以前、娘が高校に入学して部活を選ぶ時に2つの選択肢から迷っていました。水泳と弓道です。結局、小さい頃から続けてきた水泳を選びました。
娘が先日、弓道部は一番学校で大変だから水泳部で良かったぁと笑っていいました。へー、弓道部は大変なのね、と話したことがあります。
真面目に朝練含め毎日やるのは、朝ギリギリまで寝たい娘にとっては大変かもですが、弓道について知るにつれ、弓道って良いなぁと思いました。
弓道と礼記について今日は書いてみます。
礼記という中国の古代の書があります。孔子が書いておられます。その中で矢を射ることについて、私の心を射止めた話がありましたので、ご紹介します。
「礼記射義」の中から。
射ることは、仁の道を行うのと同じである。何となれば、射る前に先ず内志しを正しくし、外体を直にしなければ正鵠を得ないから、先ず正しきを己に求め、己を正しくして後に矢を発す。発して正鵠に中たらない時には、決して己に勝った者を怨まず、反ってその正鵠を得なかった事の原因を己に求めて反省するだけである。
とありました。
そして、この中で言われる己の「正しさ」について考えてみましたが、人の正しさほど曖昧なものはないです。
しかし、中にあたる正しさはやはりある気がしています。それは慎む心だったり、奢り高ぶる心を捨てることだったり、穏やかで優しい安らかな心だったり、そんな心が己を正すことに近いと感じます。
世の中には、妥協の産物として正邪の判断基準が示されたりします。
歴史を観ても競争社会の中でも、勝てば官軍・正しくて、負けたら敗者・失敗・邪といった自己中心的な価値観があります。
そんな「正しさ」に振り回されない心を持ちたいです。
日本には和を大切にした伝統的なものが生活や言葉にひっそりと残ります。日本神道は、他を排除せず、咀嚼して作り変える力があります。
弓道の世界には、破邪顕正という言葉もあるようです。邪を破り、正しい事を顕すという意味ですが、
高い道徳に培われた正しさに、己を照らし合わせて日々反省する事により、自分が段々と丸い的の真ん中にむかっていける気がしています。
多様な価値観の中で、囚われることなく無欲でありながら、全てを慈しむ心とはどんなものだろう、とふと考えます。
それはイエス様やお釈迦さまのような、聖人の生き様であり、孔子のお言葉の中にも多く散りばめられているのかなと感じます。
ただの凡人だから、賢人から学びたいです。
娘が弓道を選んでいたら、それはそれで良かったなぁと思いつつ、長年やっている水泳を続けることも、自らを水に馴染ませる運動ですから、継続して頑張って欲しいですね。
何事も継続して貫くことは的に当たる一つの力となる気がしています。私もがんばろう。😌