遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

宮崎家の人々~#10「滔天・同盟会始動・内紛・民報の危機」

2024年05月26日 | 人物

【初の革命蜂起と孫文追放~1907/M40年】
前年12月、中国同盟会結成後の初の蜂起が湖南省などで起きる。
その反乱の中で使われた「中華民国」の国号に、清朝政府は震撼する。

"背後に日本の中国同盟会があり孫文がいる”
そう考えた清の政府は、日本政府に孫文追放を要請した。
孫文に利用価値を見ていた日本政府は、彼に資金を与え国外逃亡させる。
この仲介者として動いたのが内田良平・北一輝らの国家主義者。

左:内田良平()1874-1937) 右:北一輝(1833-1937) ~何れも社会運動家で国家主義者

 孫文はその後、広東省で現地勢力を組織して蜂起する。
 しかし事情を知らない北一輝らに妨害されて蜂起は失敗に終わった。
孫文は、"北らは大義の害虫、彼ら一味の日本人を二度と信用しない、
日本での同盟会の運動の全権を貴君に依頼する"と、滔天宛に書き送った。

同盟会内紛と民報発禁~1908/M41年】
仲間に何の相談もない孫文の独善的な行動を黄興らも憤った。
怒りは北らを介入させた日本政府にも向き、滔天は事態収拾に追われる。
しかし、孫文の不在が逆に幸いし、同盟会も民報も落着きを取り戻した。

そこに、政府から同盟会機関誌「民報」に発行禁止の命令が下される。
「民報」創刊号以来掲げる方針の一つである「劣悪政府の打倒」、
それが"無政府主義を扇動し、社会不安を齎す”ことが発禁の理由だという。

当時の「民報」編集・発行人は章炳麟。彼は内務大臣宛て3回抗議文を送る。
一方、滔天は知り合いの石川三四郎(※)に弁護団を編成し、裁判で争う。
1876/M29-1956/S31 無政府主義者だが日露・2次大戦も非戦を貫く。
何度も投獄され、この弁護団参加の半年前も1年間投獄されていた。


石川三四郎(左右とも) 社会運動家・アナーキスト・作家 

「民報」発禁も、清政府の要請で日本政府が動いたものである。
裁判は負けた。改めて「民報」発禁、発行人に罰金が科されて終わった。
しかし、滔天はこのことも予想していた。
彼は、1906/M36年に創刊した「革命評論」にこう書いている。

”当局者・政治家・教員・商人・・・略・・・掏摸・窃盗・淫売婦諸君よ。
諸君が日頃チャンコロと嘲笑・搾取する支那留学生らは新支那国の建設者。
彼らを侮辱すれば彼らからの侮辱を買う。侮辱の交換は闘争で終る。"

滔天らは当初、自分たちが主体になって蜂起を起こそうと考えていた。
が、この頃には我々は支援者・日本政府との仲介者、と考えを改めている。
けれど、その政府が帝国主義国として強大化し、民衆も尊大になってゆく。

植民地地域から排日運動が起きた原因もこの頃にある・・・と滔天は考える。
その後も、滔天は革命運動を支えてゆく。
だが、一方で反政府の想いも強まっていったのではないだろうか・・・.

今日はここまで。次回は石川三四郎に寄り道してみたい。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#9「滔天・二人の留学生」

2024年05月25日 | 人物

日清・日露戦争に勝利、列強の仲間入りした日本政府。
そこに清政府から「中国同盟会」取締りの要請が来る。
数人のリーダーを除けば、清からの留学生が同盟会の殆どを占める。
そこで文部省は、「清国留学生取締規則」を公布した。(1905/M38年11月)

"学校の寄宿舎・指定下宿に住まわせ、学校外での行動を取り締まる事"
"素行不良で退学させられた学生は、他の学校には入学させないこと"
留学生たちが特に反発したのがこの2点である。
役人得意の言葉使いが丸見え、革命運動も素行不良だと学生が考えて当然!

留学生たちは各学校一斉に同盟休校に入って抗議デモをする。
実践女子大留学中の秋瑾女史は、留学生会館で学生たちに演説。
”自由の権利を保障しない国にいる価値は無い! 全員、帰国しよう!”
2千人ほどが帰国したというが、秋瑾自身も翌月帰国した。

 秋瑾(しゅうきん) 1875/M08ー1907M40 

こうした行動を、マスコミは非難と揶揄混じりに報じた。
"清国の留学生は省令を余り狭義に解釈したのである
また、清国人の特有性である放縦卑劣のために団結も薄弱である"

この、清国人を放縦卑劣と書くマスコミの神経もよくわからない。
もっとも今のマスコミも何一つ本質は変わっていないが・・・

さて、省令公布とマスコミ報道に悲嘆、自殺した留学生もいた。
その名は陳天華。
 
陳天華(ちん・てんか) 1875/M08-1905/M28

彼は法政大学に留学中の学生。来日前から黄興、宋教仁らと知合う。
留学中は、中国同盟会や民報社の中枢メンバーとして活躍中。
その彼が、マスコミ報道のあった日に、大森海岸で抗議の入水自殺をした。

リスト最後の「絶命書」には、革命の心構えとして、
”責任感を持て"と"外国を頼るな"と書いてあるそうだ。
滔天も、"革命とは?”、と何度も何度も自問した事だろう。
その彼なら、もう一つ書き加えるかもしれない・・・”義侠心を持て!”

今日はここまで。それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#8「滔天・革命前夜と民報社の時代」

2024年05月24日 | 人物
1904/M37年 滔天34歳
日露戦争開戦。(満州・朝鮮の所有を巡る戦争、ポーツマス条約で翌年講和)
政府内でも開戦派と非戦派の対立があったが、結局は開戦となった。
滔天は最後まで非戦の意志を貫いた。
この年、清国での蜂起失敗、日本亡命した黄興(32歳)と出会い意気投合。
また、「自由演芸会」に参加し、浪花節の修業と興行を続ける。


「自由演芸会」 左:伊藤痴遊(講釈師・政治家・ジャーナリスト)
右:一心亭辰雄(浪曲師 ) ~のち服部伸と改名し講談師となる

年末、彼の浪曲を聞いた石川三四郎(※)が「平民新聞」にこう書く。
"浮世が儘になるならば乞食に絹のきもの着せ、車夫や馬丁を馬に乗せ・・・
芸は上手くないが、往年の意気を浪花節に隠すかと同情に耐えなかった"
滔天はその石川を訪ねて行き、知りたかった孫文の所在を知り手紙を書く。

日露開戦反対・非戦派の「平民社」(幸徳秋水・堺利彦が設立)の社会活動家



1905/M38年 滔天35歳
槌と子供ら(龍介・震作・節)が上京。
滔天は新宿番衆町(現・新宿5丁目)に家を借り、一家で住む。
孫文が日本へ戻り、滔天を介して黄興らと会い「中国同盟会」設立
機関誌「民報」の発行人に滔天がなり、編集は黄興・宋教仁らが行った。

「民報社」には、同盟会メンバーや中国人留学生らが多く集まった。
そこで、槌の姉の卓に彼らの世話を頼むことにした。卓は引き受け、
「民報のおばさん」として誰からも慕われたことは既に書いたので省略。
なお、当時の留学生は8千人ほど、女性も百人ほどいたという。


1906/M39年 滔天36歳
滔天ら革命評論社『革命評論』創刊。(同盟会内紛の影響で10号で休刊)

1907/M40年 滔天37歳
清朝政府から日本への圧力が強まり、孫文が離日してハノイへ行く。
同盟会の内紛(孫と黄ら若手の対立)が生じる。
孫文が滔天へ、在日中国同盟会の全権委任状を送る。
孫文は,この年、中国で4度武装蜂起するが、いずれも失敗する。
7月、女性解放を目指した秋瑾が政府軍に逮捕され処刑された。(31歳)

       
秋瑾の処刑を伝える絵 

滔天、9月から12月末まで、痴遊・辰雄らと西日本を浪花節巡業する。

1908/M41年 滔天38歳
宮崎一家生計苦しく貧窮、数度転居を繰り返す。
黄興の往来が頻繁になる。この年、清王朝の光緒帝・西太后相次ぎ死去。

1909/M42年 滔天39歳
 滔天、若手と一座を組み、中部・西日本巡業をする。(最後の地方巡業)
 母・佐喜が脳溢血で急逝する。(81歳)) 巡業先より帰省する。

 清王朝崩壊の足音が近づいて来るが、今日はここまで。
 それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#7「滔天・2足の草鞋の旅」

2024年05月23日 | 人物

桃中軒雲右衛門1873/M06ー1916/T05)     桃中軒牛右衛門(宮崎滔天)1871/M03-1922/T11


滔天、どのくらいの時期まで浪花節を語っていたのか。
調べてみたら、ほぼ死ぬまで革命と浪曲2足の草鞋を履いていた。
といっても、いつも雲右衛門一座と一緒ではない。
喧嘩別れしたり、仲直りしたり、滔天独自の看板を掲げたり・・・。

滔天の口演に対する新聞・雑誌の批評も、
異彩だが、浪花節の語りとしては発展途である”といったものから、
美音玲瓏、豪傑流有志派の余技とは思えず、満場喝采なりへと変化する。
また、浪曲による民権の普及という滔天の目論見も、
”髭面紳士が多かった客層に、労働者が増えて来た"と的外れでは無かった。

滔天自身は、自分の浪曲についてこんな述懐をしている。
”器用でフシは歌えるし、声もいいと思うが、啖呵をきれない。芸事は、
中年からでは駱駝が針の穴を通るより困難。子供の頃からやらないと。
もう一つ、田舎生まれで江戸弁ができない・・・この道で私は成功できない!”

とはいえ、滔天は筆が立つ。彼が作った浪曲の台本や随筆はかなり多い。
代表作を挙げると、「三十三年の夢」「慨世奇談/明治国姓爺」「天草四郎」等。

今日は文字を少なく、あとは動画を見てもらう。

上の動画を見ながら思った。
雲右衛門と牛右衛門・・・二人の確執と時代を絡めた映画を誰か作って・・・と。
それでは今日はここまで。
次回は、槌・卓・滔天・黄興らの視点を交えた「民報社」「辛亥革命」の予定。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#6「滔天・師匠と旅回り興行へ」

2024年05月22日 | 人物
   

1902/M35年3月
桃中軒雲右衛門の弟子となった桃中軒牛右衛門こと滔天。
師匠の家に居住し初稽古、師匠や弟子達が見守る中で、三味線が鳴り出す。
"親分頼むたのむの声さへ掛けりや、人の難儀を他処に見ぬてふ男伊達・・・"
と唸り始めようとするが、いつもは出て来る声が出て来ない。

師匠が酒を持って来させ、滔天、一気に飲み干すが出るのは冷や汗・・・。
よく考えてみたら、少年時代も大勢の人前では演説ができなかった。
つまり、滔天、大男ではあったが、実は生来の上がり症だったのである。
しかし、師匠はそんな滔天を見放さなかった。

その頃の雲右衛門は、まだそれほど売れていない浪花節語り。
滔天のほうがよほど名を知られ、その彼を上手く使えば大勢人が集まる筈。
というわけでしばらく稽古をした後、師匠は旅回りの興行に滔天を誘う。
その旅費を工面できないか、と師匠は滔天に頼む。

滔天は荒尾にいる槌に連絡、槌は自分の遺産を売って金を工面し上京した。
槌は言う。”夫を浪花節から身請けするためにこの金を持って来た"と。
しかし、口八丁の師匠、"立派なご主人を弟子に持って名誉です。
ご主人の遠大な志も知ってます。その活躍のためにもぜひ全国を回りたい"
と訴える雲右衛門に槌も屈した。

そこに孫文が訪ねて来て、事情を知って言う。
"君は芸人の天下を取り給え。われらの革命とどちらが早いか競争しよう"
そして、孫文は南方から欧米を回る数年間の旅に出た。

滔天の「三十三年の夢」は、雲右衛門の弟子となったところで終る。
この先はネットや他の本などから得た情報によって、要約記述する。

滔天、声は美声で大きかったというが、語りや節回しが下手。
それでもサマになって来たようなので、
8月、雲右衛門一座は、東海道を下る旅巡業に出た。槌もついてゆく。
革命の同志、浪曲の効果を自分の眼でも見たかったのかもしれない。
最初は横浜で興行 大雨続きもあって客は不入り。
滔天は槌を九州に返し、自分は「三十三年の夢」の出版があるので帰京する。

再び雲右衛門一座に戻り、各地で巡業興行。翌1903年には九州も回った。
福岡では、炭鉱王・伊藤伝右衛門の邸に招かれ、おひねりを貰ったという。
その妻・白蓮と滔天の長男龍介が駆落ちするのは、18年後のこと・・・。

【日露戦争~1904/M37年ー1905/M38年】
満州と朝鮮の領土を巡って日と露が戦う。滔天は書を借り戦争を非難する。
"国や国を私する君主や統領は勝手に戦え。だが市民が税金を払いながら
どうしてバカ狂言に与しなければならないのだ? 戦場で名誉の戦死など
と煽てて父母妻子を迷わすのは、惨の惨たるものではないのか"

このあと滔天は黄興と知合い、中国同盟の結成や民報社の設立を支援する
槌と子供らを東京に呼び寄せて新宿に暮らし、卓にも来て手伝ってもらう。
その傍ら、金を稼ぐことも忘れず、下手?な浪曲も続けてゆくのである。

今日は文字ばかりになってしまったが、ここまで。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]