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鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

満洲国皇帝の即位詔書について、あるいは夏コミ原稿の補遺。

2019-07-04 20:38:39 | 歴史
光陰矢のごとしとはよく言ったもので、気がつけばあれだけ日本中が沸いた令和改元からもう二ヶ月が過ぎてしまいました。その間一回も更新していないこのブログもどうかとは思いますが。

さて、令和改元においては実際に改元が行われる一ヶ月前に新たな年号(=元号。以下、煩瑣を避けるために「年号」で統一します)の「事前発表」が行われたことで、一部保守派とか面白右翼おじさんたちの反発を惹起したことは記憶に新しいところです。確かに日本においては改元前に年号が発表されるということは近現代においては無く、結果として昭和改元の際に光文事件が発生するような状況がありました。

ですが、じゃあ改元前の年号発表の例は全く無いのか? というとそんなことはありません。1934年、満洲国において執政溥儀の皇帝即位に伴って行われた大同から康徳への改元は、事前に次の年号が発表され、しかも途中でその予定された年号自体が変更されたりしているのです。

とはいえ、私がここでお話したいのは改元そのものの話ではないのでその辺りの詳細は省略。今年の夏コミで頒布予定の『曠々満洲』第10号に掲載されるはずの拙稿「満洲国皇帝の即位儀礼―明清代との比較を中心として―」をご参照いただければ幸いです(露骨な宣伝)

違うんですよ。私がお話したいのはその改元が行われた根拠となるもの、すなわち康徳皇帝溥儀の即位詔書についてなんです。



2019年7月4日現在、Googleで「満洲国 即位詔書」と画像検索するとこのような結果が出てきます。一番最初に出てきてる満洲国臨時政府の皇帝即位詔書はまあどうでもいいとして、問題は三枚目のこれです。



これは瀋陽(旧・奉天)の「9.18歴史博物館」に展示されているもののようですが、同様のものは長春(旧・新京)の「偽満皇宮博物院」でも展示されているようですし、またインターネット等を通じて古物取引もされているようです(押捺されている印が異なるため、厳密には同じものとはいえないのですが、まあ同様の様式によるものだとはいえるでしょう)。ついでに言うと、検索結果の二番目に出ているおじさんが広げているものも同じです。

私はこの様式の満洲国皇帝の即位詔書とされるものを「横書式即位詔書」と呼んでいるのですが、この横書式即位詔書、私は満洲国当時に公的に頒布されたものであるかどうかは極めて怪しいと思っています。
なぜ怪しいと思うのか、以下に三つの理由を申し上げましょう。

(1)なんで横書き?
一般的に言って、満洲国当時における出版物、印刷物における文章は縦書きなのが普通です。新聞やポスターなどで横書きが見られないわけではないのですが、これらは基本的に短いスローガンや見出し、あるいはデザイン上の必要があってのものです。


満洲国ポスターデータベースより。これでも横書きなのは見出しだけで、下部の「執政宣言」は縦書きになっています。)


横書式即位詔書の場合、そういった必要があっての横書きではないように思えます。中国語の印刷物において横書き(横組)が全面的に採用されるようになったのは中華人民共和国が成立してからしばらく後の1956年のことで、それまでは基本的に縦書きでした。1934年当時の満洲国でも同様に縦書きが基本だったことは、当時の新聞(『盛京時報』)や出版物(『即位大典慶祝大会紀念録』)などからわかります。

 

(右:『盛京時報』1934年2月28日付 左:『即位大典慶祝大会紀念録』1934年刊行)

もしこの横書式即位詔書が1934年当時に頒布されたものであった場合、そこには横書きをせざるをえない理由がなければならないのですが、そのような理由は私には思いつきません。

(2)「康徳御印」ってなに?
横書式即位詔書には、下部の「御名」と「御璽」の間に「康徳御印」(もしくは「康徳禦印」)という印が押捺、あるいは印刷されています。


Wikimediaコモンズより。これはどうやら長春の偽満皇宮博物院の所蔵らしい)


 

(中華古玩網より。これは「禦印」。また、左上にはなぜか溥儀の紫禁城時代の鑑蔵印「無逸齋精鑒璽」が押捺されている)


そもそも「御璽」という文字自体が原本に鈐された満洲国皇帝の御璽の代わりなのに、なぜそれに加えて印を押捺する必要があるのでしょうか。
また、この「康徳御印」は満洲国皇帝の正式な印璽ではありません(詳細については再度の宣伝となりますが拙稿「満洲国皇帝の即位儀礼―明清代との比較を中心として―」をご参照いただければ幸いです)。溥儀が満洲国皇帝時代に私的に用いていた印もいくつか確認していますが、当時の新聞や雑誌に掲載されていたり、あるいは溥儀と直接の関係があって贈与されたりした等の出所が明らかな書画類に用いられた印には、現在までのところこの「康徳御印」は確認できていません。



中国の書画販売サイトなどに掲載された、溥儀の書画とされるものにはこのように押捺されているものをまま見かけますが、そうした書画の中には例えば「大同二年」、すなわち1933年の作品とされているにもかかわらず「康徳御印」が押捺されていたりするものがあります。



これなどは印影自体もぎこちなく、偽作、あるいは偽印の可能性が大いにあるといってよいでしょう。仮に「康徳御印」が溥儀によって実際に用いられていた印であったとしても、それが後に誰かの手に渡って利用された、あるいは偽造された可能性は排除できません(「禦印」に至っては現状、横書式即位詔書以外の用例が見当たりません)。

(3)詔の内容に誤りがある
満洲国皇帝の即位詔書はその重要性から、満洲国当時に発行されたいくつもの文献に(当然ながら縦書きで)全文が収録されており、原文である中国語(満文)版、訳である日本語(日文)版を確認することが出来ます。
これら他の文献史料で確認できる即位詔書の全文(満文版)は、以下のようになります。



奉天承運皇帝詔曰
我國肇基國號滿洲。於茲二年。原天意之愛民。賴友邦之仗義。其始凶殘肆虐安忍阻兵。無辜籲天。莫能自振。
而日本帝國。冒群疑而不避。犯衆咎而弗辭。事等解懸。功同援溺。朕以藐躬。乃承天眷。
假我尺柄。授我丘民。流亡漸集。興其謳歌。兵氣濳銷。化爲日月。夫皇天無親。惟德
是輔。而生民有欲。
無主乃亂。籲請正位。詢謀僉同。敢不敬承天命。其以大同三年三月一日。卽皇帝位。改爲康德元年。
仍用滿洲國號。世難未艾。何敢苟安。所有守國之遠圖經邦之長策。當與日本帝國。強力同心。以期永固。
凡統治綱要成立約章一如其舊。國中人民。種族各異。從此推心置腹。利害與共。或渝此言。有如皦日。
無替朕命。咸使聞知。
  御名御璽
    康德元年三月一日
              國務總理大臣
              各 部 大 臣
                       (『[満洲国]外交部公表集』第3輯より)

さて、ここで問題となるのが「原天意之愛民。賴友邦之仗義」の部分。日文版だと「天意ノ愛民ニ原ツキ友邦ノ仗義ニ賴リ」となる箇所ですが、ここが横書版即位詔書では「原夫天意之愛民」となっているのが下の画像でお分かりになるかと思います。



この「夫」はアジ歴で公開されている帝政実施前の「即位改元詔」案文から即位後の『[満洲国]外交部公表集』『即位大典慶祝大会紀念録』に至るまで、出所の明らかな公的史料からは確認できません。明らかな誤植です。
他のどうでもいいような(?)文章ならいざ知らず、皇帝の即位詔書という重要な文章で誤植をして、それがそのまま表に出たというのはもしこれが公的に製作されたものなら考えづらいことです。『政府公報』(日本の『官報』に相当)のような逐次刊行物ならいざ知らず、横書式即位詔書のような凝った印刷物だとそれはちょっとどうなんだい? という感じです。

とまあ、以上の三点がどうもこの横書式即位詔書が「怪しい」という理由です。
ついでに怪しいのが、横書式即位詔書がどのように発見されたか。

先ほどのGoogle画像検索の2枚目は2009年4月8日に報道されたエキサイトニュースの記事にあるものなのですが、これは元々サーチナの記事だった様子。
サーチナでは見られないようですし、エキサイトニュース版にしても古い記事ですからいつ消えるとも分からないので、以下に画像ともども転載しておきましょう。サーチナとエキサイトニュースさん許して。



>【中国】清朝最後の皇帝の即位詔書が公表される
>サーチナ 2009年4月8日 11:23
>4月7日、河南省開封市に住む民間の収集家、廖大林さんがメディアに清朝十二皇帝の最後の皇帝となった宣統帝溥儀の即位詔書を公開した。
>この詔書は1934年3月1日に発行されたもので、横58.5センチ、縦42センチである。詔書には旧満州国の紋章と国旗がプリントされており周囲には金箔装飾のコーリャンがあしらわれている。
>詔書は全部で269字からなり旧満州国の元号「康徳」の御璽が押されている。(CNSPHOTO)

んー、そもそもこの記事の時点で色々と表現が不正確ですね。これは「清朝最後の皇帝」である「宣統帝」の即位詔書じゃないですし、「1934年3月1日」に発行されたものであるかどうかもよく分かりません。
「1934年3月1日」、つまり康徳元年3月1日はこの即位詔書の文言そのものが発布された日であって、この横書式即位詔書がどこで誰によりいつ印刷され発行されたのかは不明とするのが適当でしょう。

ここで廖氏がカメラに見せているのは、左上に長方形の印が見えるところからすると、上記の「無逸齋精鑒璽」が押捺された横書式即位詔書と同様か、もしくは同一のものと考えられます。
そしてこの「公表」がニュースになったところから考えると、もしかすると横書式即位詔書は2009年に廖氏が公開したものが現代における初出で、他の色々なところで展示されている横書式即位詔書はその複製なのかもしれません。
「禦印」が「御印」になっていたりするので、そこはまた別系統なのかもしれませんが。



中国の個人コレクターが蒐集した文物のニュース、というと思い出されるのが2015年に報道されたこの「岸信介の軍刀」の話
「中国人民抗日戦争勝利70周年」を記念して「明治天皇、載仁親王、岸信介、伊藤博文、川島芳子、土肥原賢二らの軍刀108振りなど、重要な史料」が「愛国コレクターの王雪氏から提供され」て北京市第五中学校を会場として展示されたというニュースなんですが、岸は軍人じゃねえから軍刀は持ってないだろとか散々つっこまれてニューズウィーク日本版でも取り上げられたりしました
もしかするとこの廖氏が公開した「即位詔書」=横書式即位詔書も…なのかもしれません。横書式即位詔書の一部を展示している偽満皇宮博物院にしても、私が観に行った時には記念章の名称を取り違えて展示していたりしていたので…。

とはいえ、一足飛びに結論を出すのは早計に過ぎるというもの。
現時点では、先ほどの三点を指摘し、特に内容に誤りがみられるので横書式即位詔書を史料として用いるのは避けた方がよいのではないか、という程度にとどめておきましょう。




最後に再三の宣伝で申し訳ありませんが、今度のC96、日曜日西D67bで参加する「満洲研究会」の『曠々満洲』第10号にこういう記事を寄せております。
興味を持っていただけたら是非お手に取っていただければ恐悦至極。

平成最後の大掃除。

2019-03-26 12:56:17 | 日記
去年ぶりの更新となってしまいました。
Twitterをやっているとどうしてもその場で言いたいことを短文で投稿する癖がついてしまいますね(※過度な一般化)

さて、私はここしばらく部屋の掃除と片付けに追われています。
いきなり断捨離やらミニマリスムやらに目覚めたわけではなく、単に「(物理的にも金額的にも)大きい買い物をしてしまったので置き場所を確保せねばならない」という消極的な理由からなんですが、これがまあ大変。

今の家は私が高校3年生の頃に新築で引っ越してきたところなのですが、引渡し期日が遅れた上に元々住んでいた家が予想外に早く売れてしまったので非常にあわただしい引越しになってしまったのです。
なので、必要な荷物かどうかを精査せず、もうとにかく荷造りして運び込んで適当に押し込めて、という感じ。生来のものぐさと面倒くさがりのおかげでとんと物の整理というものをせず、おまけに先祖代々受け継いだ趣味人の血を蒐集癖という形で開花させた結果、引っ越してきてからあれこれ集めた物もこれまた膨大な量にのぼります。
要するに完全に部屋のキャパシティを超えている訳ですね。

とまあ、そんな訳で絶賛大掃除中です。
平成の汚れは平成のうちに何とかしたい。

蒐集品を晒してみる・その16 日本・靖国神社参拝記念扇子(恩賜財団軍人援護会東京都支部)

2018-11-04 22:11:24 | 蒐集品




今回ご紹介するのは、恩賜財団軍人援護会の東京都支部の名が入った、靖国神社の参拝記念扇子です。
恩賜財団軍人援護会は、日華事変(日中戦争)の勃発から約1年後の1938(昭和13)年10月3日、当時の近衛文麿内閣総理大臣に軍人援護に関する勅語と御内帑金300万円が下賜されたことを受けて、同月7日に設立が決定された組織です。この組織は銃後一体、官民が協力して傷痍軍人や軍人遺族家族に対する各種の援護事業を行うものとされ、各道府県に支部が設置されました。
…ええ、「各道府県」にです。といいますのは、軍人援護会が設立された1938年当時、東京は「東京府」であって、都制は敷かれていなかったからです。東京都が誕生するのは、軍人援護会の設立からおよそ5年後の1943(昭和18)年7月1日のこと。ですから、この扇子が配布されたのは、早くても1943年7月以降ということになります。
扇子の表面には「忠」「英機」の揮毫。第40代内閣総理大臣、東條英機の揮毫とみてよいでしょう。東條内閣は1944(昭和19)年7月に重臣連中の工作によって倒れ、小磯国昭内閣に交代していますから、この扇子が配布された時期は1943年7月から44年7月までの約1年間の間、いずれかの時期に配布されたものと見ることができます。
裏面には桜の絵。左下には朱色で「恩賜財団軍人援護会東京都支部」と書かれています。



オリジナルの袋と、帯封をした状態の扇子。袋には「靖国神社参拝記念」「恩賜財団軍人援護会東京都支部」と書かれています。

参考:「軍人援護に関する勅語」
昭和十三年十月三日
  内閣総理大臣ニ賜ハリタル軍人援護ニ関スル勅語
朕カ陸海軍人ノ忠誠勇武ナル明治以来屢国難ヲ克服セリ而シテ今次ノ事変師ヲ隣彊ニ出スヤ又克ク忠烈ヲ励ミ以テ国威ヲ中外ニ顕揚シ朕カ忠実ナル臣民銃後ニ在リテ相率ヰ公ニ奉シ出征ノ将兵ヲシテ後顧ノ憂ナカラシム朕深ク之ヲ嘉尚ス惟フニ戦局ノ拡大スル或ハ戦ニ死シ或ハ戦ニ傷キ或ハ疫癘ニ殪ルゝモノ亦少カラス是レ朕カ夙夜惻怛禁スル能ハサル所ナリ宜シク力ヲ軍人援護ノ事ニ効シ遺憾ナカラシムヘシ茲ニ内帑ヲ頒チ之レカ貲ニ充テシム卿其レ朕カ意ヲ体シ之レカ規画ニ当リ克ク其ノ績ヲ挙ケンコトヲ期セヨ

蒐集品を晒してみる・その15 日本・韓国暴徒討伐紀念軍杯

2018-06-03 13:30:04 | 蒐集品
 

実に一年近くのブログ放置となってしまいました。
普段Twitterであれこれやっていますが、それでも記事の保管性はあきらかにこちらの方が優れています。まとめたいことはこちらに載せるのがいいとはわかってはいるんですが……

そんなわけで、今回ご紹介するのはこちらの「韓國暴徒討伐紀念」軍杯です。
昨今ヘイトスピーチだのなんだのピリピリしてるところに穏やかじゃねえなぁ!? と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、韓国は韓国でもこちらは「大韓帝国」の方ですのでご安心ください(?)。

大韓帝国は日本が日清戦争で勝利した結果、朝鮮(李氏朝鮮)が冊封体制から離脱したことを受けて1897年に成立した国号です。それまで清の皇帝から朝鮮国王に封じられていたのが自主独立の帝国となったわけですが、日韓議定書や三度にわたる日韓協約締結などによって国家としての実権は次第に日本の手に委ねられていき、ついには1910年の韓国併合条約により大韓帝国はその短い生涯を終えました。ここから1945年まで、朝鮮半島は日本統治時代、いわゆる「日帝強占期」に入ります。

大韓帝国の実態や日本の政治介入についての議論は措くとして、この軍杯は1907年に結ばれた第三次日韓協約に関わるものです。
第三次日韓協約では日本人である韓国統監が大韓帝国の高級官吏の任免に関し一部の権限を有すること、大韓帝国政府の一部官吏に日本人を登用できることなどを定めた他、非公開の取り決めとして一部の陸軍部隊を除いて大韓帝国軍を解体することが盛り込まれました。
これにより大韓帝国各地の軍部隊に解散命令が発令されますが、無論素直に解散する部隊ばかりではありません。様々な地方で命令に従わない大韓帝国軍部隊の蜂起が相次ぎ、いわゆる「義兵闘争」(それ以前のものと区別して後期義兵闘争とも)が発生しました。
(帝国、民国含め)韓国側から見ればそれは確かに「義兵闘争」だったのでしょうが、日本側からすれば軍の暴徒化に他なりません。日本側はこれら「暴徒」の鎮圧を図るために軍を動員し、1907年から1909年にかけて各地で「討伐作戦」が繰り広げられることとなります。

さて、この軍杯には杯面上部に「韓國暴徒討伐紀念」、下部に「歩兵第廿七聯隊」と金文字が書かれています。
歩兵第二十七連隊は北海道旭川に所在した部隊で、1908年5月に大韓帝国での「暴徒鎮圧」のために派遣されています。ですから、この軍杯はその当時に連隊にいた板垣さん(底の部分にある名前なので多分軍杯の発注者でしょう)が、帰還後に関係者に配るかなにかするために作らせたものだと考えられます。

決していい歴史ではないのでしょうが、しかしこんなわずか直径十数センチ程度の杯に日本と朝鮮半島、更には中国までをも結ぶ歴史が詰まっているのだと思うと、なかなか感慨深いものがありますね。

生存報告を兼ねてのうちのイッヌ。

2017-10-29 17:57:29 | 日記
こちらのブログを更新しないまま気づけばはや半年以上。
特に更新するほどのネタもないのですが、上にいつまでも公告が出ているのもあれですし、うちの犬の写真でも掲載してお茶を濁すことといたします。









本当に保守目的だけなので特に落ちとか意味とかはありません! 以上!