はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

日展(2024年)

2024-11-24 | Art
先日、国立新美術館の日展を見に行きました。
 
日本画の今年の特選は、動物の絵が多い印象でした。
そのなかでとくに印象に残ったのが、こちらの羊です。
 
前川和之「結びつき」
 
介護が必要になった未年のお母さまのもとに、作家を含む子供たちが戻ってきて、新たな結びつきがうまれたと。

老いていく親を守り、心配しながらも、なすすべもなく老いは進んでいく。
私も先日の父親からの電話でずっと気になっていることがあり、この羊たちに自分を見るような気になってしまったのです。

 
川田恭子「予感」

黄色に惹かれて近づいたのです。
すると、目がコレ…。
ビビッと感応していますよね。
なんの「予感」なのだろう。
地底のマグマからなにかを感じ取ったのだったら…。遅かれ早かれ、Xdayが迫っているのは間違いないのです。
 
 
このあとも何度か、人智をはるかに超えた自然を見せられ、畏怖の念を呼び起こされました。
 
松崎良太「桜島」

遺作とあります。
陽をさえぎり、真っ暗にしてしまう噴煙。
凄いとしか言葉が見つからないのですが、陽の隙間に描かれた船に、一縷の共生を感じました。
 
 
こちらもまさに、地球のドラマ。
古澤洋子「地球のドラマⅡ」
地球規模のスケールが凄すぎる。(凄いしかいえない語彙のなさ…)
雨柱、わきたつ積乱雲。雷鳴。
 
気象だけでなく、地のパワーにも目を見張りました。
そこには町が。

凄いのだけれど、これほどの規模の現象を、このようにひいて俯瞰させられると、果てもない宇宙規模の出来事ではなく、地球のうえでの気象の出来事。その下にいるのが自分たちだと、ふっと足元の地球を感じたりもするのでした。
 
 
そうすると月は、地球と宇宙の間の存在となるのでしょうか。
宇宙だけれど、地球とセット。私たちの身体や潮の満ち引きに切っても切り離せない。
 
林秀樹「月の下風」
ドイツ表現派みたいな、ざわめく気。
月の引力なのか、大気の動きか、流されると言うよりも、引っ張られているよう。





一転して、今回は静かな世界に救われることもありました。
 
水野収「デイブレイク」
えもいわれぬ色調に、見入るばかり。

インドのマハーボディ寺院。
ブッダが悟りを得たという瞬間は、どのような景色に包まれていたかをイメージして周りの村を写生させてもらったとのこと。

悟りといっても、荘厳に描くとかいうことでなく、森からは鳥の群れが飛び立ち、木々の隙間から寺院が見え、ただただ村の風景が静かに。
だからかなのか、見ていると、心の中にこんなにきれいな色調が広がって、心地よいです。
今この瞬間は、たとえ私でも私のなかみをスキャンしたらとってもきれいかも?!。
 
改めて、そんな効果がある絵がときどきあることを実感します。
 
加藤晋「凍える月」
あまりにきれいで声がでそうでした。
アラスカで一年過ごしたことがあるとのこと。
マイナス40度まで凍り付いたら、空気が極限まで澄みきって、こんなにきれいに月の光を通すのでしょうか?。
一枝一枝がとてもきれいな白に輝くのでしょうか?

至福の埋没。
まるでサンゴの海にただよってるような気にもなりました。
こんなに凍り付いても、どこか温かみを感じるのは、作家の人がらなのでしょうか。
小さくあの生きものたちが紛れていたのを発見したときは、とても嬉しかったです。
 
ひと一人を大きく包む日展の絵の大きさに感謝。
しかし、こんなに大きな面積にこんなに描き続けられることが、どうしても信じられません。
 
この後も、そんな信じられない絵にいくつか出会い、絵に満たされる体感を満喫しました。
 
池内璋美「静穏」
風の振動さえ水面を動かさないくらいに静か。
 
 
 
久米伴香「風光る」


 
 
岩田國佑「田園」


 
 
 
絵のなかに小さな発見や小さな喜びに出会うときは、嬉しくなります。
 
山崎隆夫「悠々」
花がわくわくしている感じがして、とてもかわいいです。

鯉も赤い小さな魚も、マイペースでまさに悠々。
 
 
市橋節子「春の傍」

黄色くともる様子や白いわたぼうしが、ほっこり喜ばしいです。


 
 
中出信昭「浄蓮」
ほの暗いなかに、花がまるで螺鈿のように輝いていました。



そのあいまには、平等院鳳凰堂の雪中供養菩薩像のように舞っていました。
 
 
佐藤和歌子「ソロモンの指輪」
ソロモン王は10の指輪を用いて、魔人を使役し、動物と会話し、善悪を正しく判断したということです。
この三頭だての動物はハイエナかな。
象に乗る普賢菩薩像を思い出しました。
下から見上げると、墨や胡粉のうえに、金がきらめてとてもきれいでした。
 
 
こんな心持になるまで生きててみたいと思う絵にも出会います。
川崎鈴彦「池畔の桜」


99歳だそうです。
うまく言えませんが、毎年いいなあと思います。
 
昔は私は別にそんな長生きしなくても…と思っていましたが、幾人もの90、100を超える日本画家の絵を見るようになってから、この境地になってみたいと思うようになりました。
 
そのころにも、元気に日展に行ける脚力を保たなければ。
結局今年も疲れてしまって、洋画や工芸は見られませんでしたが。
 
 
 
 

田中一村展

2024-11-20 | Art
少し前に行ってきました。その時は待ち時間はありませんでしたが、今週は入場に40分待ちの時間帯もあるようです。

10年以上前に「アダンの海辺」を見て以来、千葉市美術館と佐川美術館の回顧展、奄美の田中一村美術館でも見てきましたが、今回は特に、南画時代、千葉時代の絵も多く展示されていました。

東京都美術館の構造上、1階2階と時期を追ってきて、奄美の作品は3階に詰め込んでいたので、かなり間隔が狭くなっていました。奄美の空気が充満していたかもしれません。
 
今回は、これまで知らなかった視点もいくつか紹介されていて、新しい発見がありました。
一村の回顧展に行くたびに、どんな人だったのかなと想像をめぐらすわけですが、どんなに想像しても、もう亡き人であれば本人に直接会えないのだけはなんともしがたい。
それでも、展覧会のたびに知らない一面に出会え、自分の中の一村像がアップデートされます。これからも自分の変化も重ねながら、一村像は変貌していくかもしれません。
 
さて、一階には大正時代、一村が子供のころからの南画が展示されていました。
 
描かれた植物の生気を感じ取りながら、それにゆだねるような筆の強さと巧みさには、子供なのにと驚きます。
 
 
八大山人にも関心を抱いたとのこと。
 
18歳の激しく踊るような、濃密に息を吐く藤は圧巻でした。

一本の木なのですが、前に立つと奥行には凄みがあり、奥へ奥へ引き込まれる感じです。奄美時代の萌芽が感じられるような気もします。
 
奄美時代の端正な線と比べると、濃密なのはすでにですが、南画の線は若い一村の意欲や激しさがそのまま、むき出しのよう。
お行儀のよい絵ではない。
20歳の時の花びらがうねる菊には、ゴッホの花が浮かびました。
 


 
20代初めは、家族の不幸が続き、寡作とされていたそうですが、今回様々な作品が発見され、従来の説を見直す可能性もあるそうです。
 
21歳の小さな山水図は、ちょっと意外。朴訥な筆で、民家のたたずまいにほっこりしました。

かと思えば、1931年、23歳のケイトウの気迫には目を見張りました。
超絶細密!

 

一村には並々ならぬ執着を示して取り組んだモチーフがいくつかあるようですが、ケイトウはその一つなのでしょうか。

翌年に描いたケイトウは、賛(所有者による)もよく、すっとした立ち姿が個人的にたいへん好きな作品です。墨の線と少しの赤い線は肩の力も抜けた達筆ぶりで見惚れました。

 

さらに翌年の真っ赤なケイトウは鮮烈でした。書のライブか、現代アートを見ているように感じました。

一村にとって、「赤」、とくに「黒に対する赤」とは、どんな存在なのでしょう。
 
雁来紅も印象的でした。
以下3点とも、1931年の作です。
 

とくに、1932年の雁来紅は、あいまいさを許さない強い色とその立ち姿に、「孤高の画家」と言われる一村が重なる気もしました。

老成か、PRIDEか。

しかし、このとき24歳...。

家族を次々なくし、生活もありながら支援者とも画風をめぐって妥協できずに決別した時期であったと思うと、この立ち姿に胸がつまります。

 

ちなみに、赤と黒、

この流れでこれまで何回か見てきた一村の「闘鶏」に繋がったのには、ちょっと笑ってしまいました。

尋常ならぬ気炎。

一村が闘鶏を描き始めたのはもっとあと、千葉時代から。闘鶏師のもとに通い詰めて取り組んだそうです。

激しい気性を秘めた一村は、闘鶏にシンパシーを感じたのかな。

 

他に、20代の印象に残った作品を以下に。

墨のにじみ、たらしこみと、水の軌跡が美しいです。

今までトップにいた赤が、この絵では下のほうにちょっと顔を見せていました。この彼岸花、しっかりと形が見えるのに、即興的ににじんでいて、あやうさというか、無常感というか。

 





 
秋のいろとりどり。その奥へとひきまれした。
どこを切り取っても、絵に見えないような。ほんとうにそこで見ているよう。
どの葉っぱを見ても、一枚の葉の中に色の移り変わる様が見えて、時間のはばに取り込まれます。




このあとは2階の千葉時代へ。
続きは改めて。