東京駅に近いアンペルギャラリーで椿の絵を見てきました。
ご長寿で知られる3人の画家が描いた椿が並びます。
(写真は、著作権が残っているものがあるため、会場全体を撮る感じであれば可とのことです。)
土牛は101歳、亡くなるその歳まで描き続けました。
小倉遊亀の椿は、写実的な堀文子とは逆かもしれません。デフォルメされた花、金泥の空間の亀裂のような枝。椿は椿にして椿を出る、みたいな。
ご長寿で知られる3人の画家が描いた椿が並びます。
小倉遊亀100歳
奥村土牛101歳
堀文子105歳
(写真は、著作権が残っているものがあるため、会場全体を撮る感じであれば可とのことです。)
見ていてすぐ、3人ともに椿を見る愛情深い気持ちが絵から伝わってくるように感じました。
椿への愛、そして日常の暮らしへの愛情のような。
生きていること、絵を描けること、それ自体への喜びかもと思いました。
土牛の作品です。
土牛は101歳、亡くなるその歳まで描き続けました。
84歳の時の言葉が紹介されていました。「芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完で終わるかだ。余命は少ないが1日を大切に精進していきたい。」
堀文子の作品です。
堀文子も100歳まで描き続けました。
堀文子も100歳まで描き続けました。
堀文子の椿は瑞々しさが際立っていました。一輪一輪に多幸感があふれているような。
描かれた椿の花が嬉しそうなのです。
そして堀文子の椿は、シベがとてもかわいいのです。しべの先の黄色い花粉の点々が、小さくても一つ一つ丸くぽってりとつけてあって、なんとも愛らしい。
小倉遊亀の椿は、写実的な堀文子とは逆かもしれません。デフォルメされた花、金泥の空間の亀裂のような枝。椿は椿にして椿を出る、みたいな。
椿と同じくらいに花器が丁寧に描き込まれていたのも印象的でした。
小倉遊亀はよく自宅の花器を描いているので、小倉遊亀の日常の暮らしが垣間見えるのですが、日常なのに絵は型破り。常にチャレンジング。
昨年、一昨年も年末にこのギャラリーに椿の絵を見にきました。
来年も来れますよう。
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