出光美術館 開館50周年記念 「美の祝典ー第二部 水墨の壮美」
2016.5.13~6.12
第一部の大和絵に続き、第二部にも行ってきました。
水墨画の章には11点でしたが、中国の水墨から日本の水墨への需要と変容が、凝縮されていました。
山市晴嵐図 玉潤(南宋末期~元代初期)
限られた筆で奥行きまで表現できるものだと感嘆。人家に向かう二人が急な山道を山を登っているので、一層山の深さを人としての感覚を持って実感したような気がします。
光景は具体的に描かれていないのに、あいまいなのではない。その様相をはっきりと受け取ってしまう。
玉潤(1180~1270頃)は南宋末から元初期、画家としても名を知られた天台僧。
日本の水墨の最初は、室町将軍家が蒐集した唐物から始まる。東山御物と呼ばれ、玉潤、牧谿はその代表格。玉潤は草体の典として雪舟へとつながり、牧谿は行体の典として、能阿弥、等伯へとつながり。
その雪舟の「破墨山水図」
小さめの一枚でしたが、確かに玉澗を習ったふう。ちょうど根津美術館で7月10日まで「若き日の雪舟」と特集展示されているようです。
平沙落雁図 牧谿 南宋時代
見たいと思っていた牧谿。なんてかすかな絵。
夕暮れの大気の中。ものすごく目をこらすと、雁が水辺に数羽。葦も。遠くには雁の飛ぶ列。山並みが。
じっと見ないと見えてこない分、その見えてくるまでの時間に、いろいろな思いが浮かんでは消え。
具体的なものが描かれていない空間だけれど、空白ではなく、そこにある世界は見るものに多く委ねられる。
牧谿(生没不詳)も玉潤と同じく南宋末期から元初期の僧。中国では「粗悪にして古法なし」と評されたらしいけれど、日本では多大な追随者を生んだ。先進とされた西洋の絵が日本に大きく影響したように、この時代は大国の中国からの影響はアートの本流だった。
当時に本国で評価されていなかった牧谿に共感し、牧谿を受け入れた幾人もの室町・戦国の絵師たち。水墨は、源流は中国に端を発しつつも、当時の日本的な感性から萌芽したのでは。中国の現代の水墨画を見たことがありますが、同じように梅を描いても似て非なるというか、なにかが違う感じがするのです。この牧谿にはそういう違う気がしないのですが。
叭々鳥図 牧谿 南宋時代
黒い鳥だけれど、ぷくっとかわいい(^-^)。叭々鳥というのは、中国南方にいる鳥で吉祥画題。濃墨・中墨・薄墨と墨を使いこなしているため、鳥のふっくらとした感じが。
枝の迷いのない筆に見とれる。勢いはあるけど、偶然ではなく。細い枝に至るまで、何のためらいもないのに、その枝の方向は完璧な方向に。枝の最後の一点まで、意識の集中は途切れず。なのに無駄な力は入ってない。感嘆するのみです。
牧牛図 毛倫 元時代
木で背中を掻く水牛。よく見ると手前に居眠りしている牛飼いの子供。毛倫も生年不詳ですが、元代の在野の文人と。こののどかな絵には、「在野」というところに納得するような。
漁釣図 徐祚 南宋時代
北斎みたいに大胆な構図。草の向こうに、背中を丸めたやる気のなさそうな釣り人。たった一本か二本の草なのに、草を通してみることで、草深い情景が浮かぶ。
漁夫は、文人にとって理想的な隠遁の姿だそう。中国絵画にはよく隠居生活が理想郷のように描かれるけれど、この絵はもとは井上馨が所蔵していたそう。なにか感じていたのかな。
「四季花鳥図屏風」 能阿弥 1469(応仁3年)
牧谿のモチーフをあちこちに用いた、牧谿尽くしのサンクチュアリ。楽園を描いたゴーギャンと、若冲の鳥獣花木図を思い出した。水墨にしては余白少なく、画面にまんべんなく書き込んでいるせいと、鳥たちの動きが響き合っているせいかな。
叭々鳥もえがかれているけれど、先ほどの牧谿の一羽と比べると、牧谿の筆の勢いが魅力を放っていることに改めて気付く。牧谿のたった一羽の存在感と、広がる情景に改めて感嘆してしまう。
「竹鶴図屏風」長谷川等伯 桃山時代
牧谿の観音猿鶴図の鶴によく似ている鶴。次の「松に鴉・柳に白鷺図屏風」の松も牧谿に倣ったもののようです。等伯の足跡を追うことができて興味深い。
雨上がりの靄。空気がみずみずしい。ぼやけた竹にも、もう薄ぐ光が差し込み始める予感が。
右隻の何も描かれていないところがとてもいい。そこに広がる竹林の空気を吸い込む。
ここまでくると、もう少し竹を減らして描いた竹鶴図も見てみたいと思いました。
「松に鴉・柳に白鷺図屏風」長谷川等伯 桃山時代
鷺・カラスでも、先日見た川村美術館の烏鷺図とは全く違う。こちらは、川村美術館のちょっと不気味なのと違って、素直に情愛あふれる様子。
巣に母カラス。母カラスの羽の下には、子カラスが二羽、おっと、もう一羽、母カラスの羽の下から顔を出している。かわいい顔してます。親カラスも、川村美術館の怖い眼と違って、丸くて優しい眼差し。松の根元のタンポポも、ほのぼのした情景を象徴しているよう。
つがいの鷺は、離れて描かれているけれども、気持ちが通じ合っている様子。
松と柳、真ん中に丈の低い下草。湾曲した松に、枝が一本。柳の太い枝と、画面の外から垂れる葉と細い枝。全体が一つの世界を構成し、余計なものは描かれず、描かれてここにあるものはどれも不可欠な位置にある。
柳の葉は線、松に絡むツタの葉は点。単に対比ではなく、どちらにもリズムが宿り。
的を得てるのか外れているのか恥ずかしいけれど、見れば見るほど、とりとめない思いが浮かんできて、足が次に行かなくなってしまう。
2点とも制作年ははっきりしないようですが、七尾美術館の年表では、「竹鶴図」が53歳、「松に鴉、柳に白鷺図」が55歳、東博の「松林図屏風」が56歳。なんとなくその変遷がわかる気がします。牧谿を経て、等伯の独自の世界が表出し、余計なものが削ぎ落とされ、より奥へ入り込める空間が生まれ。
狩野元信「西湖図屏風 」元信75歳の堂々たる大作。
スケールの大きさに圧倒される。
西湖は杭州の名勝地。南宋の首都として、よく描かれた主題。
垂直にデフォルメされた山、いや中国って本当にああいう山があるから驚く。遠くの山は幽玄な雰囲気をたたえる一方で、きっちり描かれた人工建造物の堤がまっすぐ真横に伸びる様が面白く。全然違うけれど(恥)、フェルメール「デルフト眺望」を思いだしました。フェルメールに先立つこと約100年。
それに加え、この作品が個人的に好きなのは、人がぽっちょっとちゃり体型でかわいいのと、あちこちに細かな発見の楽しさがあるからかも。
解説を読むと、上のほうの堤は蘇堤という。造営した北宋の文人、蘇軾(そしよく)がろばに乗って駆けています。
水牛のフォルムも好きな形(^ ^)。
右隻には、林和靖がいつもの鶴を連れて、隠遁生活を送った狐山のふもとにいます。狐山に続くのは白居易が造営した白堤。
(白居易って詩人では?と思いましたが、コトバンクによると「唐代の大詩人・白居易が杭州の刺史(長官)であった時、西湖の開拓と大規模な水利工事を興し、民に恩恵を与えたことから、後世の人がその徳を忍んで「白堤」と呼ばれるようになった」と。 )
西湖は世界遺産として賑わっているようで、今でも面影があるようです。画像はこちらから
この後、北野天神縁起絵巻、伴大納言絵詞へと続きますが、長くなったので改めて。
文人画では、田能村竹田、富岡鉄斎など充実のコレクション。池大雅「十二ヶ月離合山水図屏風」1769、与謝蕪村「山水図屏風」1763など、山が違う生き物みたいで圧巻でした。
嬉しかったのは、山本梅逸の作品があったこと。穎川美術館の三作以来、そのメラメラ感にひかれています。
「布曳飛瀑図」1845
がつがつとした岩場は、やはりの執拗な観察眼。若冲のような圧迫感というか濃密さというか。文人画という枠に収まらない独自の世界に描きあげています。
渡辺崋山「??捉魚図(ろじそくぎょず)」1840年ごろ も気になる一枚。
絵にも聡明さを感じます。柳の葉や下草は、すっとひかれていて、無常感というのか、潔いというのか。水面の丸いのは、水底の石なのか波紋なのかよくわからないのですが、寂寥感を感じ、向こうの世界との境界のようにも。
蛮社の獄に連座して蟄居中、自害する前年の絵のようです。
魚を捕まえて満足げな鵜。上から自分を冷ややかに見ているカササギには全く気付いてもいない。貧しい育ちから藩の要職にまで登ってきたのに讒言により罪に問われた自分の姿かも。もしくは立場上声を上げることはできないももの開国論者だった崋山が、日本の姿をたとえたのかも。
現代の感覚ではその自害は理不尽に思えるし、自害の理由が絵に関することだったというのも、何と言っていいのか。渡辺崋山に関して乏しい聞きかじりしかないので、単純にはいえず。ドナルドキーンさんの「渡辺崋山」(新潮社)が、絵も取り上げていてとても面白そうですので、まずは読んでみたいと思います。
出光美術館の展覧会は、いつも静かな時間を過ごさせていただいて、皇居を眺めながらお茶もいただいて、感謝です。
第三部は江戸絵画。これも楽しみです。