姉に勧められて一度読んだ本、神坐す山の物語。今回、御岳山奥宮、御嶽神社に参拝した後に再度読み返しました。
本の中から印象的な文言を紹介します。
著者、浅田次郎さんの母方は御岳山の神主の家系のご出身です。
その肩や胸や膝を借りて人々が暮らし、遥かな昔から、不死の神々に較べれば虫けらのように短い生を繰り返してきたのではないか。
御岳山の山道は険しいけれど、東京が箱庭みたいにみえる。
太古の神々は花を大自然の些末な一部分とみなし、
あるいは巌や常磐木の清浄を穢す色や香りだと考えていたのかも知れぬ。
だとすると、神坐す山の花々が一夜の嵐であとかたもなく毀ち散らされることも合点がゆくのである。
外国から渡来した神仏には、愛だの慈悲だのという人間性があるのだが、
日本古来の神は超然としており、ひたすら畏怖すべき存在である。
そうした意味では、一概に宗教とは言えまい。
以上、浅田次郎さんのお言葉でした!
外国から渡来した神仏、、というところ、愛や慈悲は人間の奧にもっていたい光ですね。そういう外国の神仏すら、日本にくると時間を経て最終的には溶け合う不思議があります。
宗教が人を救うどころか、枝葉末節に拘り争いの種になるなら、その種を日本の大地で育み融和させましょう、、😊みたいな感じでしょうか。
日本という最果ての地、日の昇る東端にある大地、そして海に囲まれ、山々が連なり森が生い茂る自然の懐の深さ故、全てを和して育んでいるのかもなぁと、都会の奥に残る神々の聖地、三峯神社や御岳神社を参拝して感じました。