大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

大神神社参拝記 ②

2023-08-04 05:51:00 | 神社仏閣

三輪山の麓の大神神社は、三輪山そのものが御神体のため、本殿はなく拝殿から山を拝みます。そのような神社の起源はかなり古いようです。

縄文時代は神が山に宿ると考えて山そのものを拝む習慣があったようで、九州を参拝した時も、祖母山で同じ話を宮司さんから聞きました。大いなるものは自然の運行の中にあるのかもしれません。


「古事記」には、次のような記事があります。

イザナギノ尊が少名彦 (コトシロヌシに、大国主 (八矛ノ命)と兄弟になって、 出雲王国を造りなさい と言われた。少名彦神が常世の国に渡ったあと、大国主は心配して、「わたし一人で国を造るのは難しいと この神が協力してくれるだろうか」と仰せられた。その とき、海上を照らして近寄って来る神 (大物主)が、「われをヤマトの青垣の東山 (三輪山)に祀れ」と言われた。その神は、御諸山 (三輪山) に鎮座する神となった。」


三輪山では磐座も祀られています。古い信仰ですね。




また、三輪山には三つ鳥居が 拝殿の奥に建てられており、サイノカミ三神が祀られています。三柱鳥居には思い出があります。

出雲人は、インドからやってきた時鰐を崇拝していましたが、そこから後に鰐が竜神信仰やヘビ信仰になったと出雲の著書では書かれていました。古事記の

「海上を照らして近寄って来る神」 

とは、出雲地方の背黒ウミヘビの様子を表しており


このヘビは、名前のとおり背は黒いが腹部は金色で、腹をくねらせると灯りに照らされて黄金色に輝く蛇のようで、夜は漁師さんには、金色の火の玉に見えるようです。

大物主神が近寄ってくる様子を、セグロウミヘビのようだと古事記では表現しており、

タタラ五十鈴姫が三輪山の麓に移住したとき、太陽神とともに竜蛇神も祀ったことから、三輪神社の樹木の根にもヘビ神が住むと言われたようです。

三輪山の御眷属神なのかもですね。見えない私からしたら、トカゲだってチョウだって、木の葉だって、そこにある全てが神さまの息吹に感じました。

ところで、ミワという言葉の由来についてですが、もともと酒を入れるカメを、古語で ミワと言ったようで、それが神酒(ミキ)に変わったとありました。

三輪山は、酒造りの神が宿る山という意味で、ミワ山と名づけられたようです。


古代の出雲系の神祭りでは、お神酒は欠かせないため、三輪山周辺では、酒造りが行われます。


神話では、少彦名神は酒造りも教えたことになっていますが、大神神社には出雲の大物主が酒道りを伝えたという言い伝えがあるようです。著書によると、少彦名神🟰事代主神(諡)🟰大物主(名前をかえられた)です。三輪山は、また御諸山(ミムロ山)とも呼ばれます。



澄んだ酒(清酒)は、もろみ(どぶろく)をろ過することでつくられます。御諸山の「もろ」は、酒のもとの「もろみ」を意味するという説もあるようです。


また、古代は竪穴住居を「室」と言ったようです。「室」は酒造りに適した建物で、その屋根が地面の上に出た姿に御諸山が似ているから「御室山」の字が変わったものかもとも言われています。


埼玉の氷川神社3社を徒歩とバスでまわった際、一番行きにくい奥まった場所にあった埼玉の女體神社は三室にありました。龍神伝説の地でした。


三輪山の登拝につきましては、非常に感動しました。古事記や著書を参考に色々書きましたが、人が意味付けしたものをとっぱらった方がよかったりして😚。とても良い空間であり、神坐す山だと思いました。

本当にありがとうございました。


大神神社参拝記 ①

2023-08-03 06:09:00 | 神社仏閣

上鴨社(高鴨神社)、中鴨社(葛城御歳神社)、下鴨社(鴨都波神社)3社を参拝した翌朝は、快晴。



念願叶い生まれて初めて大神神社参拝と三輪山登拝をすることとなりました。




出雲王国とヤマト政権から引用いたします。☟

古代イズモ族は、ヤマトに神奈備山信仰も持ってきます。「なび」 は隠るという意味で、 祖霊はきれいな三角錐形の山に隠っていると考えていました。


また、イズモ族はインドから太陽信仰を持ってきていましたから、特に朝に昇る太陽をよく拝んだようです。


形の円い山は、妊娠した女性の腹を連想するので、女神山と考えられており、ヤマト地方では、円く秀麗な形の三輪山が女神山と考えられていました。


そして、ヤマト地方では、陽は三輪山から昇ってくるため、その山が女神山であったので、朝の太陽神も女神であると考えられていたようです。

ここまで





山を母なる子宮と考える→生命の誕生。蘇る。なんとも神奈備山信仰は神秘的で厳しくも優しい信仰なのでしょう。死者を山に埋葬し、そして、残された人が忘れずに山に向かい祈る。命の連鎖。祈りの連鎖。優しさの連鎖。温かい国、山々に囲まれ、水の恵みに満たされ、木々が生い茂る国、日本。自然の運行に神をみる国。


カツラギからは、東方に三輪山を望み、鴨族の人々は、三輪山の良く見える場所に集まって、そこから昇る朝日も拝むようになったようです。


当時は母系家族制であったので、家の祖先神の祭りは女性がつとめ、地域の祭りの神主も女性がつとめたと著書では紹介していました。


そのため三輪山の初代祭主に、コトシロヌシの姫君タタラ五十鈴姫が就任し、出雲王国と同じく、年に2回、春分と秋分の日に、タタラ五十鈴姫が司祭となって山の神に祈 る大祭をおこなったようですね。



段々とヤマトの各地の人々が集まるようになったので、祭りを三輪山の西麓でおこない、ヤマトの人々は次第にタタラ五十鈴姫のことを、三輪山の女神であるかのように崇拝したとありました。

それで、三輪山の西麓の地に宮を建て、姉妹が一緒に住むことになった地はのちに「出雲屋敷」と呼ばれます。太陽の女神を拝む儀式が行われ、三輪山にはサイノカミの幸姫命が祀られたので、山から流れ出る小川は「狭井川」(幸川) と名づけられますが、もとの意味は幸川だそうです。


狭井川と山の辺の道が交わる場所付近には、出雲屋敷と呼ばれたことを示す案内板が建てられているようで、その近くに鎮座する狭井神社ではコトシロヌシやタタラ五十鈴姫が祭られている、とありました。


三輪山登拝の前に、狭井神社は参拝してきました。



タタラ五十鈴姫の兄君クシヒカタは、「天日方奇日方」と呼ばれ、その名の意味は「天の奇しきカを持つ日(太陽)を祀る人」のようです。


三輪山を祈る、三輪山から昇る太陽🟰天の奇しきカを持つ日(太陽☀️)に祈る、代表して祈りを捧げたタタラ五十鈴姫を後に祀る。


また、タタラ五十鈴姫の父君・コトシロヌシの神霊も祀る。

コトシロヌシ神の名は、のちに大物主と変えられたと出雲王国の著書では紹介されていました。


神奈備山である三輪山は御霊が還り、安まる、母なる大地の象徴のひとつなのかもしれません。


つづく


カモ氏 ④鴨都波神社

2023-08-02 05:58:00 | 神社仏閣

高鴨神社に参拝した際に出会った家族から葛城御歳神社と鴨都波神社を教えてもらいました。葛城御歳神社の次は、鴨都波神社です。

鴨都波神社は、土佐国造りについて書いた際に紹介していました。

鴨都波神社付近一帯は「鴨都波遺跡」という弥生時代中期の遺跡として知られ、当時の住居跡や土器、農具などが多数出土しており、古代より鴨氏がこの地に住み着いて農耕生活を始めていたようです。

奈良県のカツラギ地方には、出雲の人々が多く呼び集められ、タタラによる金属精錬技術なども広めたようです。また、出雲人が信じていたサイノカミ信仰もヤマトとその周辺に伝わったようです。


鴨都波神社は、第11世大田田根子の孫、大加茂都美命(おおかもずみのみこと)に勅を奉りて葛城のむら、加茂の地に奉斎されたのが始まりです。

葛城加茂社、下津加茂社とも称され全国の加茂(鴨)社の根源であるとありました。





事代主神は元来「鴨氏」一族が信仰していた神であり、こちらの神社が事代主神の信仰の本源となると紹介されていました。

事代主神は、奈良県桜井市にあります大神神社に祀られる大物主命の子にあたることから、大神神社の別宮とも称されているようです。

私たちは次の日に大神神社を参拝しました。

鴨都波神社の古い社名は「鴨都味波八重事代主命神社」であり、「鴨の水端(みずは)の神」と解され、鎮座地付近が葛城川と柳田川の合流点となり水に恵まれていたことから、元々は水の神を祀っていたとする説があるようです。


鴨都波神社の元のお名前の鴨都味波八重事代主命 については、神魂家 (富家出身の出雲王国8代目副王少名彦八重波津身🟰諡はコトシロヌシ (事代主)のお名前に似ているように思います。


大国主命を助けた少彦名神。出雲の最盛期を築くも、あっという間に常世に帰ってしまい、大国主命が嘆く話が神話にありますが、少彦名神は、出雲王国の話では事代主神でしたから、常世にかえる話しから、出雲王国の悲劇の八大目の王と副王の幽閉の話を思いました。神門家(のちの鴨氏)が、出雲からヤマトに移住した後に、悲劇の祖先を祀っているのかもしれません。


大物主神が、嘆き悲しむ大国主命に現れ励まします。出雲王国の話では、大物主神は、事代主とありました。

出雲王国の9代目王、富鳥鳴海(事代主長男)🟰9代目大国主が父の無念の死を嘆き悲しんだ時に八重波津身(8代目少彦名🟰事代主)が現れて励ましたのかも、と想像を膨らませました。


高鴨神社の主祭神であります「阿遅志貴高日子根命」は、御名、迦毛之大御神であり、死した神をも蘇らせることができるとても御神力の強い神様であると云われています。

神奈備山である大三輪山に向かって奈良に住むカモ一族は祈っていたようです。雲から出て(出雲)、日の出の神(カモ)の復活の祈りをヤマトの地で捧げたのかもしれません。

8代目出雲王国の王、八千矛の子がアジスキタカヒコでした。出雲全盛期を築いた大国主命と少彦名神を蘇らせる、祈る、そんな思いを高鴨神社と葛城御歳神社と鴨都波神社を参拝して感じました。こちらの3社は上鴨、中鴨、下鴨社と呼ばれます。

また、出雲8代目ヤチホコ(大国主命)とコトシロヌシ(少彦名)は、薬草の使用を普及させたと言われます。古事記には大国主が傷を負っウサギを治す話があります。因幡の白兎では、兎からの恩返しに大国主命は稲穂🌾と美しい奥さんを手に入れる話がありました。


地主神社ホームページ画像より


これは、九州に古代上陸した兎狭(うさ)の渡来人(宇佐の人)の傷を癒したのかなぁと考えています。

コトシロヌシの職名の少彦名は、古くから薬の神様の名で知られています。神農は古代中国の神ですが、大阪中央区道修町の神社で行われる神農祭は「薬祖講」の行事として大阪市無形文化財(民俗行事)に指定されているみたいです。

神農は農業だけでなく薬の神様でもありました。



「大阪の祭りはえべっさんに始まり神農さんで終わる」と言われるようですね。えべっさんは、えびす様。出雲王国の著書ではコトシロヌシであり、またスクナヒコナ神となります。


奈良の鴨都波神社でも、スクナヒコナ神は神農と共に祀られていました。太古、中国からも様々な薬草について学び広めたことをこちらの神社で感じました。




無患子は「子が患(わずら)わ無い」と表記するので女児への無病息災の願いが込められているようですね。