日本書紀にも、第23代、弘計天皇の項に「取結縄葛者」とあるようです。縄の素材の葛は木に由来し、藁はイネ科植物の茎を乾燥させた物です。
日本では、漢字やひらがなが使われるよりも前から神代文字などもあったこともわかっています。文字による弊害を懸念してか、秘伝は文字ではなく、口伝により伝わったりしていますが、しかし、やはり文字の恩恵は素晴らしく、国や時代や空間を超えて様々なことを知ることができます。
文字は言葉が形になったものであり、言霊だと思っています。また、文字が結縄を起源とすると、縄は、木や茎と関係があり、木霊でもある気がします。木霊(コダマ)と言霊(コトダマ)は似ていますね。
言霊によりイザナギ様とイザナミ様の仲を取り持った神様に、白山の菊理姫様(ククリヒメ)がいらっしゃいます。御神名に、木霊の神様、ククノチノ神と同じ「クク」をもっています。
神話では一度しか出てこない謎の神様がククリヒメ様であり、何を囁いたかは明らかにされてはいませんが、明らかされていない点にも、凄く大切なメッセージがある気がします。言葉の潜在的な力を各自が想像しなさいと言われている気がしています。
ククリヒメ様は、2人の仲を結んだ、括ったといわれています。イザナギ様、イザナミ様が喧嘩したままだと、生命誕生の危機だったわけで、それを未然に防ぎました。防波堤のように陰陽、男女の争いを言霊で諌めくくり繋げ掬いました。
一方で、木の神様ククノチノ神も、木のエネルギーにより、川を堰き止め氾濫を未然に防いだり、土砂崩れを止めたりする防波堤のような神様だと思っています。
ご神名に共通するククの言霊からククリヒメ神とククノチノ神の二柱に、大いなる自然の流れを括り繋ぎ止める防波堤のような共通点を感じます。
人格の中核は小宇宙だと言われています。大宇宙の自然の運行の中で、大地が木霊を繁らせ、大いなるエネルギーで大地を守るように、
大地に立つ人も、発する言霊の潜在的な力を信じ、自らの小宇宙を大宇宙に溶け込ませるように、良いコトノハで周りを明るく幸せにすることが出来ます。
色んな方のブログの文字や行間から、私は会ったことのない方の奏でる優しい雰囲気を感じたりします。
ひとりひとりの善なる言霊エネルギーは、木霊エネルギーのように、波のように目に見えない大きなエネルギーとなる気がします。
ククリヒメ様が何を囁いたかは明らかにされていないけれど、良いコトノハは、自然と人を一体とし、人知れずさまざまな混乱から私達自身を実は救っているのかもしれないなとも感じました。
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ククノチノ神は木の神さまです。この神様は、九州の熊本阿蘇にあります霜宮でみました。
句句廼馳命を見て、御神名を調べたのが最初です。木火土金水の木の神様ですね。一番左の垣山姫は、埴安姫のこと?かも。
神産みにおいて、
『古事記』では、イザナギ命・イザナミ命が自然の神々を生んだ中の一柱が、ククノチノ神。その後に生まれた後、山の神オオヤマヅミ、野の神カヤノヒメが生まれました。
とあり、
日本書紀には、
伊弉諾尊と伊弉冉尊の神生みにおいて、風の神を生み、食物の神「倉稲魂命」を生んだ後、海の神少童命をうむ。次に、山祇という山の神を生み、速秋津日命という水門の神を生み、句句廼馳(ククノチ)という木の神を生み、埴安神という土の神を生んだ。
とありました。
日本神話では、自然ができてから人が生まれます。山や水、土や木が生まれた後に人が万物の総合体として出来上がるのですね。
ククノチノ神は単に木の精霊ということだけではなく、もっと根源的な大地の生命力そのもの、木の神の総称で、大いなるエネルギーを象徴する神だと思います。
御神木は、天上に住む神さまが、地上に降臨するときの依代とも考えられてきました。
日本中に木々の緑を溢れさせるククノチノ神は、スサノオ尊や、その御子である木種の神、イソタケル命やオオヤツヒメ命とともに、山林業の祖神として信仰されているみたいです。
神社には、勢いのいい生命力みなぎる御神木が聳えます。ククノチノ神は、樹木が勢い良く育成する霊力をもつ神様といえそうですね。
ククノチノ神で調べて真っ先に出てきたのが、伊勢外宮の摂社の志等美神社(三重県伊勢市)でした。別名「蔀野井庭神社」です。
シトミの言霊には、動詞の「しとむ」からきていて、「水に浸る」、「水に浸かって濡れる」意味であると解釈されています。
シトミとはまた、日光や風雨をさえぎるための戸。おおい。光をおおいさえぎるものです。
しとみ
昔の木造建築で人々の住環境を快適に調節したり、防風雨から人々を守ったのがしとみ(蔀)戸だったわけです。
また、蔀野井庭神社の「井庭」(いば)とは、流水を堰(せき)止める構造物のことで、志等美神社(蔀野井庭神社)は川淵にあり、宮川氾濫から外宮を守る守護神とも考えられていたのかもしれません。
志等美神社内にあります大河内神社も、共に伊勢の外宮の摂社で、社名の通り、川水の神で、宮川の氾濫を防ぐ守護神と考えられているようです。
伊勢の外宮は豊受大御神をお祀りしています。地球神、大地の神そのもののイメージで、国常立神です。
その外宮の摂社の志等美神社は、伊勢神宮の周りの宮川の氾濫の防波堤となるべく、木の神様、ククノチノ神が主祭神です。
自然災害と森林破壊、森林伐採は密接に繋がっています。天災のようにみえて、大地の精霊を傷つけた報いが自然災害なのかもしれません。大地への感謝を持つ気持ちを忘れたくないですね。
木々は土砂崩れや津波なんかを抑える、防波堤としてのお役目もあります。
木の神様は自然の運行の中で大災害とかを未然に防いでいる神様だと思います。日本の山が禿山だらけなら、今の比でないくらい災害は至る所に起こっているのではないでしょうか。
また、木の霊について、精霊は山中を敏捷に駆け回るとされ、木霊は外見はごく普通の樹木ですが、切り倒そうとすると祟られるとか、神通力に似た不思議な力を有するとされる、とあります。
太古から人は木に霊的なエネルギーを感じ、ご神域の木などは特に大切にしたり、温もりを木の家や、木製品に感じていたのだと思います。
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地球や天体の運行の中、太古の人は様々な法則を見つけました。以前書きましたが、伏義と女禍の、伏義は易の八卦を見出したり、さまざまな物を生み出した神様です。女禍については、土の神ハニヤス神と重なるところがあります。
女禍は、泥をこねて人間をつくり、天が崩れそうになったとき、5色の石を練って天を補修したといわれている中国太古の神様です。
泥をこねる際、つくりはじめの頃に黄土をこねて丁寧につくった人間がのちの時代の貴人であり、やがて数を増やすため縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている。
と説明されるのが女禍です。
「ニ(泥)」とは、神聖な力を宿したもの、神に捧げる神器や祭具を作るためにとくに練り込まれた粘土のことでした。
泥に関していえば、丹田を泥丸ともいったりします。
黄土をこねる、の黄土ですが、
陰陽5行の木火土金水の土は真ん中にあり、5つの真ん中は、黄色。
昔、黄河文明なんかは、黄色い土(泥)が水と混り合った地に栄えたのですから、黄色と土(泥)のセットですね。
ツチは蛇の古語でもあり、ウネウネするイメージもあり、女禍の身体は蛇のように描かれます。ウネウネは体内のエネルギーの流れのようにも感じます
女禍が本当に泥から人を作ったとは考えられないですが、この話の隠喩は、もしかして、粘土をねるように、ヒトの真ん中にある黄土をねることかなとおもいました。
つまり、身体の中に丹田の基地をつくるために静かに時間をかけ練り堅め、無形の丹が体内に完成したら、本来あるべき真の人、天と地の間を繋ぐエネルギーとしての存在になる準備ができます。
女禍の話にある、丁寧につくった人を貴人とよぶというのは、丁寧にゆっくり丹を練り上げ、自然の一部として地球の災害を防いだり、地球の働きを助けた人の事をそう呼んだのかもしれないな、と感じました。
坐や暝想を通して身体の丹を練る。丹を練るには、静かに坐するのが必要だと信じています。
そして、それができた暁月には、天地人の人となります。
また、この黄色といえば、天皇陛下が即位される際にお召しになる黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)なんかも思い浮かべます。
中心で統べる御方のみが着用できる祭祀の衣服であり、この色は、天皇陛下のみが、大嘗祭の際にお召しになる色のようです。太古の中国の皇帝たちも、黄色がシンボルカラーで一般庶民の衣の色にしてはいけなかったようですね。
易経に、「君子は黄裳を身にまとうように、中庸従順の徳がなかに充ち溢れ自ずと外にまで現れた立派な人物……」
という表現もあり、衣自体というより、君子の意識のあるべき状態をさしているようです。
太古から織物の祭祀をしていた忌部氏がこの衣を織るのを担当されているのだったと記憶しています。
徳島の忌部氏の神社にも、埴安神が祀られています。麻の栽培に土壌は欠かせません。
土と関係の深いハニヤスビコ神とハニヤスビメ神は粘土(大地)の神であり、農業・製陶業・造園業・土木業などの分野においても重要な神とされています。
田植えをする神々の中に働く二柱の姿が書かれたものもありました。ハニヤスビコ神とハニヤスビメ神が大地や農業に関係していることを示しており、まつられたりもするみたいですね。
また、イザナギ様が火傷の療養中に、埴安神は便から生まれ、尿から生まれたミヅハノメ神と共に厠神(トイレの神さま)として祀られることもあるようです。
埴安姫(はにやすひめ)は便所の神ですが、大変美しい女神だといわれています。以前書きましたが金勝要の神様も厠(トイレ)の神様でしたね。トイレに落とされた神様だときいています。
ハニヤス神は、土の神様でイメージは黄色。金勝要は、国常立神のおそばに居られる神様の一柱のようで、その御神名からイメージは金色です。
なんだか、身体の真ん中で光らせたい玉の色、みたいなイメージをもってしまいます。
人間は自分の中でいらないものをリサイクル出来ないから、排泄しないといけないので肉体がある以上トイレとは切っても切れません。汚いものを排泄するように、嫌なことも溜めずに流すとスッキリしますね。
毎日お世話になる陶器がトイレです。ハニヤス神は陶器の神様でもありました。陶器も土を捏ねて作ります。
トイレ事情が悪く非衛生のため病気が蔓延する国は今もあります。日本のトイレは世界でもビックリされます。トイレを綺麗に使う意識が高い国だと思います。昔は、便所は聖域でした。あの世とこの世の境界だとも考えられており、ハニヤス神は、あの世からやってくると思われていた新生児を司る神だとも考えられていたようです。
神話のなかで、イザナギ様の排泄物から水の神ミツハノ女神や、土の神ハニヤス神が生まれたり、
穀物は、汚物や排泄物、屍から生まれていますが、人から出されるものを例えにするのは、実は
摂取したり、排泄したり、
吸収したり、放出したり、
創ったり、壊したり
括ったり、ほどいたり、
結んだり、開いたり、
生まれたり、亡くなったり、
全て二元論の中を行ったりきたりしながらも、実はそれさえも、無限で静かな真ん中の金色に光る存在や、大宇宙の法則の元に、自然におこなわれていることを気付かせてくれるような、そんな非常に奥深い内容を、神話は示唆しているのかもしれませんね。
友達からの年賀状に、娘は就活、私は腸活頑張ります!とありました。
そんなことは忘れていましたが、最近は妹も腸活腸活と言いだし、腸って確かに宇宙みたいだし、生き生きさせると健康に直結するなぁ、なんて思いました。
身体の中でウネウネして宇宙みたいなのは、脳と腸ですよね。
腸活に関係ある神様だと勝手に思っている神様に、埴安神(ハニヤス神)がおられます。妹が腸活、腸活言い出したあたりから、何故かよく目にするんです。
先日、御岳神社にもいらっしゃいました。埴山姫は埴安姫です。
たまたま見た写真でここ行ってみたい!と思った群馬の榛名神社。饒速日命にも縁があり、御祭神を調べるとまた埴安姫神。
先日届いた伊勢神宮からの会報の中にも埴安神が出てきました。
古代史研究会の方の投稿された忌部氏の神社にも埴安姫のご神名がありました。
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こんな感じで、次々と見ると参拝せねば、という気持ちになるんです。
いつか、三姉妹で埴安姫の榛名神社に行こうと思います。
ところで、埴安神ですが『古事記』によると、イザナミ神が火傷で病床についている際に、ミズハノメ神(水の神)とともに生まれた土の神と記されており、イザナミ神の大便から生まれたとあります。
腸活の神様だと私が思う理由はここなんですね!
神名の「ハニヤス」とは埴粘(はにやす)のことらしく、土器や瓦などの材料となる赤土の粘土を表す古語です。
「ニ(泥)」とは、神聖な力を宿したもの、つまり、神に捧げる神器や祭具を作るためにとくに練り込まれた粘土です。祭祀用の特別な器をつくる土の神様が、ハニヤス神なのです。
古代の祭祀で土に関係あるといえば、土偶やら、埴輪を思います。埴輪のハニは、埴安神のハニと同意ですね。
土偶に関していえば、大半が何らかの形で破損しており、故意に壊したと思われるものも多いようで、祭祀などの際に破壊し、災厄などを祓うことを目的に作成されたという説があったりするみたいです。
土から作ったものを、土にお返しする、神から頂いた全てを、大地に返すみたいなミタマ返しのような意味もあるんじゃないかなぁと個人的には感じます。
人が生まれ死に、大地に還る。
太古、寿命も短い時代には、生死の一大イベントは輪のように繋がり、今とは違って自然とヒトは一体で、肉体の還る土は心の真ん中の故郷のようなものだったのかもしれません。
自然の土から作った土偶や埴輪が、自分の身代わりのような感性すら持っていたのかもです。だから、粉々にして土に還していたのかなぁなんて、思ったりもしました。
大地に立ち、自然の中で生かされ、自然の恵みをいただき、自然と一体になると、自然も自らも同じ大いなる一つの存在のひとかけら、自然を壊してまで貪って生きようとはしていなかったのではないかと感じます。
腸活に戻りますと、食は地球からの恵を摂取して、腸という宇宙に届かせ、自らいるものだけを自然に吸収しいらないものは排泄します。そうして身体を整えるんです。身魂の器である身体が健康であるように腸は活き活き頑張ってくれています。
ハニヤス姫は、イザナミ様が火傷をした原因となったカグツチ神(火の神様)の奥様なんです。
火の神様は、祓う力が凄い強い神様だと思いますが、奥様のハニヤス神は、どちらかというと自然のマニマニ、自然任せの神のようにも感じます。
腸には、善玉菌と悪玉菌の他に日和見菌があり、日和見菌は多い方につくみたいなんですね。日和見菌も、身体を大切に扱うも扱わないも貴方次第、貴方の中の自然な神様のマニマニ、お任せしますよって感じです。
太古の人は、物が無い中で生活しているから、超リサイクル社会だったと思います。
食べて排泄しそれらはまた肥料に、なんていう生活のなか、自分の排泄物さえも分魂みたいな意識があったのかもです。
自然に生きる中、自分たちも、神様に練り固められ形を持って生まれてきた存在で、自然の一部として役目を果たしてから、いつかは、自然と一つになり巡り還る意識があったのかもですね。
腸も(今日も)元気にいきましょう♪
善玉菌頑張れ😊
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