新宿高島屋の美術画廊で、フジイフランソワさんの絵を見てきました。
フジイフランソワ展 6月21日(水)→7月3日(月) 10階美術画廊
ツクモガミや百鬼夜行といったアニミズム的世界を描くフジイフランソワ。
長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿り、人をたぶらかすようになったとされる「ツクモガミ」たちを、独自の解釈とユーモアを交え、日本の伝統絵画と現代の技法・素材を折衷して描き出し、現代社会に甦らせる画風が、人気を博しています。
時々耳にする不思議なお名前、フランソワさん。1962年生まれの、たぶん日本人らしいけれど、詳細は不明。実物の絵を見られる機会を待っていました。
今回のタイトルは「百に一足らぬかみたち」。つまり九十九神(ツクモガミ)=付喪神。
光琳や抱一の琳派の世界をベースに、ツクモガミたちが息づいていました。
以下、備忘録です。
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おお(喜)。6曲1双の金屏風に、ツクモガミたちが。(写真不可なので、高島屋美術画廊さんのツイッターから)
右隻では、お茶道具や筆や硯、文などのくるくるした目が愛らしいです。文机の紙の下からも目がのぞいています。こちらは静かめ。
左隻は、にぎやか。
弦の切れた琴が飛び、骸骨が笙を吹く。骸骨が被る烏帽子にも目がついてて、鼓は一つ目。盃からこぼれた酒にも目がついててかわいい。
左右の隻の真ん中の水仙が、静と動の間をほどよくつないでいる。
鈴木其一のカイカイ時代の屏風の水仙を思い出すけれど、あのあやしさとはまた別もの。水仙に精が宿って、書や茶、音楽の双方に参加している。
小さなものたちが、大きな屏風を占領して、楽しさ満載。
「世見かえり 竹林」は、金地に竹林の間を、青い鳥がたくさん飛び交っている。鳥の顔は、ふやっとした骸骨。不気味であり、ほほえましくあり。
「月下草葉のかげ」も、抱一の夏秋草図屏風のような草葉に、骸骨が散在。トンボやホタル、トカゲやカエルの顔が例の骸骨に。(Oギャラリー、YouTubeのこちらで見られます。)
どちらの骸骨もみな、なんともいい笑顔している。
パロディということではないのだと思う。宗達から光琳、抱一、其一。みな、草や花、枝や幹、月光といった自然描写の中に、目には見えない気配を描いている。その精は、気配という形でともに遊び、戯れ。だから、そこに骸骨や妖怪たちが紛れ込んでも、まったく違和感ないのかも。妙に溶け込んでいる。
骸骨は、不気味といえば不気味。でも、死体は怖いのに、骸骨になってしまったら、なぜかかわいくさえある。
そういえば、暁斎の骸骨も国芳の骸骨も、楽しいヤツばかり。
暁斎は、あの世もこの世も、人間も妖怪も骸骨も、キラワレ系生き物すらも分け隔てなかったし、忌むべきものでもなかった。暁斎が絵に描くと、空想のものでなく実在感すらあった。笑顔だったり、子供のように困ってたり怒っていたりもするけど、邪気がなかった。
フジイランソワさんがツクモガミたちを見るまなざしも、暁斎と似ているような気がした。自然や暮らしの中に、そんな存在が紛れ込んでいるのをふと感じたら...、いいなあと思う。逆に、まったくそういうものを抹消してしまった暮らしは、、無機質すぎて、うーん考えられない。
小さい作品にも、いろいろなものにつくもがみが正体をあらわしていました。
野菜やくだものに。(三つ眼のカボチャがお気に入り)
櫛やかんざしに。
和菓子に。
和菓子シリーズは、ほかにもさまざま。顔が妖怪のお団子、皮がふかふかの虎の毛皮のどら焼き(中身も各種ございます。金魚や骸骨、うぐいすなどがまったりとはさまれている)など。
原作を冒涜レベルですが、お気に入りのを備忘メモしてきました
これらはまだかわいいほうで、中身がねずみのなんてのは、ちょっとゾワッ。食べることを想像しないようにしたけれど。
名前を忘れてしまったけれど、宗達風のたらしこみの鹿の角に、野菜や果物のツクモガミがいるのも。
「雪中リンゴ」は、ウサギの耳がお弁当とかのウサギリンゴに。
外ウインドウでは柳の葉が無数のかえるに。
...これはちょっとシュールだ。
茶びた背景の色がとてもいい。これはルイボスティらしい。墨とルイボスティ。
日本古来の伝説や絵画、食べ物、風習のなかに息づくものたちとの楽しい遊びの時間だった。
フジイフランソワさんの個展は、2008年に豊田市美術館で開催されたらしい。再度あることを期待。
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追記:2017年11月の佐藤美術館「吾輩の猫展」にフジイフランソワさんの「威をかる猫」が出展。日記)
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高島屋の地下のPECKのイートインでひといき。
マカデミアナッツのフォカッチャ。
木の実好きな私はPECKの米粉くるみ食パンを溺愛しておりますが、これもマカデミアナッツごろごろで大変おいしかったです。
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