それは、不意の事故だった。あまりに不意をつかれた感じだ。
ある5月の夕方。母の家からの帰り、憑きものがとれたほどに、わたしの心は清らかな水のようで自由な心持ちだった。西宮の自宅へ帰ってきながら、途中で買い物を2軒もはしごし、五分づき米にフルーツや野菜や山菜や、百日鶏やらを買い、夕ご飯は9時までに準備して、ゆっくり純米吟醸の「香住鶴」を飲み、食事をする。
確か、メニューは、宇和島のタイの刺身、タケノコのおかか煮、百日鶏のレバー煮込み、クレソンと芹のサラダなど。だったはずだ。
家人との団らんもたっぷりして、さあ、お楽しみの風呂読書といきましょうと、意気揚々と一冊の本をもって向かう。あ、父の三十三回忌の記録を書いておくのもいいわね、などと手探りで真っ暗な寝室へ行き、鏡台の上にのっている黒い顔のポメラを取ろうした時、事件勃発!
暗がりの中、(機嫌のいい時に)眼をらんらんと輝かせて歩くのはわたしの悪い癖だが、足元にスーツケースをまだ広げたままにしているとは、すっかり失念していた。
走り込んだわたしの脚は、スーツケースにつまずき、そのまま自分の体重のかかるもの凄い力で、顔面から対物に突進して、さらに突き飛ばされた。
「う、うっ」
ベッドに頭とも、眼ともわからず、押さえて倒れこむ。ううっ。なにが起こったのか、一瞬、時間が宙に浮いた。そんなはずないわ……と思いながら、痛くて、うずくまり、無音の声をあげた。
しばらく倒れ込んでいた。がここで、死んではならぬと這うようにリビングへ行く。と、家人は、台所で洗い物をしてくれていて、声にならない声で呼ぶ。
「お、お前。なんや血だらけやんか。おい大丈夫か」
と駆け寄る家人の声が、震えて泣いているかと思うほど掠れていたので、焦りの声からわたしは、緊急事態だと完全に察知しないわけにはいかなかった。
「氷、はやく。水素吸入、はやくして」と家人に指示を出し、ソファに仰向けになる。
30分くらいそうしてじっと動かなかった。じんじんと目が熱い。真っ黒な太陽が燃えているみたいだ。か、顔……なのだ。頭と顔がこんなに痛いなんて普通じゃあない。目の上にのせた氷が冷たくて、わけがわからない。半ば、しばらく呆然としたあと、がっくりし、もう早く寝よ、寝たい。寝て、朝になって落ち着きたいなどと思う。
救急箱をひっくり返して、血で赤く染まった絨毯や服や、ベッド周辺を拭いてまわる。どうやら、わたしの歩いた足跡には、点、点、点と滲んだ赤黒い血痕ができていたらしい。家人の心が動揺し、慌てふためているのがわかった。そっと横顔をのぞいてみると、涙が光っているのがみえた。彼の膿んだ表情に、わたしも動揺した。
これは想像よりも悪い展開のような気がする。なぜーー。一昨日は父の三十三回忌で上機嫌のうちに、身内と親睦を交わし、さあこれからと腕まくりをしたはずではなかったか。惜しいなぁ。いつも惜しいんだなぁ。上機嫌の時の自分は。などと胸のなかでつぶやく。
「あかん、割れとる。救急で病院いくぞ」という、家人のその声で、覚悟した。
コロナ患者で闘病する市立病院である。あらかじめ、家人が電話で状態を話していたので、救急に外科医がつめてくれていた。
10分後。はるか7年前の手術室を思わせる大きなまるい電気が煌々と光る中に、わたしは仰向けに寝かされる。眉間よりやや右側、どちらかというと眉あたりの位置に。稲妻のような縦方向の裂傷が。傷口は3〜4センチ。ぱっかりと皮膚が割れていたらしい(ちょうどこの位置に薄いほくろがある)。眼の上のまぶたが変色しているという。
「これは深いですな。縫うのが妥当ですが、顔の中央だからかなり難しいです。医療用テープでつくかどうか。血も完全には止まっていないし……」
当直でつめていた医師は、この4月から赴任してきたばかりで、長野健太郎医師という外科医だとあとで分かった。痛みをこらえ、若い医師を盗みみると、患者に同情をよせるような、おどおどとする自信なげな様子が、彼の目の動きからわかった。それでも、あまりに少年みたいな澄んだ瞳でのぞきこまれて、ドキッとした。それからすっかり信頼を寄せる。
結局は消毒と、医療用テープと包帯とでぐるぐるに顔を包まれ、この日の処置は深夜3時にようやく終える。
気がつけば、車の後部座席だった。湿気のある車のフロントガラス越しに、見慣れた長治郎の看板やTSUTAYAのあかりがみえた。いつもの、よく知っている道路の景色に、とても心がやすらぐ。よかった。これで日常に戻れる。そう思った。
帰宅し、ベッドで寝ようと上をむいても横をむいても、痛みのなかで、体がほてって眠れない。おそらくまだ興奮しているのだろう。処置室で、診察前に測ったわたしの体温はいつもより6度ほど高く、しかも血圧は上150、下110と、普段の平均からかなり高めの数字だったのだ。起きて洗面所に何度かうがいをしにいくが(病院でのコロナ感染が心配だった)、わたしはまさにカーッと頭に血がのぼっていた状態だったのだ。
朝方になって、ようやく、少し眠れた。7時。家人がこしらてくれたお粥をたべて、ほっと落ち着くと、ナントそれから延々翌日の、夕方5時半まで眠り続けた。
「行くよ。お大事に」そう、うつつの中で聞こえた気がしたが、家人は予定通りに徳島の県博まで出張へ行ったのだろう。
月曜、火曜、水曜日の午前まで、朝に夕に、コンコンと眠り続けた。
途中、職場のクライアントから、「取材取り消しするの? 大丈夫?」という電話をもらったのと、1本、火曜日朝に提出する案件があったので、机に張り付いて、朦朧とテープ起こしをしたものの、原稿までは無理で。メール2本と休日前に仕上げていた原稿をまわしたほかは、ほとんど寝っていた。
そして今日、5月12日(水曜日)。ようやく昼間、起きていられるまでになった。午後。今月も定期の刊行物でタッグを組むデザイナー女子が
「寝た方がいいのよ。外傷や内蔵や、体の具合がわるいとなんぼでも眠れるの。人間だって動物だからね、そういう風にして再生しようと体が求めているのよ。まだいいから寝て」と受話器のむこうから声が聞こえた。
考えてみると、3月末くらいから調子があまりよくなかった。わがマンションは大規模修繕工事のため、リビングも仕事部屋も、暗幕のような網で家全体が覆われているうえ、それがお葬式みたいで。リビングはもちろん、仕事部屋も、風呂場もすべて窓は開かず、この頃は乳白色のぺらぺらの脂紙で目隠しをされていた。まるでわたし自身が眼を潰されているようで、せつない。なんといっても初夏の浮き立つような採光も眩しい緑光もとれないのだから。がっかりである。おまけにこの塩梅だ。
もそもそと起き出して昼3時。久しぶりに台所に立って、じゃがいもとたまねぎ、にんじんと鶏肉と炊いて、サラダと、ちりめんじゃこと海苔で、つつましく一人っきりの食事をした。食べられるわ。それだけで猛烈にうれしかった。
あいにく、外は雨のようだ。玄関側のガラス窓を小さくそーっとあけると(唯一、窓が開く部屋だ)、ケヤキの葉がゆっさゆっさ揺れて、雨に濡れた土と植物と生き物の匂いが、だんだん部屋へ流れ込んでくるのがわかる。
わたしは、思わず普段は脚をおろすベッドの方側に、ごろんとそのまま倒れ込み、頭を窓のほうへ落として、存分に、自然の風のにおいをかぎ、雨の音を感じとった。そのまま5分ほど過ごす、外の世界だ。わたしはシーン自然のなかに同化したように、思った。
タタタ、急に勢いよく走るや冷蔵庫を思いっきり開けて、明るい黄色のタイ産ゴールデンマンゴーを手に取ると、薄い皮を全てきれいにむいてボート型にして皿の上にのせた。寝室に戻ると、ちょこんと少しだけベッドの上に尻をのせて、スプーンで豪快に果実をつきさし、べとべとの果汁を、手の外面にたら〜り、たらーり、たらしながら、滴るようなマンゴーを味わった。甘い黄金の果汁が、全身に深くしみわたる。弾けるような気分だった。頭、大丈夫か。原稿、書けるのだろうか……。でも、ちゃんと感じられた、自然を。
わたしは、もうはじめて、眼を覚ました動物の子供のように、無邪気に、エネルギッシュに、うまいマンゴーを存分に腹におさめた。しっとり雨の匂いを感じながら。
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