お釈迦様の教えを実践しようと、瞑想(メディデーション、マインドフルネス)に興味津々のまるです。
【呼吸は気づき、慈悲、智慧を育むための完全な乗り物であるというアプローチで記されたブッダ直伝の瞑想法「アーナーパーナサティ・スートラ」に基づき、あるがままの世界に目覚める方法を平易に解説。】
プラユキさんの本「自由に生きる」の中で、素晴らしい本だと紹介されていたので読んでみました。
・・・すばらしい
呼吸瞑想は実際にやってみると、ほんとに難しい。難しいと思ってるから難しいのかもしれないけど(ただ座って自分の呼吸に意識を向けてるだけ)、なかなか続かないのです
けれど、この本を読めばその疑似体験ができます。瞑想するというのは、こういうことなんだとか、気づくというのはこういうことなんだとか。文章の一つ一つが深く、美しく、崇高で、、、お釈迦様の教えが繰り返し学べて(それを実感する、気づくのが瞑想だからね)、、、瞑想したくなります。瞑想すれば、自然にありのままの身体、感覚、心、法、つまりあるがままの「今ここ」すべてに気づき、苦を乗り越えた涅槃の境地に至ることができるようになるわけですね。
瞑想しなくても、すばらしい読書の時間になりました。(線引きまくり)
どうも、私には呼吸瞑想は難しい。けれど呼吸瞑想だけが瞑想ではない。座ることだけが修行ではないのです。修行とは日常生活から離れたものではないのです。掃除やゴミ出し、洗濯だって立派な瞑想修行になるのです。ちゃんと気づきながらすればね。
>ふだんの生活からかけ離れた秘境的な修行ではなく、あらゆる瞬間において意識が最高度に鋭敏であるような新しい生き方
>修行を日常生活に導き入れること
が重要です。筆者もここを強調されてました。なので、「第6章 日常生活と共に呼吸する」は何度も読み返したいと思います。
大事なのはいつも目覚めていて、あるがままに気づいていること。
現代人は、心が「今、ここ」から余所に、過去に、先のことに行ってしまいがち。そしてそれに執着してしまう癖がついている。自分の考えに、自分の好みに、自分の感情に、自分の○○に執着する。その癖をよりよい習慣をつけることで直すのが瞑想の役割でもあるのです。呼吸瞑想で無常、無我、空の境地を経験することは可能ですが、日常生活で経験することも可能です(障害は大きいけどね)。
無常のものが生まれ消えていくのをただ見るという経験をくりかえすことで、何があってもOKだよ、と動じることのない懐の深い、器の大きい人間になっていく。
せっかく瞑想修行ができる環境にあるんだから、やらないのはもったいない。手動瞑想、歩行瞑想を主に、できたら呼吸瞑想にもチャレンジしてみたいと思います。
瞑想に興味がない人でも、読むだけでたくさんの気づきがあり、それによってきっと癒されることでしょう。
星5つ
>息を吸うときには愛を思い、息を吐くときには感謝を思う。愛を吸って感謝を吐き出す。
なるほど~です。
ティク・ナット・ハン禅師の「ビーイング・ピース」という本の中に
息を吸い、体を鎮める。
息を吐き、ほほえむ。
この瞬間に生きる。
素晴らしい瞬間だと知る
という詩が紹介されてました。
呼吸って深いですね。私もそんな生き方をしたいと思います。
先ほどgutsuriさんのブログにお邪魔しました。また遊びに行かせてもらいます^^
呼吸法の一つですが、息を吸うときには愛を思い、息を吐くときには感謝を思う。愛を吸って感謝を吐き出す。この呼吸法はわりと集中が保てます・・・と言っても、瞑想はdoingではなくてbeingですよね・・・
9月になってスローライフに参加しました。よろしくお願いします。
人の心はけっこう迷走してますから、迷走してるなあって瞑想できればきっと迷走は止まるでしょうね。
座ってする呼吸瞑想(日本で言う座禅ですね)では、ふかぁ~い洞察が得られるでしょうが、
何故座るかというと、それが人の生活の基本だからで(座る、立つ、歩く、横になる)、なのでそれは日常の行動にも応用できるし、
お釈迦様はいつでも気づいていなさいと教えてくださってるので、すべての生活の中で瞑想(気づき)は必要だということなんだと思います。
まあ、すぐに反応したり(カッとなったり、舞い上がったり)せずに、落ち着いてよく観て気づいて生活してないと失敗しますからね^^
毎日の生活が修行ってこと?
したっけ。