またまたまたまた、お久しぶりです。(もういい?)
心理学の本を読んで分かったことなどもう少し書こうと思ってたんですが、父のこととか家事とか、いまいちブログ書く気力がわかず、ずるずると気がつけば今年ものこりあとわずか。
ブログではなく日記アプリに父の記録を書く毎日です。
父とのやり取りの中で、「生きること」について再確認することもあり、それはそれで学びとなっております。
たとえば、
今朝5時の血圧と脈測定。(父は夕方6時過ぎには寝て夜中に目を覚ますので朝の測定がギリこの時間。それより前になると私がきつい。夜中呼び出されることもあるし)
脈の少ない時は飲んではいけない薬(朝食後)があるので毎日測ります。
夜中から起きてお腹がすくので、ちょっとしたおやつとヨーグルトなどを4時前に食べますが、取りにいけない時は私が持って来てあげます。
で、父「もう測らん」私「なぜ?」父「わしはもう死んどる。葬式もした」と。
私「ほう、、死んでたらしゃべれないし、お腹もすかないし、のども乾かないし、動かないし、しんどくもなく何にも感じないし、測りたくないも言えないよ。」
父「、、ちょっとだけ生きてる」
私「なら、ちょっとだけ生きてるところを、楽にしていこうよ」
父「頭が痛い」(めんどくさくなったか?考えたか?)
私「頓服飲む?」「考えるのやめて、頭を休ませようか?」
生きるというのは、そういうものなんだよね。わからないことやどうしようもないこと(「今、生きている」ということ)をいくら否定しても、考えても頭が疲れて痛くなるだけ。
父「どうするんなら」(家の中に子どもが何人も見えている。他にも幻視が色々とある)
私「(幻視が)見えなくなるように2週間ごとに薬を調整しているよ。焦らずに。短気は損気。様子を見てちゃんと記録もしてるよ。
(子どもたちを)どうするんならと言われても、私には見えないのでどうにかしろと言われても困るし、よその人は一人も家に入れてないから心配しなくて大丈夫」(こういう説明は何度も繰り返してる)
人間も他の動物も、一人一人、それぞれ見え方は違っています。眼と言う器官はけっこういい加減です。私も近眼(老眼も)で眼鏡をかけています。眼も老化すれば、脳が(勝手に)映像をつくることもあるでしょう。よく見えないから、怖いから見間違うこともあります。(柳が幽霊に見えたとか)
眼をつむってても夢を「見」ます。頭の中の映像が勝手に(無意識に)出てくるのだと思います。
幻視があるからと言って、適当に話を合わせてしまうのはどうなのかなあ、と思ってます。もちろん父には本当に見えているのだから、否定はしません。
父「わしは基地外だ」
私「自覚がある人を既知がいとは言わないよ。」
父は全くわからなくなってしまっているわけではない。
幻視や病気やお金や死などのさまざまな不安や恐怖心から妄想につながってしまうことはあっても、冷静になれます。波はあります。それは誰だって同じです。
(興奮してる時、話が聞けない時には、まず落ち着くように対応の仕方は変わりますが)
私は、同じ人間同士、誠実に対応するだけです。
それから、
「お前は誰の子な?」(性格がちがうってこと?)
「子どもじゃなくて、もう大人だよ。産んだお母さんならはっきりわかるだろうけど、父親は??なんかねえ。
一人の人間として付き合ってるから、別に関係ないよ」
父に命令されても、私は「言うことは聞きません」と宣言してます。
娘だからとか「義務」や「立場上」でやってるわけではない。
育ててもらった「恩」があるからそれを返しているだけ。
自分が人として、してあげたいからしているだけで、命令されても私にできないことはしません、できませんとも。
(たまに「殺してくれ」て言われる。私を人殺しにする気か!)
そんなこんなであっという間に2020年も終わろうとしています。
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