一歩間違えればクーデターの危険
民主国家において、言論の自由が損なわれる最たる要素は戦争を国家が行なうことです。もう一つは制服組の暴走です。この最たるものがクーデターです。
私は、夏ころに中公文庫から出版された訳しおろしの「ゲリラ戦争」(チェ・ゲバラ著 甲斐美都里 訳)を購入して読みました。田母神氏の侵略戦争を美化する論文の問題が浮上したときには、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」という著作でどういうときにゲリラ闘争が正当化されうるのか、という問題に関する著者の基本的な考え方を述べた部分が自分自身の頭をよぎりました。
「ゲリラ戦争」の著者であるチェ・ゲバラは、ゲリラ闘争を正当化しうる条件について著書において以下のように述べています。
抑圧者勢力自身が制定した法に反して権力を保持するならば、平和はすでに破らていると考えねばならない。
また、チェ・ゲバラは「ゲリラ戦争」において以下のことも述べています。
政府が、不正があろうとなかろうと、何らかの形の一般投票によって政権についている場合、または少なくとも表面上の合憲性を保持している場合には、ゲリラ活動には多大の困難が伴うだろう。非暴力闘争の可能性がまだあるからである。
クーデターというのは、社会の矛盾が深まるなか支配層の内部でも矛盾が高まり、これを最も強権的な手法で打開しようという動きが強まるなかで発生します。当然、クーデターは非合法の方法であり、同時に支配層自らが支配層としての地位にしがみつき権力の延命を図るために今まで人民を支配するために使用していた憲法体系を軍事力で破壊します。これは、まさにチェ・ゲバラが自身の著作で述べているような、抑圧者勢力自身が制定した法に反して権力を保持する典型例です。
日本国憲法第99条には天皇、摂政、国務大臣他、すべての公務員に対して憲法擁護の義務が記載されています。この条文があるのは、一般的に権力を担う立場にある人が法の支配をふみにじり恣意的に国民を支配することがまかり通れば国民の人権が根本的に損なわれてしまいます。だからこそ、第99条が存在します。国民一般に憲法擁護の義務が課されていないのは、そもそも近代憲法の制定権力が国民に由来し、これが国民に由来するのは、国民の権利を擁護するために権力を担う立場にある人を縛るためであり、憲法が国民を縛るために存在する、というのとは違うからです。
第99条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
日本国憲法第99条は、国民の人権一般を守るための条項であり、軍事クーデターによって日本国憲法が破壊されることを防ぐために作られたとはいえないでしょう。というのは、日本国憲法が制定された当時は、日本には常備軍が存在せず、また常備軍を創設することが想定されていたとはいえないからです。しかし、現在は日本国憲法第9条に違反する事実上の常備軍である自衛隊という武装組織が日本に存在する以上はこれをふまえて、制服組を暴走させないように私達国民が監視するための条項として第99条を生かすことが現在求められています。
現在の日本における自公政権は、小選挙区並立比例代表制という死票を大量に作り出す選挙制度、及び選挙時における戸別訪問や公示期間中には候補者カーによる以外の拡声器を使っての選挙宣伝の一切が禁止され、投票日が近づけば近づくほどに候補者が何を主張しているのかという、有権者が投票行動を決める際に一番大事な事を分からなくする暗闇選挙という欺瞞的な制度により権力を保持しています。しかし、それでも、一般的な投票により現行政権は権力を保持しているといえます。また、実際に、公安警察による、日本共産党や民主団体(ここでは日本共産党と協力・共同の関係を持つ各分野の国民運動の団体を指します)への弾圧はありますがこれに対しては日本国憲法を盾に戦えますし、政党で言えば日本共産党が戦前のように非合法扱いされているのではなく選挙に政党としての公認候補を出せる状態があります。そういう意味では、現在の日本は、武力闘争によらない政治変革への戦いを行なうことができます。
「ゲリラ戦争」(チェ・ゲバラ著 甲斐美登里訳 中公文庫)の巻末で解説を行なっている恵谷治さんは、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」の前提で従えば、と以下のように解説文で述べています。
冒頭で紹介したゲリラ戦を開始する前提に従えば、21世紀に入った今日においても、ゲバラが闘ったようなゲリラ戦を必要とする独裁社会、全体主義国家は存続しており、今後も出現する可能性は否定できない。
「ゲリラ戦争」の解説者である恵谷治さんがゲリラ戦を必要とする独裁社会や全体主義国家に関してどこの国を念頭に置いているかは、彼自身が名指ししているわけではないので分かりません。今後も出現する可能性を否定できないことに関しては、私自身なりの考え方に則して(恵谷治さんがどのように考えるかは分かりませんが)言えば、日本が一歩間違えると、政治変革のためにゲリラ戦を必要とする社会になりかねません。田母神氏による論文(「日本は侵略国家であったのか」)における日本が侵略国家でないと、日本史を捏造する妄言は論外ですが、制服組の幹部であった人物が政府の公式見解とまったく違う考えを公職の立場で発表したということ、そういうことを許す状況が日本の政治のなかにあったことは、自衛隊という武装組織が憲法体系に反してクーデターを起こしかねない危険な芽があると考えざるを得ず、このような事態が現実のものとなれば、日本で言論による政治変革への取り組みができなくなりかねないのです。田母神氏の事実上の「言論クーデター画策事件」ともいえる問題は、日本の民主主義そのもの、現在の日本国憲法体系を根底から破壊しかねない危険性を孕んでいるのです。
私は、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」を読んでみて、この著作の主要な内容は現在の日本においてはまず役に立たないな、と感じました。なぜならば、現在の日本では公安警察による弾圧(葛飾ビラまき事件など)があり、また選挙制度の欺瞞的なものによる困難があるとはいえ、議会制度に基づくやり方で民主連合政府樹立へ接近できる条件があるからです。
同時に私は、「ゲリラ戦争」を読んで、武力による政治変革を必要としない社会に生きているというのは、世界の歴史を見渡してみるに及んで本当は幸せなことなんだと改めて感じました。
世界史を見渡したとき、議会制民主主義が破壊されることによるゲリラ戦が必要になったことについては、キューバ革命を教訓にできます。1953年7月26日フィデル・カストロはモンカダ兵営を武装襲撃します。これはキューバ革命の契機となった事件です。もともと、フィデル・カストロはオルトドクソ党左派に所属していて、議会制度による政治活動を弁護士の仕事をしながら行なっていました。その彼が、武装蜂起を決意したのは米資本と結びついていたフルヘンシオ・バティスタが大統領選挙での敗北が確実になることを悟ったときクーデターを起こして権力の座に着き、バティスタ政権は、当時のキューバ憲法を事実上停止・破壊し、さらには反対派市民への暗殺、抹殺を企てるということに及んだからです。キューバ革命により行なわれた人民によるゲリラ戦の始まりから、議会制民主主義を守り抜くことがいかに大切かということを教訓として汲み取ることができます。また、中米ニカラグアで1979年7月にはサンディニスタ民族解放戦線が武装闘争の末にソモサ軍事独裁政権を打倒しました。現在ニカラグアでは、サンディニスタ民族解放戦線党のオルテガが大統領選挙での勝利により政権を担っています。サンディニスタが現在は選挙で政権を担っているのにかつてはゲリラ戦を行なったのは米資本と結託したソモサ政権が軍事政権であり、民主主義不在の独裁政権で言論による政治変革ができなかったからでした。他にも、世界史において人民が圧政者からの解放を勝ち取るためにゲリラ戦・武装闘争をせざるを得なかったことはいくつもあります(ベトナム戦争もその一つです)。
今でこそ、かつては革命といえば武装闘争しかないとも言われ、これを正当化する状況が存在していたラテンアメリカでもチャベス政権(ベネズエラボリバル共和国)やモラレス政権(ボリビア)におけるように選挙を通じての政治変革が主流となっていますし、先進国と言われる国々ではやはり選挙を通じての政治変革が常識となっています。しかし、選挙に見られるような議会制民主主義のルールによる政治変革、言論による政治変革が、世界史においていつも常識だったわけではありません。かつての中南米を持ち出すまでもなく、日本においてさえ、本気で誰もが幸せに生きられる社会をつくろうとしたら大塩平八郎が武装蜂起したようなことをせざるを得なかった時代がありました。
現在の日本においては、言論による政治闘争・政治変革が当たり前ですが、これを可能にしたのは紛れもなく日本国憲法の民主的条項により保障された自由や権利によります。日本国憲法第97条には以下のことが書き込まれています。
日本国憲法第97条
この憲法が国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
日本国憲法第12条には以下のことが書かれています。
日本国憲法第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
生まれたときから日本国憲法体制のもとで生きている私達にとって、言論の自由など当たり前のことは、人類の歴史上多大な努力により、実現したものです(日本国憲法第97条)。現在の世界において民族自決権などが当たり前となっていることも人民の長年に及ぶ戦いの成果です。チェ・ゲバラの著作「ゲリラ戦争」は、圧政者からの解放をめざした、人民の戦いが生み出した果実の一つです。同時に、政治変革のために「ゲリラ戦争」を闘争の手引きとして使わなくても良くなりつつあるのも人民の戦いにより生み出された果実です。現在私達が日本国憲法に記されている、民主的諸原則が確立する前は、21世紀を生きる私達にとって当たり前のことを勝ち取るために変革を志した人々の血が多く流されました。田母神氏のような人物やこのような人物を輩出する勢力を野放しにすれば、日本国憲法そのものが破壊されうるのです。現在の日本においては、「ゲリラ戦争」を戦いの手引きとして活用する状況は、存在しません。しかし、私達国民が民主主義を守り抜くための不断の努力(憲法第12条)を怠り、極右の民主主義破壊勢力(ここでは靖国派を私は意識しています)が跳梁跋扈するようになり、日本型ファシズムの体制が生まれようものなら、現在において当たり前のことを取り戻すのに私達国民はチェ・ゲバラの著作「ゲリラ戦争」を戦いの手引きとして活用し戦い、多くの血を流さざるを得ない、ということになりかねません。そのような時代に日本の社会を逆流させてはいけません。
日本と世界から貧困をなくしていくべく、チェ・ゲバラの志を継承しながらも、しかし、チェ・ゲバラが闘ったようなやり方を必要としないのが一番いいのです。
現在の日本は、思想・信条、世界観の違いを超えて多くの人々が民主主義を守るために結束して、日本国憲法の平和と民主主義の原則を守り、日本社会の隅々にまで生かしていくべきときです。日本国憲法に記された民主主義と平和の原則を生かし、靖国派など民主主義を破壊する勢力を国民の運動と世論で包囲して孤立させ、そしてこの類の勢力が日本社会に二度と跳梁跋扈しない社会をつくっていこうではありませんか。
民主国家において、言論の自由が損なわれる最たる要素は戦争を国家が行なうことです。もう一つは制服組の暴走です。この最たるものがクーデターです。
私は、夏ころに中公文庫から出版された訳しおろしの「ゲリラ戦争」(チェ・ゲバラ著 甲斐美都里 訳)を購入して読みました。田母神氏の侵略戦争を美化する論文の問題が浮上したときには、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」という著作でどういうときにゲリラ闘争が正当化されうるのか、という問題に関する著者の基本的な考え方を述べた部分が自分自身の頭をよぎりました。
「ゲリラ戦争」の著者であるチェ・ゲバラは、ゲリラ闘争を正当化しうる条件について著書において以下のように述べています。
抑圧者勢力自身が制定した法に反して権力を保持するならば、平和はすでに破らていると考えねばならない。
また、チェ・ゲバラは「ゲリラ戦争」において以下のことも述べています。
政府が、不正があろうとなかろうと、何らかの形の一般投票によって政権についている場合、または少なくとも表面上の合憲性を保持している場合には、ゲリラ活動には多大の困難が伴うだろう。非暴力闘争の可能性がまだあるからである。
クーデターというのは、社会の矛盾が深まるなか支配層の内部でも矛盾が高まり、これを最も強権的な手法で打開しようという動きが強まるなかで発生します。当然、クーデターは非合法の方法であり、同時に支配層自らが支配層としての地位にしがみつき権力の延命を図るために今まで人民を支配するために使用していた憲法体系を軍事力で破壊します。これは、まさにチェ・ゲバラが自身の著作で述べているような、抑圧者勢力自身が制定した法に反して権力を保持する典型例です。
日本国憲法第99条には天皇、摂政、国務大臣他、すべての公務員に対して憲法擁護の義務が記載されています。この条文があるのは、一般的に権力を担う立場にある人が法の支配をふみにじり恣意的に国民を支配することがまかり通れば国民の人権が根本的に損なわれてしまいます。だからこそ、第99条が存在します。国民一般に憲法擁護の義務が課されていないのは、そもそも近代憲法の制定権力が国民に由来し、これが国民に由来するのは、国民の権利を擁護するために権力を担う立場にある人を縛るためであり、憲法が国民を縛るために存在する、というのとは違うからです。
第99条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
日本国憲法第99条は、国民の人権一般を守るための条項であり、軍事クーデターによって日本国憲法が破壊されることを防ぐために作られたとはいえないでしょう。というのは、日本国憲法が制定された当時は、日本には常備軍が存在せず、また常備軍を創設することが想定されていたとはいえないからです。しかし、現在は日本国憲法第9条に違反する事実上の常備軍である自衛隊という武装組織が日本に存在する以上はこれをふまえて、制服組を暴走させないように私達国民が監視するための条項として第99条を生かすことが現在求められています。
現在の日本における自公政権は、小選挙区並立比例代表制という死票を大量に作り出す選挙制度、及び選挙時における戸別訪問や公示期間中には候補者カーによる以外の拡声器を使っての選挙宣伝の一切が禁止され、投票日が近づけば近づくほどに候補者が何を主張しているのかという、有権者が投票行動を決める際に一番大事な事を分からなくする暗闇選挙という欺瞞的な制度により権力を保持しています。しかし、それでも、一般的な投票により現行政権は権力を保持しているといえます。また、実際に、公安警察による、日本共産党や民主団体(ここでは日本共産党と協力・共同の関係を持つ各分野の国民運動の団体を指します)への弾圧はありますがこれに対しては日本国憲法を盾に戦えますし、政党で言えば日本共産党が戦前のように非合法扱いされているのではなく選挙に政党としての公認候補を出せる状態があります。そういう意味では、現在の日本は、武力闘争によらない政治変革への戦いを行なうことができます。
「ゲリラ戦争」(チェ・ゲバラ著 甲斐美登里訳 中公文庫)の巻末で解説を行なっている恵谷治さんは、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」の前提で従えば、と以下のように解説文で述べています。
冒頭で紹介したゲリラ戦を開始する前提に従えば、21世紀に入った今日においても、ゲバラが闘ったようなゲリラ戦を必要とする独裁社会、全体主義国家は存続しており、今後も出現する可能性は否定できない。
「ゲリラ戦争」の解説者である恵谷治さんがゲリラ戦を必要とする独裁社会や全体主義国家に関してどこの国を念頭に置いているかは、彼自身が名指ししているわけではないので分かりません。今後も出現する可能性を否定できないことに関しては、私自身なりの考え方に則して(恵谷治さんがどのように考えるかは分かりませんが)言えば、日本が一歩間違えると、政治変革のためにゲリラ戦を必要とする社会になりかねません。田母神氏による論文(「日本は侵略国家であったのか」)における日本が侵略国家でないと、日本史を捏造する妄言は論外ですが、制服組の幹部であった人物が政府の公式見解とまったく違う考えを公職の立場で発表したということ、そういうことを許す状況が日本の政治のなかにあったことは、自衛隊という武装組織が憲法体系に反してクーデターを起こしかねない危険な芽があると考えざるを得ず、このような事態が現実のものとなれば、日本で言論による政治変革への取り組みができなくなりかねないのです。田母神氏の事実上の「言論クーデター画策事件」ともいえる問題は、日本の民主主義そのもの、現在の日本国憲法体系を根底から破壊しかねない危険性を孕んでいるのです。
私は、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」を読んでみて、この著作の主要な内容は現在の日本においてはまず役に立たないな、と感じました。なぜならば、現在の日本では公安警察による弾圧(葛飾ビラまき事件など)があり、また選挙制度の欺瞞的なものによる困難があるとはいえ、議会制度に基づくやり方で民主連合政府樹立へ接近できる条件があるからです。
同時に私は、「ゲリラ戦争」を読んで、武力による政治変革を必要としない社会に生きているというのは、世界の歴史を見渡してみるに及んで本当は幸せなことなんだと改めて感じました。
世界史を見渡したとき、議会制民主主義が破壊されることによるゲリラ戦が必要になったことについては、キューバ革命を教訓にできます。1953年7月26日フィデル・カストロはモンカダ兵営を武装襲撃します。これはキューバ革命の契機となった事件です。もともと、フィデル・カストロはオルトドクソ党左派に所属していて、議会制度による政治活動を弁護士の仕事をしながら行なっていました。その彼が、武装蜂起を決意したのは米資本と結びついていたフルヘンシオ・バティスタが大統領選挙での敗北が確実になることを悟ったときクーデターを起こして権力の座に着き、バティスタ政権は、当時のキューバ憲法を事実上停止・破壊し、さらには反対派市民への暗殺、抹殺を企てるということに及んだからです。キューバ革命により行なわれた人民によるゲリラ戦の始まりから、議会制民主主義を守り抜くことがいかに大切かということを教訓として汲み取ることができます。また、中米ニカラグアで1979年7月にはサンディニスタ民族解放戦線が武装闘争の末にソモサ軍事独裁政権を打倒しました。現在ニカラグアでは、サンディニスタ民族解放戦線党のオルテガが大統領選挙での勝利により政権を担っています。サンディニスタが現在は選挙で政権を担っているのにかつてはゲリラ戦を行なったのは米資本と結託したソモサ政権が軍事政権であり、民主主義不在の独裁政権で言論による政治変革ができなかったからでした。他にも、世界史において人民が圧政者からの解放を勝ち取るためにゲリラ戦・武装闘争をせざるを得なかったことはいくつもあります(ベトナム戦争もその一つです)。
今でこそ、かつては革命といえば武装闘争しかないとも言われ、これを正当化する状況が存在していたラテンアメリカでもチャベス政権(ベネズエラボリバル共和国)やモラレス政権(ボリビア)におけるように選挙を通じての政治変革が主流となっていますし、先進国と言われる国々ではやはり選挙を通じての政治変革が常識となっています。しかし、選挙に見られるような議会制民主主義のルールによる政治変革、言論による政治変革が、世界史においていつも常識だったわけではありません。かつての中南米を持ち出すまでもなく、日本においてさえ、本気で誰もが幸せに生きられる社会をつくろうとしたら大塩平八郎が武装蜂起したようなことをせざるを得なかった時代がありました。
現在の日本においては、言論による政治闘争・政治変革が当たり前ですが、これを可能にしたのは紛れもなく日本国憲法の民主的条項により保障された自由や権利によります。日本国憲法第97条には以下のことが書き込まれています。
日本国憲法第97条
この憲法が国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
日本国憲法第12条には以下のことが書かれています。
日本国憲法第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
生まれたときから日本国憲法体制のもとで生きている私達にとって、言論の自由など当たり前のことは、人類の歴史上多大な努力により、実現したものです(日本国憲法第97条)。現在の世界において民族自決権などが当たり前となっていることも人民の長年に及ぶ戦いの成果です。チェ・ゲバラの著作「ゲリラ戦争」は、圧政者からの解放をめざした、人民の戦いが生み出した果実の一つです。同時に、政治変革のために「ゲリラ戦争」を闘争の手引きとして使わなくても良くなりつつあるのも人民の戦いにより生み出された果実です。現在私達が日本国憲法に記されている、民主的諸原則が確立する前は、21世紀を生きる私達にとって当たり前のことを勝ち取るために変革を志した人々の血が多く流されました。田母神氏のような人物やこのような人物を輩出する勢力を野放しにすれば、日本国憲法そのものが破壊されうるのです。現在の日本においては、「ゲリラ戦争」を戦いの手引きとして活用する状況は、存在しません。しかし、私達国民が民主主義を守り抜くための不断の努力(憲法第12条)を怠り、極右の民主主義破壊勢力(ここでは靖国派を私は意識しています)が跳梁跋扈するようになり、日本型ファシズムの体制が生まれようものなら、現在において当たり前のことを取り戻すのに私達国民はチェ・ゲバラの著作「ゲリラ戦争」を戦いの手引きとして活用し戦い、多くの血を流さざるを得ない、ということになりかねません。そのような時代に日本の社会を逆流させてはいけません。
日本と世界から貧困をなくしていくべく、チェ・ゲバラの志を継承しながらも、しかし、チェ・ゲバラが闘ったようなやり方を必要としないのが一番いいのです。
現在の日本は、思想・信条、世界観の違いを超えて多くの人々が民主主義を守るために結束して、日本国憲法の平和と民主主義の原則を守り、日本社会の隅々にまで生かしていくべきときです。日本国憲法に記された民主主義と平和の原則を生かし、靖国派など民主主義を破壊する勢力を国民の運動と世論で包囲して孤立させ、そしてこの類の勢力が日本社会に二度と跳梁跋扈しない社会をつくっていこうではありませんか。
希望は、連帯ですね。チリでの9・11は、忘れることができません。いま、中南米で起こっている変化には、力付けられます。
かえるネットのアクセスも4万を超えました。一方、国籍法改正への異議を通して、ネット右翼がネット上で一定の影響力を及ぼしています。ネットの世界にも注意する必要がありそうです。
希望は連帯と憲法。日本国憲法は、多くの国民を民主的に結束させていくのに力になります。田母神氏の問題などは警戒する必要がありますが、必要以上に恐れずに不断の努力で憲法を守っていかなくてはならないですね。
>民主国家において、言論の自由が損なわれる最たる要素は戦争を国家が行なうことです。
戦争を国家が行っていなくとも言論の自由が損なわれている憐れな国が近くに2つもありますね。
○○民主主義人民共和国
○○人民共和国
近所に実現していない国もありますよね。
どこの国とは言いませんが。
20世紀前半に、あるアジアの小国家が白人至上主義に一発かましたおかげでもありますよね。
全く意味が理解できません。
ある日Aさんの家にイカれた奴が包丁を持って乱入してきました。
Aさんは言いました。
「僕の武器は憲法だ」
ある日、近所の人から
「最近、この辺りの治安が悪いので見回りに参加してもらえませんか」
Aさんは言いました。
「僕の武器は憲法だ」
スター○ンしかり、毛しかり。
体制維持の為には血が流れるのもやむなし。
反乱分子は粛清。
憲法を賛美し、言論の自由を賞賛し、
一方で自分に不都合な意見は封殺しようとする。暴力も厭わないとの脅し文句つき。
隣の某国では未だに言論、情報統制が行われ、人権を無視した拷問も行われている。
また、反乱分子に対しては虐殺も厭わない。
この現代において。
民主主義とはなんぞや?