長崎は、やはり雨だった。
神戸空港から、長崎へ。スカイマークで56分。神戸空港と同じく、海の上にある長崎空港に降り立つと、移動していないかの印象。
空も、たまに晴れ間がのぞく曇り空。
ところが、空も大地も関西とは異なる姿を見せ始める。
坂の多さと、山と海が真近に迫る地形には共通点があるものの、同じペットボトルでも中味はコーラとブラックコーヒーかのごとく、その雰囲気は異なる。
全体を通して、曇り空から始まり、晴れ間、小雨、雹までと不可思議な空模様。その場所、場所で、思い出したように姿を見せる太陽よりのハレーションは、歓迎と拒絶を繰り返す、天よりの啓示を暗示するかのようでした。
今回の巡礼をコーディネイトしてくださった、長崎在住のライター、下妻さんのお話をお聞きしながら、最初に向かった先は、華嶽山 春徳寺。山門の脇に、「トードス・オス・サントス教会 コレジョセミナリオ跡」の碑がが立っています。春徳寺については、最後の脚注をご参照ください。
トードス・オス・サントス教会跡(長崎県指定史跡)
1549年(天文18年)8月15日、ポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、日本にキリスト教を伝えました。翌1550年、ザビエルは平戸藩主松浦隆信に招かれ、平戸で布教を行い、約100人の信者が。
そのころ、長崎は大村純忠の領地で、その家臣長崎甚左衛門純景の居城・桜馬場城と城下村がこの一帯にあり、現在の桜町から江戸町まで伸びた長い岬は、長崎と呼ばれていたそうです。
この山手に、東海の墓(長崎県指定有形文化財)と長崎奉行土屋駿河守の墓 があります。東海家累代の墓。長崎における、中国式墳墓の代表的なもの。 東海家は2代東海徳左衛門から10代にわたって唐通事を務められたとか。
所縁をお聞きし、そのお墓の形状を見るに、本土とは違いがはっきり。沖縄や中国の影響が色濃く出ており、墓を囲む塀のような形状、その墓石に彫ってある家紋や戒名はすべて金字です。沖縄にみられる家のような形。道教の影響が感じられるとは釈先生のお話。先祖を弔い、墓のサークルの中で酒盛りや宴をおこなったりするそうです。
そのあと、「トッポ水」の上に建っているのが第29番札所の「夫婦川観音堂」で創建は1679年という歴史ある観音堂です。長崎にも、巡礼のお遍路が存在することを初めて知りました。
観音堂の言い伝えでは「トッポ水」は昔夫婦川郷一帯が水不足で困っていたとき、観世音菩薩に祈願したところ清水が湧き出したといわれているそうです。
続いて、「紅灯記」にて本場の長崎ちゃんぽんの昼食後、1日目のハイライト、日本二十六聖人の記念館。
1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で処刑された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであったそう。この出来事は「二十六聖人の殉教」と呼ばれ、26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたのです。
二十六聖人のレリーフは舟越保武の制作によるもの。
日本二十六聖人記念館は、長崎県長崎市にある、日本二十六聖人の顕彰を目的としてカトリック教会によって設立された博物館。中央ブルーグリーンのジャケットが、下妻さん。
アントニ・ガウディを模した建造物、 設計者は、今井兼次氏。
所縁の展示物が、たくさん保存されています。
ブルーの光は、背後のステンドグラスから
長崎出島にて、処刑がおこなわれた際の模様が描かれた絵画 ↑
対岸や、海上から見守る4000名の人々に、悲しみの様子が見てとれ、聖人たちとのコントラストが・・。
26人のうち、日本人は、12歳の少年ルドビコ茨木を含め20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性。この時代に、大海を渡り、辺境の地で布教活動の果てに殉教。
いまの時代なら、ロケットに乗り、月や火星に向かうような一大事業だと。
その想いの深さたるや・・
キリシタン時代、「ミゼリコルディアの組」という慈善事業団体の本部があった場所を経由、原爆にて破壊された日本最大規模のカトリック教会である、浦上天主堂へ。
そこから徒歩にて、原爆落下中心地。
原爆資料館は素通りし、バス移動して大浦天主堂へ。メジャーな場所は、割愛しての超コアな旅。
ここで、雨が本降りになり、一同びしょぬれに。
この坂の奥左手にあります ↑
表に出て、バスにたどり着きますと見事な虹が。
後で書かせていただきますが、今回、何度も虹がでる不可思議な天候。
身体が急激に冷え込んで、やっとの思いで宿泊地、「やすらぎ伊王島」へチェックイン。
内田先生のご配慮で、露天風呂もある温泉にて一風呂浴びてからの、釈先生、内田先生の法話と対談。
「日本人による比較宗教論」と題したテキストを基に、釈先生の法話。
3名の天才、空海(774~835?)、不千斎ハビアン(1565~1621)、富永仲基(1715~1746)のそれぞれの著作と主張を解説していただきました。
・宗教は、世界の始まりから終わりまでを語ろうとするものである。
・反証可能性がない。
・キリスト教を相対化することで近代の歴史が生まれた。
いつの時代にも全体を俯瞰できる天才が存在し、体系的に論じ、比較することでそれぞれの立脚点を明確にし、他宗教(仏教、儒教、道教、神道、キリスト教)との比較を行った。そこに垣間見える苦悩と覚悟を学ぶと、人間という存在がいとおしく感じられると・・。
内田先生からも、たくさんお話がありましたが最後のまとめにて書かせていただきます。
このあと、夕食と宴会。この翌日が誕生日ということで、湯川カナさん先導のもと、コーディネイターの下妻さんを祝い全員で、HAPPY BIRTHDAYの唄を合唱。それぞれの思いを会話にして、美味しい料理(伊勢海老の造りが美味!)とともに一日目の夜は更けていきました。
2日目は、枯松神社から黒崎教会、遠藤周作記念館を経て、エッジな大野教会、出津教会へとコアな旅は続きます。
あまりに深い内容のため、思うように考えがまとまりません。
後日、まとめにて書かせていただきます。
いつも、お読みいただき感謝しています。
◆春徳寺
臨済宗建仁寺派のお寺。1630年(寛永7年)、建仁寺三江紹益の法子泰室清安が長崎に来て、岩原郷(現立山町)に大梅山春徳寺を建立。1651年(慶安4年)、トードス・オス・サントス教会跡のこの地に移転、山号を華嶽山と改めました。本堂左手奥に、切利支丹井戸があります。
◆ハビアン
ハビアン[1](Fabian、1565年(永禄8年) - 1621年(元和7年1月))は、日本人のイエズス会修道士(イルマン)。後に棄教しキリスト教弾圧に協力した。キリシタンの受容と排斥を積極的に行ったこの時代の象徴的知識人。またキリスト教と他の宗教を比較した著作を残したことで注目される。[2]不干斎 巴鼻庵(ふかんさい はびあん)と号した。本名不詳。加賀国または越中国の生まれ。母ジョアンナは北政所(おね)の侍女となった。始めは大徳寺の禅僧で、恵俊または恵春と称したとされる。
1583年(天正11年)京都で母とともに受洗。高槻、大坂のセミナリヨで学び、1586年(天正14年)、修道士となってイエズス会に入会する。豊臣秀吉の伴天連追放令を逃れて山口、長崎、加津佐などを経て、天草のコレジオで日本語を教える。同地で『天草本平家物語』を編纂する。また自身の経験により『仏法』を著し、これより後はキリスト教を擁護し仏教を批判する論陣を張った。1603年(慶長8年)京都に戻る。1605年(慶長10年)、護教論書『妙貞問答』を著す。1606年(慶長11年)には林羅山と論争し、当時支持されつつあった地球球体説と地動説を主張した。
しかし1608年(慶長13年)、修道女と駆け落ちして棄教し、1614年(慶長19年)には長崎でキリシタン迫害に協力するに至った。晩年の1620年(元和6年)にはキリスト教批判書『破提宇子』(は・だいうす:デウスを破却する意)を著した。