私が今回ご一緒した富士山ガイドさんに初めて話しかけられたのは、年末富士山神社5社巡りツアーの最初、富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社の「角行の立行石」(かくぎょうのたちぎょういし)前でした。お互い客として参加していました。
角行とは、富士山を信仰する集団「富士講」の開祖です。角行は、長崎にうまれ、天下の泰平と国土の安穏、衆生の救済を願って難行苦業の道に入り、わずか18歳で岩手県盤井郡の「脫骨の窟」にて37日の行をなし、のち神のお告げをうけて富士の「人穴」にこもり、1000日もの荒行を成し遂げ解脱します。この修行を終えた角行は、超長齢の106歳にて大往生します。
生まれてから亡くなるまでの間、不眠の修行が18800日、立行3000日、断食300日、造字360字、富士登頂128回と言われています。
角行の教えは弟子へと引き継がれ、江戸時代中期には「富士講」として関東を中心に大流行し、多くの人々が富士登山や富士五湖等の霊地への巡礼を行うようになりました。富士講の説明は5合目登山前にガイドさんからありました。沢山の富士講が今もいます。
明治になるまで、女性の山頂登山は禁止されていました。明治以降に解禁となり、また鉄道や道路網の発達により多くの登山者が山頂を目指すようになりました。
扶桑教についてのパンフは8合目冨士山天拝宮で鈴を購入の際頂きました。
日本人は、噴火を繰り返す富士山を神が宿る山として畏れ、噴火を鎮めるために麓に浅間神社を建立しました。噴火活動が沈静化する平安時代後期になると富士山は、山岳信仰と密教等が習合した「修験道」の道場となったようです。
角行より前、12世紀前半に活躍した修行僧の末代上人(まつだいしょうにん)🟰富士上人は、山頂に大日寺を築きます。
室町時代後半には、修験者とともに一般庶民も登拝するようになり、戦国時代には、角行が新たな富士山信仰を教義としてまとめます。
吉田口登山道八合目に、冨士山天拝宮がありました。烏帽子岩神社は、冨士山天拝宮の奥に鎮座していました。
この烏帽子岩は冨士講中興の祖である、角行の4代後に指示した、伊藤 伊兵衛🟰食行身禄が断食修行により入定した霊跡で、冨士山天拝宮によって管理されています。
富士吉田市出身、富士山登山100回以上、富士山をこよなく愛すガイドさんは、食行身禄の説明をしてくださいました。その時、「富士に死す」という本をぜひ読んでみてくださいと言っていましたので早速購入。
少しだけ紹介します。☟
角行が富士山麓の人穴にこもって荒修行して、富士行即ち富士講の基礎を固めて以来、富士信仰は急速に大衆化したのである。「角行様から数えて五代目が二つに分派したというのですね。するとそのどちらが、角行様の正統を継ぐ行者様なのでしょうか」「だから、両方だと言ったでしょう。四代目月旺様は月心様と月行様とを御膝元に呼ばれて、私が死んだら、月心は初代角行様の教えを固く守れ、月行は初代角行様の教えを開けと仰せられました。そして去年亡くなられた。、、、」
この4代目月旺様から5代目月心様と月行様のあたりの冨士講から、伊藤伊兵衛🟰食行身禄が出たのですね。
ガイドさん、まるで行者さんのようでした。冨士浅間大神への祈りと感謝をよく述べておられました。76歳のガイドさんが学生の時は、富士山泊まり込みの山小屋バイトをしていたようです。富士山登山中、宮司さんから山小屋の方々に至るまで顔見知りがいて、笑顔で話していました。
それと、ガイドさんは不思議と天気の変化をいいあてました。わかるんですか?ってきくと長年の勘のようなものがあるようです。
「富士に死す」の著書の中から
気を知ればこそ、山は荒れると申しておるのだ」 行者は言った。「気とは?」
初老の男は問いつめようとした。「気とは即ち万象の呼吸よ、万象の息遣いのことよ」「風のことでございますか」「風もある。だが風ばかりではない。雲もある。空の色もある。温、暖、温気(湿気)も、気の呼吸よ。気の呼吸に合わせて呼吸をせよ、明日の天気がどうなるか分るのだ」
昨年末の出会いがなければ2023年フジサンの年に登山することも無かったと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます