仏教では、心とは身口意(眼耳鼻舌身意)で「対象を認識するはたらき(知る機能)」であり、心とその中身である心所をあわせて「こころ」といいます。
意識だけではありません。
こころ(心+心所)はどこかに”ずっとある”のではなく、大変な速さで生滅を繰り返しつつあるものです。心は変化しています。
厳密には二度と同じ心はありません。似たようなものになることはありますが。
ユング心理学で説明される心の構造は、心所のありかたのようなものでしょうか。
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(河合隼雄「無意識の構造」より)
「私の」「私が」という「意識」である、行為や意識の主体としての「自我」は、政党派閥の主流派のようなものだそうです。(自我はコンプレックスに反逆されないよう、穏やかに折り合いをつけつつ、発展を図る)
コンプレックス(心的複合体)は感情のしがらみのようなもの。
コンプレックスを解消させるためには、まず「認識」すること。(ありのままに受け入れること、受け入れられることですね。)
仏教では「変わらぬ自我(私)」というものはない、すべては「無常」であるから「無我」だといいます。
私たちが”意識”している「私」は変化生滅しつづけるものであるから、自我”意識”はあっても実際「変わらぬ私」はない。
自我意識の奥に個人的無意識やら文化的無意識やら普遍的無意識やら、、、人間はたくさんの「意識」(「無意識」も自覚されない「意識」ですよね)に影響されながら、人生を送っている(そして苦しんでいる)のですね。
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