hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●出光美術館「美の祝典 第二部 水墨の壮美」

2016-05-29 | Art

出光美術館 開館50周年記念 「美の祝典ー第二部 水墨の壮美」

2016.5.13~6.12

第一部の大和絵に続き、第二部にも行ってきました。

水墨画の章には11点でしたが、中国の水墨から日本の水墨への需要と変容が、凝縮されていました。

 

山市晴嵐図 玉潤(南宋末期~元代初期)

限られた筆で奥行きまで表現できるものだと感嘆。人家に向かう二人が急な山道を山を登っているので、一層山の深さを人としての感覚を持って実感したような気がします。

光景は具体的に描かれていないのに、あいまいなのではない。その様相をはっきりと受け取ってしまう。

玉潤(1180~1270頃)は南宋末から元初期、画家としても名を知られた天台僧。

 

日本の水墨の最初は、室町将軍家が蒐集した唐物から始まる。東山御物と呼ばれ、玉潤、牧谿はその代表格。玉潤は草体の典として雪舟へとつながり、牧谿は行体の典として、能阿弥、等伯へとつながり。

その雪舟の「破墨山水図」

小さめの一枚でしたが、確かに玉澗を習ったふう。ちょうど根津美術館で7月10日まで「若き日の雪舟」と特集展示されているようです。

 

平沙落雁図 牧谿 南宋時代

見たいと思っていた牧谿。なんてかすかな絵。

夕暮れの大気の中。ものすごく目をこらすと、雁が水辺に数羽。葦も。遠くには雁の飛ぶ列。山並みが。

じっと見ないと見えてこない分、その見えてくるまでの時間に、いろいろな思いが浮かんでは消え。

具体的なものが描かれていない空間だけれど、空白ではなく、そこにある世界は見るものに多く委ねられる。

牧谿(生没不詳)も玉潤と同じく南宋末期から元初期の僧。中国では「粗悪にして古法なし」と評されたらしいけれど、日本では多大な追随者を生んだ。先進とされた西洋の絵が日本に大きく影響したように、この時代は大国の中国からの影響はアートの本流だった。

当時に本国で評価されていなかった牧谿に共感し、牧谿を受け入れた幾人もの室町・戦国の絵師たち。水墨は、源流は中国に端を発しつつも、当時の日本的な感性から萌芽したのでは。中国の現代の水墨画を見たことがありますが、同じように梅を描いても似て非なるというか、なにかが違う感じがするのです。この牧谿にはそういう違う気がしないのですが。

叭々鳥図 牧谿 南宋時代

黒い鳥だけれど、ぷくっとかわいい(^-^)。叭々鳥というのは、中国南方にいる鳥で吉祥画題。濃墨・中墨・薄墨と墨を使いこなしているため、鳥のふっくらとした感じが。

枝の迷いのない筆に見とれる。勢いはあるけど、偶然ではなく。細い枝に至るまで、何のためらいもないのに、その枝の方向は完璧な方向に。枝の最後の一点まで、意識の集中は途切れず。なのに無駄な力は入ってない。感嘆するのみです。

 

牧牛図 毛倫 元時代

木で背中を掻く水牛。よく見ると手前に居眠りしている牛飼いの子供。毛倫も生年不詳ですが、元代の在野の文人と。こののどかな絵には、「在野」というところに納得するような。

 

漁釣図 徐祚 南宋時代

北斎みたいに大胆な構図。草の向こうに、背中を丸めたやる気のなさそうな釣り人。たった一本か二本の草なのに、草を通してみることで、草深い情景が浮かぶ。

漁夫は、文人にとって理想的な隠遁の姿だそう。中国絵画にはよく隠居生活が理想郷のように描かれるけれど、この絵はもとは井上馨が所蔵していたそう。なにか感じていたのかな。

 

「四季花鳥図屏風」 能阿弥 1469(応仁3年)

牧谿のモチーフをあちこちに用いた、牧谿尽くしのサンクチュアリ。楽園を描いたゴーギャンと、若冲の鳥獣花木図を思い出した。水墨にしては余白少なく、画面にまんべんなく書き込んでいるせいと、鳥たちの動きが響き合っているせいかな。

叭々鳥もえがかれているけれど、先ほどの牧谿の一羽と比べると、牧谿の筆の勢いが魅力を放っていることに改めて気付く。牧谿のたった一羽の存在感と、広がる情景に改めて感嘆してしまう。

 

「竹鶴図屏風」長谷川等伯 桃山時代

 牧谿の観音猿鶴図の鶴によく似ている鶴。次の「松に鴉・柳に白鷺図屏風」の松も牧谿に倣ったもののようです。等伯の足跡を追うことができて興味深い。

 雨上がりの靄。空気がみずみずしい。ぼやけた竹にも、もう薄ぐ光が差し込み始める予感が。

右隻の何も描かれていないところがとてもいい。そこに広がる竹林の空気を吸い込む。

 ここまでくると、もう少し竹を減らして描いた竹鶴図も見てみたいと思いました。

 

「松に鴉・柳に白鷺図屏風」長谷川等伯 桃山時代

鷺・カラスでも、先日見た川村美術館の烏鷺図とは全く違う。こちらは、川村美術館のちょっと不気味なのと違って、素直に情愛あふれる様子。

巣に母カラス。母カラスの羽の下には、子カラスが二羽、おっと、もう一羽、母カラスの羽の下から顔を出している。かわいい顔してます。親カラスも、川村美術館の怖い眼と違って、丸くて優しい眼差し。松の根元のタンポポも、ほのぼのした情景を象徴しているよう。

つがいの鷺は、離れて描かれているけれども、気持ちが通じ合っている様子。

松と柳、真ん中に丈の低い下草。湾曲した松に、枝が一本。柳の太い枝と、画面の外から垂れる葉と細い枝。全体が一つの世界を構成し、余計なものは描かれず、描かれてここにあるものはどれも不可欠な位置にある。

柳の葉は線、松に絡むツタの葉は点。単に対比ではなく、どちらにもリズムが宿り。

的を得てるのか外れているのか恥ずかしいけれど、見れば見るほど、とりとめない思いが浮かんできて、足が次に行かなくなってしまう。

 

2点とも制作年ははっきりしないようですが、七尾美術館の年表では、「竹鶴図」が53歳、「松に鴉、柳に白鷺図」が55歳、東博の「松林図屏風」が56歳。なんとなくその変遷がわかる気がします。牧谿を経て、等伯の独自の世界が表出し、余計なものが削ぎ落とされ、より奥へ入り込める空間が生まれ。

 

狩野元信「西湖図屏風 」元信75歳の堂々たる大作。

スケールの大きさに圧倒される。

西湖は杭州の名勝地。南宋の首都として、よく描かれた主題。

垂直にデフォルメされた山、いや中国って本当にああいう山があるから驚く。遠くの山は幽玄な雰囲気をたたえる一方で、きっちり描かれた人工建造物の堤がまっすぐ真横に伸びる様が面白く。全然違うけれど(恥)、フェルメール「デルフト眺望」を思いだしました。フェルメールに先立つこと約100年。

それに加え、この作品が個人的に好きなのは、人がぽっちょっとちゃり体型でかわいいのと、あちこちに細かな発見の楽しさがあるからかも。 

解説を読むと、上のほうの堤は蘇堤という。造営した北宋の文人、蘇軾(そしよく)がろばに乗って駆けています。

水牛のフォルムも好きな形(^ ^)。

右隻には、林和靖がいつもの鶴を連れて、隠遁生活を送った狐山のふもとにいます。狐山に続くのは白居易が造営した白堤。

(白居易って詩人では?と思いましたが、コトバンクによると「唐代の大詩人・白居易が杭州の刺史(長官)であった時、西湖の開拓と大規模な水利工事を興し、民に恩恵を与えたことから、後世の人がその徳を忍んで「白堤」と呼ばれるようになった」と。 )

西湖は世界遺産として賑わっているようで、今でも面影があるようです。画像はこちらから

 この後、北野天神縁起絵巻、伴大納言絵詞へと続きますが、長くなったので改めて。

 

文人画では、田能村竹田、富岡鉄斎など充実のコレクション。池大雅「十二ヶ月離合山水図屏風」1769、与謝蕪村「山水図屏風」1763など、山が違う生き物みたいで圧巻でした。

嬉しかったのは、山本梅逸の作品があったこと。穎川美術館の三作以来、そのメラメラ感にひかれています。

「布曳飛瀑図」1845

がつがつとした岩場は、やはりの執拗な観察眼。若冲のような圧迫感というか濃密さというか。文人画という枠に収まらない独自の世界に描きあげています。

 

渡辺崋山「??捉魚図(ろじそくぎょず)」1840年ごろ も気になる一枚。

絵にも聡明さを感じます。柳の葉や下草は、すっとひかれていて、無常感というのか、潔いというのか。水面の丸いのは、水底の石なのか波紋なのかよくわからないのですが、寂寥感を感じ、向こうの世界との境界のようにも。

蛮社の獄に連座して蟄居中、自害する前年の絵のようです。

魚を捕まえて満足げな鵜。上から自分を冷ややかに見ているカササギには全く気付いてもいない。貧しい育ちから藩の要職にまで登ってきたのに讒言により罪に問われた自分の姿かも。もしくは立場上声を上げることはできないももの開国論者だった崋山が、日本の姿をたとえたのかも。

現代の感覚ではその自害は理不尽に思えるし、自害の理由が絵に関することだったというのも、何と言っていいのか。渡辺崋山に関して乏しい聞きかじりしかないので、単純にはいえず。ドナルドキーンさんの「渡辺崋山」(新潮社)が、絵も取り上げていてとても面白そうですので、まずは読んでみたいと思います。

出光美術館の展覧会は、いつも静かな時間を過ごさせていただいて、皇居を眺めながらお茶もいただいて、感謝です。
第三部は江戸絵画。これも楽しみです。

 

 


●川村美術館「サイ・トゥオンブリーの写真ー変奏のリリシズムー」

2016-05-27 | Art

川村美術館「サイ・トゥオンブリーの写真ー変奏のリリシズム」

2016.4.16~8.28

 

一見不明瞭な写真が並びます。100点の写真、絵画3点、彫刻4点、ドローイング4点、版画18点。

”20世紀の現代アートを代表する一人”といわれる、サイ・トゥオンブリ(1928~2011)。

昨年、日曜美術館のアートシーンで短く紹介されて初めて知り、8月の炎天下に原美術館へ。(「サイ トゥオンブリー:紙の作品、50 年の軌跡 2015 年 5 月 23 日[土]-8 月 30 日[日] )

殴り書きのような作品。わかったなんてとても言えないけれど、感じるところのある作品が多く。

感情的なところ、男女、体内のリズム、抒情的なところ。自分の体の中に感じたことのあるもの・こと。(写真は原美術館のサイトより)

 

今回の川村美術館の展示は、写真がメイン。漂っていると、少しは端緒にふれたような気が。

多くの写真は数枚ずつ撮られています。

 

「静物」[ブラックマウンテンカレッジ]1951、23才(写真はすべて図録から

モランディ風な?

 アメリカ生まれ。奨学金を得て、長くひかれていたイタリアを初めて訪れたのはこの翌年。

遺跡にも魅せられたそう。

 左右とも、「神殿 [アグリジェント]」1952、24才

アグリジェントは、ググると遺跡が残るシチリアの街。神殿の連続したリズム。上に伸び上がる。Vと逆V を構成して、奥へ規律ある連続。

右の写真になると、一本一本の柱の中のすじにを幾度ども目がなぞりつつ、そのざらつき風化した岩肌が自分の指に感じられてくる。

 

上下とも「神殿セリヌンテ」1952

ごつごつした岩。穴の開いた溶岩石みたい

 

左右とも「テーブル・椅子・布」1953

 表面の細かいしわ。もめんの手触り。触ってないのに、その感覚が脳に回って、私の感覚となり。

 

1957年にはイタリアに移り、59年に結婚。アメリカとイタリアを行き来しながら製作。ヨーロッパ、特に古代の歴史や詩、神話、芸術に興味があったようで、彼に影響を与えます。

50年代後半からは写真はお休み、絵画を製作。

「What Wing Can Be Held?[ローマ]1960」

ひだに番号がふってある。

この楽しさの延長にやってくる、なにか。この番号通りに見ていると、そのリズムが体の中にダウンロードされる。(よくわからないので絵の意味は考えません)。

「マグダでの10日間の待機[ローマ]1963」

飛び散る瞬間、解放される瞬間、体に押しとどめていた何かから。

「Untitled [ニューヨーク]1968」

線は、体の中に入り、その通り過ぎていくリズム。

 

そして次の部屋へ。1980年には写真を再開したようです。

中くらいの写真が横に一列、均等に壁に並んでいます。川村美術館の空間に似合っています。

三枚とも「室内[バッサーノ・イン・テヴェリーナ]1980 

バッサーノ・イン・テヴェリーナローマはの北の田舎町。

扉の向こうに椅子。誰も座っていないし、座る風もなく。 それを見たしんとした感覚、小さな戦慄。

椅子の後ろにあったぼやけた木は、見たわけじゃないけど、瞼の裏に記憶されていたらしい。

 

「ケルティックボート[ガエータ]1990」、ガエータはローマの南の漁師町。

これなに?食虫花?


無題[ガエータ]1994」

落ち葉?そして目は目の粗い石畳へ


左右とも「ズッキーニ[ガエータ]1997」

 

なめらかでセクシーな、なに?。なぞりたくなるけど。  種明かしは、ズッキーニでした。


「林[レキシントン]2000

木立はのこの感覚はなんだろう。


「セルフポートレイト[ガエータ]2003

室内にたゆとう光、でも見ていると認識はしていない。

心や頭以外のところに、別の記億倍体がある気がする。瞼の裏?脳の裏?指の先?頭に行く前の体のどこか?シナプス経由ではなくてどこかに入り。


左右とも「海[ガエータ]2005

見た海の景色は、いつか形を失い、遠のき、でも消えるわけでなく、どこか記憶され、そこで静かに横たわる。


「バッカスの絵のディテール2005」

なだれ込んだ感情が突然に。

「葉[バッカス2005]」

試しに、葉の先に番号うって、読んでみて。


左右とも、「レモン[ガエータ]

花は落ち。花と影。この二つの間にどんなことが起こったのか?

 

左右とも、「ライトフラワーV[ガエータ]2008 

花がテーブルにある。いつしか、花のふちのリズムを見ている。


「墓地[サン・バルテルミー島]2011」

墓地の花。きれいだって思う前に、この花びらの線描が脳裏に入り込み、ピンクが広がる。


「雲[ サンバルテルミー島]2011

 このカリブの島での製作を最後に亡くなります。墓地での夢のような美しい写真。

 

写真にふわふわと漂っているうちに、最後の絵画の小部屋へ。大きく3つのシリーズ。

 「版画集1キノコ1974」10枚ほどのシリーズ。

ここまで写真を見てきてたので、なんの違和感もなく、その延長上に。

きのこが、感覚に刻んで去っていった、きのこの幻影。まいたけがいる?。ひだひだのへんなきのこが、たいへんなことになっちゃっている。

 

版画集「博物誌Ⅱ イタリアの木々1975」7枚ほどのシリーズ。

葉っぱに番号が振ってある。

横に並べる、斜めに並べる、面に並べる。心の作業領域の必要な容量が違うのを感じる。

一番最後の「いちじく」(右端)は、作業領域から飛び出した。それから一個の細胞が分離して落っこちた。

 

最後に「理想的結婚の風景1986」58才、4枚のシリーズ。

原美術館の展覧会で、印象的な二枚組の絵があったことを思い出す。タイトルはその絵もUntitledだからよくわからいけど、一枚がピンク、一枚が紫を基調とした、おそらくそれは男女の絵。ピンクの方には、女性の内的なものと宇宙的なものが一体であることを感じた。紫のほうには多少の男性の暴力的な面を見たような。

この絵は、4枚組だけど、絵にタイトルの順が描いてあるわけではない。おそらく目録の番号順にみるのだろうか。

なんとなく、「結婚」ていうことがわかるような。二人が知り合い、暮らし、いろいろありつつ、最後の一枚には、わりにはっきり重なる男性と女性の姿が見える。

これ逆に見ていったら、どういうことになるのかな ?どちらの方向にも、行ったり来たりを繰り返していられるのが、理想的な結婚といえるのかもしれません。彼が58才の時の境地。

 

展示はここで終わり、いつもの静かな森が見える廊下に出ていきます。

展示を出たところの壁に「ものの流転を見せているのです」と。

その通りだったと感じました。物事や景色は、彼の中で流転していました。その彼の意識にただ添っていくと、頭は休止され、違う領域が。

はっきりとでなく。形はよりあいまいな形に変容され、感覚が通り過ぎ、記憶のどこかにあいまいなまましまわれ。

心地よい時間を過ごしました。

 

 


●長谷川等伯「烏鷺図」と「烏梟図」

2016-05-24 | Art

先日、川村美術館に行った際、長谷川等伯「烏鷺図」を見てきました。

右隻に鷺、左隻にサギの屏風


 

等伯のカラスは、少し前に七尾で「烏梟図」を見て以来ずっと、あとをひいている。

 どうして等伯はカラスを?

南宋の牧谿に影響をうけた等伯は、牧谿であればハハチョウという黒い鳥を描いたところを、日本の鳥で描こうとカラスを用いたという。

でも、どこか、どちらも異様な感じが。


七尾の「烏梟図」は69歳の作。亡くなる3年前。
安倍龍太郎の「等伯」を読み返していたせいか、どうしてもそのストーリーに引きずられ、梟が等伯自身に見えてしまう。
等伯の絵にかける壮絶ともいえる思い。横やりや謀略・甘言に翻弄され、彼自身の絵に対する欲に抗えなかったゆえに引き起こしてしまった数々の過ち。

烏は等伯をあざ笑い、さらに挑発し、しかけてくるよう。

梟はじっと耐えて、動きを止めているかのように、強く描かれた足の爪。数々の過ちの自責の念のように、開かれた目。

あくまでも私的な感じ方ですが、七尾ではそんなふうに感じました。
帰ってから読んだ図録解説には、宮島新一氏の説を紹介していました。老いて目もよく見えず、昔ほど描けない。親しい人は次々といなくなり孤独を深めている、その心境を描いたのでは、と。

どうなのかわかりませんが、この老境ということで改めて見てみると、もしかしたら梟の姿は、烏の挑発にももう動じることもなく、全てを飲み込んだ静かな境地なのかもしれない。と、そんなふうに見えてきたり。図録では見にくいけれど、梟のバックには金泥が塗られています。
次に見たときにはどう感じるだろう。

そして、川村美術館の「烏鷺図」。

1605年、65歳以降の作品ということしかわからないようです。
烏は戯れているのか、それとも争っているのか。

蔓がたれ下がり、少し不気味に感じます。

枝にとまっている一羽は、けしかけているか操っているかのようで、少しそら怖ろしく見えます。眼もなんだか怖い。


対して、鷺の方は、穏やかな場面のように感じます。

三羽は寄り添って眠り、他の鷺も餌をついばんだり。

飛んでいる二羽は、並んでともに同じ方向に。つがいなのか、心温まる感じです。

 こうしてそれぞれ見ると、烏と鷺の世界は、全く違うもののように感じます。

でも、烏も鷺も、向こうには同じように山が見え、葦が左双、右双にまたがって生えている。

この二つが、同じ世界なのだと気付くと、とてもリアルな世界。静と動、争いと平和は同時進行している。

自然の世界はシンプルで率直。


と、とりとめもなくソファに座って眺めていたら、2人組の奥様が「あらあ、かわいいカラスちゃんね~」と言いながら通り過ぎて行った。
かわいいの!?私はカラス嫌いだから不気味にみえるけれど、もしかして等伯は、元気いっぱい戯れるカラスちゃんを描いたの!?

わからなく…。

なので烏はひとまず離れてみれば、樹や草に等伯の筆の動きが、400年を経ても伝わってきます。

老木や枝が水につかっているところは、見惚れてしまいます。柳の葉の流れは、かすかな風によるのかも。

離れて見ると、それぞれ端に描かれた松と柳の形は、ともに響きあい、絶妙なバランスを生んでいるように感じました。

その間で、カラスは渦を巻いて広がっていくかのように、そして鷺は水平に、それぞれの描くラインが見えるような気が。

目に見えない線が、これもまたバランスを生み出している。余計な線がないからこそかもしれません。

 

若い頃は華麗で美しい障壁画などの仕事を多くこなした等伯が、晩年には七尾で見たような水墨画に取り組んでいた。もう装飾もありません。自然を率直に見つめ、帰したところで筆をひいたのかもしれない。

烏鷺図も烏梟図も、よくわからないままですが、等伯が最晩年に至った境地を反映しているのでしょう。絵師としての自分を生み出してくれた養父母や前妻、彼を引き立てた利休も死に、豊臣も滅び、息子の久蔵も、支えてくれた後妻も先立ち、時代だけは少しずつ平定されていく。その移り変わりは関係あるでしょうか。

東博の「松林図」とともに、私が老境に入ったときにはどう感じるか、なにかわかるか、気長に待とうかな。



●長谷川等伯展「等伯と一門の精鋭たち」

2016-05-22 | Art

石川県の七尾美術館「平成28年度春季特別展 長谷川等伯展~等伯と一門の精鋭たち~」

2016.4.23~5.29

 等伯のみならず、等伯の養父の長谷川宗清、等伯の息子たちや弟子の作品も。七尾のお寺の所蔵の仏画など、等伯が生まれ育った現地ならではの充実の展示だった。

第一展示室は、晩年の等伯の作品

「山水図襖」京都市圓徳院 1588(51歳)(部分)

もとは三玄院の襖で、等伯は勝手に上がり込んで制止を振り切り、一気に描いたのだとか。笹や芝が下の方にのみ描かれて、唐紙の桐の模様と調和している。この桐の模様を見ていたら、こう描きたくてたまらなくなったんでしょうか。

 

「松竹図屏風」七尾美術館 (50~60代)

竹がまっすぐ、潔く、勢いが。心に雑念や迷いがあってはひけない筆。奥行き感を出そうとしている。左からするりと流れるような曲線を描いて画面にすべりこんでくる松の枝と、垂直な竹、何度も目が追ってしまう。

 

「猿公図屏風」七尾美術館(50~60代)

剥落が多く状態は悪いですが、この猿公図と上の松林図は昨年発見されたのだそう!。

そういえば年始に東博で猿の絵がたくさん展示されていましたが、みんなこの東南アジアにしかいないテナガザルだったな。ニホンザルは森狙仙くらいで。

南宋の牧谿の猿を参考にした「牧谿猿」。当時南宋にはテナガザルがいたのかな?珍しかったのかな?

 

「水辺童子図襖」京都市両足院(63歳ごろ) 忘れられない作品。

小さい子が本当に子供らしい。でも寂しい。

立派に描こうとかではなく、描きたい世界を描いた、そんな感じ。この童子は、晩年の作に時折登場し、あの世とこの世の橋渡し、または若くして亡くなった息子の久蔵を重ねて描いた、といわれている。

激しい水の流れ、角の鋭い岩場で、一人の子はどこかに向かって微笑みかけているけれど、その相手や対象物は描かれていない。もう一人の子もどこかわからないところを見ている。風のなかに微かに親の声を聴いたのかも、と切なくなる。たっぷりとられた余白とともに、少し不思議な情景でもあり、確かにこの世ならぬところにいる子供たちなのかも。

 

一番印象深かったのは「烏梟図屏風」

烏をこんなに存在感たっぷりに黒々と描く屏風。等伯は動物を描くことは多かったそうですが、この絵は趣が他とは違い、異様に感じました。

七尾に行った後に、川村美術館の「烏鷺図」も見ましたので、合わせてそちらの日記に書きました。


第二展示室は「故郷ー能登の長谷川一門」。

能登での、等伯の養父とその経脈は興味のあるところ。

等伯の養父の宗清は、染物業者でありながら、絵仏師としても多くの絵が確認されているそうです。阿部龍太郎「等伯」では、人格高く描かれ、その絵を見たいと思っていたので、幸運でした。

宗清では、「日蓮聖人像」が2点、「涅槃図」一点が展示されていました。

技術的なことはよくわかりませんが、輪島市成隆寺の「日蓮聖人図」1554(47歳)には、宗清の深い精神性も感じるような気がしました。

 

等伯が七尾時代、絵師になって間もない20代に描いた「日乗上人像」。

宗清の絵と構図、布のしわまで似た作品。宗清から細やかに学んでいたのでしょうか。上人の表情からは、まだまだ等伯の若さを感じました。等伯にとって宗清は大きい存在だったのでは、と想像したり。

 

「涅槃図」は、宗清と等伯1566(29歳)のものが並んで展示されていました。(↓は宗清)


宗清のものは、長谷川無分(長谷川派の祖。宗清の父か?)の長壽寺本に誠実に再現したものということです。

等伯の涅槃図は、それに沿いながらも、細部にちょこちょこアレンジを加えていて、探すのも楽しく興味深かった。

特に右下のあたり、大きめの虎とピューマ?が加えられれていて、全体のバランスも良くなったように思えます。各動物も、より生き生きとリアル感が増したような。お釈迦様の死を嘆き悲しんでいます。

 等伯の涅槃図には宗清の落款も押され、宗清がサポートしたことがうかがわれる、と解説に。当時宗清は62歳。等伯が自分の踏襲だけでなく、そこから成長していくのを、あたたかく見守っていたようにも思えます。

 

等伯の息子、長谷川久蔵と伝えられる作品を見られたのも貴重でした。

「祇園会図」(部分)


人物の顔つきや丁寧に描かれた町の様子からも、久蔵の人がらは穏やかだったのかなと想像しました。


この展示室では「長谷川等誉」という絵師の涅槃図や日蓮聖人図などが展示されていました。宗清と似た構図です。能登で活躍した長谷川派の絵師のようですが、等伯とのつながりなど詳しくはまだわかっていないそうです。

 

第三展示室は、「継承ー等伯を継ぐもの」。

長男の久蔵は、才能のある絵師だったようですが早世。

次男の宗宅「秋草図屏風」は、萩の葉がリズミカルでかわいらしく、右のススキの動きもも好きだと思いました。過剰なものも描かれていません。宗宅も才能を感じますが、残念ながら等伯の死後早くに亡くなったそうです。

 

「山杉図屏風」も好きな作品。6曲一双のうちの右隻のみの展示。

どこか現代の絵のような印象を受けました。杉の木の形は、ヨーロッパの風景のようにも見えたり。

右から左へと、季節が春から夏へと移っています。枯れていた木が萌ぎはじめ、緑濃くなったころに、滝の水流でさっと爽やかな気分に。

落款はありませんが、宗宅の作という説が有力のようです。この二枚の絵からは、宗宅の人柄もしのばれる気がします。


次の息子の宗也「竜虎図屏風」は、どことなくマイルドな龍。座り方もしなっている虎。優しい人柄だったのでしょうか。そのためか、弟に出し抜かれ?等伯の継承者は、弟の左近ということになっているそうです。

 

その左近の「16羅漢図」には、若さと気性の強さが感じられるような。等伯の線を意識しているようです。でも少し、上滑りな感じもしないでも・・。

 

この美術館には、東博の「松林図」の精巧なレプリカがあり、その前にちょうどよくソファを置いてくれています。国立博物館の展示では混雑していますが、こちらでは、しんとしずまりかえった空間でひとり占め。

松と松の間の余白のところ、東博で見たときには、たいへんかすかながらも刷毛目が見えた気がしたのですが、こちらではなにもないように見えました。自分の記憶があいまいなのか、それとも東博のライトがすごいのかな?。

細部はともかく、誰の人影もなく、少し離れたところからゆっくり見られたせいか、今回は松の濃淡に見とれました。靄の中、ときに現れる濃い松は、等伯の感情の極みのように思いました。

 

美術館のビデオはいろいろあり、全部見たかったけれど、時間がなくて後ろ髪をひかれつつ、美術館を後にしました。

七尾城跡や、お寺のあるエリアも行きたいところでしたが、二時間に一本の特急電車を逃すことはできず、七尾駅の周りだけ少し歩いてみました。

等伯が生まれ育った七尾は、今は静かな町でした。通りには、あまり人はいませんでしたが、古い民家も残り、趣がありました。

海まですぐなので、日本海を見てきました。満潮で、こちらに向かってどんどん潮が満ちてきていて、ちょっと怖いほど。迫力でした。

駅はこじんまり。

  

GWには多くの人が訪れたそうです。毎年GW前後に等伯にちなんだ展示を行っているようですので、来年も来たいと思います。

 


●千葉市美術館「吉田博展」

2016-05-22 | Art

千葉市美術館 「生誕140年 吉田博展」 2016.4.9~5.22

先日行ってきました。
吉田博(1876-1950)を知りませんでしたが、水彩画がとても美しく、油彩、版画と多彩。
ダイアナさんの執務室に掛けられていたとか、フロイトが愛したとか、海外で評価が高いのに、日本で有名でないのが不思議なほど。

水彩にはとくに見とれました。

感じてはいるけどとりたてて認識しない採光、体にまとう空気を、可視化しているような。

夕暮れの色はこんなだった。朝の光は、こんなに澄んでいた。靄はこんな感じで立ち上っている。そういうものを、手につかめる形で絵にしている。

そして、もし自分が外国人旅行者だったらきっと目を留めるであろう日常の光景を絵にしているので、その美しさを再認識。


彼は、旅する画家、切り拓き戦う画家、折れない画家。その人生は、映画が一本作れそう。

久留米生まれ。絵を見込まれて、図画教師の家へ14歳で養子に。京都での修行、さらに東京の小山正太郎主宰の不同舎に修行の場を切り拓いたのが、17歳。

不同舎調のスタイルがあるようで、当時の鉛筆画やデッサンを見ると、吉田博の絵の基礎がここにあると感じる。先輩弟子の小杉放庵が「絵の鬼」と評するくらいだから、どれだけ打ち込んだんだろう。10代での基礎がしっかりしているから、その後の彼もあるのだと思いました。

「村里の子供たち」1894-95  心にすうっと入ってくるよう。

当時は水彩画ブーム。イギリス由来の、外国人が見た視線のような風景。それがとても心地よい。

 18歳にして養父を亡くし、一家を養う立場となる!生活費は、横浜のアメリカ人に絵を売って稼ぐ。けっこう売れていたとか。

そして23歳で渡米。洋画界で幅をきかせる黒田清輝一派への対抗。官費でフランス留学する彼らに反発し、自費でアメリカへ。

借金をして買った片道切符でデトロイトに降り立って向かったのは、後にフリーア美術館を作るフリーア邸。横浜で出会っていたというのが驚き。

フリーアが出張中で会えない不運。が、困難を倍返しにする彼の強さ。作品を持ち込んだデトロイト美術館で、館長が感激し、いきなりの展覧会開催。サラリーマン13年分くらいの売り上げ。その後も各地で大売り上げ。

途中渡ったパリでは、浅井忠、黒田清輝、和田英作らにも会っているそうですが、「皆、平ベタだ。おかしな色だ。殊に黒田、久米初めダメだ」と日記に。ヒロシ、強い。

帰国後の作品は、それまでの作品の雰囲気は残しつつも、もっとひかれる作品だった。

「土手の桜」1901-03

「霧の夕陽」1903

「霧の農家」1901-3

 

そして二度目の外遊は、義妹の16歳のふじをとともに。兄弟展は大成功。

今回は、ボストン郊外の芸術村で二人、制作に打ち込む。

油彩の「チューリンガムの黄昏」1905

ポツンとした灯り。暮れているけれどまだ雲が見える、この曖昧な時間。眼が慣れてくると草原のやわらかい感じも見えてくる。

 

フロリダの「ポンシデレオン旅館の中庭」1906

フロリダの暖かさと眩しいくらいの陽光。

彼の絵は、日本でも海外でも、温度と彩度と湿度が手の中に感じられる。

さらにロンドン、パリ、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、スペイン、モロッコ、はてはエジプトまで。この時代にスフィンクスを描いた日本人がいるって驚き。

3年あまりの旅。

帰国後、黒田清輝らの白馬会と、吉田博らの太平洋画会(名前からして官費でフランス帰りの黒田らに対抗)との対立。黒田を殴ったとかいうのは、このころの話のよう。

油彩も描いたようですが、彼の水彩画、特に銚子を描いたこの静かな作品は見入ってしまいました。

「新月」1907

すぐに移ろうであろうこの時間と、ほのかに灯った民家の灯り。この時間て、どうしてこんなに美しいと思うんだろう。

 

「月見草と浴衣の女」も月見草が幻想的。

外国を旅した彼の外国人目線は、美しいもの、美しい時間に、とてもよく気づいていて、日常すぎて鈍感になっている私にも、しんしんと伝えてくる。

それが可能なのは、彼の絵のうまさゆえなのでしょう。彼は「むまい」(うまい)ということをとても重視していた。絵の鬼と言われ培った力量は、昨日今日の画家とは比べようもないですが、けしてそれだけでもない。

不同舎で学んだ姿勢か、上っ面だけでなく描くものと自然の中に、自らが入っていることを大切にしていたように思えた。

 

この後、穂高や槍ヶ岳などの高山の絵がつづきます。

それも本格的に登山に打ち込んだこその絵。歩き、壁を登り、野営をはり、何日も吹きさらされながら朝に夕に時々刻々とおりなす変化。

「鷲羽岳の野営」1926は、焚き火の灯りにも、その実感を感じたような。


山では「三千米」1938も印象深い作品。

 

この前には、関東大震災で罹災した太平洋画会を救うため、1923年、三度目の渡米。震災の3か月後という行動力。

絵はあまり売れなかったけれど、転んでもただでは起きない彼の強さ。現地でもてはやされていた浮世絵版画の質の低さに驚き、自分ならもっといいものが作れるのに、と自ら製作に乗り出す。49歳のチャレンジ。

まっしぐらで、負けん気の強さ。それがまた、中途半端でなく、凄い。

一般的な色絵は10回位色を擦り重ねるそうですが、彼は30回以上、100回のものもあったとか。

そして版画でも、時間の移り変わりが面白い。

同じ版木でする、瀬戸内海の「帆船」1926のシリーズは、全部で6枚。見比べると面白い。

午前は、空気が澄んでいる

靄がかかったら、向こうの舟が見えなく・・

夕は、逆光が美しく、海も空も茜色に溶け合う

 

そしたら夜は…

こうきたか。船にもポツリと小さな灯り。

吉田マジック。

夜の美しさの秘密、朝のすがすがしさの秘密。その時間に、自分が何を見て何を見ていないのか、時々刻々と変わる変化の秘密を、彼が時間をかけて抽出したエッセンス。

同じ版木で擦り分けたシリーズは、大正から、さらには昭和には入り60を過ぎて回った世界の光景まで、いろいろあり、どれも感嘆。

マタホルン山、スフィンクス、カンチャンジェンガ  、タジマハールなど。だんだん、朝がこうなら夜はどう来るか?を予想するのが楽しくなった。

 

彼自身にも再現不可能といわしめたインドの一枚は、目をみはるほど。

「フワテプールシクリ」1931

同系色で擦り出され、版画と思えないほど。アラベスク模様の透かし窓と、床に反射する光や光沢。他の作品では移り変わる時間の流れが惜しまれるような美しさでしたが、これは、時の流れが止まったかのような。

この「インドと東南アジア」シリーズを見ていると、すぐにもふらりと旅に出たくなりそう。

そして戦争。

「急降下爆撃」1941

絵も急転直下。戦争にも動じてない。従軍中に搭乗経験があったようですが、彼は本当に強い。

戦後は、自宅の洋館がGHQに接収されそうになったら、自ら乗り込んで収用を免れたとか。さらに、アメリカで人気のあった吉田家は、進駐軍関係者が集まり、缶詰やチョコがあふれたとか。

戦後の作品は少ないようですが、「農家」1946には、しみじみ。

 戸外の明るさと逆に、薄暗い室内はどこかホッとする。台所の火が、ちょっとラトゥールのよう。

これは最後の木版画だそう。

ドラマティックな彼の人生、幼くして子供を亡くすという悲しい出来事もあったようです。「頑固一徹」、「コワモテのむずかしや」、「すきあらば高いところに登りたがる」とかなりな言われよう。なのにあんなにも美しく静かに心に馴染む風景。絵にも彼にも、とてもひかれた展覧会でした。

 


●松涛美術館「穎川美術館の名品展」

2016-05-19 | Art

松涛美術館「穎川美術館の名品展」2016.4.5~5.15

 

工芸品は全期入れ替えなしでしたが、絵画はほぼ前期後期入れ替え。その後期に行ってきました。

頴川美術館を知らなかったのですが、西宮市にある昭和46年設立の美術館。

江戸時代から廻船業で繁栄を誇った頴川家。そのコレクションがもとになっているのかと思えば、そうではなかった。第二次世界大戦の戦禍で先祖伝来の美術品をすべて失い、その自責の念から、戦後ゼロから収集を始めたコレクションが、この美術館を構成しているそう。

今回見た森狙仙の「雨中桜五匹図」は、頴川徳助翁がいつも傍らにおいたのに、戦争で燃えた「千匹猿」(もふ猿が千匹ですと!?)の思い入れから手に入れたものだとか。そのお話を知ったせいかもしれないけれど、このコレクション全体に、自然や生き物、庶民の四季折々の暮らしを見る、やさしい目線の絵が多かったように思いました。

会場にはまず光琳款「群鶴図」

左隻には水葵が。川の流れもはねるように勢いよく。鶴にもせわしない動きが。

右隻は燕子花。鶴も静かに集まっていて、水の流れも細やかに。

水の波紋は銀で、とても美しい。鶴の目には気高い気品が。

 

次は漢画・水墨画の章。

長谷川等伯が影響を受けた「牧谿」。今日の目当てはこれでした。

伝牧谿「羅漢図」

が、よく見えない(涙)。画像より本物はもっと判別つきにくかった。

 

長谷川派の長谷川等雪の「人物花鳥図」には感じ入った。12幅のうちの6幅ずつ展示していました。その3幅。

ふくろうは、等伯の烏梟図のふくろうの顔によく似ている。等雪は江戸時代前期の長谷川派絵師とは言われているそうですが、経歴がよくわかっていないそう。

背景も中途半端なものはなく、鶴の絵の笹は枯れている。鶴もふくろうも、甘さを排した感が。

面する私もしっかり目を開いて(ふくろうにつられて)、正面から見つめてしまった。

 

もう3幅。

キジの絵は、まっすぐの幹にも雪が積もって、緊張感が。絵の半分以上を満たす余白も、しんと止まる冬の空気。

等雪ってどんなひとだったのか、知りたくなります。

 

そして南画の章へ。

南画は、これまであまり親しみがなかったのですが、今回は、独自の感性の19世紀南画に感動。南画の魅力に新たな発見。

山本梅逸(1783~1856)の3枚には、びっくり。「芭蕉野菊図」

雅びっていうのじゃないけど、裏返ったり破れたり、芭蕉の葉が魅力的。墨と抑えた色調で、アジアンな芭蕉と日本的な野菊が取り合わせているのが、新鮮。自然が新鮮に描かれている感じ。

「老松群蟻図」には、さらに見が釘付け。

よくよく見ると、蟻がいっぱい!

クセありげな梅逸。自然をまじまじと見ていた人だって気はします。

「柳桃黄鳥図」

梅逸は「描き込みすぎで、描き殴ったような荒々しい筆致が目立つと評されることもある」とウィキに出ていましたが、たしかにその通りではある。でも魅力満開。

この絵では桃や柳よりも、木の足元に引き込まれてしまいました。

雑草がこんなにも生き生きとリアルに。西洋画のようでもあります。

書き込みすぎなんだけれど、それだけ自然のそのままを、小さなものまでみつめていたんだろうと。その性格。普通だったら絵に描かないものまで、描いてしまう。このひと好きかも。

 

岡本秋揮「桜・雪牡丹図」

繊細な感じにいつも見惚れてしまいます。独自の美意識。


写生画の章は、やはり共感するイメージが多い。

円山応挙「猪図」

かわいい♪。筆目の妙が楽しめる。日本人でよかった。

 

応挙の「鮒鯉図」も水の表現がきれい。

上からの目線だったり、水中での目線だったりと交錯しながら、水の中にいざなわれる。


柿崎波響「花と鶏図」が見られたのもうれしかった。

蠣崎波響は別日記で触れましたが、アイヌ絵も描いた松前藩の家老。絵を売って前藩の家計を助けていたということでしたが、この画力。納得です。


岡本豊彦「漁樵図」

漁師が単なる景色の一部ではなく、生き生きしている。人にポイントがあるような気がするのです。奄美で出会って以来、気になる絵師。

 

西山芳園「四季耕田稼?図」も、田おこし、田植え、刈り入れ、脱穀と、日本の一年の風景。

小さく描きこまれた犬も遊び、ほのぼの。このコレクションの優しい感じが改めて伝わる。

 

近代絵画も、少ないものの、どれもよかった。

竹内栖鳳「瀑布図」

 

小林古径「梅に鶯図」

地面に足で立って、見上げる鶯があどけない。飛び上がってとまりたいのかもしれないけど、しだれ梅の枝は下に向いていて困っているのかな?。

 

速水御舟「小春日和」

猫のぺろりとした赤い舌に、少し妙な予感を感じつつも、一見は朝顔が鮮やかに。

でも見るほどに、ヒマワリはもう花の盛りをとうに終え、首を垂れ。葉も枯れてだらりと下がり。そこに巻き付く朝顔も、葉は変色しはじめ、多くはもう種になっています。咲いている二つの花は、最後の感が漂うとともに、自分の中の既視感も呼び起こされる。

和のリアリズム。

でも、葉の枯れてしおれた部分や変色した部分が、金で描かれているのに、感嘆。静かにかすかにきらめいています。

 

頴川徳助翁の気持ちが感じられるような素晴らしいコレクションでした。

工芸も、長次郎「赤楽茶碗」、本阿弥光悦「黒楽茶碗」本能寺で火中にあったと伝わる「肩衝茶入」などなど。

久々の松涛散歩も楽しかったです。

 


●府中美術館「ファンタスティック絵画の夢と空想」

2016-05-08 | Art

府中美術館 ファンタスティック江戸絵画の夢と空想

前期2016.3.12~4.10、後期2016.4.12~5.8

前期後期、全入れ替え。後期展に行ってきました。

 

会場後半になんと、葛飾北斎「富士越龍図」が! ずっと見たかった、絶筆と言われる絵。

が、帰宅後気づいたのですが、あれ?美の巨人で紹介されていた絵↓↓と落款の位置が違う、佐久間象山の賛もない…。


今回の展示は、個人蔵の別のものでした。

美の巨人で紹介されていたものは「嘉永2年1月(1849年)」と日付があり、亡くなる三ヶ月ほど前。署名は「九十老人卍筆」と。絶筆はそちらなのでしょう。

今回のは日付がなくいつ描かれたのかわかりませんが、何度も画号を変えた北斎が、75歳から亡くなるまで用いた「画狂老人卍」と記載されているので、晩年の作なのではと。

ともかく、今回の富士越龍図も、肉筆に引き込まれました。 龍の体のくねり具合、かっ開いた手足の指。

北斎の最後の言葉が「天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし 」(あと5年長生きできたら、本当の画工になることができたのに)。

これまでの画業の軌跡のような黒雲も、アクセルとブレーキを踏みまくっているかのように折れ曲りって富士を登り、ついには頂きも越え。天命によって否応なく残り時間はカウントダウンされつつも、絵に取り憑かれた老人の「もっと描きたい」という妄執が爪を立てるように。

改めて二枚を比べて見ると、絶筆のほうの絵は、富士山はデフォルメされてずっとシャープな形に。龍も、もう富士の頂を高く超えてしまっった。すでに天に昇っていく途にある自分を、北斎が遠くから見ているよう。

柴田是真「三日月図」を見られたのも、とても嬉しい。

濃い墨と水筆のにじみだけで現れた雲。 照らし出された雲の強い表現に、月の明るさも感じた気が。光景を描いたというよりは、それを見たひとの脳裏を抽出したような。

柴田是真は「月下布袋図」も。

丸いおなかの布袋さんが月を見上げるファンタジー。足元の水の線がすてき。

私も空を見上げてみようか。まだこの布袋さんのような邪のない表情だろうか(._.)?。この章のタイトル「見上げる視線」には感じるものがありました。

 

円山応挙もひかれる作品が。「残月牽牛花図」

解説によると、賛は六如という天台宗の僧の漢詩で、「眠れぬ夜、立ったまま月を眺めていると偶然朝顔が花を開かせた」。

うす闇で朝顔が開くのかわかりませんが、もしそうならステキな出来事。この朝顔は、見る者もなくても、蔓も意思を持って伸び進み、月を浴びている。

 

円山応挙「雲峰図」

青墨がとてもきれいでした。むくむくと育つ入道雲。飛行機から見たように雲と目線の高さが一緒で、気持ちがぽーんと大きく。床の間にこんな入道雲の掛け軸がかかっていたら、なんて楽しいだろう。

応挙の作品はどれも視点がフレッシュ。伝統的なモチーフだけでなく、そこにある自然万物から感じている応挙にひかれました。


応挙の弟子の長沢芦雪も、抜け感がいいです 。

「朧月図」は、朦朧体の元祖?

 

「諸葛孔明図」は、机の下で寝る丸い顔の子ども。諸葛孔明の優しい顔。

問題児弟子だった芦雪と、穏やかな人柄の応挙みたいかな。

 

芦雪の「蓬莱山図」も、全体的にとっても好きな世界。


広やかで穏やかな世界と、そして細かく見たら細部の一つ一つに愛ある発見ができて。

蓬莱山へと皆が集結。 波打ち際の松までが、蓬莱山へ向かっている。

海から上がり、先を急ぐ亀(歩みは遅いけど頑張ってます)。

鶴で乗り付ける仙人たち。

蓬莱山にかかる赤い手すりも好き。

奥のほのかなピンクの桜も、ストライプの波も好き。

好きとイイしか言ってませんが。 全景へひいたり、細部へズームしたり、交互の自分の心のストレッチが心地よい。

 

岡本秋輝「日々歓喜図」は不思議な一枚。

幽玄夢幻な蝶と波のかたち。

 

酒井鶯蒲「浦島図」も。

意外と近くの竜宮城。亀がやってきた。浦島太郎のたそがれた感じが、普通の漁村の人間らしくていいと思う。

 

強烈に異彩を発していたのが小泉斐「竜に馬師皇図屏風」

な、なんじゃこの絵は??。壁みたいに大きな絵なので、目の前にこの竜の大顔面が。

馬の医師の馬師皇のところに、竜が治療に訪ねてきた。一度見たらみょうちくりんすぎて忘れられないこの笑顔。

ちょうど目が合うのです。画面構成も現代画のようです。小泉斐(1710~1854)ってなにもの。


仙義梵「柳に牛図」

「気に入らぬ風もあろうに柳かな」と。気に入らない風もあるけど、と。柳がそれをどう流すのかはわかりませんが、 牛の後ろ姿がマイペース感がいいです。禅画なので、黒牛にこめられたもの、この背中、このしっぽ。

 

ほかにも森一鳳「満月図」、東東洋の「富士・足柄・武蔵野図」、 長文斎栄之「孟宗図」、土佐光貞「吉野・竜田図」、歌川国芳の「一休和尚と地獄大夫」、河鍋暁斎なども、じっくり見入ってしまった作品でしたが、きりがないので、ここでひとくぎり。

前期に来れなかったのも惜しまれる、楽しい展覧会でした。


●茂木本家美術館「北斎の滝と橋展」

2016-05-08 | Art

茂木本家美術館「北斎の滝と橋展」
 
北斎の滝シリーズ「諸国瀧廻り」を見に、千葉県野田市へ。

野田といえばおしょうゆ。茂木本家美術館は、キッコーマン創業の茂木家の12代目茂木七左衛門さんのコレクションを基に設立された美術館。

こちらも予約が必要。建物やコレクションについて、スタッフさんが簡単に説明してくれます。他にも何組も先客がいましたし、説明の後はゆっくり見られるので、緊張しなくて大丈夫でした(^-^)。

建物の解説は、窓の視覚のしかけ、窓から見えるサルスベリの木、木が映り込む仕掛けなど、興味深かったです。
 

北斎が70歳ころの作「諸国瀧廻り」全8枚が専用個室に。版画なので小さめなのですが、貸し切り状態なので、かぶりつき(^-^)/。

水が面白いのです。状態が良いので色も堪能できました。

『 下野黒髪山きりふりの滝 』


日光。岩間を舐めつくす水が、生き物か蛇のような。


『 木曽海道小野ノ瀑布 』


長野県植松町。氷の柱がザクッと刺さるようなシャープさが爽快。

『 木曽路ノ奥阿彌陀ヶ瀧 』


岐阜県郡上市白鳥町。

この滝、一瞬、てるてる坊主に見えるやつ。見晴らし台では、そこでお茶沸かすのね。

北斎は、目線の高さが自由自在で、天狗の化身かなにか?とたまに思います・・

『 美濃ノ国養老の滝 』


岐阜県養老郡養老町の養老公園。水しぶきも激しく。

 

逆に、ちょろちょろっとした流れも。「東海道坂ノ下清流くわんおん」



 ほかの作品もどれも、人が描かれているのですが、滝を見上げて激しさにびっくりしていたり、イモ洗い状態で禊ぎをしていたり、逆に馬を洗って実用的に使っていたり。

人が描かれているから、そこにずんっと描かれる滝も、どこか人っぽいのかもと。

そして北斎ブルーをこんなに吸い込むと、気分も爽快でした。

滝だけではなく、名橋奇覧のシリーズの橋も。
 「飛越の堺つりはし」

 一点に集中する重力に固視してしまうのですが、でも意外とのんきそうな鳥たちが飛んでいたりと、平和な感じです。

 

ハガキはありませんでしたが、「木曽街道名所一覧」1819の鳥瞰図は、すごかった!(画像はこちらから)

これを想像で描いたのだから、声を失う…(O_o)。

隣に、鍬形恵斉の「江戸鳥瞰図」が。スタッフさんのお話では、当時、鳥瞰図をはじめに描き始めたのはこの人。北斎はそれを見て鳥瞰図を描くようになり、「鳥瞰図といえば北斎」と言われるようになってしまった。鍬形恵斉は怒っていたということですが、確かに北斎の超絶技巧ぶりは、彼の力作をも圧倒してしまっていました・・。



常設も、明るい作品が多く、こんな明るい午後にはぴったりな感じ。
絵葉書も充実していました。

梅原龍三郎「鯛」



チューブから直接出して塗り込めているので、画像ではわからないけれど、むにゅむにゅっと飛び出しています。ピッチピチな鯛です。



小倉遊亀「古九谷徳利と白梅」



2年前,箱根の岡田美術館で、安田靫彦と遊亀が師弟揃って、同じような花瓶と花を徳利を描いているのが並んで展示されていましたが、これかな?うろ覚えなのですが。


富士山ルームもありました。
片岡珠子「めでたき富士」1992が観れたのも嬉しかった。

赤色がポイント。

坪内 滄明「秀峰」も、静謐というのでしょうか。



松本哲男「一宇一月明」1992は、大きな一枚



この三枚、同じ角度からみた富士山のようですが、山梨側かな?

 

梅原龍三郎の「富士山」は、この日の富士山の絵の中で、一番ひかれた一枚。

現代なんだけれど太古の世界とシンクロしたような、大きな世界。きんとうんに乗って見ているような気になれた楽しい絵でした。

それぞれの画風が個性を放っていて、面白い空間でした。


お庭は写真も可です。

広い敷地の奥には、お稲荷さん

ちょうど藤のきれいな季節


 スタッフさんがオススメしてくれましたが、手水の狐の透かし彫りは見もの。

「狐の嫁入り」の一行がかわいいです!新婦の乗る輿の透かしが細かい!

裏に回ると、親子狐!

こんなに凝っていてかわいい手水があるとは。茂木家の豊かさを実感。
 

四方の柱にも、それぞれ透かし彫り。
獅子に牡丹


この組み合わせは、ちょうど北斎の東博とおなじ。どちらも存在感負けてないですものね。


 中に玉が!



この牡丹は蕾が




樹齢はわかりませんが、古木を見ると抱きつきたくなります(^-^)


館内には、居心地のいいカフェも。

この日は和菓子が売りきれでがっかりしていたら、サービスのメレンゲが(^ ^)。

小さいですが、絵もお稲荷さんも広い敷地も、ゆったりとした気持ちになれる美術館でした。

帰り道の並木道には大樽が。

北斎の富岳三十六景リアルに。

れんが倉庫かな

昔使われていた、お醤油関連のもののようです。

野田市には、キッコーマンゆかりの大正レトロな建築や、町屋風の古い民家もちらほら見かけます。空き家もあれば、博物館や公共ホールとして現役使用されているのもあります。「高梨家住宅」は見ごたえありました。

観光地でもないですが、街に「すき間がある」感じが好きです。

さらに高島野十郎が亡くなった介護施設も野田。すぐ近くの報国寺というお寺さんには、田中一村の南画のコレクションがあったりと、野田市のまわし者ではありませんが、なにかとひかれる街なのです。

 


●安田靫彦展

2016-05-04 | Art

安田靫彦展 国立近代美術館 2016・3・23-5.15

 

安田靫彦(1884-1978)の108点に及ぶ回顧展。

何年前だったかまだ日本画にさほど興味もなかったころ、不思議なオーラに捕まった、靫彦ワールド。人物の表情の妙味にはまった。

きっかけとなったのが、このおばあさま。

「赤星母堂像」1942

 このシンプルな絵はなに!? このばばさまの風格はなに!?と。(図は全て画集から)

いつから靫彦は靫彦になったのだろう?

「品格の高さ」という言葉でよく評されるけれど品格って?。あの(しれっとした?)顔はいつから?と、積もった知りたいことだらけ。回顧展を待ちわびていた。

 今回は、15歳の時の絵から展示されており、変遷の過程を知ることができる構成。文化財の保存など、絵以外にも力を尽くしていたことも初めて知った。


靫彦は、15才からすでに靫彦だった。と、前述の自分の疑問にひとつ答える。

画風の変遷はある。でも目指すものが一貫していて、一枚一枚完成された美の世界。

歴史画では、早い時期から滅私の画風。描き手が気迫をみなぎらせたり、感情を高ぶらせたり、自己をぶつけたような絵もあるけれど、靫彦は自己よりも、主題と登場人物の精神のほうを前面に出す。

人格の高さということなのだと思うのですが、だからこそ、この展覧会では靫彦の生身の姿にもう少し触れる資料が少なかったのが少し残念。

以前神保町で買った古い画集には、赤星母堂像の下絵が15枚も載っていて、対象の精神に迫ろうとした試行錯誤と苦心が靫彦にもあったことに感じ入いった。

だから今回も下絵や手紙などを期待していたのですが、下絵類はなく残念。

とはいっても、大大満足な展覧会。

 

14歳で画家になると決意し、小堀鞆音に入門。

「吉野訣別」1899(15才)

同じく15歳の時の「木曽義仲図」とともに、まだ表情は写実的ではありますが、15歳から尋常じゃないうまさ。

2年で方向性の違いから師のもとを離れ、青邨、紫紅らと会を結成する。活動的な人だったのが意外。描きたい世界を、この年から明確に持っている。

「守屋大連」1908 24歳(図は部分)

保守的な守屋の、イメージ通りの表情が怖いくらい。曽我との戦いの前の緊迫感。

山岸涼子さんの日出所の天子の守屋に似ているけれど、靫彦の絵を参考にしたのだろうか。

靫彦はこの絵について「写実がすぎる」と。24歳で早くも、抑制の美学。

 

「夢殿」1912 28歳

淡い色が夢のよう。この画像ではわからないけれど、足元の花もとても美しくて、そこだけでも長く見とれました。

奈良の留学から大きな影響を受けたのでしょう。三の丸尚蔵館で知ったばかりですが、テレビもカラー画集もない当時、奈良時代からのロマンあふれる宝物を見る機会をえたことは、貴重なこと。

「天台仙境」1917(33歳)↓、「御夢」1918(34歳)では、歴史を考証しつつも、自由。すっかり独自のイメージの世界。

私が靫彦に魅力を感じてしまうのは、この自由さが基本にあったのかも知れません。

 

それにしても、靫彦の描く”眼ヂカラ”、すごい。

鉄線の細い線2本と、黒目をちょん。これだけなのに、ものすごく眼で語る。

「孫子勒姫兵」1938(54才)

帝の寵姫(一番右側の姫)の嘲笑の眼!

右から左へと、姫たちと孫子の感情を読み取りたく、何度も眼を往復してしまう。

 

「吉水の庵」1934(50才)の法然上人の眼も、好きな一枚。

例えば忙しくしているときでも、この法然と椿のあいだの空気感に触ったら、ふっとココロひと休み。お坊さんの目線と、それをやさしくつつましく受ける椿。ほんのりぽっと、かわいい人みたい。

 

靫彦の眼も魅力なのですが、その人物・人物の過去将来すべて暗示するかのような微妙さも、感嘆。

 「出陣の舞」1970 (86才)

 比叡山焼き討ちなど狂気に近い行動をとった信長らしいこの目。不穏な空気や、流れるろうそくの炎は、まもなく燃え落ちる本能寺と信長を暗示しているような。

 

「伏見の茶亭」1956(72才)

 

華やかなこの世の盛りの秀吉ですが、その手の花切り小刀の緊迫感には、ぞくっと。トップに上り詰めるまでにどれほどのことをしてきたのか、そして今もいつ足元をすくわれるかわからない・・。背景は、光さしつつ、忍び寄る影。靫彦の描く為政者の絵には、どこかに破滅の影。終わりの予感。

 

「黄背川陣」1940-41(56-57才)

頼朝の威厳と冷徹な目線もさることながら、義経のひたむきな目線は、なんだか哀れに感じてしまった。こんなに忠義を尽くしているのに、真ん中に薄墨で描かれた草花に同じくらいに、はかなく。

左側の暗雲に撒かれた金と赤い葉は、散ってしまう義経の運命みたいですが、それを美しく象徴させているのは、戦時中の作だからでしょうか。

この絵は他の戦時中の絵とともに戦意高揚に歓迎され、立場のある靫彦なりに、報国の役割を果たそうとしたと書かれていましたが、とてもあいまいな表現ではあります。少なくとも声高らかに愛国を訴えた絵ではない。逆に、松本俊介や他の画家のように、疑問や苦悩を訴えた形跡もない。

大きく見ると忠義の美しさ。でも細部にそこここに、悲しみや哀れさが散っていると思う。


いつも抑制のきいた靫彦の表現からは、靫彦が実際のところ、戦争にどのような思いを抱いていたのかはよくわからなかった。

でも、この時まもなく60才。時局がどうあれ、少なくとも絵にブレはなく、絵の道、美の道をただただ追求していたんじゃないかな。戦時下に求められた題材を描いているけれど、絵は、迎合するでもなく、抵抗するでもなく。

どのような立場であれ、15のときから連綿と続く歴史の盛衰を学び、求める美がはっきりしていた靫彦にとって、戦局の中でもぶれることはなかったのかも。

「保食神」1944(60才)も戦争末期に食糧増産を願って描いたとありますが、どのようなことであれ、この靫彦の本道みたいな色彩と、眼線が魅力的。

 

敗戦後には、一転して、日本画や歴史画は非現実と非難にさらされる。それでも動じることなく靫彦は歴史画を描き続けた。結局のところ、戦時下でも戦後でも、靫彦自身の進む道は、たゆまず変わらなかったんじゃないのかな。

 

歴史画では滅私の境地と申しましたが、花の絵は、多少、違う靫彦も感じるような。幾分素直に自分を出しているような。

「菖蒲」1931(47歳)(部分)

後期になると、明るい色使いも洗練されて、自由に謳歌していくようで、見とれました。

「窓」1951

花瓶にささっているようで、実は窓の外のアジサイだっていう、遊び心?

 

「朝霧」1951

色も花も葉も戯れるような。

「室内」1963(79才)

水墨画・オレンジの壺・首みたいに大きなクレマチス・南欧風の派手な皿!?常に「品格」って言われる基本線があるのだけれど、79才でこの取り合わせって。全部が楽しく、どこまでも自由に。

 

1968「紅白梅」(84才)

ここまでびっしり描きこんでいるのは、31歳ころの「羅婦仙」を思い出しました。

靫彦の花は多様で、どれも自由で華やか。洗練。過ぎない色使い。調和。

靫彦の美意識に触れたよう。 

その美意識は、女性の絵にも現れているような。

 「挿花」1932(48歳)

かすかな緊迫。フェルメールの牛乳を注ぐ女のように一点に。

黒髪も、青い着物も、散った赤も、色がとてもきれい!

花と女性の描き方の違いが印象深かった。

 

「花づと」1937(53才)もなんて美しい。

 着物の柄の美しさ!抑制のきいた赤色にのさし方にも、ただただため息。

 

あいまいな表情が、美しく。秘められたなまめかしさも。

日傘をたたんで、花たばをささえ、その所作の瞬間。「挿花」や「茶室」1962(78才)もですが、靫彦の女性画には、なんというか刹那の美というか。

  

目線で語る靭彦なのですが、簡単にはつかみどころがないのが、良寛の表情。

「良寛和尚図」1937(53才)

もう一作の63才の時の毬を持つ「良寛和尚」も同じような眼。簡単にはいうことのできない含蓄が・・。

靫彦は良寛に深く傾倒していたそうですが、余計なものを極限まで省き、本質を描いているようではあります。靫彦にとっての良寛が絵に描かれているのだと思うのですが、良寛についての記述や他の絵も見てみたいです。

他に見とれたのが、「森蘭丸」1969(85才)

「出陣の舞」の信長の隣にかけられていました。

信長とともに本能寺の変で最期をとげる、美貌の小姓。才気あふれる中にも、ほっぺや唇や長いまつ毛に、カラバッジオのバッカスを思い出す。

武将と色小姓的ないわくまで靭彦がこめたのかはわかりませんが、奥ゆかしさが美しい。よく靫彦が評される「品格を保つ」ことの美しさを実感。

小物の使い方も、感じ入った一枚。床の間の梅の枝が意味ありげ。

赤星母堂像の下絵では、仏像の位置に苦心し、ずらした形跡が見えた。他の絵でも、小物の探索もしていったら楽しそう。

 余計な背景を捨て去り、線にもむだな物はなく。和の美が余白に美を見出すのだとしたら、靫彦は全体に余白のような含蓄があるようで。いつまでも、見たくなるのはそういうとこかな、とか、ずいぶんたって思いました。

 

91才まで、衰えない画業は、驚くばかり。

「吾妻はや」1971 (87才)も好きな一枚。

 ヤマトタケルの表情には悲しさと悔しさがこみあげているけれど、全体的な明るめの色や、とげとげしさのない山たち。明るめなのに、寂しくて。悲しい時も、自然は澄み切って、いつもそこに変わらず寄り添うようなものなのかも。

楽しい時間でした。

しばらくしてから図録の年表をみていたら、20代のころ修善寺の新井旅館で静養していた靫彦ですが、「1934年、新井旅館のため設計した浴室が完成し、天平風呂と名付けられる」と。法隆寺金堂などの意匠をとりいれた意匠も当時のまま、今でも健在とのこと。新井旅館といえば、修善寺にいけば必ず通りかかる目抜通りのお宿。いつか行かなくては♪。