさなかったのは、このかわいらしい妻あってのことかも...。

 

目に入れてもいたくない孫たちも、成長ぶりを何枚も描き残している。

「祖母と孫」1955年 妻が孫を抱く。愛と感謝となんとも幸せな気持ち。

 

家族だけでなく、このころの人物画も心に残る。初期の人物画はそうでもなかったのに。

1953年「老政治家の像」  とても自然というか、人への見方が率直なのでしょう。

 

風景もどれも好きだと思った。

雲がよいのです 「富士山」1940

 

これも雲がいいなあ、空も山も畑もいいなあ 「妙義山」1945

梅原龍三郎の影響もあるのかな。旅の風景はどれも、穏やかであたたかみがあって、おおらかで、見ていて心地よい。

 

「風景」1952

 

桜島」1956

 

どこか朴訥で、率直な印象は、一番最初の椿の自画像の印象に重なる。結局のところ、初めのところに戻ってくるものなのかも。

劉生は、激しく画を追及し、苦しみ緊迫したままに、峻烈に画業は絶たれてしまった。もっと長く生きていれば、劉生の絵にも穏やかな幸福感に満ちた絵があっただろうか。

椿の絵は、劉生と住まいが離れ、死別した40代ごろから、空気が変わり、生来のものが画に表出している。生まれて最初に見たものを親と思うあひるのように心酔していた椿が、劉生が置いて行った命題を生涯かけて答えをだしつつも、一方で、次第に自分の本来の個性をとりもどしたよう。

しかも劉生からの脱皮に苦しむのでなく、自然な形で歩き続け、酒におぼれる劉生を心配しつづけた。

「すごい」ではなく、好きだなあと思う絵。見ていて心地よい気持ちになる絵。

8階の解説にあった、日本的な「くつろいでかく・くつろぎをかく」。日本的な油彩。そこに椿は、たどり着いていたように感じた。


●「椿貞雄展」8階 千葉市美術館

2017-08-02 | Art

椿貞雄展 千葉市美術館 2017.6.7~7.30

いつも点数がこれでもかと多い千葉美術館。帰りには足が棒のようになり、千葉駅までの道がつらかったほど。けれど見終わって、こころが温かい感じでみたされていた展覧会は久々でした。

今回、194点中30点弱は、師の岸田劉生の作品。劉生の画業もたどる展示となっているのは、椿貞雄と切り離せない存在であるから。

椿貞雄は、劉生を信奉し、劉生が向いた方向を向き、劉生が追うものをともに追い、劉生亡き後もひたむきに描き続けます。一方で劉生亡き後の30年のあいだには、だんだんと、生来に椿貞雄が持ち合わせていた温かみのようなものが表面に表れてくるのが感じられました。どこか危うい劉生とは違う、感情の揺れ幅、家庭人感覚、金銭感覚、人当たり。貞雄は劉生を追いながらも、ふたりはそこで大きく違っているのでしょう。

展示は8階から始り、7階へ。階で展示のアプローチが変わっていました。そして、千葉市美術館のひそかにしかける展示は、今回も確信犯的です。

以下、いつものだらだら備忘録です。

8階

1章:出会い

岸田劉生、1891年生まれ、1929年に38歳で死去。

椿貞雄、1896年生まれ、1957年に61歳で死去。

米沢生まれの椿は、独学で水彩画を描いていた。旧制米沢中学を留年し、さらに中退、叔母のいる東京で正則中学に入りなおす。画家の道を認めない父親との葛藤は長く続く。

椿は1914年9月に偶然に見た岸田劉生の個展に圧倒され、手紙を書く。

劉生からのお返事が展示されていた。「貴方の挙げられたような人々と自分を並べられると恐縮します(略)私にわかることだけは御話致しませう。いつでも良い時にお越しください。」

貞雄は劉生と誰を並べ挙げたのだろう。14年に初めて入手した油絵具で描いた椿の「落日(代々木風景)」は、短筆の黄色い太陽がゴッホのようだった。

そのあと、2015年1月に劉生の家を初めて訪れた時に持参した「自画像」は、劉生の勧めにより巽画会に出品され、二等を受賞。

1月2日から9日まで描いて、描きあがったばかりのほかほかを、14日に持参。つたない感じもするけれど、独学で油絵を描き始めたばかりとは思えないほど上手い。

なにより絵への思いがストレートに伝わる。そして発せられる強いエネルギー。劉生は、それを受け取ったから、弟子として若い友人として信頼を寄せたのでは。


この後、劉生の傍らで、学ぶ日々。

劉生と椿貞雄の描く人物画が、並び展示されていた。劉生の目指すものを学びとろうとひたむきな描きぶりの椿の人物画。

でもやっぱり比べると、素人目ながら、劉生には及ばないように感じる。劉生の絵が、すごすぎるのだ。

岸田劉生「古屋君の肖像(草持てる男の肖像)」1916

「古屋君」は、医学者であり、キリスト教的精神主義に基づく小説も描いた、下宿の隣人。この30センチ弱の頭ひとつの中には、いったいどれだけの真理が秘められているのだろうと。まなざしの奥の、脳の内の、すべての内へ内へとひきこまれる。寄せてきて、さらに奥へと引きずり込まれるような、引き波の強さ、深さ。

のちの椿の言葉(要約)「緊密、厳格な描写、皮膚の持つ不気味さ、生生した生き者の不思議さ、真迫感。東洋の持つ独特の味、神秘。代々木時代に得ることのできなかった美を、彼は表現して見せた。」

 

1章に関する限りでは、椿の人物画では、冒頭の一番最初の自画像を超えて心に残るものはなかった。

むしろ、椿の風景画が心に残っている。

椿貞雄「冬枯れの道」1916、劉生と同じ場所(原宿付近)に行って描いた。

劉生の絵にそっくりだけど、劉生の切通し写生の絵に比べると、あのマグマが盛り上がるような力はないなあ...と思って眺めていると、題は「冬枯」。確かに、あの劉生の絵の季節と違う、弱めの冬のエネルギー。貞雄も、地面にその日のエネルギー量を感じ取り、真摯に写し取っていた。


椿貞雄「砂利の敷いてある道」1916

砂利のころころとしたリアル感。場所から受けた彼の「実感」がまっすぐ伝わってくる感じ。本体をきちんと見て、地の持つエネルギーを体で感じとろうとしている。

それが劉生から学んだことなのだと思うのだけれど、その中にも、椿らしい素直で実直な受け取り方、ひたむきさが見える。それでこんなに心に残る。


椿貞雄「垣根のある風景」1919 好きな一枚。劉生のような峻烈なものはないけれど、なんとなく。冒頭の自画像に似た、朴訥に力強い印象。

 

*

二章:伝統へのまなざしと劉生の死

1920年には、椿も劉生の住む神奈川の鵠沼に転居。翌年に結婚。

このころ劉生が注目していた宋元画に、椿も取り組む。ここは印象深い章だった。

明治以降、洋画界も日本画界も、「西洋の技法で日本らしいものを描く」「伝統と創造」「日本画の革新」など様々な模索があったけれど、なにかピンとこなかった。

展示の「くつろぎをかく/くつろいでかく」という解説には、深く頷くとともにひとつ腑に落ちた。

「(要約)油彩では、暑い季節のひとときや、涼し気な風や、ひと風呂浴びた後に浴衣に袖を通しくつろぐ気分を再現することが難しかった。それは日本の風土に由来する感覚であり、劉生たちは、日本(東洋)の絵画の材料である墨や和紙であれば、その気分をとらえることが簡単にできることを知った。同時に、墨の軽やかな筆の運びは、画家本人もくつろいで絵筆をにぎり、自ら描いている絵の中に自由に出入りできる気分すら、味わうことができた。それでは油絵ではできないのか?劉生にとどまらず、近代日本の油彩画家の日本的表現はこんなとこからも始まっている」

皆が必死になって追求しようと苦しんだ、伝統とか精神とか技法とかいう大仰なもののまえに、「気分」に明快に言及している。明治以降の日本画は、緊迫し描きこんだ日本画が多いけれども、このリラックス~な感じが、私が日本の古い絵が好きな所以でもある。

劉生も筆に遊び、椿はゆるい空気を描く。

劉生

椿貞雄

久隅守景の国宝「納涼図屏風」を思い出した。

こういうアジアンなお昼寝は、確かに油彩で描くのは難しそう。

 

劉生の文人画風の絵はとても心に残った。「麗子像」がなぜ、”東洋的なものを目指した”といわれているのか、初めて(恥)実感できた。

「童女髪飾之図」1921

うまく言えないけれども、普遍的。自分の中にも通じる東洋的な感性が少しなりともあるからだろうか。東洋的な風土、時間の流れ、観音様のような顔に感じる宗教性、すべてがこの絵にあるのかも。

麗子の謎めいたものの原点が見えた、くらい言っても許されるかな。

「麗子弾弦之図」1923

油彩の質感と劉生の画力に目がいっててこれまでわからなかったのだけど、確かに東洋のミステリアスだった。


この後に、関東大震災が発生。劉生は京都で、椿は米沢で過ごす。

京都では劉生の関心は、宋元画を経て、浮世絵へと転換する。

劉生の浮世絵の模写「狗をひく童女」1924、金屏風の「寒山拾得」1928も、たいへんみもの。特に寒山拾得は、筆の先には蝶が生まれ、速すぎず遅すぎずの伸びやかな筆の調子に、まさに劉生が生きて屏風を前に描きだしているようだった。


さて椿に戻ると、椿も21年から22年にかけて、姪の「菊子」を描いている。麗子像に劉生が目指したものと同じものを、椿も取り組んだのでしょう。それがまた、椿のはなんとも不気味さを漂わしていた。

椿貞雄「村娘図」1922

徽宗皇帝のねこ思い出してしまった。かわいいんだけども、同時に「魔」を秘めている。


椿貞雄「洋装せる菊子立像」1922

ここまでくると、ホラーか...(かわいそうに菊子ちゃん)。子供なのに、ただならぬ気配。神性を秘めている。「7歳までは神のうち」というけれども。

魔性と紙一重の無垢さ。というのは東洋的なのかもしれない。

「東洋的な神秘」って、あの世のものとこの世のものが交じり合い、俗性と神性や仏性が行き交うのかも。

 

椿貞雄「髪すき図」1931、光明皇后が、体中が膿んだ汚い老人を厭わず洗ってあげると、老人は実は仏で、光り輝き天に昇っていった、という話を思い出した。

浴衣の女性のモデルは妻。

椿なりに、東洋的なものを油彩で描くことに、到達していたのかもしれないと思う。

 

このころの椿の風景画が個人的にお気に入り。

油彩でも、日本的、東洋的なゆっくりゆるい時間の流れを、実現している気がする。椿は、劉生が浮世絵に関心が移った後も、変わらず宋元画への関心を保っている。

椿貞雄「夏の風景」1928 雲がかわいいなあ。

 

椿は1927年に、山本鼎の紹介で千葉の船橋市の小学校の図画教員に職をえて、船橋に転居している。これは船橋の光景かな?

そして同じ年に慶応の幼稚舎の先生も兼任し、やっと金銭の苦労から解放される。慶応の父兄が椿の絵の愛好者になり後援者になってくれることを、何度もありがたいことだと感謝していたという。小学校の先生に推薦されるのも父兄に親しまれるのも、椿の好まれる人柄があってのことなのでしょう。

山本鼎、梅原龍三郎、小杉放庵との交流も興味深い。皆どこか温かみのある絵を描く。

椿は船橋の先生は一年で退職し、慶応の先生だけを45年まで続けている。船橋に住み続け、家も新築している。

一歩一歩進んで行く貞雄と違い、安定や堅実さとは程遠いのが、そこは劉生。

劉生が京都に住んでからは、椿の回想によるとあまり会う機会もなく、劉生は浮世絵の研究に没頭しつつも、祇園で放蕩三昧を尽くしていたらしい。椿はその場に同席すると、「虚偽と空虚を感じ孤独になり、何とも淋しく・・(略)」と。酒はやめる、といっては飲み、倍近くに体重の増えた劉生の身体のことを心配している。「なぜかくも酔っぱらわなければならなかったのだろう。」「そんなことは彼は百も承知のうえだろう。何としても淋しくて不愉快で腹が立って仕方がなかったのだろう」。どんなになっても、劉生の気持ちに心を寄せる貞雄。

劉生は満州に行く前に、ひょっこり船橋の椿宅にやってきたそう。椿邸に泊まったのは初めてのこと。椿は喜んで、一週間にわたり芸者を呼んで飲めや歌えともてなした。それが劉生に会った最後。虫の知らせってあるのだろうか。

1929年に、劉生は満州から帰る途中に徳山で急死。

椿が描いた「棺の中の劉生」1929のスケッチは、やわらかな羽毛に包まれた幼い天使のようだった。

 

このころの椿の画業はあまりふるわなかったという。

展示もあまりなかったが、一点だけ、1931年の椿貞雄「春夏秋冬図屏風」(画像右側)は、劉生の描いた1921年「狗を引く童女」(画像左側)に似て非なるところが心に残る。

劉生は死後も絶対的な影響を椿の中に残しつつも、この絵には椿らしさが垣間見える。油彩なのに墨でひいたような地面は、「気韻生動」という言葉なんか浮かんだり。地のエネルギーを描くのは劉生に教わったことだけれど、自分なりの昇華の兆しも少し。


その後、悲嘆にくれる椿を見かねた周囲のすすめで、32年から7か月、パリへ。

パリの滞在中の作品では、アンドレという巻き毛で青い目のモデルの絵が数点展示されていた。描くことよりもむしろ、ルーブルなどで本物を見たことが大きかったのでは。スペインも気に入ったらしく、トレドの風景画が一点。ゴヤ、グレコを素晴らしかったと書き送っている。

パリでの修業がその後の画業に直接影響した感じはなかったのだけど、少なくとも、劉生を失った悲しみから歩き出すきっかけにはなったのでは。自分のなかに切り離せないほど大きく存在していた劉生と自分とを、客観的にみるきっかけにもなったかもしれない。

 

この章の最後には、いく枚かの椿の墨と紙の絵。

それがなぜか、スイカを食べる絵が多い(笑)。

1929年「村娘愛果図」。とっても嬉しそうに食べていた。

 

1921年に劉生が中国風の童子がすいかを食べている文人画を描いているけれど、思いがあるのだろうか。

ともかくも椿のすいかの絵は、劉生のすいか絵とは性格を異にし、おいしさ・楽しさMAXに、独自の進化を遂げている。この「すいか食む絵」をみた人は、きっと見た瞬間、にこっとするでしょう。

1934年「七月食瓜」は赤肉メロンかな?ひたすら食べる、無心に食べる。

パリから帰国した椿は、このような文人画的な作品から描き始めている。フランスから、

「もっと本能的になる必要を感じている」と妻に書き送っている。

 

最後は、子供たちが遊ぶ絵で、8階の展示は締めくくられる。

椿貞雄「四季の図」1934年

 

「春夏秋冬極楽図」1936年

遠くに富士山が見え、場所は船橋らしい。泉水は船橋の自宅にあるもの。

ここでもやっぱりすいかを食べてる。(拡大)子供が一生懸命食べてる姿って、なんともかわいい。

 

1949年の「春夏秋冬極楽図」は6曲の屏風。場所は米沢らしいけれど、泉水は船橋のもの。

椿は自分の子供や孫にも愛情を注いだようだけれども、学校の子供たちにもこんな眼差しで見ていたのでしょう。

このような絵をいく枚か見ると、じんわりほっこり。うまく描こう、いい絵を描こう、というようなものから脱したような絵。

文人画への入り口は劉生だったけれども、こんな愛情あふれる絵は、椿の独特の世界。劉生風の峻烈な絵から、この境地に至ったかと思うと思わず泣けてきそう。

 

展示の冒頭に、劉生の「人類の意志(人類の肖像)」1914が展示してあった。旧約聖書の場面で構成されたその絵で、劉生はミケランジェロの「最後の審判」の世界を構想し、「苦痛も醜も悪も滅亡も又喜びも美も甦生も、強く表れている。現生の美以上のと美に統合されているのだ。すでに醜でなく、まことの美である」と言葉を残している。

劉生はそれを完成させずに、断念した。

この椿の子供たちの絵は、劉生の絵と全然違うけれども、椿のたどり着いた答えなのでは。真の美である、と思った。

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これでもう、椿貞雄展として自分の中では完結した感。かなりのボリュームだった。なのにまだ7階に続いている。これ以上なにがあるのだ?。へとへとの足でエレベーターへ。続く。