遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

宮崎家の人々~#5「滔天・義和団事件と浪曲師転身!」

2024年05月21日 | 人物
義和団事件~八カ国連合軍(1900年)左から: 英・米・英領豪・英領印・独・仏・墺洪・伊・日 

義和団事件と孫文蜂起失敗~1900/M33年 30歳
清国各地で宣教師や基督教徒などの外国人排斥が起きる(義和団事件)。
これに乗じて孫文や滔天らも広東省恵州で武装蜂起する。
しかし途中で中止 調達した武器も届かず、仲介役の滔天も非難された。
また、清王朝が義和団を支え、列強8か国が連合軍を組んで清を攻撃した。

【義和団の強さは?】
日清戦争では脆かった清の強さに連合軍は手を焼いた。
滔天も考え、一つの結論に辿り着く。異民族支配への抵抗ではないか、と。
同胞が分割統治されれば抵抗する・・・列強の植民地統治の難しさでもある。
義和団事件は収束、欧米の各国は植民地の版図拡大の愚も悟る。 

・・・というようなことが滔天著「三十三年の夢」には書いてある。
(残念ながら、この作品は青空文庫では読めない。)


滔天・浪曲師になる~1901/M34年 31歳
暮れの或る日、「俺は浪花節かたりになる」と言い出して、槌を驚かす。
 もちろん、兄の民蔵も槌も必死で思いとどまらせようとした。
「孫さんと一緒に欧米に行き、革命の勉強や宣伝に努めたらいいでしょう」
「そうだ、槌さんのいうとおりだ」 しかし、滔天の決意は揺るがない。
「全国各地を興行して回って、資金の調達も同志集めも歌でやる」

翌日、滔天は槌を連れて寄席に行く。桃中軒雲右衛門の舞台だった。
もちろん、槌は聴くどころではなかったが、滔天は独り悦に入った。
彼は、浪曲を平民芸術と言い、客の彼らに権力への怒りや反抗を見出した。
そして、自分の喉と才能に自信も持ってもいた。

間もなく滔天は、弟子入りを頼みに桃中軒雲右衛門宅を訪れる。
名前もすでに自分で考えていた 桃中軒牛右衛門・・・。
デビュー作も用意した。それが上に掲げた「三十三年の夢」である。
準備万端、ところが師匠の前に出た彼は、自分でも思いがけない事を発見!

続きは明日にして今日はここまで。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#4「滔天・革命準備着々?」

2024年05月20日 | 人物

 ビゴーの戯画~朝鮮を狙う日・清・露の3国 (再掲)

【日清戦争始まる~1894/M27年7月】 滔天24歳
朝鮮での権益を巡り、朝鮮領土を戦場として日本と清国が戦かう。
滔天らの熊本でも第六師団が派兵され、戦争への熱狂が激しかった。
荒尾の実家では、滔天ら3兄弟が揃い、二男晋作も生まれていた。

彼らはこの戦争を冷めた目で観ていた。植民地主義の侵略戦争であり、
我々の意図する革命とはまるで違うと・・・。
そして、彼らは語学(中国語)の習得と自前の資金調達について相談する

革命の準備~1895/M28年 滔天25歳】 日清戦争4月終結
弥蔵は辮髪となり、横浜の中国商人の番頭として言葉と習慣を身につける。
滔天は、資金稼ぎ、移民事業会社に就職し、移民を引き連れてタイへ渡る。
・・・年末一時国する。
この年 孫文が初めて広州で挙兵、失敗して日本へ亡命する。

【再びタイへ~1896/M29年 滔天26歳】
滔天、再びタイへ行き農業に従事するが、熱病に罹り帰国。
兄の弥蔵、横浜で腸結核で死去。(30歳)

孫文と初めて会う~1897/M30年 滔天27歳】
横浜で孫文(孫逸仙 :31歳)と初会見。犬養毅に引き合わせ居住許可を得る。
孫を荒尾の生家に伴い二週間ほど滞在する。
~下の写真は1913年再訪時の写真~

中央左:孫文、右:滔天 最前列右からツチ、サキ、子供ら

ところで昨日の写真、誰の妻妾でしょう?

    
左:大月 馨~1902年より同棲、1904年結婚、1906年離婚
右:浅田 春~1897年に横浜で接待係として出会い、1901年に別れる

もう1枚ヒントです。

    
      左:宋 慶齢~1885年結婚、1915年離婚
      右:宋 慶齢~1915年に東京で結婚 その後不詳

孫文の妻妾たちでした。今日はここまで。
明日は、「中国同盟会」「民報社」だが、那美で一度取り上げている。
そこで、滔天が浪曲師になる話を予定する。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#3「滔天・槌との出会いと苦労」

2024年05月19日 | 人物
前田槌と宮崎滔天

【滔天、槌と出会う~1889/M22年 滔天18歳 槌17歳】 
 この年、滔天は舶来乞食のイサクと小天へ。
イサクが村の子に英語を教えたが、彼の奇矯な振舞いに誰も来なくなる。
その間、滔天は槌の虜になっていた。
姉の卓同様、武芸を嗜み、毎朝、裸馬に乗り砂浜を駆ける美貌の少女。
槌もまた弁舌爽やかで情熱的な大男に好感を抱く

父の案山子は二人の恋愛に反対したが、恋愛自由主義者のイサクが後押し。
縄梯子を用意し、2階の槌の部屋に滔天を忍び込ませる。
密かに二人は結婚の約束を交わした。

【中国革命への船出~1891/M24年】
荒尾に戻った滔天は、兄・弥蔵の考えで、清国に革命を起こそうとする。
成功すれば、植民地支配されたインド、タイ、ベトナム、フィリピン、
エジプトなどのアジア諸民族地域に拡がる・・・という目論見。
手始めに滔天が上海に赴いたが、旅費を盗まれて失敗に終わる。

【槌との結婚・出産~1892/M25年】
2人は結婚、荒尾に家を借りて住み、長男の龍介誕生。
滔天は革命運動のため奔走、家には殆ど居ず、槌が暮らしを支える。
下宿屋、縫い仕事・・・色々やったが、結核に罹り子らと小天に身を寄せた。
この後、1894(M27)年 二男震作誕生。<日清戦争1894~5年>
1897/(M30)年 長女節(セツ)誕生。

【兄・弥蔵の死~1896/M29年】 兄・弥蔵が病腸結核で死去(29歳)。

滔天の放蕩
革命運動の準備に奔走しながら、イサクの影響か、女性関係も派手だった。
・遊郭で遊び、花柳病にかかった。
・留香(るか?)という芸者に惚れこみ、その家に居続けた。
・愛人(柿沼とよ)と同棲して子供をつくった
卓なら当然別れているところだが、槌は耐え忍んで生涯沿い続けた。

今日はここまで。明日は革命運動の話に絞って、滔天らの動きを追う。
新しい女性も登場する。滔天の妻と妾ではありません、さて、誰でしょう?

妻と妾


それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#2「仕切り直し・宮崎兄弟のこと」

2024年05月18日 | 人物

宮崎家(熊本県荒尾市)~撮影時期不明

昨日から新しいシリーズ、いきなり滔天と舶来乞食から始めてしまった。
性急過ぎたので、宮崎兄弟の事、彼らの父母の事を簡単に書いておく。

父:宮崎政賢(長蔵)  細川藩・荒尾の郷士 1818/文政1-1879/M12 62歳没
 16歳で家督を継ぎ、武術に優れ、義侠心に富む人物と伝えられる 
母:左喜(サキ) 1827/文政10-1909/M42 82歳没
「畳の上に死するは男子何よりの恥」と子らに教え諭した女傑?

兄弟姉妹:父母に八男三女の子どもが生まれたが早逝の子(除く)も多く、
成人したうち八郎・民蔵・彌蔵・寅蔵(滔天)の4人が'宮崎4兄弟'と呼ばれる
◆八郎 社会活動家 1851/嘉永4ー1877/M10 27歳没
◇留茂(ルモ) 嫁ぐ 1855/安政2ー1934/S9
◇富美?(トミ) 嫁ぐ 1859/安政6ー1922/T11 
◆民蔵 社会活動家 1865/慶応1-1929/S3 64歳没 
 妻・美以(ミイ) 1873/M6ー1932/S7 69歳没・・・子供無し 
◆彌蔵 社会活動家 1867/慶応3ー1896/M29 30歳没

◆滔天 社会活動家・浪曲家 1870/M3ー1922/T11 53歳没
◇妻・槌(ツチ) 前田案山子の次女 1871/M4ー1942/S17 72歳没
 ◆子・龍介 編集者・社会活動家 1892/M25ー1971/S46 78歳没
  ◇妻・燁子(柳原白蓮)  歌人 1885/M18-1967S42 81歳没
◆孫・香織 学生 1923/T12ー1945/S20 23歳没(学徒出陣で戦没)
◇孫・蕗苳(ふき) 華道家・歌人 1925/T14ー2022/R4 96歳没
◆子・震作 1894/M27ー1936/S11 42歳没
◇子・節(セツ) 嫁ぐ 1897/M30ー1952/S27 54歳没
◇愛人・名不詳
◇子・リツ (滔天が二女として認知・・・母として槌を慕った)

後列左から民蔵、彌蔵、滔天 前列左から美以、左喜、槌

今日は宮崎家の家系整理に終始してしまった。
話が後先になってしまうが、槌と滔天との出逢い、その後の内助の苦労等を
次回に載せる予定。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

宮崎家の人々~#1「宮崎滔天~イサク・ベン・アブラヒムと出会う」

2024年05月17日 | 人物

 辛亥革命記念博物館 by cc4.0

今日から宮崎家のシリーズを始める。中心人物はやはり宮崎滔天だろう。
まずは、NDL「近代日本人の肖像」に載っている主な関係人物の紹介から。
その行動や交友の範囲は広いが、まずは若い頃の出会いから始める。

教会での出会い~1889/M22年 滔天18歳】
この頃、滔天は長崎市大浦の基督教学校に在学中。
或る日、滔天は出島の教会へ礼拝に行く。
そこで、油紙の合羽で裸足の、老齢の「舶来乞食」(滔天の言葉)と出会う。
「パンをくれ」と言う乞食に、宣教師は小銭を与える。
「君はこれを喰うのか。喰えるなら食って見せてくれ」

興味を惹かれた滔天は老人の住む廃屋を訪ねる。
名は「イサク・ベン・アブラヒム」、ヨーロッパから来たアナーキストだった。
「自然の外に宗教なく法律無く道徳無し」
「現社会を破壊して無政府の世界とし、私有権を無くして共有とする」
通貨・商売を廃し、物々交換の世紀に返し、世界を共夫共妻の一家とする」
「万民を農夫たらしめ太古の民に返す」・・・ほんとに過激!

イサクはスウェーデン生まれ、渡米して事業に成功、財産を貧民に分け、
近代文明に毒されない国を探して世界放浪、長崎に流れつく。
長崎では廃屋に住み、「鏡・鋏研ぎ師」としてその日暮らしを送っていた。

元祖ヒッピーのようなイサクに眼をつけたのが、長崎製糞社。
彼の徹底した思想と実践に感心し、彼を講師とする学校作りを思いつく。
そこで熊本の民権活動家の前田案山子の息子下学に声をかけ、彼も賛同。
滔天が通訳として小天へイサクへ連れて行くことになった。

小天でのイサク、畳敷きの部屋を拒否、家の中も裸足で歩き回る。
そこで、前田家の近くの農家を提供したが、便所の使用も拒否。
畑の一角を彼の野糞のために確保した。

差し当たっては村の子供達に、英語を教えることになった。
物珍しさも手伝い、最初は二十数人の子らが集まる。
その子らにもイサクが野糞を強要し、次第に寄り付かなくなった。

イサクの奇矯な振舞いはさておき、滔天はこの時、大恋愛をする。
その話は既にどこかで載せたが、次回、改めて新しい情報と共に紹介する。
それでは明日またお会いしましょう。
「Rosey]