【愛を求めて、人生の意味を求めてインドへと向かう人々。自らの生きてきた時間をふり仰ぎ、母なる河ガンジスのほとりにたたずむとき、大いなる水の流れは人間たちを次の世に運ぶように包みこむ。人と人のふれ合いの声を力強い沈黙で受けとめ河は流れる。純文書下ろし長篇待望の文庫化、毎日芸術賞受賞作。】
遠藤さんの宗教観、人生観があらわれた深い作品。
磯辺は妻を癌で亡くす。昔人間の夫で仕事ばかり、妻を顧みなかった磯辺だが、その臨終の時に妻から告げられる。
「わたくし・・・必ず・・・生まれかわるから、この世界の何処かに。探して・・・わたくしを見つけて・・・約束よ、約束よ」
妻は輪廻転生を信じていたのか。、、、彼は、転生した妻を探しにインドに旅立つ。
美津子は、自分は人を本当に愛することができない人間なのではないか、と虚しさを覚えながら生きてきた。大学生の時、クリスチャンの野暮ったい学生大津を誘惑し捨てた。しかし、大津のことを軽蔑しながらも気になってしまう。その後、愛のない結婚をし、新婚旅行に行ったフランスで大津と再会する。彼は神父になるために神学生になっていた。
子どもの頃、両親の不和で辛く寂しい沼田を慰めてくれたのは捨て犬のクロだった。クロは彼にとって哀しみの理解者であり、話を聞いてくれるただ一つの生きものであり、彼の同伴者であった。彼は動物を題材とした童話作家になった。
犀鳥という珍しい鳥を飼うことになった。結核をこじらせ手術で死にそうになっていたとき、犀鳥が死んだ。自分の身代わりになってくれた、と思った。
木口は、戦争中、ビルマのジャングルで地獄の体験をした。食べ物もなく仲間はコレラや赤痢でバタバタと生き倒れ死んでいくが、何もできない、気力さえもない。自分も飢えと赤痢で死を覚悟したとき、塚田が助けてくれた。彼は、ジャングルの中を食べ物をさがして見つけてくれたのだ。牛が死んでいた、と。これを食べなければ死んでしまう。しかし、実はそれは・・・。
磯辺、美津子、沼田、木口、みんな弱い人間。それぞれに人に言えない苦悩を抱えている。彼等はインドへのツアーで、ガンジス川を訪れる。
ガンジス川は聖なる河。生も死も、人間も動物も、あらゆるものを受け入れて流れている。
ここで身を清めれば、輪廻から離脱する(一切の苦しみから解放される)ことが出来ると信じられている。どんな身分の人も、死んだらここに流されることを望む。みんな、犬の死体や遺体が流れる側で、茶色い水で体を洗い口をすすぐ。
大津は、ヨーロッパのキリスト教からは異端だとして神父になれずにいた。
「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神はおられると思います」という考えが”汎神論”だと神学校の先生に厳しく批判された。
そして、インドに渡り、底辺のアウトカーストなど道に行き倒れた人をガンジス川まで担いでいって、供養(流す)していた。あのマザー・テレサのように、社会の底辺にいる人たち、道ばたに倒れ見捨てられた人たちのため。幸せから見捨てられた人の悲しみ、辛さ、苦しみを背負うことだった。安心してください、ガンジス川があなたを受け入れてくれますよ。
その姿は、ぼろぼろで悲惨だが、彼の心は明るい。それは、彼の信仰によるものなのでしょう。大衆や弟子たちの批判も裏切りを赦し、見捨てられた病人や軽蔑される人やどうしようもない辛さを抱えた人たちすべての苦しみを、全部十字架に背負ったキリストの生き方を、彼もなぞっていたのでしょう。
>玉ねぎ(キリスト、愛の神のこと)がヨーロッパの基督教だけでなくヒンズー教のなかにも、仏教のなかにも、生きておられると思うからです。思っただけでなく、そのような生き方を選んだ・・・・・・後悔はしていません。
>玉ねぎという愛の河はどんな見にくい人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます。(大津)
>過去の多くの過ちを通して、自分が何を欲しかったのか、少しだけわかったような気もする。・・・信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です。・・・その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています。(美津子)
大津(遠藤さん)の考えるキリストの愛、神の愛は深い。
そして、広いのですね
私も、ガンジス河のような心をもちたいと思いました。
星5つ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます