「剣客商売」「鬼平犯科帳」の著者である池波正太郎が、牧野富太郎博士の写真を見て下記のように述べられていました。
九十余歳の博士の、大きな巾着頭や、耳までたれ下った銀のような髪の毛や、強情我慢的な鼻や、女のようにやさしくしまった唇や、痩せぎすな猫背を丸めて、両手に何気なく持った白つつじの花や
中略
何よりも私の心を引き掴んで離さなかったのは、その博士の眼であった。
白い眉毛の下に、ややくぼんで、小さな、澄みきった眼がある。
それはもう、ただ澄みきっている眼というものはこういう眼をいうものであろうかと思われる美しさであって、一葉の写真を通して、この眼の美しい輝きが汲みとれるのは撮影もすばらしいものなのだろうが、撮(うつ)された対象が何よりもすばらしいのだと、私は思った。
朝ドラ、らんまんは終盤を迎えています。高知出身でありながら、幼い頃遠足で訪れた牧野植物園に縁のある植物学者くらいしか知らなかったのですが、らんまんをみて、
天命を知り天命に従い純粋に生きること、素の素晴らしさ、自然に親しみ自然から沢山教えられる発見の数々に感動する万太郎(牧野富太郎)の姿に、とても共感しています。
また、奥様のすえこさんも素敵ですね。何があっても万太郎を信じ支える強さや可愛さがあり、乾坤夫婦一対で後世に残る偉業を成した感じがしています。
目というのは不思議だなと思います。
何世も輪廻転生しながら人は姿形、生まれる所を変えながら刹那の世を生きている気がしています。
しかし、その目は、瞳は、ずっと永劫、同じなのではないかと思っています。
赤ちゃんの瞳を見たら、その透き通るような美しさ、水晶のような瞳に驚かされます。一旦、過去世を忘れ今生をいかに生きるかやってやるぞ!と、らんらん、キラキラしていて、その目に吸い込まれそうになります。
その瞳に、ほんの100年弱の生きている間、うつし世(現世)の中、何を映し、写し、撮すのかなぁと思います。
目にうつる対象「物」のみを映してそれに揺さぶられ、心を惑わしたり、曇らされるのか、
心の目、瞳の奥に映される本当の光に気づき、それを現世に投影できるのか、
天真爛漫に生きた牧野富太郎博士の生き様と、この目の美しさの話を知り、牧野富太郎博士は後者を生きた稀有な御方だったように思いました。
心の目を大切にしたい。
【画像はお借りしました】
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