志賀海神社は全国の海神社の総本山で、福岡県の志賀島にあります。この神社のお祭りの1つに「山誉漁猟祭」というのがあるようです。
滋賀海神社の拝殿で演じられる神楽で歌われる歌が、現在の日本の国歌である「君が代」の原文になっているのではと言われています。
志賀海神社神楽歌↓
「君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命千歳という
花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ鯛は沖のむれんだいほや
君が代志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船ありけるよ あれはや あれこそは阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いかるよ いるか 汐早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな」
最初の部分は国歌そのまんまですね!
国歌は古今和歌集からとったと言われていますが、この志賀海神社の神楽歌は、神功皇后の三韓出兵の際のもののようです。つまり、平安時代の古今和歌集より古いのです。
神功皇后が
「志賀海に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ!」
と庇護をされた出兵の時の歌のようで、「阿曇」や「磯良」という名前もでてきます。
以前、志賀海神社の神事について書いた事がありますが、阿曇は、安曇族、海を渡ってきた太古の一族であり、大分県の安心院(アジム)などは、まさに安曇族の地であり、その一族は、長野の安曇野まで移動しています。
また、国歌の君が代はユダヤの言葉と響きが似ていると言われているようですが、安曇族が渡来系であり、ユダヤの祭祀一族だったため、大陸から海を渡って移動してきて、その一族の神楽歌が国歌の元になったとすると、ユダヤとの類似は説明がつきそうですね。
それでは何故この歌が国歌に?ということですが、
たまたま?ではないですよね。
日本人は、混血に混血を重ねて融和した人の集まった国家であり、国津神(土着の民)と天津神(海を渡って日本にやってきた民)との融和や、ユダヤとの関係は切っても切れないものだったのかもしれません?
今に繋がる沢山の日本文化をもたらした秦氏の太古からの影響を考えても、ユダヤとの繋がりはもはや隠せません。。
国歌斉唱とか、嫌がる方もいらっしゃいますが、私は素晴らしい国歌だと思います。どのような由来があるにせよ、今の日本は様々な要素を和して溶かしてひとつに纏めた国だと思います。いつも国歌は大きな声で歌います。私は日本が大好きですから☺️
オリジナルの、「君が代」の「君」は、「志賀海神社」の山誉祭神楽歌にある「阿曇の君」であり、安曇族の神様、志賀大神のことを歌っていたといえそうですが、それはそれで、またいいですね☺️
九州には、壱岐島など志賀大神は沢山御祭神として祀られていました。
しかし、宗像大社のガイドさんが言っていましたが、海を渡る際に橋渡しのような海の一族は、宗像一族の方が天皇からの力添えを得て強くなった、、という話がガイドさんからはありました。
海の玄関、九州の海の民は一枚岩ではなかったことが話から伺えました。
安曇族については、何故九州から長野への大移動が何故行われたのか、、
答えはタイムスリップしなければわからないけれど、ゆっくり書いてみようかなぁと思います。
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