気の向くままに

終着はいつ、どこでもいい 気の向くままに書き記す

金沢散歩

2015-03-13 07:49:52 | 日記

 

「散歩」と言う言葉が、一般に使われるようになったのは、明治のことという。『日本国語大辞典』によると、それは今で言うウオーキング、健康増進の運動の意味で定着し、次第に「そぞろ歩き」の意味も含むようになった。

▼明治二十二(1889)生まれの作家・室生犀星がこの言葉が当時持っていた斬新かつ弾むような響きを活写している

▼<こそこそ歩きでも・・・なんでも彼でも散歩と言えば運動行為であり、散歩も学門の内の一つにさえ認められて、散歩という言葉の軽快さで大概のことが片づいた>(『加賀金沢・故郷を辞す』講談社)

▼用もないのに出歩くことへの後ろめたさ、古い世間体から解き放たれ、自分の思うがままに歩を進める。そんな時代の気分を感じつつ若い犀星が歩き回ったのは、故郷・金沢だ。この街を愛する五木寛之さんの随筆を読めば、金沢散策から犀星が得たものの大きさがしのばれる。

▼<金沢の街には、たくさんの用水が流れている。暗渠をめぐる用水は、金沢に暮らす人々の心の迷路さながらに、ひそかに流れ続けている。人情、といった月並みな感覚ではない。もっと陰影にとんだ、彫の深い気配である>(『五木寛之の金沢散歩』)

▼あす、北陸新幹線が金沢まで開業する。「ちょっと、金沢の迷路を散歩しに…」。そういう旅がしてみたいものだ。

2015年3月13日 中日春秋