私の父方のおばあちゃんは、
四十代で、すでに不自由な身体となり
五十代で亡くなったそうです。
だから、写真でしか知りません。
父から伝えられることは、
生涯、不遇だった人生と
最後の言葉など。
あと、
時代がら、学校などには行けなかったので
無学であった けれど、
遅くに生まれた子である父に、
人生で大切な事を、印象深く、繰り返し伝えたのだ
ということ。
たとえば、
貧しかったので、
ひもじい想いをしていた父に
柿だとか、果物が成った樹木の下に行ってはいけないと
言い聞かせました。
貧乏と、だれもが知っている家のコドモが
果物の樹の下に居れば
「きっと、盗み喰いをするに違いない」と
疑われる
疑われるような行動をするな、
という教えです。
こういう、本当に人生の基本になるような言葉を
繰り返し繰り返し伝えたらしい。。
その言葉の中に
「流行り裸でもいい」というのがあります。
流行っている、という事 ありますよね
ここ数年前だと「タピオカ」ブームがあります。
あと「糖質制限」「タンパク質」など
糖質制限 タンパク質 と タピオカ(糖質のカタマリ)は
相反するものなのに、
左にふれたものが 右にふれるように、
糖質を制限していた人が、タピオカの甘さに引かれるのでしょうか。
タピオカのブームの前には
ストローは悪 ブームでした。
プラスチックストローは、環境破壊になるから、もう作るなというような
流れで、あらゆるところで紙のストローを使うようになるかもしれない
などと言っていたのが、タピオカブームの前でした。
そのあと、じゃんじゃんタピオカジュースが売られて、
プラスチック容器もプラスチックストローもタピオカとともに、大量に消費されたのが数年前です。
それに、平気なのですね、私たちは。
結局のところ、プラスチックストローが使われるタピオカブームであろうが、
糖質制限や、紙のストローの製造があろうが、
すべてのトレンドは メディアが作り出し
それを
無批判で「ああ、今はそれが流行ってるんだ」
「じゃあ、できるだけ美味しいタピオカを探しに、京都まで行ってみようか」
などと受け入れて、楽しもうとしたり
「糖質制限をしているけど、タピオカもいいよね」とか
「ストローは紙製でないけど、タピオカ流行ってるしいいよね」と
善悪もなにも超越してしまい、どうでもよくなるのが私たちです
(いや、私は厳格な糖質制限で、プラはつかいません。という人もいらっしゃると思いますが)
たとえば、そういう行動をしている私たちを「糖質は悪なのに!あの人たちは頭悪!」と批判したり「プラスチックストロー使ってる!意識低!」と裁いたり
言葉に出さないけど空気を醸し出す人たちがいるとします。
コトがタピオカや、糖質制限程度のことなので大したことないのですが、
頭悪! あの人 意識低!
という空気感を、メディアも大々的に醸し出していたら、
なかなかタピオカを飲みに行きにくくなるでしょう。
しかし、
タピオカブームを作りたい動機がメディアにあれば、そんな「頭悪!」
「意識低!」の空気にはならないと思います。
すべてはメディアのさじ加減で、善悪がテキトーに振り分けられているのに私たちは気づかない。
そんな人の「心理」をついている「真理」が
「流行り裸でもいい」という言葉だと思います。
だれもがやってれば、
それでも「流行っているからよし」と裸になってしまう。
そこまでしてしまう。
流行っているから。
誰かがやっているから
誰もがやっているから
誰もが受け入れているから
信じられない事を、とんでもないことを
受け入れてしまう。
それが、私たちの心理として「ある」という事
それを認識して 自分の行動を 客観的に眺めてみると
「あれ、おかしいんじゃないの」
という事が
いくつか、あるかも しれませんね。