月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

もっと旅の取材を!

2014-06-15 00:54:08 | 執筆のおしごと(主な執筆原稿、最近の公開できるもの記録)


(全述の「穴」から一転、
電話インタビューで書いた記事は校了へと進んでいる模様。ホッとした)

さて先週の今頃は巻頭の取材で、沖縄でした。





取材で飛行機に乗るのはホント久しぶり、めちゃくちゃ愉しかった。

もちろんプライベートで旅をしても愉しいのだけど、
スタッフや現地の人たちと一緒の取材旅行はなおさら好き、取材ということで、より掘り下げてモノが見れるし、聴けるし、
仕事柄いろいろなことを追求してもそれは価値として許される。

これが家族と一緒のプライベート旅行なら、
「またまた我が儘言って、さぁ行きましょう。早く、早く…!」って、追い立てられることもしばしば。


ともかく、雲の上に顔を出し、広い広い空を飛んだらいろんなことが吹っ切れた。
友人との行き違い、
昨年12月の後半からある事にずっーと心砕いてきたが、それも少しは晴れた。忘れていた。

必死でインタビューをして、リサーチし、毎日が青春、冒険。
あ、、、、本当に。無条件で。旅の取材というのはテンションが上がる。

沖縄のおばぁを、今回は2人も取材したのだが、大切なことを沢山教わった。
初日は、奥武島にわたり築150年の沖縄の伝統的な家屋に住んでいらっしゃるおばぁを取材。







チャーギの柱は銃弾の痕でえぐれた箇所がいくつも残り、
血の爪痕まで残る家屋で、実に飄々と笑って暮らしておられた。
沖縄のおばぁから戦争の話を聴くのは痛い。けれど、おばぁにとってはそれも青春。過ぎ去った一場面に過ぎない。
それほど、沖縄の人は深い信仰と精霊に守られて住まわれている。
先祖を敬い、神を信じ、その魂とともに生きる沖縄の人々。
家庭を守る神は、ヒヌカン(火の神)で、祀るのは家庭の主婦や母の仕事なのだという。



夜は12時近くまで泡盛を飲んで、琉球料理ばかり食べて











牧志公設市場を見てまわって











氷ぜんざいを食べ、スイーツを撮影し、那覇の街を歩いて、沖縄民謡を聞いて…








それから50年にわたって琉球料理を教えるおばぁに会いにいった。
料理を6品も作り方を教えていただいた後で、ぬちぐすい(食は命の薬)というテーマで話しを聞く。


今度はサンサンと照りつける陽射しのなかでビーチの撮影。




日傘もささず、あっけらかんとした、しわくちゃの笑顔で何時間でも白砂のビーチに立っていただいた。私達のほうがついつい日陰を探そうとしていたほど。
おばぁの昔話しは、次から次へと泉のように湧いてきて、尽きることがない。
ともかくマイペースである。インタビューに答えるというよりは、私達との話のなかで共通項を見つけては
そこから、突拍子もなく話しに入って、聞いているのかいないのか。やがては自分の物語へとスッと変えていかれる。強く、たくましい、自然体なのが沖縄のおばぁだ。

いい加減なのに、あったかい。
ゆるりとした空気のなかで聞く沖縄ことば(ウチナーグチ)がほっこりと優しく、こだまする。

おばぁやおじぃが元気な街というのは、素晴らしい。



初めて沖縄に神様が降り立ったという琉球八社のひとつ「波の上宮」へも参拝。





ヒルトンホテルがオープン間近な北茶のリゾートや
アメリカンビレッジにも足を延ばす。




現地の方からもアメリカ人、中国人との距離の取り方や
本当は現地の人が「普天間」問題のことをどう考えているのかも、聞くことができた。
私達が想像する以上に、沖縄はアメリカ人たちと一体で暮らされているのだと感じた。
アメリカが沖縄にすっかり溶け込んでいる。人も食も考え方も。
ある意味、沖縄の人たちはアメリカという国民性に救われているし、影響を受けて生きている人も多いと知った。

(たまたま同行した人達がそうだったのかもしれないが)


日本とアジア文化、アメリカ文化がチャンプルー(ごちゃ混ぜ)になり、そこに生まれたのが、沖縄独特の文化。
だからこそ、暮らす人々も大らかで細かいところを気にしない。

だけど、小さな国や小さな島というのはなぜ、神様との位置が近いんだろう。
今回、神様の使いとして話し、祈祷するゆたと呼ばれるおばぁにも同行していただいたので、
そんなことも、ふと考える。
日本は、戦前、神の国といわれてきたのだ。当時に比べると失っているものも、多いに違いないなぁとか。
いろいろなことをざわざわと、感じてかえってきた。


ともあれ
旅をして人を取材して、現地の味を訪ね歩いて、風景に酔いしれて。そしてそれを再び再現するために書くことができるナンテ、幸福なこと。
旅が終わってからも、お愉しみは続くのだ。
帰ってから記事を書く段になっても、テンションは高いまま。

それくらいのネタ(収穫)は十分にあった。

しかし、記事を書くのはあまり幸せいっぱいでは、危険なのである。
細部を粘り強く洞察するうえでは、テンションは不要。
冷静かつ真摯に。職人のように落ち着いていなければ良いものはできない。
私はそういう時にはじぶんをいつも叱咤する。
いい加減にしなさい、調子に乗りすぎるのは止めなさい。目をさましなさい。

そう、人に諭される前に自分で自分を諭す。
もう長いこと自分とつき合ってきたのだから、性格はよく熟知しているのだ。
私はすぐに浮かれすぎるから。
取り急ぎ、取材後5日で入稿スミ。

あとはデザイナーさんとのやりとりをして、一緒に作り上げる作業である。初稿はひとまず終えた。巻頭以外のページは早いものだ。



今は別件のコピー作業に移っているが、
しかし、旅の仕事はやっぱりいいな。
好きなんだなーーと冷静に思う。無心になっている自分をみてそう気付く。

そういえば、大学を出て初めて勤務した会社が
沖縄の仕事をメインにしていらして、コーラルウェイという本島から離島にわたる「南西航空」の機内誌を作っている会社だった。

空港バスに搭載するアテンションもその頃よく原稿を書かせてもらった。
そうか、就職してすぐの立ち上がりが「沖縄」から始まったのだから、それであんなに現地の人々との人情味に燃えて、懐かしかったのかもしれない。
入社して1カ月たらずで、3週間くらい沖縄行っていたものねーーー。
ホテル日航八重山(当時は南西グランドホテルという名前)の朝食や夕食に飽きて、石垣島の八重山そばを何日間も食べ続けていたっけ。

一度ゆっくり離島に滞在したい。あの降るような星空は今も見えるのだろうか。
空に穴があいているのかと思うほど、流れ星がいっせいに降りそそいできた時は奇跡をみているようだった。

あの頃、まだ世間がとてつもなく狭かった
20数年前の自分と比べるとどうかな。性格やモノの考え方は基本的には変わっていないけれど、
少しは自信がもてるようになったかしらね。

そろそろ、原点に立ち戻り
仕切り直しの時期にきているのかも。