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陽電化する日本人(3)-9月25日の奇跡

前回記事「陽電化する日本人(2)-世界滅亡前夜」に続き、福島第一原発(福一)による放射能汚染の顛末についてお伝えします。シリーズ最初からのお約束通り、今回は9月25日の奇跡について触れたいと思います。

今回は、フィリピンに避難した当時の同僚であった、J君への手紙という形でお伝えしたいと思います。本人へ実際に送ったほぼ同内容のメールを、個人情報を伏せてそのまま掲載します。


J、こんにちは。元気にしてる?

もう読んでるかもしれないけど、2011年当時の血液観察に関する記事を書きました。

あれから色々調べ、あの時、世界はもう長くないと感じたあの感覚はやっぱり間違いではありませんでした。本当だったら我々も多くの友人たちの後を追って2012年にはあの世に逝ってたでしょう。

今でもこうして生きてるのは、後から分かったことだけど、あの日に起きた出来事がきっかけだったんです。その日、Jと一緒だったかどうか覚えてないけど、いつものカフェからそろそろ帰ろうかという頃、毎日暑さと放射線で参っていたのに、何故かその日は妙に頭がクリアだなと感じることがありました、

 その日とは2011年9月25日。

我々は、日本に帰国してからもずっと、汚染された食べ物に苛まれ、そして食材に気を付けていたけど、周りはそんなのを気にしない人、陽電化して感覚が鈍化した人ばかり。いつか世の中の崩壊が始まると思っていたけど、そのまま何年も平常の時が過ぎて行きました。

こうやって生きてるのだから別に気にしなければ良いだけの事だけど、それでも気になるので、この奇妙な延命の謎について時々思い出しては調べていました。そして、昨年になって、ようやくその理由が分かり、納得した次第です。

結論だけ言えば、その年の9月25日、体内のNICによる主力免疫システムが、我々が観測していたカルシウム系から、珪素(けいそ)系に転換したことが大きな理由です。こうなるとこれからはNISと呼ぶべきかも知れませんが。他の研究者から聞いたところ、珪素系NICの負電荷量はカルシウム系のおよそ150倍で、フィリピンに居たときに通常の100倍濃度の濃縮液でやっと内部被曝による人体破壊に対応できていたことを考えれば、概ね妥当な値だと言えます。簡単に言うと、我々の放射能耐性があの日に突然150倍になったのです。

もちろん、何もかも突然起きた訳でなく、そこに至るプロセスがあります。前段として、福島の放射能を拡散したものの、収束プロセスに完全に失敗した災害計画者側が、今度は自分達が生き残るために、慌てて大量の二酸化珪素の微粒子をケムトレールで散布し続けたのです。そのために世界中の化学工場が、フル稼働で珪素水溶液を生産したそうです。その一つかどうか分かりませんが、渦中の2011年、九州にある三菱重工業出身のエンジニア集団が経営する理化学系企業を訪ねた時、水溶液化された珪素水のサンプルを見せられて「今回の放射能なんて全然大したことありませんよ」と自信たっぷりに言われたことがありました。今思えば、その企業も珪素水の大増産に関っていたようですね。そして、その余裕に見えた発言も、裏を返せば世界滅亡危機を認識した上での精一杯の虚勢であったことも理解しました。エンジニアですからね、それくらいの先読みはしますよ、大丈夫だと言ってくれたのも先行きを絶望視していた私をあれで励ましてくれていたのかもしれません。

しかし、珪素水を大量散布したところで、環境中の正電荷をいくらか軽減するだけで、膨大な放射性物質汚染の前には付け焼刃であることには変わりません。放射性物質は何年、何十年も放射線を出し続けながら世界中に拡散しますからね、いつか人が追いつかなくなります。人類全体をいくらか延命はできても、それから数年以内の世界の崩壊は避けられなかったでしょう。ところがです、放射性物質同様、大量の珪素溶液が環境中にばら撒かれたことによって、珪素があらゆる動植物の体内に取り込まれ、そして、それが突然、地上に生きる生命体の免疫システムとして機能し始めたのです。

大量の珪素があったから転換が可能となったのは事実ですが、大量の珪素は必要条件でしかなく、それが転換そのものが始まった理由ではありません。これは私にもさっぱり分かりません、奇跡、あるいは神の慈悲としか言いようのない何かによって導かれたのです。

最近計測された関東の土壌には、汚染度合いがチェルノブイリ基準における移住勧告相当以上の場所がまだまだあります。そんな汚れきった国土の中で、自分を含めたほとんどの日本国民は汚染食品を食べ、生き続けています。これも全てNIC転換により可能になったことですが、もしもこの奇跡がなければ、日本に限らずこの地上の生存者は今頃1000人未満となっていたことでしょう。いや、それすら私の希望的観測かもしれません。どちらにせよ、世界は滅亡するしかなかったのです。

それにも拘わらず、熱さも喉元を過ぎれば人はそれを忘れ、社会は今、当たり前のように原発を再稼動させています。

我々は、あの時一度死んでいるのです。それでも「生きろ」という大きな意志の導きでこうして生を享受しているのに、人は同じ失敗の道を再び歩もうとしている。つくづく、人の愚かしさが悲しくなります。

Jは当時の破滅への警鐘をリアルに体験した一人です。どうかこの時の教訓を忘れずに、皆に大事なものは何かを伝えていってください。一度死んだと思えばできないことはないはずです。

長くなったね。すまん。

令和元年9月吉日
日月土

追伸

・国が食品汚染の許容レベルを1ベクレル/kgから100ベクレル/kg、年間被曝許容量を1mシーベルトから100mシーベルトへと、100倍も大きく引き上げたのは、こういう根拠があったからのことです。何てことはない、国家中枢にこの事実を知ってる人間がいるということです。

・フィリピンの被曝治療研究で学んだこと、それは、治療とは己の身体とこれから生きていく環境の両方に対して施さなければならない、ということです。環境と個々の生命体は分離できないということになるかな。被験者に大きな負担を負わせて、再び汚染地に送り返すようなことを続けてても、それはおよそ治療とは呼べない行為だったのです。むしろ、根気強く原発の危険性を訴え続けてきた運動家の方々の方が、被曝に関してはよっぽど治療家と呼ばれるに相応しいと思います。


写真:2011年に訪れた珪素水を製造していた企業の内部(九州某所)


当時まだ20代前半の若者だったJ君は、今では結婚し、父親となっています。これは、手紙に書かれた当時の状況からは、本当に予想もできなかった僥倖です。今はただ、この記事を読んでくださった全ての皆様に、同じように幸せが訪れることを願って止みません。もしも、何か苦しいことがあったら思い出してください、皆様はあの時、2011年のあの時に、大いなる意思によって「生きる」ことを許された存在であることを。そして、ほんの少しでよいですから、世の中を今より楽しく良いものに変えて行ってください。


ADHUC MODICUM ET MUNDUS ME IAM NON VIDET VOS AUTEM VIDETIS ME QUIA EGO VIVO ET VOS VIVETIS
しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
(新共同訳聖書 ヨハネの福音書 第14章19節)

※通常解釈では「わたし」とはイエス・キリストのことですが、ここでは、皆様の血中細胞に生命維持信号を送り続ける大自然の意思と読み替えてみてください。読者の皆様はこの「わたし」なる存在を見るようになったのです。


キリストの御国にて記す
管理人 日月土
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