つぎに薔薇の花が姿を現すのは、
文華秀麗集((818年に、嵯峨天皇の勅命により編纂された勅撰漢詩集)の中で、814年に詠まれたこの歌の中です。淳和天皇作
此院由来人事少 此の院由来もとより人事少まれらなり
況乎水竹毎成閑 況むや水竹毎つねに閑を成すをや
送春薔棘珊瑚色 春を送る薔棘(しょうきょく)珊瑚の色
迎夏巌苔玳瑁斑 夏を迎ふる巌苔(がんたい)玳瑁(たいまい)の斑
避景追風長松下 景を避けて風を追う長松の下
提琴搗茗老梧間 琴を提(ささげて)茗(めい)を搗く老梧の間
知貪鸞駕忘囂処 知りぬ鸞駕(らんが)囂(ごう)を忘るる処を貪りたまふことを
日落西山不解還 日は西山に落つるも還らむことを解らず
( 閑院は世間との交渉が少なく、池際に植栽された竹が閑静な趣を醸し出している。春が去り、イバラの棘は赤く、夏を迎える巌の苔はウミガメの甲羅のように斑になっている。暑い日差しを避けて、風が通る大きい松の下に行き、アオギリの間で琴を提げて、茶の芽を搗く。閑静な院で充分に楽しむことを知り、日が落ちたのにも気づかない。)
上の絵のようにコウシンバラには棘がほとんどありません。
https://kobehana.at.webry.info/upload/detail/013/462/44/N000/000/020/140274955634771983228_miyakohikukipuro657.jpg.html から貴重な写真を引用させていただきました。
イバラの棘は赤く、鋭くとがっています。貴族の館であっても、コウシンバラを植えているとは限らないようです。イヤイヤそう断言するのは一寸早計かも。『本草図譜』(後述)にはコウシンバラに赤い棘がしっかりと描かれています。結論は先送りになりそうです。
菅家文草 菅原道真の漢詩文集。12巻。900年作から
巻第五418 感殿前薔薇、一絶。[東宮。]
相遇因縁得立身 花開不競百花春
薔薇汝是應妖鬼 適有看來悩殺人
(因縁に相遇ひて身を立つること得たり 花開くも百花の春に競はず
薔薇汝は是れ妖鬼なるべし たまたま看來ること有れば人を悩殺す)
897年菅原道真の作
【語釈】悩殺 殺は助辞で(悩ませる)の意を強調する語で、“非常に悩ましい“の意。
古今和歌集(912)巻十、物名の中に一句ありました。
さうび
436 我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものと言ふべかりけり
つらゆき
(我は今朝、初めて見たぞ、花の色を、色っぽいものと言うべきだなあ。)という意味で、今朝とさうひ(薔薇)、あだなるものに花(とひと)のはかない盛りをかけて詠んだというのが普通の解釈でしょうが、この句の解釈はどうにも腑に落ちません。
紀貫之(866/872-945/6/30)は日本語の祖ともいうべき人物です。少なくとも私はそう思っています。そういう人物が詠む歌にしては、この歌をそのまま受け流すことは「あまりにも“軽”過ぎる 」という印象を受けます。
「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と言って後世に大きな影響を与えた方です。この歌は古今和歌集の中に自らが撰んだ歌です。朝帰りの女宅の前で詠んだ歌ではないはずです。古今和歌集の編纂は醍醐天皇の勅命により貫之が中心となって行った国家事業です。ただの歌ではないはずです。この歌に込められた思いとは何?でしょう。
これを解くにはこの頃に詠まれていた漢詩に注目すると答えが浮かび上がってきます。
今までにこのブログで取り上げた日本の漢詩をみると“白居易”の詩に多くの影響を受けていることに気付きます。ここで取り上げた今までの漢詩の中にも、もちろん源氏物語や枕草子の中にも彼の詩が読み込まれています。なぜ彼はこんなにも日本人の心を揺さぶったのでしょう。白居易の歌を一首引用しておきます。この時代の日本人がよく知っていた歌です。色んなところで見ることが出来ます。
白氏文集卷十七 薔薇正開、春酒初熟。因招劉十九・張大・崔二十四同飮(薔薇正に開き、春酒初めて熟す。因りて劉十九・張大・崔二十四を招きて同(ともに)に飲む)
甕頭竹葉經春熟 甕(もたひ)の頭(ほとり)の竹葉(ちくえふ)は春を経て熟し
階底薔薇入夏開 階(はし)の底(もと)の薔薇(そうび)は夏に入りて開く似火淺深紅壓架 火に似て浅深(しんせん)紅は架を圧し
如餳氣味綠粘台 飴の如き気味緑は台に粘る
試將詩句相招去 試みに詩句を将(もっ)て相招(あいしょう)去(きょ)せん
儻有風情或可來 儻(も)風情有らば或いは来るべし
明日早花應更好 明日早花(そうか)応(まさ)に更に好(よ)かるべし
心期同醉卯時盃 心に期す同(とも)に卯時(ぼうじ)の盃に酔わんことを
白居易
甕のほとりの竹の葉が緑を増したように、甕の中の酒は春を経て熟し、
階(きざはし)のもとの薔薇は夏に入って開いた。
花は火に似て浅く深く紅に燃え、棚を圧するように咲いている。
酒は飴のように濃厚な風味で、その緑は甕を溢れ台に粘り付いている。
試みに詩句で以て客を招待してみよう。
もし情趣深ければ、あるいは訪ねてくれる人もあろう。
明朝の花は今日より更に美しいに違いない。
願わくば、共に朝酒の盃を交わし酔わんことを。
【語釈】◇竹葉 文字通り竹の葉を指すと共に、酒の異称でもある。和歌の掛詞の技法に同じ。◇早花 早朝に咲く花。◇卯時盃 卯時(午前六時頃)に飲む酒。
http://yamatouta.asablo.jp/blog/2010/05/13/5084612 から引用させていただきました。
「四季折々の風物を移りゆく季節のなかに眺める一方、人生の短さを表現する歌が多いこと。雪月花が主題となっている歌が多いこと。平安貴族と同じ仏教徒であるとともに風流人であり、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁の精神の理解者であること。」等が白居易(772/2/28-846/9/8)が貴族達に受け入れられた要因でしょう。上の歌を読むとそのことが判ります。時代が近いことも共感を得られた要因の一つでしょう。
『菅家文草(菅原道真の漢詩文集。12巻。900/8、自ら編纂(へんさん)して醍醐天皇に献呈した)』の巻五に「薔薇」895年初夏.という詩があります。
薔薇
一種薔薇架 芳花次第開
色追膏雨染 香趁景風來
數動詩人筆 頻傾醉客杯
愛看腸欲斷 日落不言廻
一じ種薔薇の架 芳しき花次第に開く
色は膏雨に追いて染まる 香は景風を趁ひて来る
数詩人の筆を動かす 頻に酔客の杯を傾けしむ
愛して看て腸断たたむとす 日落つるまで廻らむことを言わず
【語釈】◇一種 同じ種の。◇膏雨 滋雨。◇景風 初夏に吹く風。◇趁ひて 追いて。◇廻 帰る。
3,4句には薔薇を相手に、薔薇の花と対峙する様が詠われています。菅原道真((845/8/1-903/3/26)は中国の詩人白居易の歌に表現された無常観をふまえた上でこの歌を作ったと思われます。貫之は、当然白居易の歌を知っていただろうし、貫之自身も同じ気持ちで中国の漢詩を読み、薔薇の花を見ていたと思われます。貫之の歌は、薔薇の花に人格を投影して花を見ることが、歌の宴のその場に居合わせた貴族達の共通の認識の上で歌われた歌であったと思われます。「我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものと言ふべかりけり」は、薔薇の花を(薔薇の花は移ろいやすいものだけれど、それは美しいものだった)と純粋に歌ったものです。和歌が漢詩から脱皮した時代の瞬間を、この歌から感じることが出来ます。
コウシンバラ https://blog.goo.ne.jp/rocky63/e/03b52899d80d1ef866f9c8f01e1ed8d5
コウシンバラは白から薄いピンク、赤と変化に富んでいます。貫之が言うところの“ 艶めかしい花の色とは ”おそらく中国からの渡りものの薔薇、コウシンバラでしょう。道真が目にした薔薇もこのような色だったのではと想像します。「香は景風を趁ひて来る」ということですからいい香りであったと思われます。
和名類聚抄(931-938年に作られた、万葉仮名で読みを付けた辞書で、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂)
巻二十 草木部「薔薇[営実附]」から
本草云薔薇一名墻蘼[音微今案薇蘼通]陶隠居注云営実[和名無波良乃美]薔薇子也
(本草に云はく、薔薇は一名墻蘼、[シャクビ;シャクは垣根の意]陶隠居の注に云はく営実[和名むはらのみ]は薔薇の子なり)
竹取物語(9世紀後半から10世紀前半)の中には薔薇は見当たりませんでした。出てきそうな雰囲気はしますが。
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