春夫詩抄 (岩波文庫) 価格:¥ 798(税込) 発売日:1963-08 |
けれど、その自覚は逆説的ですが、あるほめ言葉(?)がきっかけになったものでした。
小2の時の担任のK先生が、ふと私に仰ったのです。
“〇〇さん(私の名前)の瞳は、マリア様の前で祈る乙女のように澄んで美しいね”
私はハッとしました。ロマンチックな、ちょっと変わった言い方だったので印象に残ったのだということもあります。けれど、ふたつのことがまず、頭の中をよぎりました。
ひとつは、これが自分が覚えている限りにおいて、人生初めての異性からの讃辞だということ。もうひとつは、でもたぶん、これからの人生において、自分が受け取れる讃辞は、そう多くはないだろうということ。
もちろんなにしろ8歳ですから、このようにはっきり言語化したわけではないですけれど、それに近いことを感じたのはたしかでした。
でも、先生は怪談の名手で、どちらかというと面白い先生でしたので、言われたことはちょっと意外でした。
ところが。その謎が少し解けた気がしたのは、中学生になった頃でした。
図書館で立ち読みした『佐藤春夫詩集』で、これは、というフレーズを見つけたのです。
遠く離れてまた得難き人を思う日にありて
われは心からなるまことの愛を学び得たり
そは求むるところなき愛なり
そは信ふかき少女子(おとめご)の願ふことなき日も
聖母マリアの像の前に指を組む心なり
“あっ、先生はこの詩が、無意識に心の中にあったのではないか”と思ったのです。
そうして。K先生は担任当時53歳で、今から思うと大変失礼で申し訳ないのですが、8歳の私にとっては“おじいちゃん先生”という感じでした。
けれどその詩を見たとき、文学少年だったろう先生の姿が思い浮かび、ちょっとくすぐったい思いになったのを覚えています。
そうして、二十歳ごろ読んだ北杜夫氏(…だったと思う)のエッセイのなかに、先生の話してくれた怪談に触れた文があり、もともとは旧制中学で語り伝えられていたものだと知りました。
それで余計、先生の面影は少年に近いものになりました。
この頃では、先生の当時のお顔は次第におぼろげになり、そのうち、私の中で先生は詰襟の学生服と坊主頭の少年になってしまうかもしれない、と、ほんのりと可笑しくなることがあるのです。