私の読書傾向を自分なりに分析してみると、
仕事でどうしようもなく、あるいは人に薦められて、
という理由以外なら、
手に取る本は、間違いなく、自分のその時の心理状態の反映だ。
人に相談するということがもともと苦手なタイプなだけに、
自分で解決できない問題に遭遇すると、
必ずといっていいほど、本に頼る。
本を心の支えにする。
そして、最近読んだ「対象喪失」は、
まさに今の、というか少し前の私の心理状況にプロットされる。
が、結局、現在の私はその「対象」を喪失しない選択をしたので、
この本にはそうした役割を求めることはなかった。
(そもそも、この本は教養本的な要素が強く勉強にはなったけれど、
救いや希望を託せる種類のものではなかった・・・。)
ただし、読みながら、現在よりも過去のいろいろな喪失体験の際に、
自分の心がたどった悲哀の心理プロセスを思い出した。
そして、なんともいたたまれなくなった。
喪失体験は、心の準備がなされないままやってくると、
まずは、動悸、息切れ、胃痙攣、など、さまざまな身体反応が出て、
そして、しばらくして、体の反応を追いかけるように、
心がさまざまな様相を見せる。
対象喪失への否定、怒り、抑うつ、絶望、など、
心が文字通り「痛い」という状態にさらされる。
言い換えれば、この体験を通して、
まるで身体反応のような「痛い」という感覚を通して、
私は、確かに「心」が自分の中にある、
という確信を持った気がする。
そして、回復までの期間は、失った対象の大きさや、
失ったときの状況などに左右されるが、
私の場合は、徹底的に悲しんだあとに来る達成感や、
対象の置き換えなどにより、消化されていった。
消化はされたけれど、
その「痛み」の普段は忘れていても、
記憶のどこかにには確かに残っているのだ。
だから、今回も喪失体験が目前に迫ってきたとき、
心の中の以前と同じところから「痛み」が立ち上ってきて、
現在の痛みとともに過去の痛みも再体験させられた。
その二重の痛みを恐れたのが、
私の今回の選択に関係していないと言えなくもない。
喪失する対象が、
自分の存在や自我を根底からゆらがせるほど大きものであれば、
その痛みは尋常じゃないので、この痛みから逃れるなら・・・、
と 死へと逃避したいと思ったりもするのだろう。
私も、それが「死」という具体的な概念ではないにしても、
自分を襲った痛みに、
これからどうやって耐えていくのか途方にくれたし、
耐えていける自信もなかった。
喪失体験の後に「自殺」というもっとも悲しい選択をする人は、
「死にたい」のではなくて、
自分の存在全部を蝕む激痛から「逃れたい」一身なのかもしれない。
人が喪失体験をしたとき、そ
の人には、似たような痛みを経験し、
その耐え難さを理解できる誰か
(誰かが書いた本でもいいのかもしれない)の助けが必要になる。
能書きじゃなく、心地よい言葉じゃなく、励ましじゃなく、
実際に、激痛を乗り越えた人がたどった、
希望の物語が必要なのだ。