農夫の運というお話があります。
昔年老いた農夫がくる年もくる年も田んぼを耕していました。ある日自分が飼っている馬が逃げてしまいました。それを聞いて近所の者達が訪ねてきました。
「不運でしたね。」
皆は憐んで口々に言いました。
「かもしれませんね」
農夫は答えました。
次の朝、逃げた馬は野生の馬2頭を連れて帰って来ました。
「なんとまぁ幸運でしたなぁ」
近所の人は興奮していいました。
「かもしれませんね」
農夫は答えました。
翌日、農夫の息子がその野生の馬に乗ろうとしましたが、投げ飛ばされて足を骨折してしまいました。再び近所の者達が農夫を慰めにやってきました。
「不運でしたね」皆は口々に言いました。
「かもしれませんね」と農夫は答えました。
その翌日、軍隊が村にやってきて若い男で戦争に駆り出すことができる者を探していました。しかし、息子の足が骨折しているのを見ると軍隊は通り過ぎて行きました。
「何とまぁ、幸運でしたね」
近所の者達は喜んで言いました。
「かもしれませんね」
農夫は答えました。
人間万事塞翁が馬
私の座右の銘のひとつです。何が良い、何が悪いかは、神のみぞ知り得ます。だから、一見悪く見える事がおこったときこそ、この背景の大いなる神様の意図は何だろう?と思うだけでも、現象に悩まされ過ぎず自分を見失わずにいる事ができます。
禍福は糾える縄の如し
の話とも言えます。良いときにも、勝って兜の緒を締めよです。良いときほど人は有頂天になります。頂点に至るときほど、振り子の振り幅が大きい時だと肝に銘じて謙虚にありたいですね。傲慢という落とし穴に、有頂天な時ほど陥る可能性がありますから。
今と違う理想を言って、過去を嘆いても変わらないです。良い時も、そうで無い時も、今、目の前のやるべき事に心を注いでいくだけです。今起こる出来事は大いなる神様のお計らいで、これからの道を決める標だと考えて生きたなぁと思います。