このシャリというのは「舎利」と書き、元々は仏教用語で、火葬にされたお釈迦様の骨のこと、つまり、仏舎利をさします。
この舎利は世界各地の仏塔(ストゥーパ)に納められています。仏塔はお釈迦様のお墓です。東寺では五重塔に納められています。五重塔の美しさに心奪われましたが、お釈迦様のお墓参りをしていたといえるのですね!
仏舎利は大変尊いものとされていて、細かく砕かれた骨の形と白さが、米粒に似ていることからお米に例えられたという説があります。
また、仏舎利は土にかえり、めぐりめぐって穀物となり、人を助けるという輪廻の教えもあるようです。
小さい頃、母から一粒のお米には7人の神様がいるから、一粒残らずご飯はいただくんだと教わりましたが、母が言っていたことは理に叶うことだったんだとこの話を知ってから思いました。
舎利について調べてみると、「釈尊の死後、その舎利の一部は地上の王の間で分けられたが、大部分は海底の龍宮に納められた」と言われています。それを裏付けるように舎利は法滅(仏法が滅ぶ)時に如意宝珠に変わるという話もありました。
お釈迦様の遺骨である舎利は如意宝珠と結びつけられ、如意宝珠の儀礼の中では、人間および龍の精気を意味するようにもなったようです。
特に如意宝珠を巧みに使い龍をコントロールし、旱魃時に雨を降らせた空海さんによって、その神聖さは確固たるものとなりました。
私は空海さんが大好きなので、空海さんの東寺や女人高野室生寺の五重塔に惹かれます。仏塔の階層は3、5、7、、と縁起が良い奇数です。特に、「五」重塔は地、水、火、風、空を表しているとも言われています。自然の循環につながります。
日本では故人の遺骨を納めたお墓に、お彼岸や法事の際などはお参りをする人が多いです。一方、お墓が遠くにあったりしてなかなか行けなかったり、お墓を作るのも高額で大変だと聞いたこともあります。
お墓参りの目的は故人の成仏を祈ることで、成仏には生きている縁ある人からの祈りを積み上げる事が大切に思っています。
もし、故人の悲しみが深ければ、故人には、沢山の祈りが必要になると思います。生ききってお亡くなりになったとしても、誰も死後供養しないとしたら、やはり悲しくなるのではないかな、とも思います。
人は弱いし、なかなか祈る対象が目に見えないと手を合わせないし、忘れがちです。お墓参りに行けなくても家で位牌や短冊などの依代になるものさえあれば、縁ある故人は祈りとお線香の煙に導かれて良い世界へと成仏し易くなると信じています。
同じものばかり食べるといくら美味しくても飽きます。だから、お線香も故人が喜ぶご馳走なので、幾つかの天然木のお線香を自分の毎日の気分によって変えて焚きます。私はお墓も幸い頻繁に行けます。
死んだら終わりと考える人は、こういう考え自体も変だと思うかもですが、私は命に終わりはないという死生観があります。
美味しいご飯(シャリ)をいただく事ができるのは、雨が降り、稲が実る太古からの自然の循環のお陰です。
また、今を生きることができるのも、やはり縁者が、戦争や飢饉や様々な災害なんかも経験しつつ、それでも苦しい時代を必死に生きて命を繋いでくれたお陰です。
循環するひとつのシーンにただ今自分は生かされているのだと思っています。
シャリは、仏舎利(お釈迦様の骨)であり、お米であり、人間に欠かせない「水」の循環を想像させる宝珠です。
また、宝珠の形はハート(心臓=こころ)です。
その宝珠が仏塔の一番高いところ、天に近い所に祀られているのは、真心を天に届かせる大切さを暗示している気がしています。東寺の五重塔の美しさの奥に隠れる深い意味を感じました。
つづく
【画像はお米、お米の神様、仏塔宝珠、如意宝珠、検索画面より】