書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

皇嘉門院別当

2010-07-19 08:03:03 | Weblog
難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ 身をつくしてや 恋わたるべき

難波の入江の芦の切り株の一節のような旅の一夜の短い契りを交わしてしまったばっかりに、
生涯貴方を恋い続けるのです、これが私の定めなの。    

皇嘉門院別当(?~?)。
村上源氏、大納言師忠の曾孫。正五位下太皇太后宮亮源俊隆の娘。
崇徳天皇の中宮皇嘉門院藤原聖子(藤原忠通の娘)に仕えた。
皇嘉門院崩御の折にはすでに出家の身であった。
皇嘉門院聖子が右大臣藤原兼実の姉であることから「右大臣兼実家歌合」や「右大臣家百首」など、
兼実が関係する歌合せなどに出詠、「千載和歌集」他の勅撰和歌集にも入集されている。

寂蓮法師

2010-07-18 08:50:40 | Weblog
村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

さっと通り過ぎた村雨が残した露がまだ乾ききっていな い木の葉のあたりにはもう霧がたちのぼっている。 ものさびしい秋の夕暮れだなぁ。

寂蓮法師(1139?~1202)
藤原氏北家長家流、阿闍梨俊海の子。母は未詳。おじ俊成の猶子となるが俊成に実子定家が生まれたのを機に30歳代で出家。
御子左家の中心歌人として活躍多くの歌合せなどで名を馳せ、定家・良経・家隆ら新風歌人と競った。
「新古今和歌集」の編者となるが完成前に没する。

西行法師

2010-07-17 09:17:50 | Weblog
嘆けとて 月やは物を 思はする かこちがほなる 我が涙かな 

月を眺めていると恋しいあのお方のことがしきりに想い出されて涙が零れ落ちてしまうのです

西行法師(1118~1190)
佐藤義清、藤原秀郷の9代目の子孫、16歳ごろから徳大寺家に仕え、1137年には鳥羽院の北面の武士としても奉仕した記録に残る。23歳で出家。
出家の動機は、親友の急死に逢い無常を感じたという説が主流だが、一方に「源平盛衰記」などに失恋説もある。
失恋の相手は鳥羽院中宮の待賢門院璋子であると言うのが通説である。
歌風は率直質実ながら豊かな情感で寂寥、閑寂の美を表現しいている。 西行をこよなく愛した後鳥羽院は西行の作風を「平俗にして気品高く、閑寂にして艶っぽい」と称している。
当時の歌壇の中心人物であり宗祇・芭蕉にいたるまで、後世に与えた影響はきわめて大きい。

俊恵法師

2010-07-16 08:56:50 | Weblog
よもすがら 物思ふころは 明けやらぬ 閨のひまさへ つれなかりけり 

つれない貴女のことを一晩中思い巡らし、もしやと思ったりして・・・、なんて夜は長くて朝が遅いのだろう 仲々日が差し込んでこない板戸の隙間までも私に意地悪してみたいだ

俊恵法師(1113~?)
父は源俊頼。母は橘敦隆の娘。早くに東大寺の僧となり俊恵法師と呼ばれる。
白川の自坊を「歌林苑」と名付け、そこに藤原清輔・源頼政・殷富門院大輔など多くの歌人を集めてさかんに歌会・歌合を開催し、歌壇に大きな刺激を与えた。
「詞花和歌集」以下の勅撰集に入集。「歌苑抄」「歌林抄」などの選集を編集し、家集には「林葉和歌集」がある。

皇太后宮大夫俊成

2010-07-15 08:44:28 | Weblog
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる 

憂き世から逃れたくて山奥に入ったのだけれど 何か悲しいことが有ったのだろうか こんな山奥でも物悲しげに鹿が鳴いてる

皇太后宮大夫俊成(1114~1204)
藤原俊成。権中納言藤原俊忠の子。当代一の歌人で「千載和歌集」の編者として知られる、最終官位は正三位・皇太后宮大夫。
藤原基俊に師事する。
息子定家をはじめとして、門下に寂蓮、藤原家隆など優秀な歌人を多数輩出した。 門下の一人平忠度とのエピソードも有名である。

さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな  平忠度

平家から源氏への政権の移行の最中、俊成はこの歌を「読み人知らず」として「千載和歌集」に撰歌した。

道因法師

2010-07-14 08:22:01 | Weblog
思ひわび さても命は ある物を うきにたへぬは 涙なりけり

つれない人に恋焦がれて、もう、死にたいくらい思い詰めているのに死に切れないで生きていると、もう涙ばっかりじゃ、嫌になってしまうわい。
   
道因法師(1090~?)
藤原敦頼。父は治部少輔藤原清孝。母は長門守藤原孝範の娘。事績は不明であるが、右馬助などを務めて従五位上に至り、承安2年(1172年)に出家して道因と称した。
1160年 - 1181年頃、主要な歌合せに参加・出詠している。「住吉社歌合」「広田社歌合」などの社頭歌合を自ら主催している。
八十歳をすぎてから出家し九十才を越えるまで歌人として活躍、歌仲間には清輔、俊恵、俊成等が居る。
気性の激しい人と知られる。 「千載和歌集」以下の勅撰集に入集。

後徳大寺左大臣

2010-07-13 09:04:03 | Weblog
ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる 

ほととぎすの鳴き声が聞こえた方角に目をやるとその姿はもう無く明け方の月だけが輝いているだけだ  

後徳大寺左大臣(1139~1191)
藤原実定。祖父も徳大寺左大臣だったので区別して後徳大寺左大臣と呼ばれた。
漢詩を能くし、特に和歌の才能に優れた。「住吉社歌合」「右大臣藤原兼実家百首」など多くの歌合・歌会に参加している。
家集「林下集」を編纂、「千載和歌集」「新古今和歌集」他の勅撰集にも73首が入集。
平家の全盛時代には平清盛の信頼を受け、また源氏に政権が移ってからは源頼朝の信頼を得ている。
実定の文人としての有能で有ったばかりでなく政治的感覚にも非凡であったのであろう。

待賢門院堀河

2010-07-12 08:56:17 | Weblog
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは 物をこそ思へ

何時までも変わらないお心を願っていますが本当のところは貴方のお気持ちを何時まで繋ぎとめて置けるのかわかりません 今朝お別れしたばかりなのにもうそんな物思いに耽るのです

待賢門院堀河(生没年不詳)。
父は神祇伯源顕仲。姉妹に大夫典侍、上西門院兵衛。女房三十六歌仙の一人。
鳥羽天皇の中宮待賢門院藤原璋子に仕えて堀河と呼ばれた。
1142年待賢門院璋子の落飾に従い出家。「摂政左大臣忠通歌合」「西宮歌合」「久安百首」などに出詠している。
西行と交友があり贈答歌も残っている。
待賢門院に心を寄せた西行と交友関係にあったことは頷ける。

左京大夫顕輔

2010-07-11 08:54:42 | Weblog
秋風に たなびく雲の 絶え間より もれいづる月の かげのさやけさ

秋風に吹かれてたなびく雲の切れ間から漏れて月の光のなんと明るく清らかに澄みきっていることよ。
   
左京大夫顕輔(1090~1155)
藤原顕輔。歌道家の六条家の嫡流。源俊頼・藤原基俊の死後は歌壇の第一人者とされた。
崇徳院に命により六番目の勅撰集「詞花和歌集」を編纂。勅撰入集は八十五首に及ぶ。
子の清輔も次世代歌壇の中心人物。

源兼昌

2010-07-10 08:03:03 | Weblog
淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜ねざめぬ 須磨の関守 

あのもの悲しい千鳥の鳴き声は恋する人への哀切の想いが籠もっているようだなぁ こんな声を聞いている関守は仲々眠れないだろうなぁ

源兼昌(?~?)
官位には恵まれず従五位下・皇后宮少進に至り、その後出家。
康和2年(1100年)の国信卿家歌合、永久3年(1115年)、元永元年(1118年)、同2年(1119年)の内大臣忠通家歌合などに出詠た記録が有る。
堀河院歌壇の下部集団である忠通家歌壇で活躍した。
「金葉和歌集」「詞花和歌集」「千載和歌集」「新勅撰和歌集」「新千載和歌集」の勅撰和歌集に7首入集している。