すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

喪失体験って・・・

2005-08-15 08:20:40 | ひとりごと

私の読書傾向を自分なりに分析してみると、
仕事でどうしようもなく、あるいは人に薦められて、
という理由以外なら、
手に取る本は、間違いなく、自分のその時の心理状態の反映だ。
人に相談するということがもともと苦手なタイプなだけに、
自分で解決できない問題に遭遇すると、
必ずといっていいほど、本に頼る。
本を心の支えにする。

そして、最近読んだ「対象喪失」は、
まさに今の、というか少し前の私の心理状況にプロットされる。
が、結局、現在の私はその「対象」を喪失しない選択をしたので、
この本にはそうした役割を求めることはなかった。
(そもそも、この本は教養本的な要素が強く勉強にはなったけれど、
救いや希望を託せる種類のものではなかった・・・。)
ただし、読みながら、現在よりも過去のいろいろな喪失体験の際に、
自分の心がたどった悲哀の心理プロセスを思い出した。
そして、なんともいたたまれなくなった。

喪失体験は、心の準備がなされないままやってくると、
まずは、動悸、息切れ、胃痙攣、など、さまざまな身体反応が出て、
そして、しばらくして、体の反応を追いかけるように、
心がさまざまな様相を見せる。

対象喪失への否定、怒り、抑うつ、絶望、など、
心が文字通り「痛い」という状態にさらされる。
言い換えれば、この体験を通して、
まるで身体反応のような「痛い」という感覚を通して、
私は、確かに「心」が自分の中にある、
という確信を持った気がする。

そして、回復までの期間は、失った対象の大きさや、
失ったときの状況などに左右されるが、
私の場合は、徹底的に悲しんだあとに来る達成感や、
対象の置き換えなどにより、消化されていった。

消化はされたけれど、
その「痛み」の普段は忘れていても、
記憶のどこかにには確かに残っているのだ。
だから、今回も喪失体験が目前に迫ってきたとき、
心の中の以前と同じところから「痛み」が立ち上ってきて、
現在の痛みとともに過去の痛みも再体験させられた。
その二重の痛みを恐れたのが、
私の今回の選択に関係していないと言えなくもない。

喪失する対象が、
自分の存在や自我を根底からゆらがせるほど大きものであれば、
その痛みは尋常じゃないので、この痛みから逃れるなら・・・、
と 死へと逃避したいと思ったりもするのだろう。
私も、それが「死」という具体的な概念ではないにしても、
自分を襲った痛みに、
これからどうやって耐えていくのか途方にくれたし、
耐えていける自信もなかった。

喪失体験の後に「自殺」というもっとも悲しい選択をする人は、
「死にたい」のではなくて、
自分の存在全部を蝕む激痛から「逃れたい」一身なのかもしれない。

人が喪失体験をしたとき、そ
の人には、似たような痛みを経験し、
その耐え難さを理解できる誰か
(誰かが書いた本でもいいのかもしれない)の助けが必要になる。

能書きじゃなく、心地よい言葉じゃなく、励ましじゃなく、
実際に、激痛を乗り越えた人がたどった、
希望の物語が必要なのだ。



「対象喪失」小此木啓吾

2005-08-15 07:49:41 | 本・映画・音楽
フロイト研究の第一人者でもあった
精神科医、小此木啓吾先生の「対象喪失」(中公新書)を読んだ。

死別、愛の喪失、目標の消滅、リストラなど、
人生を生き抜く上で、誰もが必ず遭遇する喪失体験。

本来人は、その悲哀のプロセスを通して、
対象が自分にとってどういったものであったかを再確認し、
悲しみに満ちた心を回復していくものであるが、
モラトリアム人間が席巻する現代社会においては、
この「悲哀の仕事」を達成できず、
心身の病や自己喪失に陥ってしまう人が増えているという。
そうしたことが、具体的な事例とともに書かれた本だ。

ズドンと胸をやられた記述を引いておく。

「自分に心的な苦痛や深いを与える
身近な人の苦しみや悲しみに関わることは辛くて耐えられないといえば、
それは現代人の<やさしさ>のように受け取れるが、
この<やさしさ>は、汚れ、醜さ、深い、悲しみを感じさせるものは、
できるだけ眼前から排除し、遠ざけておきたい<冷たさ>と一つである」

「モラトリアム人間は自分自身を常に仮の自分と思い、
本来の自分は、どこか別のところか、これから先の未来にあると思う。
一時的、暫定的な状態に身をおき、
予期される変化への適応にそなえ、
何事に対しても、当事者になることを避け、
どんなかかわりも深まりすぎて、傷つくことを恐れる」

恐れ入りました、という感じだ。
これ、自分のことだ!と思ってしまう。

まあ、ただ、この文章を読んで、ハッとしない人は、すごいと思う。
自分も含め、シラっとしたところと、
独善的な繊細さが同居しているような人が多き現代は、
まさに総モラトリアム化しているのかもしれない。