はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●千葉市美術館「二つの柱ー江戸絵画/現代美術をめぐる」2

2016-06-28 | Art

千葉市美術館「二つの柱ー江戸絵画/現代美術をめぐる」2

の続き

 

見たかった渡辺崋山が、嬉遊会コレクションから二点♪。

渡辺崋山「厳寒二友図」1838

竹の葉を線で、梅の花を点で。墨だけで色がない効果なのか、点と線のリズムを感じる気が。速描きでならした崋山の、そのスピードに同化。手慣れた感じが、かっこいい。

渡辺崋山「黄雀窺蜘蛛図」1837

出光美術館の「??捉魚図(ろじそくぎょず)」と通じ、やはり聡明な感。朝顔や葉の淡さに見惚れました。

朝顔、蜘蛛、雀、竹は全て吉祥画題。

ですが、??捉魚図と同じく、どうしても、うすら寒いようなものを感じてしまう。一つ一つは美しく吉祥を表していても、これらが一枚の世界に共存すると、緊迫が生じ、平穏が壊れるその一瞬手前のような。

この絵も蟄居中の絵ゆえ作年を偽ってありますが、おそらくは自害する1841年かその前年に描かれたものらしい。蟄居中の心境、絵への表現としてのこれらの数作、気になる。

ドナルド・キーンさんの「渡辺崋山」によると、この時期に、借金返済と暮らしのためにかなりの数の絵を描いたようですから、吉祥画題をさらりと描いたこの絵もそういう一枚でしょうか。それでもどこかに心情を吐露させたと考えるのは、強引すぎでしょうか。

 

この「嬉遊会コレクション」とは、千葉県内の数名の美術を愛する会社経営者の方々が、買い集めた所蔵品を一般の方にも見てもらおうと、千葉市美術館に寄託されているとのこと。画集を購入しましたが、見てみたくなる作品ばかり。崋山のほか、やはり気になる山本梅逸も画集には二点。コレクション展が開催されるのを待ち望んでいます!

コレクション内では、崋山の弟子の福田半香「柳蔭納涼図」1846が。崋山の死後五年後の作。

英一蝶「張果老・松鶯・柳烏図」も。

白鷺と烏の対比の真ん中に、張果老の入るひょうたん。すうっと気が登り馬が天馬のように。ミニチュアみたいな小さい馬がかわいく。このお茶目な絵が掛け軸として成立するところが、日本の美って魅惑的だなあと思う。

 

「サトウ画廊コレクション」というコーナーもありました。現代アートの小品を中心に10点。

サトウ画廊さんは、戦後の昭和30年ごろから銀座で営業していたそうです。店主の佐藤さんを慕って画家がおいていった作品や、または佐藤さんが所望した作品400点が。現在は営業していませんが、千葉市美術館に寄贈されたとのこと。

画像がないですが、オノサトトシノブ「CIRCLE]、藤松博「羽ばたき」1956(赤い空気の波動のような)、タイガー立石「封函虎」1989(マッチが緑の虎に・・)など、色彩の取り合わせも印象深く、楽しいコーナーでした。

 

他の日本画も、魅力的な作品ばかり。

西川祐信(1671~1750 四季風俗図巻」(享保1716~36頃)

花見、川床遊びやお座敷遊び、紅葉狩りなど、京都のお気楽な遊び。線が美しく、着物や小物まで細やかに気が配られている。女子力の高さに感服。そしてひとしきり遊んだあとは、遠くに月を眺めて静かに終わるところが、いい。

 

歌川豊国はやはり面白い。「両画十二候 五月」享和元年1801


竹賢図の見立て。ゴージャスな着物を着ているのに、大きなタケノコを抱えて、どっすんとしりもちつく美人。竹林の向こうには水が流れ、美しくつつじが咲き。この確信犯的な趣向に膝を打つ。

 

浮世絵は勝川春湖、渓斎英泉、歌川国貞など見ごたえありましたが、中でも喜多川歌麿の「画本虫撰」1788に見惚れました。

さすが歌麿、人物以外も素晴らしく上手い!細密な描写にも感嘆だけど、さらに画面の配置と、織りなす線も流麗で素敵。小さな本の前で捕まってしまいました。展示以外のページは、国会図書館デジタルコレクションで見られます。

 

呉春「漁礁問答図」(天明1781~89)とその異母弟の松村景文「鮎図」(文政~天保1811~44)を一緒に見られたのも興味深かった。特に松村景文の鮎図は、涼やか。波の勢いと、小さいのに巧みに進む鮎。一匹はぴょんと跳ね、その動きに一瞬、心も跳ねる。

 

岡本 秋暉は、出会うたびにその繊細な美しさに足が止まってしまうのですが、今回見た二作は、ひとくせある趣き。

「百花一瓶図」は1の日記の通り、不可思議な一枚。

「蓮池遊漁図」は、先日、柏で見た摘水会記念文化振興財団の寄託。蓮の花よりも、葉のほうが存在を放っている。花はといえば薄く、しかも一つは枯れて首を垂れて水につき。一つはタネになりつつ、花びらがはらりと落ちている。静かなリアリズム。

 

河田小龍「草花図」19世紀、かなりリアルで、存在感のある絵。

土佐の出身。福山雅治の大河ドラマ「龍馬伝」で、リリーフランキーさんが演じていました。確か竜馬の家に上がりこんで、龍の絵を描いていたっけ。改めて調べると、アメリカ帰りのジョン万次郎の取り調べに当たるなど、面白い人。日本語を忘れていたジョン万次郎と寝起きをともにし、日本語を教え、英語を教えてもらい、鎖国日本と世界とのギャップに驚きます。竜馬に外国との貿易を説いたのも小龍。万次郎から聞いた話を記し、藩に献上した「漂巽紀畧」には、小龍の挿絵も入っているようなので気になります。改めて、今回はその絵と千葉市美術館で出会えて幸運でした。

 

鍬形蕙斎「草虫図」(1804~1824頃)は、チラシにも使われていました。

   

右幅は、青竹に巻き付く朝顔に蝶。左幅は、枯れた竹に夕顔、こうもり。ひとくせある感じ。流れるように目線を上に持っていかれる。夕顔の大きい葉と同じ形に共鳴したこうもり。後ろ姿が、ちょっとかわいくなってしまっているのがたのしい。

 

鍬形蕙斎(1764ー1824)では、「草花略画式」という絵手本の冊子も展示されていました。

以前、葛飾北斎の俯瞰図「木曽街道名所一覧」と並んで、「江戸俯瞰図」を見たことが。

鍬形蕙斎「江戸一目図屏風」

蕙斎は北斎の6歳年下ですが、まさに同時代の絵師。「俯瞰図」も「略画式」も鍬形蕙斎が始めたのに、北斎に真似されてしまう。俯瞰図は「俯瞰図といえば北斎」と言われるようになり、略画式も北斎漫画のほうが有名になってしまい、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と怒っていたと。気の毒だけど、相手が悪かった・・・。しかも北斎は長生き。蕙斎の死後も25年も多く画業を極め続けることができた。

俯瞰図はちょっと北斎の方が超絶かなっと思ったけど、「草花略画式」も「草虫図」も、心惹かれた絵。鍬形蕙斎の絵を通してみてみたいものです。(「北斎にパクられ続けた男」とかって回顧展、どうかな)

 

曽我蕭白「獅子虎図」(1751~64)は、意外性の一枚。

虎は、せっかく虎なのに、負け犬風。獅子は虻にそんなに驚く?ってくらい驚き、岩にしがみつく。どちらも顔が最高♪。

 

俵屋宗達「許由巣父図」

伝説の世界。岩も木も、牛も幽玄。ぼかしとにじみが美しいです。畠山美術館の蓮池図で知った、宗達の繊細さ。これも少ししゃがんで、下から見上げると、何とも言えない心地よい世界でした。

 

風景の章では、鶴沢探山と丸山応挙の六曲一双の大きな屏風に、引き込まれました。

鶴沢探山(1655-1729)「山水図」1719、

玉澗のような破墨の部分もあるかと思うと、牧谿のような消えそうなくらいふわりとした部分も。師の狩野探幽の影響もあるでしょうか。絵では具体的な形は微かで、見る者の心の中でやっと情景が姿を現す。山から始まり、ふもとに村、気づくと月が出ている。下に目をやると水辺と舟。水辺は左隻につながると、浅瀬になり、やがて小さな集落に。そして山が広がる。光景を文で書くとよくある山水図になってしまいましたが、余白に漂えました。もう一度見たい絵です。(冒涜だとののしられそうだけど、その時のメモ↓)

 

円山応挙「富士三保図屏風」1779、大きなこの屏風とともに歩くと、去りがたいほど。

西洋風な画面構成を摂取した40代半ばの作とのこと。うっすら、形のイメージを投影させたような。立ち上る大気。海は薄い青色がとてもきれいだった。この広やかな開放感。なのに、筆跡は朴とつにのこる。点々とつけられた松原が狐の行列みたいで楽しい。全体的に大きいのに、あたたかい感じ。応挙の人柄かな。

ちょっと遠いけれど、行くたび必ず心満たされる千葉市美術館でした。


●千葉市美術館「二つの柱ー江戸絵画/現代美術をめぐる」1

2016-06-28 | Art

千葉市美術館「二つの柱ー江戸絵画/現代美術をめぐる」2016.6.1~6.26

「風景をテーマにしたもの、モノクロームの作品、私たちを取り巻く日常を題材にとるものなど、いくつかのテーマに沿って、江戸絵画と現代美術を同じ空間に取り合わせ、お楽しみいただきます。普段並ぶことの少ない作品同士の競演によって、時を経て大きく変化した美術のかたちを感じていただくとともに、その中でなお変わらないものを考えたり、意外な共通点を見つけたりと、様々な切り口からコレクションを眺めます。」

 

江戸絵画と現代アートが半分半分という構成ですが、154点一つ一つの作品が見ごたえあるので、共通点とか考える間もなく作品に没頭してしまいました。これで200円は申し訳ないくらいです。

入って釘付けになったのが、諏訪直樹「無限連鎖する絵画 part3(№32-50)1990

(一部の画像がこちらのリンクにあります

壁を直角に二面使っています。(諏訪直樹展1992年/有楽町アートフォーラムの画集の表紙)

壁に沿ってみていくと、絵巻物のよう。

黒をベースに、赤、青、緑などではらった筆。三角のモチーフが山に見え、山水画の世界かと。金の入った色彩は琳派のような印象も。四季や大気を感じる気がしながら進んでいくと、次第に黒く覆われた世界に。収束するのかと思えば、小さな波動が再び息を発し出し、今度は平行四辺形のような形が存在を誇示するかのよう。アクションペインティングのような筆も激しさを増し、感情が極まっていく。

そこで、絵巻物は突然、終わる。

はっと我に返る。絵とともに歩くので、この絵に入ってしまってました。激しいけれどどこか澄んでいるようです。

この絵は、36歳で突然カヌーの事故で亡くなった諏訪さんの、絶筆の最後のパート。解説には「作品を未完成に終わらせるために描き続けるという矛盾に身を置いた」と。まさにその通りで、この作品も、極みに達するその手前で、突然切れていた。

70年台後半の絵画の混乱の中、「絵画の再生を模索」していたと解説にあったとおり、模索の途上。冒険的で果敢な意欲。36歳という若さも作品の中に感じました。彼のこの先を見たかった。


現代アートでもう一つ、特に心に残ったのが、トーマス・ルフ「星 18h20m/65」。(画像はこちらから。展示では文字は入っていません)

高さ2.5メートル以上あったか、大きいです。ただ、星空といえばそれだけ。でも知らないだけでこんなにきれいだったのかと思うと、不可解な感覚に。夜空と自分。どちらがどちらを見ていたのか。私はいつも空を見ていたつもりだけど、もしかして空に見られていたのかも。または、「え、知らなかったのは君だけだよ。僕たちはずっとこうだよ」って言われているような、後だしじゃんけんされたような?。

それにしても、ほんとにきれいです。ところどころに星の砂のような形(逆か?)で光っている大きめの星も。いいよいいよ後出しじゃんけんでも、と妙に楽しく。

トーマスルフはほかにも小さな室内の写真も。

人がいないけど、人の気配がある。これも、こちらが見られてる感じが。

星の写真もそうですが、見られている感じになるのは、ルフの写真が、ふっと自分の存在を、他者のように俯瞰した瞬間をもたらしてくれるからなんでしょうか。


そんな風に思ったところで、振り返ると、人影が!い、いつからそこに。

柴田是真「くまなき影」1867

この影に見られていたような、いや、見ていた自分を自分が見ているような。パラレルワールド?。あなたの視線も私の視線も重なる瞬間のような。

これは明らかに美術館の計算ですね?!

しかもこれ、大好きな柴田是真。こういう版画を見たのは初めてで、うれしかった!このくまなき影シリーズは、他の作品も独特な世界のようでひかれます。

この「くまなき影」は死絵と言われるもの。「死絵」とは、例えば歌舞伎役者などが亡くなった時に訃報の意味も兼ねて擦られた浮世絵。

「八代目市川團十郎」無款 1854 の死絵はこんな風。画像はこちらから

 

ここまで、あまり章ごとのテーマを全く気にぜずここまで見てきたのですが、トーマス・ルフからこちらの死絵まである章は、「はざまにあるものー虚構と日常」というテーマ。まさにその通り。

「ありふれた日常の偶然に潜む現象をしなやかに転換させたこれらのイメージは、虚構(だったかな?)と現実、あるいはそのはざまにある深淵な世界に、見るものを誘います」と。確かにその通りの絵が並んでいました。

中でも、くらっとしそうだったのが、岡本秋きの「百花一瓶図」

不思議な一枚。一見は秀麗な百花繚乱。様々な花が花瓶からあふれている。なのによく見ると、違和感が心に広がる。青い牡丹の不可思議さ。梅、あじさい、水仙、菊と季節を問わず。見かけない花も。現実を超越した、宇宙的な感じすら。


千葉市美術館の学芸員さんてどんな方たちなんでしょう。大阪絵画のときには解説の言葉の豊かさにも感じ入りましたが、今回は、このすてきなたくらみ。美しい絵の世界に見せながら、時に足元をすくい、静かに攻めてくる。

この章は現代アートと、歌川国芳、勝川春湖、渓斎英泉のなどの浮世絵で構成されていますが、どれも見ていると、そもそも日常には現実と非現実が混在しているんじゃないか、それでいいんじゃないかと。なかなか心地よし、です。

2、日本画の感想に続く

 


●東京藝術大学大学美術館「いま、被災地からー岩手・宮城・福島の美術と震災復興ー」2

2016-06-26 | Art

東京藝術大学大学美術館「いま、被災地からー岩手・宮城・福島の美術と震災復興ー」

1の続き

第二部は三階から。

震災から五年たった今、知らなかった私に、この展覧会はとても意義の大きいものでした。感想など簡単に書けるものではありませんが、 こんな厚いパンフレットを作って配布してくださったのも、きっと、「多くの人の中にとどめてほしい」という主催者の気持ちなのではと解釈して、写真だけ少し載せます。

・岩手では沿岸部の文化施設に甚大な被害が出た。中でも、陸前高田博物館では二階まで浸水し、六名の職員さん全員が亡くなった。所蔵品の運び出しは7月までできなかったそうです。それから土砂の汚れやカビを落とし、その作業は今も続いているそうです。

陸前高田博物館の二階にあった作品から、修復を終えた猪熊源一郎の作品が展示されていました。

1992年の「顔」のリトグラフ

1952年の「猫と頭」

猪熊源一郎といえば「顔」の絵はよく目にしますが、正直こんなに心に入ってきたのは、この展覧会が初めてです。人ひとりの顔。それぞれの顔。この博物館だけでも六名の亡くなられた職員さんのことが頭に。今回この絵を選んで、ここに持ってこられた学芸員さんたちの顔も。

 

・宮城県で最も被害が大きかったのは、石巻文化センター、避難途中に学芸員さんが一人亡くなられた。一階の収蔵庫は水圧で扉が壊れ、土砂や泥、工場のパルプ屑が流れ込み被害を大きくした。跡地はメモリアルパークになり、後継施設の移転予定地は現在は仮設住宅ですが、予定では2020年完成と。
 
 
この石巻文化センターは、石巻生まれの高橋英吉の作品を常設展示する美術館の設立運動が契機になってできたのだそうです。
高橋英吉(1911-1942)は、東京美術学校でまなんだ木彫作家。31歳で戦死したそうです。石巻文化センターは高橋英吉の他、木彫や木を素材にした作品や、地元出身の画家の絵をコレクションしていたそうです。
 
高橋英吉「少女と牛」1939 石巻文化センター蔵
 
高橋英吉「不動明王」1942と、「手製の彫刻刀」1942 個人蔵、石巻文化センター寄託
 
これは亡くなった年の制作です。
 
・福島県内では主だった博物館美術館では被害は少なかったものの、放射能汚染の問題から、海外からの出品停止や巡回展の中止が相次ぎ、正常値になった現在も数値の測定を続け発信しているそうです。

第一部の展示ですが、伊達市出身の写真家・瀬戸正人の、放射性物質を具象化させた写真が展示されていました。

瀬戸正人(1953-)、上は「セシウム 会津/五色沼」2012 下は「セシウム 福島市」2013

見えない、その気持ち悪さ、空恐ろしさ。

当時、私の住まいも除染対象地域になりました。他の地域の知人の、悪気はない無邪気な言葉にも、複雑な気持ちになったものです。ましてや、この写真や他の展示について、自分の思いすらつかみきれないのです。パンフレットの解説には「震災から五年を経ても福島をめぐる状況は今なお混迷のさなかにある。美術家たちの営みもまた、迷いと戸惑いの途上にあるのだろうか。」と。


三階では、警戒区域に指定された地域の、寺社、学校、資料館に置き去りにされた文化財の救援について、紹介していました。

 


救出が始まったのは一年以上たってからで、今も個人所有の文化財の救出など続いているそうです。またその救出されたものは一時保管されていますが、今後の取り扱いについてもこれからの議論になるようです。


●東京藝術大学大学美術館「いま、被災地からー岩手・宮城・福島の美術と震災復興ー」1

2016-06-25 | Art

「いま、被災地からー岩手・宮城・福島の美術と震災復興ー」東京藝術大学大学美術館

2016.5.17~6.26

第一部は、「東北の美術―岩手・宮城・福島」、それぞれの県立美術館の所蔵品が主に展示されています。
第二部は、「大震災による被災と、文化財レスキュー、そして復興」。直後の被害状況や、混乱の中取り残された美術品のレスキュー活動や修復作業が、写真で展示されています。さらに修復された美術品、または修復しきれなかった美術品も展示されていました。

地下の第一部から

 入るとまず、見たかった酒井三良が展示されていました。

「雪に埋もれつつ正月は行く」1919 福島美術館蔵

 

22歳の作品。お母さんの顔が、観音様のように見えました。囲炉裏と灯りの火がほっとあたたかく、子供たちのほっぺや耳たぶもほんのり紅く。猫まで暖まって。観ている私もちょっと暖まり。室内なのに、外の青い夜空を感じるような広がり。特別になにかを話すこともなく、静かに時が過ぎていく。

 三良は、数年前に「薫風」を見てひかれました。

こちらは制作年は昭和としかわかりませんが、おそらくこちらの方があとの作品でしょう。

三良についてもっと知りたいけれど、あまり出ているものがなく「大観・春草・御舟と日本美術院の画家たち」(岡田美術館)から要約すると、

酒井三良(1897ー1969)は福島県大沼生まれ。はじめ坂内晴嵐に学び、その後は独学。大正9年(1920)、心の師と仰ぐ小川芋銭と出会い、芋銭の勧めにより、再興院展に出品、13年には日本美術院同人に推薦された。昭和3年(1928)から会津若松に暮らし、7年に上京、21年には五浦にあった横山大観の別荘に移住し、作画を続ける。29年にふたたび上京してからは、水郷地区や福島方面、中国四国、九州などを旅し、大量のスケッチをのこした。

先日の山種美術館の土牛展の画集には、土牛の言葉のなかに三良が登場。

「酒井さんとの交際は40年近くになりますが、この間にずいぶん二人で旅行しました。これは酒井さんの郷里の関係で、主に東北地方が多かったのですが、この地方の事情に大変詳しかったので、一緒に歩いてずいぶん勉強にもなりました。いつも気楽な弥次喜多旅行でしたが、酒井さんの明るく軽妙なユーモアが、旅の楽しさを深めたように思います。 (「三彩」249号 1969年10月)

芋銭、土牛と親交があったとのこと。この二人の心優しい絵からも、三良の人柄もそのような穏やかな人がらを想像します。若いころは妻と子と苦しい生活だったらしい。回顧展もなかなかないですが、茨城県立美術館、福島県立美術館で、たまに常設のなかに展示があるようです。

 

この展覧会は、画集はないのですが、30ページを超える立派なパンフレットをいただけました。

ここに持ってきて展示されている作品、なんというか、浮ついた作品は一つもありませんでした。

角谷磐谷「水郷植田海岸」(福島八景十勝より)福島美術館蔵

おだやかな、引き潮の風景。海藻を集める人、かご、舟。むこうの家に煙突の煙。こういう遠景で生活感のある絵は個人的に好きです。1947に福島の観光名所の投票で選ばれた景勝地を描いたものだそうです。震災で風景が変わってしまった場所もあり、図らずも記録画のようになってしまいました。

 

関根正二が二点ありました。

姉弟 1918年 福島美術館蔵 

 神の祈り 1918年ごろ 福島美術館蔵  

20歳で亡くなった関根正二の19歳ごろの絵。どちらの絵からも、閉じた口元から、足元の花から、瞳から、声に出さなくても、内面の思いを二人は伝え合っているような。

 

松本俊介が三点ありました。

「盛岡風景」1941

緑と青の澄んだ色なのですが、故郷というよりは、どこか不安定。盛岡の皆さんはどのように感じるのか、お聞きしてみたい気がしました。

「画家の像」1941 宮城県立美術館

この絵は、2012年の世田谷での回顧展の時にも観ました。松本俊介は反戦を訴えた画家とは言えないようですが、聴覚に不自由があり徴兵を逃れたこととともに、複雑な思いは抱えていたらしい。松本俊介は、文章だとはっきりと明瞭な言葉を書くのに、絵はそうではない。もっとストレートに言ってといいたくなる。でも深い奥の方から、地面の下から、音のないうねりのようにものが響いてくる。

一見感情を読み取れない画家の表情。硬く握ってはいないのに、楽な状態ではない手、肩。どうしてここに妻子を描いたのか、口元は見えず、片方の眼しか描かれていないのに、何かを訴えている妻と子の眼。

 

その俊介の向かいで、萬鉄五郎も強烈なものを発していました。

(ここまで見てきて思ったのは、どの絵も発するものが強いのです。)

「赤い目の自画像」1913

不安定さ、危うさを立ち上らせている自画像。あのおおらかで天真爛漫な「裸婦美人」を描いた直後とは思えない絵。どのような心情をとらえたものかわからないですが、それでもそんな自分を、少なくとも率直に見ることができている。

「地震の印象」1924

あの日が思い起こされます。空気が、地面が、こんな風でした。茅ケ崎で住んでいたときにおこった関東大震災のことを描いたのだそうです。

 

真山孝治「彼岸に近く」1914 宮城県立美術館

 

渡辺亮輔「樹蔭」1907 宮城県立美術館蔵



金子吉彌「失業者」1930 宮城県美術館蔵

五反田で医院を開業していたときに描いたそうです。

そのが描いた絵も展示されていました・

「野良」大沼かねよ1933 栗原市教育委員会蔵・宮城美術館寄託

この二枚に、夫婦で同じ目線を感じました。でも夫は34歳で亡くなり、妻もその三年後に夫と同じ34歳で亡くなります。

 

中頃からは、東北の風土、根を張った強さを感じた絵も続きました。

橋本八百二「津軽石川一月八日の川開」1943

吉井忠「百姓祭文」1969 福島県立美術館蔵

どの顔からも、祭りの高揚感が。この日ばかりは、おとなも子供も、はしゃぎ楽しむ。カラスもフクロウも。押しとどめることなくストレートに感情を出している顔は、この展覧会場ではこの作品くらいだったでしょうか。

 

白石隆一「三陸の魚」年不詳 岩手県立美術館

冷たくさらされた風を感じるようでした。

 

佐々木一郎「帰り路 松尾鉱山(長屋)の夕べ」1975?82

仕事の帰り、ほっとするように尊いように、路に光が当たり。

 

本田健「山あるきー九月」2003 岩手県立美術館蔵

壁一面の大きな作品。写真のようですが、なんとチャコールペンシルだけで描いているのです!

 

藤清「会津の冬26」1977 福島県立美術館

木版画。モノクロの雪景色に、人影がひとり、洗濯物だけがほのかに色を添えて。大好きな作品。

 

このあたりになるともう、何か「お前も、ちゃんと、描けよ」と声が聞こえたような気が。

ここで見た絵からは、大きくみせるでもない、ぶれるばかりの人間でない。そこにある暮らし、自然、生活。他人がいえることではないけど、足が地についている感じ。

 

抽象画のほうは、ストレートに訴えてくるものがありました。

田口安男「手のうら焔」1980

手が念の渦に。炎と一体になり。

昆野勝「眠る女」1965 宮城県立美術館蔵

画像の色がくすんでしまい申し訳ないですが、金がとても美しい作品でした。

 

 どの絵もすばらしく、きりがないのでここで。

岩手、宮城、福島と、ひとくくりにはできず、地元の人にとったら、隣の県とは人も風土にも大きく違う、一緒にしないでと言うのかも。大きく見ての感想で申し訳ないのですが、この展覧会全体で思ったのは、多くを口に出さない人々の、心のうちの厚みというのか、その声。結んだ口から、発するものが強い。

 展示冒頭の、美術館会議副議長、東日本大震災復興対策委員会委員長 山梨俊夫さんという方の言葉が心にぶつかってきました。

「美術の中心は首都圏にしかないのではありません。」と。

「さまざまに地域に様々な核があり、それらが相互に関連しながらそれぞれの美術を作っています。地域のイメージは、見る側とその地とのかかわりや連想に左右されますが、大事なのは、ここに集められた一群の作品に、地域ごとの厚みを感じるにあると思われます。」

多くの美術が、日本中のいろいろな自然や生活や、またはその地域の開放感や太陽の色や、逆に閉塞感や無常感の中で生まれ、育くまれ。もちろん個性の表出である絵を、地域的なまとまりの中で扱いきれるものではないかもしれません。それでもこの展覧会の帰り道、全体として発する声を受けていたような気がしました。展示された絵たちの上空に立ち上る総意というか。そしてこの展覧会を企画した、学芸員さんたちの思いもあるのでしょう。

地方の美術館に行くと、常設の中に一枚か二枚だけ展示され、初めて知る地元出身の画家の絵にとてもひかれることが多々あります。その素晴らしい画家の多くは、画集や情報も少ない。一冊だけ出したらしい画集を、やっと古書で手に入れると、白黒だったり・・。他の絵がなかなか見られず、いつも残念に思います。

パンフレットの中でも、県ごとの美術の潮流や、美術会などの活動が紹介されていましたが、1ページでは書ききれるものではないほど。どんなに厚い多くの画家たちの足跡があったのか。眼にする機会もないまま消えたりしまい込まれたままの絵、機会があっても通り過ぎた絵がどんなに多いんだろう。

地域の美術館の果たす役割の重要さ、東京で目にすることがなくとも地方でしっかり描き出される芸術の層の厚さを、改めて感じました。

2に続く


●郵政博物館「美をあふぐ 華麗なる巨匠たちの扇の世界展」

2016-06-23 | Art

郵政博物館「美をあふぐ 華麗なる巨匠たちの扇の世界展」

2016.4.9~6.26

 

大正5(1916)年に簡易生命保険が創業され、逓信省より事業功労者への贈呈用に、扇子が制作されます。大正、昭和、平成の日本美術界の大家によって描かれた、その原画61点と製品の扇の展覧会です。

前は確か東京駅あたりにあった逓信博物館が、いつのまにか「郵政博物館」と改名して、東京スカイツリータウンに移転していました。

前は子供向けのスペースが多かった感じでしたが、オフィスビルフロアの一角になって、マニアとか大人向けな感じに。(9階ですが、8階でエレベーターを乗り換えないといけないため、スカイツリーの賑わいと打って変わって、穴場感。)

 こんな感じで、原画と、仕上がった扇が展示されていました。。(企画展スペースだけは、写真が禁止です。)

原図の展示リストを引用。(後期分のみ)

平福百穂「竹林の隠者」、山村耕花「金魚」、竹内栖鳳「金魚」、竹内栖鳳「あやめ」、山内多門「山水」、荒木十畝「花鳥」、小杉未醒「ざくろ」、石井柏亭「百合」、長野草風「甘草」、長野草風「撫子と桔梗」、山元春挙「牡丹に黄金虫」、山元春挙「巖に松」、土田麦「鮎」、土田麦僊「あやめ」、前田青邨「かささぎ」、冨田溪仙「あじさい」、橋本関雪「鶴」、川端龍子「おしどり」、西山翠嶂「京洛春色」、
奥村土牛「柿」、堅山南風「つばめ」、堂本印象「柳につばめ」、高間惣七「縞ひよ」、鴨下晁湖「百合」、西山翠嶂「おもだか」、加藤晨明「首夏」、橋本明治「桔梗」、奥村厚一「波紋」、松林桂月「あじさい」、朝倉攝「夏の太陽」、小倉遊亀「桔梗」、上村松篁「矢車草」、平山郁夫「河畔涼風」、東山魁夷「青富士」、片岡球子「桜花」、加山又造「初秋」

このほかに、製品になった扇の現品も展示されていました。大御所ばかり。もらった人いいなあ。「事業功労者」って?たくさん保険に入った人かな?

上のチラシは、富士山のほうが東山魁夷、桔梗の花のほうは小倉遊亀。

 

扇の小さな空間ですが、それでも画家それぞれの画風の通りがわかりやすく出ていました。

なかでも、福田平八郎の「川蝉」1928と「金魚」1928は、ひかれました。

拾いものですが、「川蝉」の部分(こちらから

色が魅力的。軽やかに洗練と言ったらいいのか。

2012年に山種美術館で「福田平八郎と日本画モダン」という展覧会を見ましたが、「平八郎モダン」ともいえるかも。その画集に「形や線よりも先に色彩を強く感じる」と言葉が残されていました。

参考に「芥子花」1936

打って変わって「金魚」のほうは、金魚の輪郭だけを薄い線で二匹描き、金魚のぶち(というのか?)に朱をこれも薄く置いただけ。これがまたとっても魅力的でした。

 

珍しいのが、日本画家がほとんどの中で、三岸節子の「花」1964があったこと。

三岸節子は、油絵の具を盛った強い印象の洋画しか見たことしかなかったので、ここで扇に出会えるとは。

原図はなく製品の扇でしたが、代表作のこの「花」に似た印象の画。強い赤色、抽象的な形。三岸節子らしい個性的な扇でした。

 

この中で自分がいただけるとしたらどれを選ぶかな、と妄想したところ、まず上村松園「ほたる」、次点で鏑木清方「牡丹」

松園のほたるは、薄くさらさらと柳の葉がひかれ、小さな点のように蛍が葉にとまっている。その黒い体に、これも点のように薄く朱色の模様がぽつん。とてもシンプルで薄い絵です。

鏑木清方の牡丹は、扇いっぱいに大きく牡丹が描かれていますが、これもものすごく薄い彩色で、かすかにふわりと。

気づいてみれば、どちらも美人画の大家。さすがというか、ほかの絵と違って、女性が実用に使うことを意識しているのでしょうか。扇の絵柄が主張しすぎず、控えめ。どちらも、女性が扇を開いて顔の近くに持ってきたときに、どんな顔立ちでも、顔を邪魔しないのでは。どんな表情にも演出を加えるというか。

他にひかれたのは、竹内栖鳳「金魚」、奥村土牛「柿」、長野草風「甘草」、堂本印象「柳につばめ」、西山英雄「縞あしと赤とんぼ」、奥村厚一「波紋」、山元春挙「牡丹に黄金虫」、朝倉摂「夏の太陽」など。

 

常設の郵便についての展示も、レトロでいい雰囲気。

切手で作ったモナリザ

この貯金箱、懐かしい~。

この簡易保険のポスター、なんだかすごい。

「簡易保険入って置けば、後々の心配がなく、毎日愉快に働けます」。。。って、なんか入ったら天上に召されそうで・・・。

この天女がかなり魅惑的。

 

今日はとても蒸し暑い一日だったので、涼やかな扇がぴったりな展覧会でした。

 


●東京国立博物館「伊藤マンショの肖像」「親指のマリア」

2016-06-18 | Art

東京国立博物館の本館の7室で、「伊藤マンショの肖像」「親指のマリア」「三聖人像(原図と模写)」が展示されていました。

2016.5.17~7.10

建物正面にも大きな幕が張られ、このための立派なパンフレットも置いてありました。

パンフなどでおさらいしたところ、イエズス会により、伊藤マンショ(1569-1612)が天正遣欧使節団の一人として派遣されたのは1582年。長崎を出港し、スペインでフェリペ二世、ルネッサンス期のローマで法王グレゴリウス13世に謁見します。

個人的な趣味で、経路も気になりました。風を待ちつつ、マカオ、マラッカ、ゴア、モザンビーク・大西洋の島を経て、リスボンに到着。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見あってこその道順かな?。

それでも行きに2年半!帰り道に3年!

ポルトガルでは、コインブラとエヴォラ、スペインではトレド、マドリード等を経てイタリアに着。フィレンッツェ、ボローニャ、ベネチア、ミラノなど16都市を回り、またリスボンから帰国の途に。13,4歳だった少年たちは二十歳を超える青年になって帰ってきます。

行きに寄港したアフリカの西側の島が気になり、調べて見ると、当時ポルトガル領のセントヘレナ島無人島でしたが、使節団が到着した80年ほど前にポルトガル人が発見。定住というよりは、船の補給基地に利用していたようです。今でも人口4000人。当時も寂しい島だったのでは。この50年後にはオランダ領に、その後イギリス領に。ちなみにナポレオンが流され、亡くなった島。いろいろなものたちがこの絶海の孤島を通り過ぎ・・。

セントヘレナ島の公式サイトを見るとなんとなく、当時の船で大海を渡っていた様子をなんとなく想像。(公式サイトの写真から)

まあ素敵♪

興味ついでにマラッカも調べてみると、ポルトガルがマラッカを征服したのも1511年、使節団が通る70年ほど前でした。

マラッカには今でもポルトガル人の子孫が住む地域があり(外観は普通の住宅街です)、学生のころ行ってみたことがあります。お話したその街の人が、「何百年も前に日本人も来たんだよ」と言っていたけれど、たぶん使節団のことなのでしょう。

使節団が通った航路が、当時はまさに大航海時代のダイナミズムの真っただ中にあったことを実感。

マンショの肖像は、1585年にベネチアを訪問した際、元老院が歓待のためにティントレットに発注したそうです。ティントレットの没後、工房に残っていた絵を息子のドミニコ・ティントレットが完成させたようです。

マンショは、幼いころに両親と死別し孤独な少年時代を送りますが、聡明な少年だったそうです。

当時の日本の少年が、こんなに生き生きと西洋画の中によみがえることに感動を覚えます。

表情からは、聖職者になるものとしての純粋さと誠実な人柄とともに、長い旅や責任の大きさに少し緊張しているように感じました。ティントレット父は、東の果てから来た年端も行かない少年(東洋人は幼く見えそうだから)に、いじらしさも感じ、優しいまなざしでこの肖像を描いたように想像しました。

使節団は向こうでは大きな話題となったとか。フェリペ二世もこの少年たちに感激し、法王グレゴリウス13世も感激のあまり少年たちを抱きしめたとか。グレゴリウス13世は少年たちの滞在中の亡くなったそうですが、亡くなる時も「あの少年たちはどうしているか」と気にかけたそうです。ティントレットのこの肖像にも、そんな思いが共通していたのでは。

帰国後マンショは、秀吉に謁見し、士官も進められますが、それを断り布教の道を進みます。天草の修道院、さらにマカオのコレジオで学び、長崎のコレジオで司祭として教えていましたが、1612年に病死。他の三人は、千々石ミゲルが棄教、中浦ジュリアンは1633年に処刑、原マルティノは追放先のマカオで1629年に死亡。ヨーロッパで歓待され、頑張ってきたのに・・。

(気になったのが、この4人の少年のほかに、印刷技術を学ばせるために二人の日本人の少年も同行したようなのですが、その子たちはどうなったのかな??)

でもこの時代のヨーロッパと日本のつながりは、一部の人に限られていたとはいえ、未知な驚きにあふれ、人間的。興味ひかれるものがあります。

 

マンショの肖像の隣には、三聖人像(16-17世紀)と、その模写(16-17世紀)が。

原図

模写

原図の方は、外国人宣教師が持ち込んだもの。模写は日本人によるものだそうです。思わず違うとこをあらさがししてしまいましたが、細かいところまで完璧に写そうという真摯さが感じられる気がしました。

当時の九州のセミナリオでは、来日した若いイタリア人修道士が日本の少年に絵画や銅版画を教えていたのだそうです。リアルタイムにルネサンス絵画を伝授されていたことに感動を覚えますが、ほかの絵ももっと残っていればと、もどかしいです。この二つも「長崎奉行所旧蔵」とのことなので、禁制下で没収したんでしょうか。

 

その隣には、同じく長崎奉行所旧蔵の「親指のマリア」17世紀後半。

イタリア人宣教師のシドッチ(1667-1714)は1708年に屋久島に上陸したところを捕まり、江戸に送られます。尋問を行った新井白石は彼を何度も訪ね、さまざまな話をしあったことが、細かく西洋紀聞に記されているようです。最初は軟禁状態ではありながらも、厚遇されていたようです。が、お世話係の老夫婦を改宗させたことで、三人とも地下牢に幽閉され、シドッチは10か月後に亡くなります。2014年にマンション工事の折に、手厚く葬られた三人の遺骨が出土したそうです。

この親指のマリアは、ボルゲーゼ美術館にあるドルチの「親指の聖母」の模写のようです。ドルチ工房は、弟子たちが多くの模写を作成していたようですので、そういう一枚かもしれないそうです。

清らかで、悲しみを知っている表情のように思いました。親指だけ出ていることで、私は切なさやひたむきな思いも感じたのかなと思います。宗教画の見方はよくわかりませんが、先日の山下りんのイコンを見ていて、たくさんの宗教画を見られる環境にない者たちにとって、一枚の宗教画が信者の心にどれほど寄り添うものであるかを少しは感じたところ。キリストや他のスタイルのマリアの絵もある中で、この絵をシドッチが持ってきたのもわかるような。この絵は、もし布教していたならば、隠れキリシタンの人々や生活の苦しい農民たちの心にも、寄り添い、響いたかもしれません。シドッチも、不安な日本への航海に際し、この絵を心のよりどころにしていたんででしょう。

いろいろ、脱線しつつ思った第七室でした。

その長崎奉行所、他にもこのような時代の犠牲になった品々を蔵にしまい込んでいたのでは?。長崎歴史文化博物館に、長崎奉行所のコーナーがあり、目録は出ていませんでしたが、踏み絵やシドッチの資料の展示があるようです。現地ならではですので、いつか行ってみたいです。

 


●東京ステーションギャラリー「川端康成コレクションー伝統とモダニズム」

2016-06-17 | Art

東京ステーションギャラリー「川端康成コレクションー伝統とモダニズム」

2016.4.23-6.19

 

 一点出ている渡辺崋山(1793- 1841)の絵が見たくて、行ってきました。

渡辺崋山「桃花山禽双孔雀図」1827画像はこちらから

出光美術館で「??捉魚図(ろじそくぎょず)」を見て以来気になっていましたが、これも薄墨で狂いのない線。やはり理知的な感じがします。

一見、桃の花も美しい孔雀の花鳥図。でも、よくよく見ると、安穏とはしていられない、一部攻撃的というか、少しの残虐性が垣間見た気が。

孔雀は二羽とも、目つきが鋭く、気づくと一羽は捕食中・・(しかも私の嫌いなアイツを・・直視できず)。生々しい描写。弱肉強食の当然のことなのかもしれませんが。

三羽の小鳥も何かを狙っているかのような目つき。松の古木にあいた、とぐろを巻くような穴はややもすると不気味さが。

反対に、桃の花は美しく、薄い緑の葉も端正にすっとひかれていて見惚れます。でもふと、桃の紅色が赤すぎる気もしてきたり。

??捉魚図にも不穏なものが垣間見えましたが、あれは自害する前年。この絵が描かれたのは、その14年前、34歳。この前年に、藩の跡継ぎをめぐる勢力争いに敗れ、自暴自棄で酒浸りだったようですが、この絵にもなにか心情が隠されているんでしょうか。

川端康成は、どうしてこれを買ったんでしょう。この絵には特にコメントは出ていませんでした。

 

川端のコレクション。「知識も理屈もなく、私はただ見ている」と。絵に関しては一切書かないことにしている、というけれど、わずかに添えられた川端の言葉はとても豊かな感じがしました。

古賀春江も、約10点。親交が厚かったそうです。

「そこに在る」1933は、友人が「気分が明るむ」からと送ってくれたのだそう。

「ほのぼのとむなしい拡がりを感じる(略)」「(略)おさなごころの驚きの鮮麗な夢である」と、川端の言葉。なるほどです。

「菊花園(制作年不詳)」「藁塚のある風景(制作年不詳)」「孔雀1932」は、抽象画ではないのですが、心に残りました。形に遊ぶ、そして新鮮な発見と驚き。そこで菊も藁も孔雀の丸い模様もぺたりと張り付くように、一瞬動きを止めたかのよう。

 

初めて知った名で、気になった絵が、村上肥出夫の「キャナル・グランデ」1971と「カモメ」1970。

絵の具が丘陵くらいに盛り上がり、うねり。色彩も迫ってくるというか。浅井閑右衛門をちょっと思い出しました。計算や、うまく描かなきゃ、とかいったものとは無縁な感じがしました。

絵を学ぶ機会はなく、路上生活をしたことも。路上で絵を売っていたところが目に留まり、1963年に全国で個展。「放浪の天才画家」と一躍脚光を浴びたそうです。(絵ハガキはありませんでしたが、ほかの画像こちらの方々が紹介されています)

http://enpitsu01.exblog.jp/24989178/    、

http://www.nagaragawagarou.com/exhibitions/murakami-hideo.html

アトリエと自宅の相次ぐ火災の災難のせいか、精神的に病むことになり、現在も入院中のようです。他の絵も見てどう感じるかわかりませんが、たまに小さな個展もありそうですので、いつかの機会を待ちたいと思います。

 

川端コレクションの中で一番心に残ったのが、「土偶≪女子≫縄文時代紀元前3-2世紀」 と、「埴輪≪乙女頭部≫古墳時代5-6世紀」

なんともいえない気持ちに包まれました。後ろや横から見ても、どこから見ても、手で包みたくなるような絶妙さ。丸い形があたたかいというか、宇宙的というか、太古からの悠久というか。大げさな言葉を連ねてしまいましたが、うまく言えず。高山辰夫の卵の静物画を見たときのような感じに似ているかも。後頭部のあたりは、赤ちゃんの頭の小玉スイカみたいなかわいらしさもあります。喜怒哀楽を超越したこの眼にも、心の壁も解けて、その眼の穴の奥に広がるところに入りそうな。

いつも自分が何に感動しているのかその正体をうまく言えず把握できず、言葉を探して四苦八苦してそれでもピタッと言い表せないで何年も抱えていますが、川端の言葉はやっぱりすごい。「いろいろの感情がわいて、尽きることなく(略)」「どの角度から見てもわざとらしさや破たんがない(略)」「調和のまわりにあたたかい拡がりがある」と。そうなんです、コレコレこの感じ。


「いろいろの感情がわいて尽きることなく」という実感は、10点あった黒田辰秋(1904-82)の工芸品でも感じました。

特に「拭漆栗楕円盆1965」の表面は特に、上の埴輪さんと同じくらいにその広がる世界に吸い込まれそう。山水画のような、大きな波のような。宇宙のような太古のような、後はこれも埴輪と同じような言葉になります。

ハガキはなかったですが、同じ拭漆の作品が、一昨年の横浜そごうのチラシに。

お盆とは模様が違いますが、これも見たら、やはり同じような気持ちになりそうです。

近代美術館工芸館では、螺鈿の作品にひきこまれたものです。

黒田辰秋「耀貝螺鈿飾箱」1974

川端康成の言う通り、「いろいろの感情がわいて、尽きることなく」。

他にも「乾漆梅花盆」「拭漆紙刀」「拭漆栃手箱」など。すべて実用のための、そして美しい品々ばかりでした。

 

他の作家も、ロダン「女の手」、猪熊源一郎「女(仮題)」、岩崎勝平「島娘(式根島にてスケッチ)」、熊谷守一「蟻」、アフガニスタンの仏頭(3-5世紀)、鎌倉時代の「聖徳太子立像」、李朝の「蓮池花鳥図」、尾形光琳「松図」、浦上玉堂「凍雲篩雪図」、草間彌生などが、心に残りました。

 

コレクションだけでなく、手紙や挿絵、装丁を通して、川端康成の生い立ちからその後の初恋、広い交友関係についても知ることのできる展示でした。

突然別れを告げられて、その後の作品に影響を与えたという伊藤初枝さんからの10通の手紙は、興味深いものがありました。生い立ちやこの恋の経験が川端の女性像に影響しているように感じますので、本を読んでみたくなります。。

川端の本の装丁も、さすがの画家によるものばかりですが、中でも「千羽鶴」の本の挿絵と装丁はすごい。自殺した恋人(父の愛人だった。そしてその娘とも恋人に。)を象徴する、信楽茶碗「志野」の挿絵を杉山寧。装丁と表紙見返しの鶴は小林古径。どちらも多くを控え、淡々とした絵。だからこそいろいろ考えてしまう原画でした。

 

約10巻の全集、安田靫彦の装丁が素敵でした。

 

坂口安吾、三島由紀夫、谷崎潤一郎など広い交流をものがたる手紙も展示されていましたが、女性では、岡本かの子、林芙美子、瀬戸内寂聴の手紙が。特に岡本かの子とは親しく交流したようです。どの作家も強くしなやかな女性のイメージですが、これは三歳で母を亡くし、幼い間に父も姉も亡くし、祖父と二人で暮らし、その祖父も15歳の時になくすという、生い立ちも関係するでしょうか。

川端康成は賑やかなタイプではないそうですが、多くの人に愛され慕われていたようです。

コレクションは特定のジャンルもないというけれど、終わってみれば、華美な絵や、激しい絵はなかったようにも感じました。じっと長く見てしまう絵が多かったようにも。東山魁夷の絵も多かったですが、静かに安らいでいたのでしょうか。川端康成にとって絵や工芸品は評論めいたことを書くよりも、作品とともにただ長い時間を共有する、お互い多弁でなくとも語り合う。そんな存在だったのでしょうか。

ではふと自分はなぜ絵を見るのかなと。なんのためでもないのだけれど、たまに、気になる画家と出会い、そうするとほかの絵も見たいと追ってしまう。どうしてこの絵を描いたのか、どんな人だったのかと。「あなたに触れたい」という感じ。なかなかまとめてその画家の絵を見る機会もないので、そうすると何年間もの長い旅のようなことになる。

ストーリーだけではなく、後ろに広がる世界が魅力が尽きなさそうな川端作品。

楽しい展覧会でした。


●根津美術館「鏡の魔力-村上コレクションの古鏡」

2016-06-14 | Art

根津美術館 コレクション展「鏡の魔力」ー村上コレクションの古鏡ー 2016.5.26~7.10

 

先日の暑い日、日傘をさして行ってきました。

鏡というと、銅鏡→卑弥呼→魏志倭人伝=卑弥呼が隋の皇帝からたくさんの鏡をもらった、くらいの乏しい知識。

そのありがたい?鏡の生産地、中国の鏡の変遷の展示。

今回は雪舟目的で訪れたのですが、鏡が思いのほか見ごたえありました。

 

古代中国では、鏡は、人の心も映し出し、霊力が宿るとされているのだそうです。確かに、白雪姫の継母は鏡に向かって話しかけるし、合わせ鏡をすると霊が通ると聞くし、鏡にヒビが入ったりしたらなにか不吉なことが起こるのではと思ったりしますしね。

そしてその裏の文様を見ていくと、当時の人がどういう世界に生き、何を畏れていたか、何を願って暮らしていたのか、何を頼んでいたのか、伝わってきました。そして世界とのつながりも俯瞰できて新鮮でした。

 

◆紀元前3世紀ごろの、戦国時代の鏡から展示は始まっています。すでに精巧で緻密な文様ですが、鏡自体はい新石器時代から(紀元前7000年??!くらい~)用いられてらしい。

「蟠?文鏡ばんちもん)」という文様が数点ありましたが、「ばんち」とは龍、(もしくはみづち?)。流線形が複雑にからんで、きれいでした。

 

◆前漢ごろには、楚辞や詩が流行する世相を反映し、「銘帯鏡」という文字のみの鏡も。さすが漢字文化の中国かなと。

チラシに写真があったのでは「方格規矩四神鏡」前漢 紀元前二世紀  天は丸く、地は四角いという宇宙観なのだそう

 

◆鳳凰、玄武などの神獣がモチーフのものが多いのは、神仙思想の広がりがある。

それも唐のものになると、西域の影響を受けたものもでてくる。

「貼金縁松石象?花唐草文様」8世紀 唐 のトルコ石は西域から運ばれたのでしょう。


天馬やペガサスは紀元前からもたらされていたそうですが、神仙思想と結びついて、鏡にも登場。

「海獣葡萄鏡」唐 7世紀は、特に立体感と神獣の表情豊かなところがみもの。

こちらをみている海獣、前をみている海獣。彼らは「さんげい」という、西域の獅子の影響を受けた獣です。 ブドウもようはギリシャの影響でしょうか。多産、豊穣の象徴として、流行したたそうです。紐(ちゅう)という真ん中のひもを通すところには、ぽちゃっとしたしっぽのある動物がうずくまっている。他のにもよく登場していましたが、一角獣。イメージがちょっと違いましたが。

ほかにも植物の模様では、「パルメット文鏡」というエジプト、メソポタミア風のナツメヤシ(パーム)の絵柄。エキゾチックな感じで素敵でした。

模様だけでなく、フォルムに花を取り入れたものも。「八稜鏡」といい花の形のものが約10点、神獣や天馬、鳥に乗った仙人など、いろいろありましたが、参考に東博の重要文化財「瑞花双鳳八稜鏡」。

これは唐からのものを参考に、11世紀ごろに作られた日本産。

 

◆中唐ごろになると、儒教、道道思想に基づくもの、故事伝説に由来したものも。鏡を満月として、ウサギが登場した「月宮図八稜鏡」はほっこり。

 

◆展覧会の最後は、10世紀後ごろの宋から元代のもの。時代も進んで次第に、実用に用いられるようになります。デザインも、身近で縁起がよい吉祥のものが人気だったようです。

 

70点ほどの鏡。唐の西域の影響が感じられる鏡はとくに興味深かった。この少し前に、アフガニスタン展を見た後ですので、シルクロードのつながりは感慨深いものがありました。

流れもすこしわかったので、古鏡の敷居もぐっと低くなりました♪。東博のたくさんある鏡も、次行った際に見てみよう。

 

二階の展示室「古代中国の青銅器」の部屋にも、鏡が数点。

ここには同じ青銅器で作られた、殷の時代の壺や杯などが展示されていました。殷代の青銅器は、ぽちゃっとした形と言い、幾何学的な文様と言い、金属なのに少し温かみのあるところといい、個人的にファンなのです。

参考に岡田美術館の饕餮文方らい(殷 紀元前14~11世紀)

 

同じく青銅器の「双羊尊」紀元前13-11世紀はとくにかわいい。

美術館のチケットに使われています。

展示では紀元前13-11世紀の殷代には、上記の饕餮文のものが多数。そして紀元前7-5世紀ごろの春秋時代には、鏡にもあった?文の青銅器壺がありました。

今回の村上コレクションの鏡よりだいぶ時代がさかのぼりますが、もしかしてもっと前の時代の鏡にはこのような饕餮文や蟠?文の鏡もあったのか?それともどこからも出土してないのならないのか??まだあまり鏡は作られていなかったのか??興味はわきます。

はるか昔の中国の文物、興味深いものがありました。

 

 

 


●畠山美術館「琳派とその後継者たち」

2016-06-12 | Art

畠山美術館「琳派とその後継者たち」
2016.4.2~6.12 


ほかの美術館に貼られていたポスターの渡辺始興の絵が美しくて、先日根津美術館のあと行ってきました。
サンダルで疲れていた足に、こちらのお玄関でのスリッパ履き換えは、かなり嬉しかったりする。

渡辺始興「四季花木図屏風」(画像は全て以前来た時に買った「輿衆愛玩 琳派」より)



赤と白が印象的。計算された色の配し方。

花はポスターで見ていた印象と違い、とても力強い。

菊などは胡粉が盛り上げてある。(年配のご夫婦が「らくがん」みたいだねと通り過ぎていった)


右端のつくしやワラビから始まり、左へと、春から秋に季節が移り。花は全て堂々と咲き誇っていた。
葉に虫食いの穴がすてき。

リアル。

アザミも、美しく、かつ写実的。

始興が御用絵師として仕えていた、近衛家熈の意向だろうか。
近衛家熈(このえ いえひろ)(1667~1736)は、後で俵屋宗達の解説にも出てくるけれど、五摂家の近衛家当主。書、絵、茶ばかりか、自然科学にも精通した博識文化人。本草学にも詳しいそう。始興の写実的な屏風も納得です。


点数が少ないのに、心に残る作品率が高い畠山美術館。
俵屋宗達「蓮池水禽図」はとりわけ心に残りました。本物を見られることに感謝。

この5点ほどのコーナーは、スリッパを脱いで上がり、座して掛け軸を見られる貴重な畳敷きの間。正座すると、ちょうど目線が鴨の目のあたりに重なる。気持ちは水面から始まり、そして上へ見上げていくと、蓮の葉が淡く、水辺の空気にほわ~と溶けこんでいきそうに。心にも広がってくるものがある。

たらしこみの美しさにも感嘆。葉の濃淡、つぼみの閉じた口のところ等、見るともなく見てるだけで心地よく、次に進みがたく。

つい先日、東博で宗達の同じような掛け軸を見たときはこれほどの感動でもなかったので、絵を見るのは、展示の仕方やその日の気分によるものが大きいのかも。

 

次は尾形光琳が二点。光琳の人物も意外な面白さがある。

尾形光琳「小督局図」

平家物語。高倉天皇の寵愛を受けた小督局は、平清盛に疎まれ嵯峨野に隠れ住むことになりますが、その琴の音を頼りに高倉天皇の家臣が見つけ出した場面。

草深い佇まいと、月と雲の夜の情景。そこへ駆けつけた家臣の馬の躍動感にハッとした。絵の左右の静と動が空間を揺らす。

 

尾形光琳「禊図」

伊勢物語。在原業平は、帝の寵愛する女性への思いを断ち切るために、御手洗川で禊ぎを受ける。

 

 木や水の流れも素晴らしいのですが、神官と業平の表情が興味深く。場面の一部として抑えた中にも、業平の恋に打ちひしがれる目がなんとも。光琳の人物をもう少し見て見たくなる。

 

尾形光琳では「白梅模様小袖貼付屏風」も。小袖が開いて張り付いている。

梅の枝が流麗に踊っているようだった。花は丸く簡単に描かれ、下地の文様とちょうど調和してたのしい。

 

酒井泡一「水草蜻蛉図」

 

生け花のような美しい構成。薄墨の線は潔く、蜻蛉、花や蕾は愛情深く。

澄んだ藍色が心にしみます。茎には淡い緑、芒の穂にかすかな橙、、水草の花(コウホネ?)にも黄色と、わずかに色がさされてもいる。過ぎることなく、足りないこともなく、その微妙さに感じ入る。

 

ほかにも鈴木守一「立葵図」、尾形光琳「紅葵花蒔絵硯箱」も、美しい。

俵屋宗達「芥子図屏風」は小さめですが、金と黒の格子に芥子が描かれた、迫力がある屏風。黒は銀が変色したのかもしれませんが、金と黒の格子の凄み。芥子も、花が終り実になったものも交じり、自然のありのままのリアリティが訴えかけてくる。

 

お庭も、暑い一日にはとっても爽やかでした。

楽しい時間でした。



●東京国立博物館「黄金のアフガニスタン」

2016-06-11 | Art

東京国立博物館「黄金のアフガニスタンー守り抜かれたシルクロードの秘宝」

2016.4.12~6.19

 

美しい表慶館にはいるのも久しぶり。

アフガニスタン国立博物館のコレクションの国際巡回展。

前宣伝で何度も聞く機会がありましたが、この国立博物館がさらされた壮絶な30年には言葉を失う。1979年のソ連の軍事介入、内戦、タリバンの襲撃、略奪や焼失の危機。89年に博物館員たちは、コレクションを守ろうとひそかに運び出して隠す。その場所を家族にすら明かさず、15年間。そして内戦が終結した2004年、大統領府の地下金庫が開かれる。

博物館員さんたちの命がけの決意で守り抜かれた品々と思うと、見る前から気持ちがひきしまる思い。

でも、この経緯を知らなくとも、美しく素晴らしい品々だった。

古代シルクロードの真ん中。東西文化のまさに十字路だけれど、出土品は単に東西の交易で運ばれてきたものだけではない。自国以外の様々な文化、宗教を取り込み、混じり合わせ、美しい製品を生み出してきたことに感慨。

 

紀元1世紀ごろまでの4つの遺跡が順に紹介されている。

◆第一章 テペ・フロール ーメソポタミア文明とインダス文明をつなぐ謎の遺跡ー

紀元前2100~紀元前2000年頃の青銅器時代の遺跡。今から4000年とも思えないほど美しい金細工。

 

◆第二章 アイ・ハヌムーアレクサンドロス大王の東征によって生まれたギリシャ都市ー

東方遠征により紀元前300年ごろにつくられた、ギリシア人の植民都市。コリント式の柱頭や、ヘラクレス立像には驚き。

絵ハガキを買った、「キュベーレ女神円盤」紀元前3世紀

キュベーレ(地中海や小アジアで信仰された大地の女神)と、ギリシア神話の勝利の女神ニケ。馬車は、ペルシャの戦車風。空には太陽神ヘリオス。両脇の神官は西アジア風。

この一枚に、ギリシアと西アジアが、対立することなく、いいとこどりで盛り込まれている。

 

◆第三章 ティリヤ・テぺー遊牧民の王族が眠る黄金の丘ー

ティリヤ・テペは地元の言葉で「金の丘」。1978年に発見された一世紀ごろの墓。男性一人と20~40代の五人の女性。

女性の身に着けていたアクセサリー類の豪華さ、美しさ、かわいらしさ!。説明はありませんでしたが、妻と第2~4夫人?。

布地は残っていないけれど、きっと美しい色の服だったのでしょう。副葬品からは、五人それぞれのファッションの好みがほうふつとされる。

一号墓の女性のものは、六花弁型飾り飾りなど、ほしくなるくらいかわいい小さな飾りがちりばめられていた。

 

二号墓の女性のものは、大振りなアクセ使い。少し大人っぽい好みかな。

「ドラゴン人物文ペンダント」一世紀第二四半期 は、遊牧民らしい服の男性とドラゴンをモチーフに、トルコ石、ラピスラズリ、ガーネット、カーネリアン(紅や橙の石。インドで採れるとか)、真珠が。

 

(確か)三号墓の女性は、シンプル&ゴージャスといった好みかな?宝石類が鮮やか。

副葬品中では「イルカに乗るキューピット文留金具」、とりわけすてき。

海に面していないアフガニスタンで、イルカは交易のあかし。イルカはギリシャ神話では、神聖な生き物で、ポセイドンのお使い。


男性の墓のインドメダイヨン。

仏陀の姿を表わした世界最古のものかもしれないそう。解説が、説話に疎くよくわからなかったのですが、「刻まれた文字から、表が恐怖を滅し去ったライオン、裏が仏陀の教えの広がりを象徴する法輪を転じる人とわかる。」と。


王冠が副葬されていた六号墓の女性が、王妃様なのでしょうか。20歳前後のようですが。


この様式の王冠は、東アジアに伝播し、新羅を経て日本の奈良県藤ノ木古墳でもみられるとか。

六号墓からは、ギリシア神話の美と愛の女神、「アフロディーテ飾板」 も。

ギリシア神話の女神の額には、インド式のビンディー。アジア文化も具有している。

いろいろな地域の特徴が出てくる、高原の文化はおおらか。

 

◆第4章 べグラムーシルクロードの秘宝が詰まったクシャーン朝の夏の都ー

1~3世紀に中央アジアから北インドあたりに起った、クシャーナ朝の夏の都。ローマやエジプトのほか、インドの象牙製品、また中国の漆器も。

とくにガラス製品が魅力。

魚型フラスコ 一世紀

干物みたいだけど^^。吹きガラス製法で作られた。用途ははっきりしないらしい。特に用途がないけど作ってみたかった職人さんがいたのねきっと。


ここで感動したのは、象牙の製品。

ヒンドゥー遺跡で見るような女性。「マカラの上に立つ女性像」1世紀 マカラとはインド神話に登場する怪魚。

ほかにも、インド象や、本生話という仏教の説話(古代インドの説話集で,釈迦の前生、功徳などの内容)を描いたものなど、アジアと関わるものが多く、親しみを感じた。

 

◆第5章 アフガニスタン流出文化財ー日本で保護され、母国へ還る「文化財難民」

ゼウス神像左足断片が展示されていましたが、これはアイハヌムの遺跡から出土したもの。どれほど多くの文化財が略奪されたり破壊されてしまったのか。日本へ渡ってきたものは、日本での巡回のあと、アフガニスタンに還ることが決定したそう。http://www.museum.or.jp/modules/topNews/index.php?page=article&storyid=3507

無事帰れるようになって、本当によかったと思う。

 

改めて、これだけのかけがえのない遺産を守り抜いた職員の方々の思いに胸を打たれつつ、何度も、「せかいいちうつくしいぼくの村」(小林豊)という絵本を何度も思いだした。

アフガニスタンを旅した作者が訪れた村のことを描いている。少年の住む村は、果物がたくさん実り、花が咲き、とても美しい村。ですが…。悲しい結末は思い出しても泣きそう・・。


グーグルでアフガニスタンを見てみたら(おお~ペルシャ文字併記だ!)、ごつごつと岩山がちな地形で、一面灰色、褐色っぽい色に覆われていた。

目録の地図をたよりに、今回の遺跡のべグラム、テペフロール、アイハヌム、ティリヤテペのあたりをたどってみると、その辺りは、貴重な緑が多い場所だったり、川のほとりだったり。遺跡の人々がここに定住したわけがわかる。東西の隊列が行きかい、アフガニスタンが交流の要所として栄えていたことを改めて認識するとともに、国を超えてゆるやかなまじりあいが可能であった時代を想像。

麻布台のアフガニスタン大使館のHPは、歴史も文化も簡略にわかりやすい説明だった。ラピスラズリはじめ金、宝石類の産地であることも、展示を見たあとでは深く納得。

国立博物館は1922年設立ですが、家に伝わる品をもとに博物館を建てたアマーヌッラー王が、なかなか面白そうな王様。近代化を目指して改革を導入し、壮大な政府の建物、宮殿、別荘、凱旋門、リゾートタウン、カフェを建て、ヨーロッパ風のドレスコードを採用する布告まで公布したとか。ちょっと時代を先取りしすぎて反発をまねいたようだけど。

今回のコレクションは一世紀ごろまでのものですが、そのあとに続く各時代のアフガニスタンの文化物にも、興味ひかれます。世界に散逸したものが少しずつアフガニスタンに戻り、この展覧会の続編ともいうような展覧会が、幾度も開催されることを願っています。

 

 


●摘水軒記念文化振興財団コレクション展 後期ー花鳥動物画

2016-06-07 | Art
柏市民ギャラリー「摘水軒記念文化振興財団コレクション展 後期ー花鳥動物画」
2016.6.1~6.16http://tekisuiken.or.jp/foundation.2010/shusai/shusai.html
 
前期も北斎の生首図(よく描けすぎて気持ち悪いので載せない。。)等、魅力的な内容でしたが、後期もとても良かったです。若冲の極彩色の絵も、ゆっくり前で見られます。

最高なのが、円山応挙「猛虎図」葛飾北斎「鷹図」か並んでいるところ。
展示間隔がせまいので、二作が同時に目に入り、楽しい。

応挙の虎はいつもキュート。でも、上方を見据え、足元の荒波、風の動きとともに、壮大な一枚。
 

北斎の肉筆が見られるのは嬉しい
暗い背景に堂々たる鷹。応挙の虎と同じくらいの大きさで描かれています。飛び立とうとしているのか。
なによりも顔。鷹の気持ちが、おそらく「夢みる鷹」なのです。北斎ってたまにファンタジーに入っている。

そして応挙の虎に視線を戻すと、今までユーモラスに見えていた虎が、夢みる鷹と比べたらちゃんと野生してる。強いんだぞ。


そして、その隣に岡本秋暉の「芙蓉孔雀図」(画像がないので、参考に、展示されていた「花鳥図」の孔雀)、さらにその隣に若冲の「旭日松鶴図」。
 
 
若冲を「濃密で息苦しさを覚える」という評論をよく聞きますが、それを実感しました。
応挙の虎や北斎の鷹も、その世界が掛け軸の外へもどんどん広がっていますが、若冲は広がりを拒否してるよう。
この絵は、京都大徳寺の明代の絵をもとに描かれたそうですが、もとの絵は、もっと広々とした雰囲気の絵なのだそうです。
隣の秋暉の芙蓉孔雀図と比べても、花鳥図で細密に描かれているのは同じですが、秋暉は優美で繊細。比べると若冲は、特異な感じ。この世界で固まっている感。鶴も松も梅も、自分の生命力を濃密にたぎらせ、吐いた気で、気圧が高く濃くつまっている。
 
 
この展覧会の作品、どれも見ごたえ満載でした。摘水軒記念文化振興財団所は、たまに展覧会で目にしますが、一同に会するのは貴重。設立した千葉県の旧柏村の名主、寺島家には、江戸時代から多くの文人が訪れたそうです。 今回5点が展示されている岡本秋暉も訪れたそうです。
 
そういえば、この展覧会の解説、ゆるく脱力系で、読んでいて楽しかった。どなたが描かれたのでしょう。

どれもよかったですが、特に気に入ったものを以下にメモ。
与謝蕪村「虎図」
中村芳中「鹿図」宗達のような自由さ。
鳥野尾藤安「柳下馬図」柳の線に勢いはないけど、馬は精密。でも模様がオカピ?
狩野探幽「手長猿候図」牧谿猿です。お腹に小ざる。
森狙仙「猿候図」プライスコレクションにあったような、虫を見上げる視線がかわいい。
黒田稲皐「親子牛図」ふわりとした情景。鳥取では親しまれている絵師だそうです。
「 牡丹猫図」無銘、野生をのぞかせるイエネコってかんじ
 
山本梅逸「豹図」
出会う作品どれもが、異色な梅逸。「豹の活者」を見たと書き添えられているので、本物を見る機会があったのでしょう。それにしてもこの眼。見世物にされた豹のストレスというのか、好奇心満載の梅逸が未知なる生き物を目にした時の歓喜というのか。

・「牡丹獅子図」酒井抱一
 
豪華な屏風です。目力がすごい。発注者の地位と財力、抱一の自信が覗くよう。
 

長谷川等意「洋犬図」
 
意味ありげな。グレイハウンド犬。一匹は立派、一匹は痩せてあばら骨が。朝顔にも市井の雰囲気。 なんだろう?

岡本秋暉「波に鰹鳥図」 荒れる波うねる波。鰹鳥の爪が迫力、凝集された黒に緊迫感。
 

長澤蘆雪「狗犬図」後ろ向きの一匹の背中がポイント
 

吉川一渓の「白狐図」怪しげで寂し気で美しい世界。
 
 
これが無料とは。点数は33点ですが、すべての作品が楽しい展示でした。
市民ギャラリーの新規移転に伴う記念展です。広くはありませんが、柏市は高島野十郎を確か7~8点所蔵しているので、ここで常設していただけると嬉しいです。柏市民でないのにすみません。。

 


●旧手賀教会 山下りんのイコン

2016-06-06 | Art

先日、千葉県柏市の旧手賀教会に行ってきました。首都圏最古のギリシャ正教の教会です。

かやぶきの農家といった建物です。

小高い山の中に、民家が点在する小さな集落。とても静かなところでした。

手賀教会は、ギリシャ正教。明治6年に信仰の自由が認められると、あのお茶の水のニコライ堂を建立したニコライが、全国に布教を始めます。このあたりでは明治12年に、12名が洗礼を受け、明治16年に民家を改装して、この教会ができたのだそうです。ニコライも洗礼に訪れたとのこと。

築年は出てきませんでしたが、この建物は江戸時代のものかも。

土壁に練りこまれたわらも見えて。

2.5畳ほどの玄関ホール、8畳と6畳の畳の間、増築した6畳弱の板の間、3畳の納戸がふたつ、といった、小さな農家。

窓としきりに手を加えただけなのですが、心に感じ入るものがありました。築は本部のニコライ堂よりも前ですから、司教さんと相談したりしながらリフォームしたのでしょうか。

窓は、漆喰でアーチ窓に改装され、十字の窓枠。当時のままのガラスなので、ゆがみや空気泡も見えて、温かみがあってとてもきれいでした。

昼でも薄暗い空間を、はだか電球がぽおっと。
アーチの向こうの聖堂は、今は何もない板の間なのですが、入ると空気がしんと変わったようでした。

異彩を放つ丹下健三の東京カテドラルに行った時も感動はしましたが、それとは全く正反対のこの教会は心に染み入るようで、静謐な雰囲気でした。

この教会も、そのあと苦難の道を歩んだようです。日露戦争時には、敵国の宗教とみなされ、第一次世界大戦やロシア革命で聖職者は減り、第二次世界大戦直前には、手賀教会から司祭が不在に。東西冷戦のさなかには、信徒は7人だけだったそうです。1974年に新しい教会として近くに移転してからは、司教も派遣してもらえるように。今はそちらで月に一回ミサが行われるそうです。詳しくは教会のHPで

 

建物に感動して、前置きがとんでもなく長くなりましたが、今回来たのは、山下りんのイコンにひかれて。

この教会には3点ありましたが、現在は複製がこちらにあり、本物は近くの新教会で保管されており、ふだん公開はしていないそうです。

山下りん(1857~1939)は、若桑みどりさんの「女流画家列伝」で知りました。(濃いタイトルですが、さりげに歯に衣着せぬ分析が面白いです。)

明治時代に、帝政ロシアでエルミタージュ美術館に通いつめ、模写をしていた日本人の女性がいたというのに驚きました。

りんのイコンは、ギリシャイコンと違って、柔らかでイタリア絵画のような印象です。フォンタネージの指導を受けたそうです。

笠間にある、白凛居というギャラリーでりんの作品を展示していますが、そこの解説と美の巨人で取り上げられた時の解説の抜粋。

・1857年笠間市生まれ。15歳で、「絵をもっと勉強したいのに、ここには良い先生がいない。」と家出。結局家に連れ戻されましたが、翌年、再び上京、浮世絵師や日本画家のところに弟子として住み込み、日本画を学び始めました。けれど弟子とは名ばかりで、実際は掃除や炊事洗濯ばかりの日々。
・明治10年 (1878)、明治政府が創った工部美術学校に合格。
・その工部美術学校のころ、同級生の影響で、ロシア正教に入信。その教会のロシア人神父ニコライは、ロシア正教を広めるため、日本各地に教会を建てようとしており、イコン(聖像)画を描ける人材を養成しようと。りんは「西洋の絵画を学ぶことができる。」と留学。
・明治13年、サンクトペテルブルグの女子修道院で、来る日も来る日も伝統的なイコンの勉強。エルミタージュ美術館へも行くように。イタリア絵画に魅せられたりんは模写に熱中。その結果、イコンの学習を疎かにしたと、修道院からはエルミタージュへ行くことを禁じられ、イコン漬けの日々。そして体調を崩し、5年の留学を2年に切り上げて、帰国。

・帰国後はイコンから遠のき、イラストレーター的な仕事をしていたようです。
・7年後、現在のニコライ堂内にアトリエを与えられ、本格的にイコンを描き始めました。後押ししたのは、ニコライの「日本の、日本人のためのイコンを描きなさい」という言葉だったそうです。

・その後20数年も描き続けましたが、時局の中でロシア正教が布教もままならなくなるなか、りんもイコンを描くことはなくなり、笠間に帰り、そこでなくなるそうです。 


学びたいのに学べない、描きたい絵があるのに描けない、りんの生涯はひたむきに戦っていたようで。それでも自分の描きたいものをなんとか表現しようとしたイコン。そう思うと、信仰のない私でも、りんのイコンの聖人のまっすぐこちらを見る表情に、りんの思いを感じた気がしました。本来定型からはずれることはできないイコンに、自分のエッセンスを織り込んだ、りんの強さ。日本人のためのイコン、鮮やかなりんのイコンは、この教会の信者さんたちに愛されていたんだろうと思いました。

今もおそらく通りの雰囲気はさほど変わっていないのではと思います。

小高い山を下りると、高島野十郎が描いたのと同じような柏の風景。

白鷺も。

自生のカラーも水路に見かけました。

手賀沼のほとりです。

車じゃないと不便ですが、運転しやすく和やかなところでした。

和む柏プチ旅でした。