はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●実践女子大香雪記念資料館「中国美術史入門」

2018-01-30 | Art

先日の表参道の本の場所で「月光礼賛」(日記)を拝見した日、渋谷の実践女子大学 香雪記念資料館へ。

1月31日「中国美術史入門展」が開催中。

 

毎年、こちらの美学美術史学科の中国美術史入門の授業の一環として、展示されているものです。

前期と後期の2回開催、前期は主に宋・元画(一昨年の日記はこちら)、後期の今は明・清の画。

複製ですが、原寸大で精緻。台湾の故宮博物院を中心とする名品にて、簡潔に中国の美術史を学べる、貴重な機会。

石濤、八大山人、董其昌、倪瓚、黄公望、惲 寿平、、と、昨年の泉屋博古館や静嘉堂文庫の明清絵画展のおさらいにもなりました。(展示室は大学の建物内ですので、入り口で記名。女子大ですが、もちろん男性の方も観ていらっしゃいました。)

以下備忘録です。

なかでも美人画の流れが興味深い。東博東洋館で見た思い当たる絵があり、ちょっと嬉しい。

美人画も、政治や社会の変化を反映している。

唐:華やかな宮廷文化を反映した美人。豊満系の女性像が多し。一流画家が活躍した。

宋:文人政治によって儒教的価値観。山水や花鳥がメインに。女性は細い姿が好んで描かれた。

元:白描画

明:すたれていた美人画が再興。明末期には独特の美人画。

清:美人を中心に据え、(はかなさ通り越して)病的な美人画が描かれるように。

 

いくつかメモと印象。(展示リストは文末に。)

「宮廷図」作者不明 唐8世紀 :琵琶、笙、筝などの楽者の真ん中に卓を囲む婦人たち。呑んでぐでっとくだまいている。けだるく退廃的な様子が、背景なしでしらじらと浮かんでいる。「くつろぐ姿」は、唐代に流行ったそう。

 

 ・丹楓ゆう鹿図 作者不明 五代 10世紀 :不思議な作。彩色の花木と、わずかなスキマさえつくらない水墨の透けるような鹿。このように余白なく埋め尽くしているのはほかにない。彩色、水墨で山水と花鳥が融合した。まだジャンルが未文明だったからこそ存在しえた。自然描写と装飾性をこのように併せ持つ画は、のちの中国絵画からは姿を消した。木や鹿は北方の風土を示す。

 

 ・文同(1018~1079)「墨竹図」北宋 11世紀中頃: 墨竹画の創始者。蘇軾のいとこ。画面を斜めに下がってくる枝は、最後には上へ伸びあがり、起死回生のねばりを見せる。濃淡が巧み。こののち日本での中国でも多く描かれた竹の元祖がこれかと思うと感慨。濃淡に留意しつつもの、筆のキレ。泉屋博古館で見た、武士が墨竹を描いたのもわかるような。

 

・蘇漢臣「秋庭戯嬰図」南宋 12世紀後半 :ふっくらぽちゃっとしたお姉さん(6、7才くらい?)と弟(3、4才?)がかわいい。菊と牡丹が写実的。真ん中やや右寄りに細高い岩山が画面にぬおっと立ち、永遠な感じ。よって子供たちの単ににかわいいだけの絵にしていないところが、売れっ子の計算??。子(男)供を描くのは子孫繁栄の願いで人気画題。人物をゆったりととらえるのは北宋の名残りで、上部を大きく開けるのは南宋風。

 

・劉松年「羅漢図」1207 南宋 :沙羅双樹、透明な頭光、桃を持つテナガザル。桃がザクロっぽい。インド風風貌の羅漢に、侍者はあっさりした東アジア風の顔。細密な描き方が異彩。

 

・王冕(おうべん)「南枝春早図」1353年 元: 墨梅は南宋からの人気画題だが、宋代の梅は枝の鋭さに主眼を置く。一方これは花を増やし生命力にあふれ、新たな受容層の広がりと好みが見て取れる。花がびっしりと重なるほど。枝は自由にくねり、伸び、まさに生命賛歌のような画。

 

・辺文進「三友百禽図」1413 明:松竹梅の三友。鳥がいっぱい。スネイデルスの鳥のコンサートのよう。

 

・文徴明「湘君湘婦人図」1517 明:文人ならではの独特さ。堯帝の娘二人。夫の舜帝の後を追って身投げし女神になる。三日月の様に流れるようなライン。仇英に彩色をさせたが気に入らず。

 

 ・石濤、王原祁「蘭竹図」1691清:石濤が竹、王原祁が後から蘭石を補い描いた。二人の都での接点を示す作。寂獏とした情景は珍しい。竹はたっぷり水を含ませた筆、岩は乾いた筆。風をが抜ける。

 

キリがないのでこの辺にいたします。とにかく全てが名品中の名品。大家中の大家。少しずつ勉強していきたく思います。

 

 


●表参道「本の場所」で、裕人礫翔さん「月光礼賛」

2018-01-28 | Art

表参道の「本の場所 美術のおまけつき」で、 裕人礫翔+吉田拓也「月光礼賛」を拝見してきました。

2018.1.23~ 2.2 https://www.honnobasyo.com/vol-45

裕人礫翔さんは、西陣に生まれ、「金銀模様箔」の伝統技法の継承者であり、箔アーティストとして現代アートも手掛ける。昨年は銀座シックスでも展示があったのですね。

建仁寺の『風神雷神図屏風』や、南禅寺・妙心寺などの障壁画の複製の金箔復元も携わっておられるそう。

最近はキャノンの高性能の復元画の展示を見る機会が増え、その精緻さに驚きつつ、金色ってコピーできるのかな?と疑問を抱いていたのですが、その疑問が解けました。金の輝きは複製できないので、上から金箔をはるのだそう。このような方の仕事のおかげだったのですね。

以下、備忘録です。

地下の室内には、箔の作品。大きな月が地上に降りているのでびっくり。

おや、後ろに掛け軸があると思ってみたら、さらっと若冲で、またびっくり!。さらには蕭白(!)、応挙(!)。それがプレートもなく…。

しかも人物もトラも鶴も、目ヂカラのある個性的なヤツ揃い。現代の作品も江戸時代の作品も、どちらの存在感もくすむことがありません。画と現代アートとを合わせて、いろんな想像を与えていただきました。

(写真は許可をいただきましたが、載せるのが申し訳ないくらいうまく撮れてない…。神秘的な雰囲気が伝わるように撮れていればよかったのですが…。)

 

ごつごつとした鉄の肌に銀箔が。

この赤や青、紫などの多彩な色が、全て銀箔というのに驚き。彩色したのでなくて、銀箔は、熱と硫黄のコントロールによって、銀、薄金、濃金、赤、青、緑、紫、黒、墨と変化するのだそう。

光の具合で輝きが変わり、見るたび違う世界。
横に回って見ると、光の反射が消え、色も輝きも失われて、作品が眠りにつく。

最初から寝ている作品は東洋にはあるけど、作品がいま目の前で眠りにつくという、突然で初めての体験に、あっと小さく声がもれたくらい。心を揺さぶられるというのはこういうことか。

 

 

このあと、私は国学院博物館の「いのちの交歓-残酷なロマンティスム-」展に立ち寄ったのですが、岡本太郎や縄文土器のかけらや(食されたあとの)動物の骨などをみながら、この作品がよぎりました。

鉄という素材の暴力的で原始的なゆえかもしれないし、光を当てた時の爆発するような輝きゆえかもしれない。輝いているのに暗さがあるからかもしれない。

 

月の作品は、三日月、半月、新月と。移り変わり、繰りかえし。

金属のようですが、和紙と箔だそうです。

表面を見つめていると、上手く言えませんが、見る時間自体がすばらしい体験だったのです。

 

闇が美しい。だから金も美しい。この両者は、光と闇のごとく相反しながら、同時に切り離せない関係であり。

そういえば、すぐ近くの根津美術館でも、「墨と金」という企画展が開催中でしたっけ。

 

こちらは箔に漆。ロスコを思い出しました。長くみていると、見えてくるものが見えてくるのも、ロスコのよう。

 

さりげに応挙がこの作品を見続けていました。その応挙を若冲の鷹が見ている。



この会場には和ろうそくがおかれていました。この時は昼間だったので炎は灯っていませんでしたが、スタッフさんが、和ろうそくは独特なゆらぎがあるので、銀箔や銀箔が刻々と変化し、見飽きることがないとおっしゃっていました。
昔は、夜は屏風や掛け軸をそんな風に見ていたのですね。

ふと、ラスコーの壁画が、真っ暗な洞窟のなかで、焚火の灯りで描かれたことを思い出しました。あの人たちも、火の揺らぎで、岩壁に描きつけた牛や馬の群れが動くのを、おおーと感動してたかも 。そこに神を見ていたのかも。

ああっ、陽が落ちてから来るべきだったか。

 

外に出ると、入るときには気づかなかった青い世界。

 

小さめの円が、絵巻とともに。これは自然光のもとで拝見。

絵巻好きとしては嬉しく、これらの作品にも愛らしさすら覚えてしまう。何百年もまえのものを、今のもとの混在させて見せて下さる主催者の方に感謝感謝です。

 

とてもきれいでした。金属的なものなのに澄んでいる。現代のものなのに、長い時間を抱合するような。金や銀の持つ不思議さ。

スタッフさんのお話もお聞きできて、楽しい時間を過ごしました。

こちらは朗読会も開催されているそうです。

↑「本」の字のなかにいろいろな作家さんの名前。私の好きな中島京子さんも発見



和ろうそくの灯る夜にもう一度行こうかな。


●杉山寧の旅 市川東山魁夷記念館「日本画三山―杉山寧・高山辰雄・東山魁夷―表紙絵の世界とデザインの魅力」

2018-01-25 | Art

市川東山魁夷記念館「日本画三山―杉山寧・高山辰雄・東山魁夷―表紙絵の世界とデザインの魅力」

平成29年12月9日(土)~平成30年1月28日(日)

 

初めて行ってみました。東山魁夷は1945年から亡くなるまで、市川に住んだそうです。

メルヘンの世界みたいなかわいい建物・・・。

洋風の建物であるのが不思議でしたが、HPに理由が記されています。:東山魁夷の人間形成、東山芸術の方向性の両面に影響を与えた留学の地、 ドイツに 想をえた八角形の塔のある西洋風の外観、と。

2005年築、設計は日本設計。

一階に、1章:杉山寧・高山辰雄「文芸春秋」表紙絵の世界

    6章:資料(魁夷の表紙絵の複製を展示。「保険同人」「日本」「週刊朝日」)

二階に、2章:杉山寧・高山辰雄の作品世界

    3章:吉田五十八の劇場設計と日本画

    4章:東山魁夷緞帳の世界

    5章:東山魁夷と歌舞伎

杉山寧(1909~1993)・高山辰雄(1912~2007)・東山魁夷(1908~99)の三人は、なにかとセットで展示され、山が着くからって別に「三山」とまとめなくても・・といつも思っていました。

今回は雑誌の表紙絵に焦点を絞った展覧会。すると、三人のそれぞれの世界が際立って感じられました。

以下、備忘録です。

「文芸春秋」の表紙原画は、杉山寧の24点、高山辰雄の24点。

私は高山辰雄が好きで、実は杉山寧の際どい彩色や、明確な狙いのもとに整理されたような絵が、実はこれまで苦手だった。

でも、わずかしか見たことがないのに断じてはいけませんね(反省)

この日は杉山寧に開眼。表紙絵の17センチ角ほどの小さな画面では、杉山寧の明確な色の対比のせいか、とても魅力的。旅の絵だったのも好ましいところ。

また絵とともに毎回掲載された寧の文章も付されていて、見応えが増幅。寧が思っていること、目指していること、旅先での感心のツボなどがストレートにわかる。共感することがいくつもある。

 

杉山寧の表紙 (1965年、66年)蘭島閣美術館蔵

杉山寧は、1955年に安井曾太郎のあとを継ぐという重責とともに、文芸春秋の表紙を担当する。それから1986年まで、30年!。全369回分!。鏑木清隆、安井、梅原龍三郎、藤田嗣治、橋本関雪、竹内栖鳳、川合玉堂、川端龍子、平松礼二の歴代でも、最長記録。

 

なかでも心に残ったのは、寧が縄文に大きな感動を感じていたこと。

「土偶」1966

埴輪は旧い日本の彫刻としてすぐれたものであるのはいうまでもない。だがそれよりも前の縄文時代の土偶に、私は一層興味を惹かれる。それは埴輪ほど、当時の人間や風俗を具体的に感じさせはしない。また埴輪の持つ優美さももたないかもしれない。しかし、その素朴な逞しさと、強靭さは、原始の人の心がそのまま込められているように思われる。それは単に手すさびに作られたものではない。よほどの必然性によって作られたものにちがいない。何かの祈りを込めて。だからこそこれらの異様な表現も、強く我々の心をとらえるのであろう。

ラスコーの壁画展や火焔土器などを見つつ昨年来なにかと考えてしまう、「どうして描くのか」「どうして作るのか」。その疑問への、寧からのひとつのヒントの様におもえた。「よほどの必然性」「手すさびにつくられたものではない」ということは、これらを作った当時の人たちに思いをはせるうえで、不可欠。

 

他にも心に残った絵と文(文は抜粋)をメモ。

「サッカーラーにて」1966 

外壁の直戴な面や重量は、単純な砂漠や、碧一色の大空と一体のものの様に思われた。

 

「ロバに乗る男」1965

(エジプト)あの背の低いロバ大の男がまたがって歩く恰好は、いかにもとぼけた、おかしなものである(同感!)。然し、不思議と辺りの風物と調和して和やかな雰囲気を作り出している。(略)日干し煉瓦で造られた家を、余裕があれば白くあるいは桃色なぞに塗り、または外壁に何かの思い出があるらしい素朴な絵を描き、(略)その場のいろどりを工夫していとなみに潤いをそえてる。ゆきずりの旅行者にもその温かい感じが気持ちよく伝わってくる

 

「マカオの海」1965

(カルカッタの空港をたち、マカオの上空あたりで高度を下げた)ジャンクと呼ばれる貨物船であろうか。大きな自然の中の小さな人間の生活が思われて印象深く心に残った。わずかの間でも西洋を見てきた眼には、この景観からも東洋というものがはっきり感じられる

 

「乙女の柱」1965

(アクロポリス)頭上に軒を支え、毀損と風化のなかに25世紀を立ち尽くしたこの数体の乙女の像に感じたものは、哀れさであった。

 

「供物を運ぶ女」1966

女性が頭に荷物をのせて運ぶ習慣は、一概には言えないが、熱い国に多いようである。(略)なにか理由があるのだろうが、おもしろいことだと思う。

(略)なかでもルーブル美術館にあるその中の中の一体はとりわけ美しく、ほっそりとした姿態ものびやかに、4千年の歳月に色彩も薄れつつあるが、軽々として、その素朴で優雅な感じは、数あるエジプト彫刻のなかで最も好ましいもののひとつである

「姿態ののびやかさ」、「軽々とした感じ」ならば、山種美術館で見た寧の作品に思い当たるものがある。

 

「城」1966

(姫路城)市街から見たそれは(略)、それ以上の感銘はなかった。然し一歩場内に入り、土塀にはさまれた迷路のような道をさまよい、又建物のうちの薄暗がりに佇むとき、思わずも、時代を超えた不思議な感慨が心を占めていた。

この感覚、土牛の城の絵にも感じたなあ。建築は内部に入ってこそ。内部をさまよった先に出会うときめくは、安藤建築にも通じるかも。とか勝手に感じている。

 

「向日葵」1966

 

「冬がまえ」1966

現代の生活は、すべて自然のあり方を、我々に都合のよいように訂正しようと願っている(略)。だが誰かは、昔の人の自然をあるがままに受け入れ、その中に美しさを見出し、楽しさを作り出した素直な生活も、心の中ではうらやましく思っているに違いない。

 

全体を通して、寧の自然の中から感じる心に触れたような気がした。おおらかで、あたたかみがあって、悠久、原始、そういったものに動く寧の心というか。

その意味では、高山辰雄の表紙絵からも、自然観を感じ取ることができる。

以前も書いたけれども、高山辰雄の絵に宇宙と体内の細胞との交感のようなものを感じつつも、ずっとうまく言葉にできなかったのだけれど、ここでは高山が自分の言葉で述べている。

高山辰雄は、寧の跡を継いで、1987~99年まで、156号分の表紙を担当した。高山の文章は詩のようで、題材も身近なものが多い。そして静かに深淵に、愛情深さを感じるような絵だった。

 

「日輪」1987は、その初回にふさわしい、富士と日の出。その両者と同じくらい、いえもっとか、画面を満たす赤い背景も、存在感がある。ひとつの物質としてあるような。お正月号。高山の祈りが伝わるような。

 

「緑萌ゆる」1987

銀色の、金色の、又夢の様に柔らかな色。それは優しい、が激しい。体中新緑といっしょになって、ゆれる。

こんなふうに高山辰雄は自然に身を任せているのかと思う。

 

「夜の気」1987

夜の気 帳 包み込む暗さは 太陽が地球の裏側にあるからではなく どこからかやってくるようにも見える

美しさ 静かさ そして怖さや不安 何もかもあらゆるものを持って ゆらめきながら 現れる

高山は、目にみえない空気自体を存在として感じ取っている。以前に見た絵でも、空気自体をとりたてて前面に押し出しているわけでもないけれども、空気が日月と地上のものとの間で響きあっているように感じる。どうしてそう感じることができてしまうのか、どのように描いているのか、高山の絵は不思議で神秘的。

 

「明るい日」1999

その時々に、ひとはそのなかに行事を作り、朝を夕べを 山や森を 楽しむことを発明した 野に遊び 水を眺める

かしこいなあ人間はと感じることがある それほど人間は辛かったのだとも感じられる

泣きそうに見えてくる花。それでも咲いている。

 

「野に遊ぶ」1999

「古代人を古代人と考えるのは 現代人の思い過ごしとかんがえたりすることがある」

この子供たちを見ると、古代人でもあり現代人でもあり、違いなどないように感じる。

 

「澄明の空」1999

以前からこの季節の気を どのように 何とか表現できないかと むつかしくも楽しく 見続けている 

何か万物の動き 存在を思うのである

風に吹かれるこの女の子は、高山辰雄自身のようでもある。俗人の私には難解と思っていた高山辰雄の、子供のような後ろ姿を見たようで、ちょっと嬉しかったりする。

 

気を描くのに、高山自身も試行錯誤していたのだ。

でも、87歳の高山辰雄は「楽しく 見続けている」と。一生をかけてもまだまだ答えが出尽くさない問いを、自分のペースで追い、描き続けている。

おそらく私もこれから生きていくにつれ、「万物の動き、存在」を少しずつでももっと実感できるようになれば、高山辰雄の絵の発するものにもっともっと触れられるんだろう。

二章以降

杉山寧の言葉:その時写生がよみがえるが、描き上げられる画面の構成は、その絵のために新しい秩序を作り出しているつもりである。

それで、上述の”整理されたような絵”という印象になっちゃっていたのか。

 

・高山辰雄では、「花のある静物」1964は、クロッカス、たまごや玉ねぎなど。一つ一つのモチーフが、宇宙の中でつながる存在であり、内の内で響きあっているよう。

「森の気」1973は、くすんだ緑の色彩なのに、どうしてこんなに樹木の一本一本が気を放っているのだろう。この中に一歩足を踏み入れたら、いったいどんなだろう。

 

・東山魁夷では、緞帳の下絵に惹かれる。これが大ホールの大画面に広がったら、と想像する。こんな青や緑の海や森が広がったら、ずっと見ていたくなりそう。魁夷の緞帳、いいなあ。機会があったら見に行きたいもの。下絵は6点あった。今も現役のものはあるだろうか。

「爽明」帝国劇場緞帳下絵 1972

 

「波響く」愛媛県民文化会館緞帳原画 1985

 

魁夷と歌舞伎界のつながりの章では、魁夷の手描きの着物に圧倒された。

六世中村歌右衛門所用「助六」揚巻の着物 1956 

珍しい魁夷の水墨。荒く太い筆致。墨と金で岩と松を。波は金の線。迫力だった。

魁夷の知らなかった一面にふれることができました。

こちらは、気軽に、落ち着けそうなカフェも併設。「白馬亭」といい、上野精養軒の直営だそう。ケーキメニューに後ろ髪をひかれながらも、近くの法華経寺(前回の日記)へ急ぎました。


●法華経寺に、立正安国論、伊東忠太、本阿弥光悦

2018-01-23 | Art

 日が経ってしまいましたが、千葉県市川市の東山魁夷記念館(日記)に行ったあと、すぐ近くの日蓮宗 大本山正中山 法華経寺にもお参りしてきました。

せっかく市川まで行くので近くにもうひとつ見どころはないかな、と思ったところ、こちらの法華経寺がhit。

伊東忠太(築地本願寺の設計など)の設計の「聖教殿」があり、しかもその中には、日蓮の国宝「立正安国論」が保管されているとは。

 

日蓮というと、千葉の鴨川生まれというのは記憶にありましたが、市川は日蓮にとって深い縁があるようです。

ざっくりとメモ:鎌倉時代、この地に館を構える武士、富木常忍は、鎌倉に出向いた際に布教中の日蓮と出会い、熱心な信者となる。1260年、日蓮が立正安国論を北条時頼に建白した40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされると、日蓮は常忍を頼ってここに逃れた。さらに1264年に襲われた際にも常忍のもとに身を寄せ、常忍は館の中に法華堂を建て、日蓮に説法を願う。この若宮法華堂で日蓮は、百回に及ぶ説法を行う。1282年、日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺とする。

 

仕事ついでだったので、法華経寺に着いた時にはすっかり夕暮れどき。

五重塔(国指定重要文化財) 本阿弥光悦の甥、本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したもの(こちらから)。

本阿弥家と日蓮宗との縁は、本阿弥光悦の曾祖父・本阿弥清信が、将軍足利義教の怒りに触れて投獄された際に、たまたま日親上人(1407~88。法華経寺で修行し、京に上る。将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、迫害を受ける。焼けた鍋をかぶせられるという拷問を受け、鍋かぶり上人と呼ばれたとか。)と獄中で出会い、帰依するに致ったことを端緒とする。ムショなかまなのね。清信は、出家して本光と称し、日親の本法寺の再再建に協力する。

 

大仏様(1719年鋳造)はメンテナンス中

 

祖師堂(国指定重要文化財)1678年

「祖師堂」の扁額は、本阿弥光悦の筆

 

刹堂 十羅刹女・鬼子母尊神・大黒様を安置。

 

法華堂(国指定重要文化財) 法華経寺の本堂。上記の富木常忍が若宮の館に建立し、後にここ中山に移されたと伝えられる。

禅宗様を基調に和様を取り入れ、室町時代後期に再建されたものと思われるとのこと。

扁額は光悦。

 

振り向くと、四足門(国指定重要文化財 )室町時代後期 鎌倉の愛染堂にあったものを移築したと伝えられる。

 

「こけら葺」の屋根の肌が印象的。

 

宇賀神社

 

宝殿門

この門をくぐると、聖教殿へ。ひっそりとした小径の向こうに。

 

聖教殿 昭和6年 国宝の観心本尊抄、立正安国論ほか重文数十点が保存されている。

伊東忠太らしく、いろいろと神獣に守られている。フェンスの向こうにあり、スマホではうまく撮れなかったのが残念

毎年11月に公開されるそう。

 

引き返すと、さきほどの宝殿門の太鼓が見える。

ぐるっと参道へ出たころには、すっかり暗くなってしまいました。

 

赤門(仁王門)

扁額は光悦

日蓮というと、激しい人、というイメージ。

京成中山駅へと続く参道に黒門

黒門のたもとに和菓子屋さん

戻って、先程の赤門の仁王様

参道は、通勤帰りの人が通り抜けています

参道のお店が静かに灯りをともしていました。初詣のころはたいへんにぎわっていたでしょうね。お花見にも人気だそう。

 

龍渕橋(龍閑橋)昭和20年 欄干はざくろの形

 真っ暗になってしまいました。

 

和菓子屋さんで買った「鶴もち」♪

花びら餅

周辺にも塔頭などお寺が集積していました。短い時間でしたが、楽しい散歩でした。

 


●上野公園の西側のあたり

2018-01-22 | 日記

仁和寺展や常設展を観に行ったのだけど、なかなか日記に書けないでいます。

待ち時間に、スマホから散歩写真だけ貼ります。

いつも上野駅のJR公園口から直行直帰するところ、この日はアメ横側から。
数日前からどうしてもタイ料理を食べたくて、

マルイ裏の雑居ビルの三階の「シャー・トムヤムクン・ポーチャナー」へ直行。

大通りから一本入るだけで、多国籍でdeepなエリア。



たいていのタイ料理屋と同じく、先の王様や、王女様(現王様の姉)の写真が飾られている。今の王様の写真を掛けてあるお店は、まだ見たことがない…。

パッタイ(^-^)

私は太い平麺のが好きなのだけど、こちらのは中細麺。
でも美味しい〜(^-^)。けっこう辛い〜🔥(^-^)。


さて、何年かぶりに西郷さん側から上野公園内に入る
大河のせごとんで、この像の除幕式に妻(黒木華)が「こんひとはうちのひとじゃごわはん〜」と叫んでおりましたっけね。







こんなのがありました。「上野華灯篭 浮世絵行脚」

不忍池風景。この展望台はいまはどこのあたりだろう??


昔の今も、上野のお花見は大騒ぎ🍶

絵は、昇斎一景のようだ。一景は明治の文明開化時期の風俗画を残しており、ここにも洋服の男性がいる。目隠しをした洋服の男性は、隣の宴席に飛び込んでしまったのか?迷惑がられているみたい。敷物にこぼれたお酒をなめている男性もいる。

 

こちらは歌川豊国「江戸名所百人美女」。後ろの小間絵に、”上野 山下”とある。やっぱり満開の桜。



神社があるのに初めて気づいた。
花園稲荷神社




カップル多し。もたもた写真撮ってると、ちょっとじゃまものな感じだったので、お参りもせずに退散。縁結びのパワースポットとして知られるらしい。

またね、狛犬さんたち。
 

おおー久しぶりのパゴダ。昭和42年築。


精養軒の駐車場に誘導するパンダ



上野東照宮。 1616年、徳川家康の遺言に従い、 天海僧正と藤堂高虎が開山。社殿は1651年に徳川家光公が造営したものが、現存している。数々の火災や戦乱、空襲をかいくぐったというのは、奇跡的では。

牡丹園が見頃だそうだけど、先を急ぎますのでまた今度。

この売店、甘酒やお面、江戸っぽいおもちゃなど、キッチュで懐かしい店がまえ。繁盛してました。

オリンピックに向けてか、上野ではあちこちで工事が進んでいるけれど、このお店は存続するんだろうか。
動物園の前にあった小さな遊園地は、2016年にこのようなお知らせ看板に無念をを託し、閉園した。
「この度、地主である東京都から『動物園の魅力を高めることを目的とした、正門前広場の整備工事』の支障になると許可を取り消されましたので、やむを得ず8月31日(水)をもちまして廃棄いたしました。」

この売店は東照宮の敷地内だとしたら、都とは関係ないかもしれないけど、どうなるのかな。

お団子茶屋。パッタイでお腹ぱんぱんでなければ入るところだけど。

知らないところがたくさんありました。美術館と動物園以外、ほとんどまわったことがなかったのです

こんどは不忍池も行ってみよう。

もうすぐ東博に到着。横の木立のなかでは、この日も炊き出しに長い行列ができている。上野では週に数回、炊き出しがおこなわれている。

美術館に一歩入れば、値段もつけようのない宝物や美術品が並ぶけれども、その外側はいろんな要素が混在する上野。

けっしてとりすましてすむ街ではない。

公園内に限っても、オリンピックのために、都は”魅力ある”公園として”整備”を急ピッチですすめるのだろうけれど、どんなふうになるのだろう。

個人的には、

・公園内の暗いアスファルトの色の道路が何とかならないかな。

・東博にちょっとひと休みできるくらいのカフェができないかな。(宝物館と東洋館のオークラ系列のレストランも好きだけれど、本館にほしい。オークラほどりっぱじゃなくていいので、誰でも気軽にコーヒーが飲めるくらいの。)外の移動店舗カーのは夏冬は厳しいし、平成館の鶴屋吉信は企画展の時だけだし・・。

 


●三井記念美術館「国宝雪松図と花鳥」

2018-01-16 | Art

三井記念美術館「国宝雪松図と花鳥」 

2017年12月9日~2月4日(円山応挙「雪松図」は1月4日から展示)

 

日本橋の三井タワーの7階が鳥尽くしになっていました。歴代の三井家の人々がこんなに鳥好きでいらしたとは。その財力には感嘆のため息がもれるばかり。

円山応挙の国宝「雪松図」、沈 南蘋狩野栄信渡辺始興柴田是真河鍋暁斎仁清などなど、私の興味惹かれる絵師がたっぷりと勢ぞろい。眼福眼福でした。

以下、好きな作品の備忘録です。(画像は、絵ハガキ、フライヤー、三井記念美術館のHPから)

**

◆出品目録に出ていないけれど、印象的な衝立(ついたて)がウエルカムボードのように迎えてくれる。

布を切り張りし、刺繍で仕上げたような花鳥。絵とは違う光沢と色の冴えが印象的。「剪綵(せんさい)」という技法とか。奈良時代に伝来したもののやがて忘れられていたのを、徳川家治の時代(1760~86)に、三井家に伝わっていた裂地でつくられてから復活したそう。

牡丹と孔雀の図の剪綵(1883年)は、三井の総領家である北家の8代目当主、三井高福(1808-1885)の画を基に剪綵に仕上げたもの。岩は青みがあり、たっぷりと孔雀の羽も紺色の系統色で、三井高福の怜悧な好みを想像する。

牡丹と鶏の図の剪さいは、高福の画を、11代目の三井高公夫人の鋹子(としこ)(1901-1976)が 剪綵にて仕上げたもの。(この方、松平春嶽のひ孫さま。) 以降、三井の奥方さまたちに継承されているのだそう。ちなみに高公邸は、現在江戸東京たてもの園に保存され、見学できる。

 

◆展示室1

茶道具や香合の珍しいものがたくさん。鳥もびっくりでは。自分のパーツがこんな美しい品々になっているとは。ちょっと気の毒かな。

・「青鸞羽箒」は、鳥の羽を三枚ほど重ねて作った卓上ほうき。鳥だけど、ヒョウ柄が鮮明で美しい。その羽を提供した青鸞は、マレーシア辺りに生息するとのこと。数寄者は自分で羽を選ぶのだとか。

 

・香合では、たまごを半分に切ったものがお気に入りそのたまごがまた、鶴だの孔雀のたまごだというから恐れ入る。その吉祥な鳥たちのたまごが金や絵で仕上げられ、なんとも優雅な逸品。卵の製品は輸出用に人気だったのだとか。イースターの土台があるからかな?。でも横割りにしたのは、斬新に見えたかもしれない。ダリに見せてあげたいかも。

鶴卵香合 前後軒園中産」は、北家9代目が屋敷で飼っていた鶴のたまご。内側を金で塗り、まぶしいほど。

孔雀卵香合 了々斎好」1814は、和歌山城で飼われていた孔雀のたまご。紀州藩主から拝領したのだそうな。内側を漆、外側は蒔絵の牡丹。

柴田是真が、鶴の卵を盃にした「稲菊蒔絵鶴卵盃」は、たいへんクールに美しかった。稲穂はむっちりつまって、首を垂れ、菊とともに秋の風情。見込みの金地は、陽に輝いて見える芒野原のような色みで、うっとり。

 

・仁清の香合は、首のひねりもびっくり目もかわいい

 

・茶道具では、「凡鳥棗 藤村庸軒好」。漆にひとつ、桐の葉の文様が描かれている。底には、(鳳の字をふたつにわけて)凡と鳥と。なるほど。鳳凰は桐の葉を好む。

 

◆展示室4

見ものぞろいの掛け軸や屏風。なんて贅沢なお部屋なんだろう

《狩野栄信「四季山水図」4幅》 はとても好きになった大型の掛け軸。

人も動物も、キャラ設定とストーリー立てがしっかりしてある。そして山も村も、細部にみどころシーンがいっぱいあるのだ。(以下、長いので読み飛ばしてください

栄信といえば、木挽町狩野の8代目。昨年の板橋美術館の江戸の花鳥画展では、濃い青地に牡丹の画が展示されていた(日記)。中国画を基にしたようで、鈴木其一にもそっくりな枝ぶりの牡丹の図がある。

一幅めは、春の初めのなだらかな山里の情景。梅の花が少し開き始めてたところで、空気はまだ冷たそう。村の人々は、一人3センチ程なのに、体勢もしっかり。表情や目線までちゃんと描いて、生き生き。中段あたりには、馬にまたがろうとするひと。水辺の柳下で馬を洗う髭のおじさんは、日に焼けた肌も健康そう。東屋には琵琶をひく高士、外を眺める高士。その視線の先には、梅の木から飛び立つつばめの群れ。

川の中州には、白ヤギ母子がかわいい。子ヤギは母ヤギの乳を飲んでいる。その足元に置かれた植木鉢には水仙、花壇には牡丹や百合が咲いている。ほのぼのするスポットが散りばめられた、ハートフルな幅だった。

二幅めは、うってかわって夏の自然の雄々しさ。雲海を超えてそびえる岩山。どうどうと音が聞こえそうな滝がいく筋も流れ落ちている。気付けば小さく、山中にお茶を広げる二人。二人の視線の先に、お、鷲が飛んでいる。うっ、鷲は青い尾長鳥をくわえている(怖)。でもその先の木の上の巣に、母鳥と、口をあけて待っている三羽のひな鳥。鷲とはいえ、ひながかわいいなあ、親子愛だなあ。と思った瞬間すとんと陥落。狩野栄信ファンになってしまった。そしてこの幅、遠目で見ると、岩山と雲と樹々とすべてが一体となって、自然の力強さと夏の清涼感を圧倒的に放っている。すごい。

三幅めは、木の葉が茶色くなりはじめた初秋の、水辺の集落。屋根のついた舟で暮らす人々。なんだかやたらと舟が細密で、模型図みたいなのはなんだろう?。網を引き揚げるクレーンみたいなのが機械装置としてきっちりと描かれている。そのわきには、伝統的な木と牡丹と太湖石と、かくれんぼんをするような犬たち。別の小舟には、黒い鵜がとまっている。乳飲み子を抱く胸を出した母親や、腕に留まらせた小鳥で遊ぶ幼児、お茶碗をもって食事中の女性などが乗る舟もある。

中段あたりには、水牛に乗ったり、三頭だての水牛に荷車をひかせたり。水辺の集落の暮らしが、まるで見てきたようによく描けている。なにか中国の絵巻にこういういい作品があるのか、それともどこか日本の水辺を参考にしたのか??

画の間近には、底から高い木が大きく描かれ、見ている私がそこを起点に置き、さらに画面の上へ上へと目線が誘導され、水辺の集落は幾重にも連なり、炭焼き窯?か煙が立ち上り、最上部の月に収束する。ここまでの三幅とも、画の中で違う流れにのせられてしまうのが面白い。

四幅めは、雪景色。冷たい空気に、険しい岩が印象的。こんなに寒いのに、雪の中州でお茶?お酒?する三人がいる。一人は寝そべっている⁈大丈夫か?。手前の東屋には、童子に簾を上げさせて、外を眺める高士。

だらだら書いてしまったけれど、細部にも、遠目にも、とても思い出深く残る4幅だった。狩野栄信の作に次はいつ出会えるだろう。

 

さて、さらには沈南蘋の掛け軸が6幅も見られるなんて、なんて大盤振る舞い。11幅を所蔵している《花鳥動物図 清・乾隆15年(1750年)》のうちから、鳥のものを6幅選んだそう。

写実的で多色の彩色。徳川吉宗の招きにより来日し、彼の影響を受けた南蘋派の日本人画師は多いけれど、おおもとがこれかと思うと感慨深い。清では有名とはいえ、一職業絵師だった彼がたった二年の日本滞在によって、日本の江戸絵画界に与えた影響は多大。人生って不思議。。

《松樹双鶴図》 鶴の羽の描き方は、一本一本胡粉で線が引かれ、若冲が影響を受けたらしいことを反芻する。爬虫類を思わせる細密な足や節は、応挙をも。波上の岩山は蓬莱山なのだとか。

《柳下雄鶏図》 柳に花海棠、つばめ、鶏、オレンジ色の仙爺

《群鳥倚竹図》青紫の花大根とたんぽぽが印象的。竹も花も鳥もとにかくリアル。極めた写実の先に妖しい感じを放っていた。

 

《白鸚鵡図》の赤い実はライチだそう。

《檀特鶏雛図》は、赤い檀特という花と秋海棠。ヒナは、幼くとも鋭い目をしている。

 

《枇杷寿帯図》寿帯鳥とは極楽鳥。

枇杷のおしり?が生命を放っている。葉は虫食いや枯れてかけた葉も。

↑の絵ハガキでは切れていたけれど、下側にはケシの花。

散り始めたもの、すっかり花びらが落ち種がむき出しになったもの、つぼみ。無常感は、くねる茎によってあやしさを増している。

隅から隅まで、どこにもすっとした直線はなく、沈南蘋の線はどの線もまがりくねる。彩色の際どさとあいまって、日本人たちはこれに魅せられたのかな。沈南蘋の波も、執拗なまでのしぶきが印象深かった。

 

この後に、応挙国宝「雪松図」。

以前に根津美術館で見た時も圧倒され、長い時間離れがたかっけれど、改めて見ると、応挙の大胆な筆致に改めて打たれる。雪は描かずに、松と金の背景を描くことでふわりとした雪を見せる。雪の晴れ間の陽の光を見せる。空間の奥行きを見せる。この荒い筆致の事前に、応挙はどんな風に計算し、組み立て、そして筆を下ろしたのだろうと思う。

 

応挙では、展示室7にも3点。

《蓬莱山・竹鶏図》1790 

先日の松岡美術館で見た三幅対の竹と同じく、これも左右で描き分けた竹。右はしっかりと立ち、左の竹は柔らかに風になびく。打たれたのは、真ん中の幅。蓬莱山の下の波(!)、こんな小さな画面でも、たしかにあの波濤図を描いた応挙の波だ。船酔いしそうな揺らぎ。そして奥へと入る山の遠近感。遠目にも梅が美しかった。

 

《双鶴図》1792 には、三井家の領収書がついているのだとか。金子500匹、約1両1分。高いのか安いのか?。

 

今回のお目当ての一つ、渡辺始興「鳥類真写図鑑」は、圧巻。

1718年から1742年の間に描かれたそう。全長17m、鳥は63種。まさに鳥図巻。始興のメモ書きも見える。

一羽につき、羽は前と後ろから、さらには広げた時の模様や、とじているときは見えない内側の模様までも描きつけている。果ては、翼のわきの下?まで観察している。顔は前向き、横向き、後ろ姿など角度を変えて観察。もちろん雄か雌かも注意書きしている。鳥のあごの下まで描いているのには、笑ってしまった。

この博物者のこだわりは、始興が仕えた近衛家煕の命によるものか?。

そして、画としても巧み。鷹の鋭く湾曲する爪は黒光りしている。つかむ力の強さ、固さまで伝わる。爪間近まで羽毛でおおわれているとは知らなかった。

この図鑑で写生した「カケス」が本画になった「花鳥図」も、後の部屋に展示されていた。もの寂しい冬の情景、どんぐりの実がついている。

 

◆展示室5

茶道具、盃、印籠、置物、箱など、豪勢な品々が展示されている。贅の基準が私の知る上の上を普通にこえてて、ぽか~と口が開いてしまう。

・「牙彫鶏親子置物」明治~大正は、一本の象牙から鶏の立体を彫りだしている。三匹のひよこもついてて、かわいい。といっても象牙製品、今じゃもう幻の工芸品。

 

・象彦(西村彦兵衛)の蒔絵の三点はどれも見ごと。象彦は、1661年創業の象牙屋に始まり、今に至る蒔絵や漆器の老舗。象牙屋の彦兵衛で象彦。

なかでも口をあんぐりなのが、「月宮殿蒔絵水晶台」象彦(西村彦兵衛)明治~昭和。上にのった水晶玉の大きいこと(!)。蒔絵で描かれた側面や台の宮殿や海中、月の美しさも素晴らしいけれど、驚くべきは宝石類が埋め込まれていること。孔雀石やほうかい石がちりばめられている。方鉛鉱、黄銅は、三井鉱山から出たものだとか。そもそも、この大きな水晶玉を飾るために、この台が作られたのだとか。風流にもほどがあろうかと、目が点。

これを見てから他のを見ると、元の世界に戻ったような気がする。

 

・永楽和全の屏風や茶碗もある。仁清を意識した香合などもある。永楽妙全の雉は、舌がちょろっと見えているのが芸がこまかい。永楽家は三井家のひごを受けたそう。

 

・国井応文「百鳥図横額(片隻)」は欄間らしい。ちょっとお部屋にはどうかな・・これで片隻とは。たまに白目の鳥がいるのはなんだろう?剥落かな?。

国井応文は、4世で絶えた応挙の円山家を継いだ。

 

◆展示室6 

土佐光起「鶉図」は、さすがの土佐派。風雅で品格ある鶉でござりました。

 

源琦「東都手遊図」天明6年(1786年) 北三井家の6代目が、27歳下に弟が生まれるにあたり取り寄せたおもちゃを描かせたもの。楽しい絵でお気に入り。

って、この時期といえば、天明の大飢饉の真っ最中ではないの。あるところにはあるんだなあ。

 

・好きな小林古径「木兎図」昭和時代 に出会えたのはうれしい。薄い墨の淡い濃淡で、ふんわりとしたミミズク。耳もかわいい。目だけ金地にぱっちり黒目がかわいい。ミミズクのおなかの、「丰」じるしが斜めになったような模様もかわいい。

 

展示室7

狩野養信「七福神図」、ちんまりいい笑顔の七福神たち。なかでも福禄寿が鶴と踊っているのが好きなところ。これは狩野探幽の模写だとか。養信は「模写魔」と安村先生が言っていたとおり笑。

 

三井家の当主たちの作が続く。

三井高福「海辺群鶴図屏風」1885は、絵師の助けも得ながら描いた、晩年の作だそう。丹頂とマナヅル。横にひろがる波は応挙をほうふつとする。ちょっと線が多いような気がするけど、アドバイスした絵師は円山派なのでしょう。

 

最後に、新寄贈の河鍋暁斎「花見の図」。天狗の面を被る男、胸もあらわにお団子を食べながら踊る女。この乱痴気さわぎを、平常に見ている玩具売りのおばあさん。本紙の外側には大胆なタッチで桜が描かれている。奇想な花見図だった。

とても贅沢な展覧会を堪能しました。

一階のマンダリンオリエンタルのショップのイートイン、ハイビスカスのお茶でひと休み。向かいは三重県のアンテナショップです。

 


●放菴のむかしばなし 日本橋三越「横山大観と小杉放菴展」

2018-01-13 | Art

三井記念美術館の帰りに、日本橋三越で小杉放菴の小さな墨の絵に和んできました。

「横山大観と小杉放菴展」日本橋三越 6階 美術特選画廊 1月10日~16日(火)

 

大観と放菴を合わせて60点ほど。

大観は、大観の好きな富士山を中心に、金の屏風、書なども掛けられていました。つけられた札では1000万円は軽く超え、数千万円も普通。大観の愛国心の強さが伝わる作品が多かったように思いました。

ちょうど山種美術館では大観展が開催中であり、3月からは東京近代美術館でも大回顧展が開催されます。大観が亡くなるのは1958年。戦前、戦後という視点でも通して見てみたい気がしました。

さて今回は、放菴の文人画風の小品に見入ってしまいました。ちなみにお値段は、大観とは一桁違う。おとくなので買っちゃいました。うそです。言ってみたかっただけです。

特に、昔話を描いた絵がとても好ましい。(会場は写真、模写不可。以下の画像は、2015年に出光美術館で見た小杉放菴展の図録から。展示作ではありませんが、同様の作品があったので参考に載せました。)

以下、備忘録です。

花さかじいさんが、灰を巻いて枯れ木に花を咲かせていました。その顔がとてもよくて。かわいがっていた亡きポチが花となってまた帰ってきたことに、おじいさんはほんとうにうれしそうだし、愛があふれている。なんだかやさしいものが私の気持ちの中にもふりそそいできました。

 

「かるいつづら」は、舌切りスズメのお話。つづら箱を背負い、振り向くおじいさんの優し気な顔。おじいさんの周りを親し気に飛び回る雀たちも、ぽちゃっとしてて本当にかわいい。雀たちはおじいさんが本当に好きなんだ。

 

「 こぶとりじいさん」は鬼たちと輪になって踊っていましたよ。とっても楽しそうに、センターでいい感じで。ツノのはえた鬼たちは、「おおっ、このじいさん、めっちゃ上手いやん」みたいに目をぱちくり。喜々としておじいさんを見ながら、これまたいい感じで踊っている。ああいいなあ。

 

中国の故事も。

「寒山拾得」も、妙な風貌で描かれることが多いけれども、放菴が描くと、かわいい顔をした子どもだった。仲良しのふたりは、大きな岩の隙間からのぞきこむ。寒山はそういえば洞窟に住んでいたのだった。

 

「良寛和尚」は、桜の木の下で、子供たちを相手に毬つき。無垢で無邪気な顔。

 

「芭蕉翁騎馬像」は、東北の農耕馬のようなぼってりとした馬。おそらくこれは放庵の愛。彩色の大きい絵などでも、いくつかこういう日本的な馬の絵を描いている。作品には「のをよこに うまひきむけよ ほととぎず」の句が書き入れられている。放菴の字がまたとてもいい風貌だった。

 

どれも放菴の擦筆がとてもいい味わいだった。

紙は繊維が見えて、これもなんともいい風合い。

上手く言えないのだけれど、この紙と筆でいい具合に合わさって、濃い墨でも、墨のかどが取れるというか。やさしく枯淡になるというか。・・うまく言えない。

帰ってから上述の図録を読み返すと、麻紙との出会いが、洋画家としての「小杉未醒」から「放菴」への改号の転機になったとある。麻紙は、隋唐代に日本に伝来し、平安時代には消滅していたのを、1925年に、福井の紙すき職人・岩野平三郎が復元した。放菴は、平三郎親子に100通もの手紙を送りながら、自分の求める麻紙を注文した。放菴の難しいこだわりにも、職人気質の平三郎は応えたそう。

 

放菴は西洋画家として留学していたパリで、池大雅の複製の「十便帖」(川端康成蔵)を見たことが大きなきっかけとなって、東洋の美に目覚める。「大雅堂の絵は、さながらの音楽、最も自然を得て、最も装飾的、暖かく賑やかに、しかしながら静かなる世界、その基調は一に彼の太くゆるく引かれたる線篠にある」1925 と言葉を残している。

私は池大雅が好きなので、嬉しかったりする。4月からは京博で池大雅展が始まる。

放菴は、池大雅の心のままにあそぶ世界に自らも入り込み、でも池大雅とはまたちがった、独自の線の風合いを作り上げたのだなあと思う。

短い時間でしたが、安らぐ放庵の展示でした。

会場前には、もうお雛様がせいぞろい。手のひらサイズのやかわいいのもたくさん。春先取りでした。

 


●「屏風と掛け軸ー大画面の魅力・多幅対の愉しみー 」後期2 松岡美術館

2018-01-10 | Art

「屏風と掛け軸ー大画面の魅力・多幅対の愉しみー 」 松岡美術館

後期1(日記)の続きです

一つ目の部屋には屏風。

野田九浦(1879~1971)「妙高山」

激しい絵を描く人だと思う。洋画のようなタッチの荒い樹の幹。そびえる山が眼下に見える。強い風が吹きぬけ、崖ギリギリに立つ足がすくむ。これを爽快に感じる人もいるかもしれない。豪胆で山男のような世界でもある。左隻に一輪の山百合が風にふかれながらも咲いているのも、ほのぼのというよりも、しっかりと潔い感じ。

大村智先生所蔵の「芭蕉」の静かな佇まいで九浦にひかれて以来、九浦に出会えるのを楽しみにしているけれど、出会うのは激しい絵ばかり。昨年東京近代美術館で見た日蓮もそう。この先はどういう絵に出会うだろう。九浦は、寺崎廣業に師事し、東京美術学校日本学科に入学するも、二年で退学。白馬会で洋画を、正岡子規に俳句を学んだそう。

 

円山応挙「菊図」 

松花堂昭乗の「一本菊」を応挙が模写した。ただし、前期に掛けられていた昭乗の「菊図」とは別の図を模写したものだそう。花の向きが反対で、花びらもちょっと違う。昭乗の菊は、菊が入ってくるのを花器が待っているようだったけれども、応挙のこれは今まさに花器から菊が飛び出してしまったよう。今回も、ちょうどいいところに花器が置かれている

この床の間は、大正時代に建てられた旧松岡清次郎邸から移築されたそう。旧邸の写真を見ると、松岡美術館は洋風建築だけれど、門構えの様子や松の枝のかかり具合に旧邸の面影を宿している。

右側の屏風は、前期に右隻が展示されていた、荒木十畝「春秋花鳥図」1826 の左隻。

鶏の鶏冠、葉鶏頭(鶏頭は中国では鶏冠花という)とで、「官上加官」つまり出世の意味が込められているそう。個人的には、茄子が食べごろに実っているのに意識が向いてしまい、昨年末に見た、観山の唐茄子や古径の茄子(日記)を思い出す。実ものの絵はやっぱりおいしそう楽しい。茄子の花のほうも、多くの日本画家が僕も描いてみようかなと思うのもわかる気がする。

この屏風、一双そろってみたら、また違った全体の動きが感じられたのでは。

 

雲谷等益「山水図」1618

時空の切れ目みたいな岩といい、雪舟っぽい。

解説には:等益は、雲谷等顔の次男。等顔は毛利輝元に仕え、雪舟の雲谷庵と雪舟の「山水長巻」を拝領し、雪舟正統を称して雲谷を号とした。この画が描かれた年に等願は亡くなる。等益は早世した兄の代わりに若くして父の後を継ぎ、実子と兄の遺児を絵師として育て上げ、雲谷派の工房体制を整えた。

これは27歳頃の作。木の根元など細部に力がみなぎるというほどでもないけれど、若くして一門を率い、体制を盤石なものにするところは狩野元信のよう。

 

西村五雲(1877~1938)「老松遊鶴図」は、特に心に残った作の一つ。

鶴の屏風はよくあるけれど、鶴単体の躍動感、肉感に驚き。琳派や加山又造の鶴は、「群れ」として流れるような優美さを求められるけれど、五雲の鶴は、個に迫っている。

右隻の鶴は、地面を走ろうとしている!。走るのはダチョウで、鶴は舞うものだと思いこんでいたけれど。

鶴のお腹のたっぷりとした肉づき。そして重さ。鶴は、吉祥のアイコンである前に、動物。大型鳥だったのだ。

目の輝き。そしてちっとも優美じゃない、あるがままのポーズ。

鶴も松も薄い彩色、さらっとした筆。そして松と鶴以外、何も描きこまれない。なのに、このおおきな屏風の”間がもつ”のがすごい。スカスカな感じなど全くしない。余白に、しんと耳をすましてしまう。すると、空間に響く鶴の鳴き声が。

これまで五雲の動物は、師の竹内栖鳳と並んで展示されたのを見る機会が多く、”栖鳳のほうが一枚うわてかな”などと恐ろしくも素人のたわごとを申していたけれど、五雲の独自の世界にひかれてしまった。

五雲は、岸竹堂、栖鳳を師とし、1912年より主催する西村五雲塾(1933年に西村五雲塾晨鳥社と改名)で山口華楊(当時12歳!)らを指導した。 1923年には京都市立絵画学校の教授となる。画塾は38年五雲亡き後も華楊らに引き継がれ、晨鳥舎となる。華楊が動物をあんなに心あるものとして描く、その原点なのかも。

 

池上秀畝「巨波群鵜図」1932 58歳  秀畝は荒木寛畝の最初の弟子。上記の荒木十畝とは兄弟弟子。

 右隻の、狩野派のような圧倒的な重量の岩。松の青々と精緻なこと。波が激しく打ち寄せる砂浜は金に輝いている。

波は左隻の沖合へと返す。下の海がどんなに激しくうねり、波が岩に打ち付けしぶきを飛び散らせていても、ものともせず飛べる鵜が不思議なほど。

 

海のエネルギーと鵜の浮遊感にくらり。右隻の眼前の岩から始まり、波打ち際から沖合へ、さいご左隻の末には大海原へと、海はどんどんはるかに遠くなっていく。

 

大きな屏風の部屋の最後には、現代の屏風、大森運夫(1917~2016)の二作

大森運夫「伝承・浄夜 毛越寺」1981  平泉の毛越寺で1月20日に行われる二十日夜祭りの「延年の舞い」。「老女」と「若女」の二つの演目が、かがり火でつながっている。

手を合わす人々のしっかりとぶこつな指。炎に浮かび上がった人々の顔はとても安らかに見えて、ここは聖なる空間のよう。

 

二つ目の部屋は、掛け軸。

応挙が3点。どれもとてもお気に入り。ここにも鶴がいる

円山応挙「老松日の出図」1787年 54歳

三幅で、大きな富士山の稜線のようなラインを描いている。右の鶴の足元にはヒナが元気そう。ばさばさっと羽音を立てそうな左の鶴の足元には松の若木。さささっと描いているけれど、肩肘張らなくて、しかも温和でいいなあ。それでいて鶴の足の節など、ぎくっとするほど写実的。

 

円山応挙「人物に竹」1791 このおじさんが誰だったか、解説を見忘れてしまったけれど、とってもおもしろい。

右幅では風が吹いて、竹は外へと飛ばされている。おじさんがなにやら唱えたか?この指で止めたか?、すると左幅では風がぴたっとやんでいる。右幅の竹は細く、左幅はしっかりとした太い竹。

細部は見れば見るほど、応挙の筆の細密さと冴え。おじさんのもしゃもしゃの髪の毛。葉も、竹のすっとした硬質さも、節まで美しい。

(きっと偉人なのだろう。知らなくてごめんね。)

きれいな彩色だなあ。少ししなびた葉も、青い葉も、応挙は葉先まで気を抜かず描いている。見飽きないほど美しかった。

 

円山応挙「鶏狗子図」1787年 今年タイムリーに、鶏から犬へ引継ぎ?

鶏は格調高く、鋭い目線。両親そろってひよこの教育中?。ひよこまでも、きりっとしている。親子そろって、武士の家っぽいのだ。

鶏のふわりとした毛並みは細密に描かれている。ひよこも一本一本、筆をいれている。

対して、子犬たちは、ころんころんの天真爛漫。ぽってりとした線でかわいさ満開。こちらは幼稚園児の遊びの時間みたい。

 みやこわすれは青と白のつけたてで描かれているようで美しいし、つぼみはかわいらしい。真っ先にお友達と行っちゃう元気な子も、ついてけなくて遅れちゃう子もいるところ、やっぱり幼稚園みたい。

 

狩野探幽「牡丹に雉、長尾」1666 65歳 絵師の最高位である法印に叙せられて4年後、晩年の作

雉と尾長と牡丹で作る柔らかな楕円、それもシャボン玉が宙で風に押されたよう時のように浮遊していて、地面に立っていながらも重力から自由になった感覚。

尾長のしっぽの美しいこと。黒と赤の量と分配が素敵で、雉は尾のところにコサージュのような赤い牡丹が特徴的。

探幽って、瀟洒で巧みで、やっぱり上手いんだなあと改めて思う。

 

下村観山が二点。

「山寺の春」1915 は一度見たことがあるけれども、こんなに随所に哀しさや寂寥感がそっと声を上げていたとは。以前より心に迫って見える。

義経と思しき人物は、こんなに悲しい顔をしていたのだった

行く末を暗示するようなものが随所に描かれていた

左幅から右幅の間には、時間の経過があるのだろうか。鞍馬を出て、31歳で自害するまで約14年。卒塔婆にふりかかる桜の花びらが優しすぎる

 

観山の「鷺」1919 

一見優美だけれど、蓮はつぼみ、花の終わりをむかえつつあるもの、すっかり花びらを落としたもの、と命の各段階を見せている。

丁寧な描きぶりに見ほれてしまう。葉のやわらかなウエーブ。葉脈は、裏側はしっかり描き、表はうすく。微妙な陰影もつけている。

花の線描きも、白とピンクの花では違えている。

鷺は、食べようと捕まえた虫に巻き付かれて、困った顔。

観山の動物を見る目は優しいなあと思う。

 

野間記念館でひかれた、吉川霊華「寿星」も。観山や木村武山などが描いた寿星もみたことがあるけれど、霊華のは独特の高雅な雰囲気。故事の世界からそこに甦ったようだった。

 

最後に観山の師、橋本雅邦(1835~1908)も二点。

「龍虎図」 68~71歳の作だそう。

龍虎図といえば勇猛なのもいるけれど、この龍は静かに登場する。そのへんの勢いだけのやつにはない、抑えてもにじみ出る、名優のような貫禄。雲をまとっている。

一方、虎は光を受けるように顔を上げている。なんだか柔らかい感じ。

二頭はゆるやかな音のないダンスのように織りなしあう。

先日見た川合玉堂展、玉堂が雅邦に感銘を受け、キャリアを捨てて上京を決意したのは、1895年だった。雅邦が60歳の時。雅邦の父は、木挽町狩野の狩野養信の門下で、川越藩御用絵師の養邦。雅邦は11歳で狩野芳崖とともに狩野派に入門。塾頭となり、25歳で独立。廃藩置県により禄を失い苦渋の時代を送ったものの、47歳ごろから各展覧会で頭角を現し、1888年に東京美術学校の教授となる。 

西洋画からも技法を取り入れ、かつ維新前は狩野派の絵師としてならした雅邦が描く日本の画題は、自由で魅力的。

欄間「藤図」1902も、自在に、のびやかな筆。 前期には日中の面が展示され、後期は裏返して、夜の情景。

前期の蔓は透けるように薄い墨で描かれていたけれど、今回の夜闇の中の蔓は濃い墨で。そして昼間の蔓は上へと光の中を伸びあがっていたが、夜の情景では下を向いて、眠りについているよう。

と思ったら、一すじの蔓が上へ。ひそやかな息遣い。これは表面の日中の蔓へとつながっているのかも。

 

 **

このあとは、陶磁器の部屋へ。明清の景徳鎮に、眼福眼福。気に入ったものを列挙。

明代

 

水草がかわいい

 

清代

明代の壺は図案的だったのが、清代になると絵画的傾向を強める、と解説に。

こうもりがかわいいぞ。

表裏合わせて、桃が8つ。

 

この壺のあっちこっちに、のどかな人たちが楼閣山水に遊んでいる。

ほんとに楽しそうなの。

 

松岡清次郎さんのコレクションには、ほっこりさせていただくものが多い。

松岡美術館は来る度、心なごみます。

 

 


●「屏風と掛け軸ー大画面の魅力・多幅対の愉しみ 」1 松岡美術館

2018-01-04 | Art

「屏風と掛け軸ー大画面の魅力・多幅対の愉しみー 」 松岡美術館

後期:2017年11月28日(水)~2018年1月21日(日)

前期展もたいへんよかった(日記)ので、後期展も楽しみにしていました。

応挙や雅邦など有名な絵師のものはもちろん、作者未詳のものまでもすばらしいのは、前期と同じ。人も少ない平日だったので堪能してきました。

以下、備忘録です。

入ってすぐの、作者未詳の二組の屏風。ここでもう足止めされてしまう。

「洛中洛外図」17世紀 作者未詳  

たいへん親切な解説ボードが数人分ソファに置かれており、手元にもって見比べられる。京都の地理に疎いものには本当にありがたいです。隅から隅まで、見どころ満載。

解説には、同様の洛中洛外図はほかに3点存在し、粉本を基にして制作したものとある。(Wikipediaでは、「司馬家本」(田辺市美術館)の系統の5作のひとつ。「歴博D本」(国立歴史民俗博物館)に近似しており、他にも「坂本家本」、大分市美術館所蔵のものがあるようだ。)

内容的には、祭礼が両隻に渡って描かれているのが特徴的。右隻、左隻それぞれに、豊臣と徳川を象徴させている。そして庶民の暮らしと町のにぎわいがたいへん細やかに描かれているのが好きなところ。

右隻は、豊臣家を象徴ずる方広寺大仏殿と、祇園祭の山鉾など。

あの国家安康の鐘。寺の外ではなんだか喧嘩している。

月鉾。侍女に日傘をささせた奥様が見物している。美白の為かな?。奥様の象徴かな?この屏風にはこのような日傘の奥様がたくさんいて、お買い物などしている。

菊水鉾

他にも、函谷鉾、鶏鉾、長刀鉾など。

左隻には、徳川家を象徴する二条城と祇園祭武者行列、神輿渡御。

 

この屏風がお気に入りなのは、見世がたっぷり描かれているところ。鍵屋、反物屋、蕎麦屋、床屋、筆屋、花屋、足袋屋、人形屋、酒屋、数珠屋、櫛屋、蝋燭屋、風呂屋。今じゃあまりみない業種では、槌屋、箍屋(たがや)、糀屋、箔屋、鼓屋、唐物屋、槍屋。

さらに、傘売り、魚売り、炭売り、猿回しなどの路上ベンダーも。シャッターばかりの商店街が危機的な現代からしたらうらやましい限り。路上で売り歩かずともネットで買っちゃう世の中。江戸時代は路上にいろいろな人がいて、楽しそうだ。

花屋って江戸初期にはあるのね。江戸時代には椿や朝顔の品種改良がさかんだったそうだけど、こういう見世先で、仏花だけでなく庶民も気に入った花を買い求めたんだろうか。

こちらの花屋の見世先では、犬も元気いっぱい

笠売り。昔話「かさじぞう」のおじいさんは、寒村でおばあさんと作った笠をこうやって都で売り歩いていたのかな。この屏風は洛中洛外のようすだけれど、村とみやこはお互いに流通している。

魚屋は解体中。チョウザメ??。鼓を打つお坊さんたちはストリートパフォーマンス的な??。

右上には人形浄瑠璃。右下の楽しそうな若者たちはなにを??。左下の番台みたいな人がお代金を取って天然のプール??。

蕎麦屋の店先の大きな彼はなぜそのかっこう??

わからないことが多い。夫婦げんかも描かれていたりする。洛中洛外図のカオスは底がない。

作者未詳のもう一作は「南蛮人渡来図」6曲一隻 17世紀半ば

南蛮寺と南蛮船が描かれているのは南蛮屏風の定番だけれど、これは各シーンが大きく描かれ、印象的。だから人物の表情まで読み取れる。

印象的なことのひとつが、南蛮寺で祈る人々の顔がたいへん清らかに感じること。真摯に祈っている。解説には「禁教令で京都の南蛮寺も破壊されて久しいころの作にもかかわらず、キリスト教色が強く打ち出されている」と、気になる文末。信仰のある絵師がまだいたのだろうか?。

 

そしてもう一つの印象的なことは、遠景の山。洋画のごとき迫力。後ろからさす光も神々しいほど。これまで見たこまごま描きこんだ南蛮屏風には、こんな写実的な山はあまり見たことがなかったような。少ししか見たことないけど。

船越しの海や山の壮大さ。日本の絵にあまり見ないような。

もう少し時代が進んで18世紀の司馬江漢が描く微妙な西洋画みたいな??。ダイナミックな船には陰影もついている。この山は長崎だろうか?。この絵師は長崎で西洋画を見にする機会を得た、隠れキリシタンだろうか??。誰か詳しい方に教えてほしい。

 

それから、ダイナミックな屏風だけれど、細部も細やかなのだ。衣には金彩が施され、屋根もカラフル。

細部にもこだわりのある絵師らしい

南蛮屏風が大流行したのは、やまと絵風なきらびやかさでもって、”こんな大きな南蛮船が着いて、こんな珍しい南蛮人カピタンやインド系の船員たちや、たくさんの舶来品やエキゾチックな象や犬や動物なんかが行列をなして上陸しましたよ”的なことではと思うのだけれど、この絵師はやまと絵風を超えてしまっている。アートであったり、表現者として極めようとしているような。

いったいどこで暮らすどのような絵師なのだろう。惹かれるけれども、謎。

美術館や博物館まわりをしているうちにいつか、17世紀半ばのこの絵師かも!?と思う作に出会えるだろうか。前期展の日記でもそんなことを言っていたような

 

二作で長くなってしまったので、続きは次回に。

お正月なのでこの南蛮屏風の犬。

これはちょっと足が短いけれど、南蛮屏風ではだいたいこういう洋犬のグレイハウンドが多い。

徳川家康が鹿狩りの時に、舶来の70匹の狩猟犬を披露してから、グレイハウンドを飼うのが、武家のステータスになったそうな。

今年は南蛮屏風をみる時は、犬に注目しよう。