【有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性…主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。】
ものすご~~く、中味の濃い雑談です。しかも、ものすご~~く、有意義、現代に必要な内容だと思います。
最近は紙の本はあまり買わない(1回読んで終わりの本は借りるし)のですが、これは買って正解。手にとって二度三度と読みたいと思う。(薄くて比較的簡単に読めます)
岡 「学問を好むという意味が、いまの小中高等学校の先生方にわからないのですね。」
「人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。」
小林 「・・・・ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。」
「むずかしければむずかしいほど面白いということは、だれにでもわかることですよ。そういう教育をしなければいけないとぼくは思う。」
岡 「学問の権威というものが、社会に認められていないですね」
「学者というものは、俗人じゃないのだから、偉い人なんだという教育、こういう二つがあるとぼくは思う。」 (学問をたのしむ心)
時代を超えて、普遍的に通用することを学ぶ(学問 真善美 生きるとは)、学び方を学ぶ、学ぶことは面白いということを学ぶ、心を育てることが大事であるのに、今しか通用しない目先のことにとらわれた教育(といえるのか?)、人間を育てるのではなく道具やロボットをつくるような(技術専門学校みたいな)教育ばかりがなされてはいないだろうか、と思いますね~。
岡 「人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。・・・・人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。・・・・・つまり自己中心に考えた自己というもの、西洋ではそれを自我といっております。仏教では小我といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです。」
岡 「ピカソ自身は、無明を美だと思い違いしてかいているのだろうと思います。」
小林 「いまの絵かきは自分を主張して、物をかくことをしないから、それが不愉快なんだな。物をかかなくなって、自分の考えたこととか自分の勝手な夢をかくようになった。私は絵が好きだから、いろいろ見ますけれども、おもしろい絵ほどくたびれるという傾向がある。人をくたびれさせるものがあります。物というものは、人をくたびれさせるはずがない。」
岡 「いまの絵かきは自分のノイローゼをかいて、売っているといえるかもしれませんね。そういう絵をかいていて、平和を唱えたって、平和になりようがないわけですね。・・・・・・自然は何を見ても美しいのじゃないか。自然をありのままにかきさえすればいいのだ。」(無明ということ)
岡 「日本は個性を重んずることを忘れてしまった。」
「物を生かすということを忘れて、自分がつくり出そうというほうだけをやりだしたのですね。」(国を象徴する酒)
岡 「各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみな違っているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが・・・・」
岡 「・・・・世界の知力が低下してきている・・・・」
「世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代になると、物のほんとうのよさがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐ実社会と結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。・・・・・人は政治を重んじ、軍事を重んじ、土木工事を求める。そういうものしか認めない。現在もそういう時代になってきています。ローマの暗黒時代そっくりそのままになってきていると思います。・・・・・・このままだとすると、人類が滅亡せずに続くことができるのは、長くて200年くらいじゃないかと思っているのです。世界の知力はどんどん低下している。・・・・」 (数学も個性を失う)
・・・・・書ききれない^^;
昭和40年の対談ですが、現代人も絶対読んだ方がいいと思います。というか、昔の人はこれを読んで、やばい、何とかしなければって思わなかったんでしょうかねえ。(人間はずっと危機に直面してますが)
数学者、岡潔さんという方を存じ上げなかったのですが、とても面白いというか、するどいなあと思いました。数学にも科学にも感情、情緒(つまり心ということだと思いますが)が必要だ、というようなことを話されています。自然科学は破壊ばかりしている。私、自分という自我による科学は恐ろしい。心(感情)によって科学もなされるわけだから無明を超えなければ、人類はまた近いうちに滅びてしまうかも・・・というのは、まったくだと思いました。
無明を超えて賢くならなければ・・・人間を建設しなれば
星5つ
まあ、何度読んでも損はないと思いますよ。^^
さっそくアマゾンに注文しました。
読んだことがないと思いますが、それが少し気になります。
もし読んだことがあっても、覚えていないからよしとします。(笑)
なお、読後の感想はご勘弁を。(笑)
学び方とか学ぶ姿勢、学ぶとは自分を自由にすること、解放すること(分からないということは不自由だから)、分かるということは喜び、みたいなことをまず学ぶ(体験的に)ことが大事なのでしょうね。
わかりきった簡単なことを学んだって面白くないけど、難しいけれど学び続けて少しずつでも分かっていくというのは、楽しいんじゃないかと思います。現代の先生も生徒も学ぶことを楽しんでしるかな?
現代の学者(といわれる人)には、俗人と変わらない、つまり自分の権威や立場が一番みたいな人(自己中)が多くなったということでしょうね。本当の学者ではなく。
自我については仏教(お釈迦様の教え)を学ぶとよく分かります。西洋的な自我は、自己中と言い換えてもいいかもしれないです。主観第一主義?自分の考えや感覚は正しい、自分は偉いみたいな。
文庫版400円でした。ぜひ読んでみてください。
私は面白かったです。^^
両巨人の対談、小林先生の対談集はよく読みましたが、岡先生との対談は覚えがないです。
>むずかしければむずかしいほど面白いということは、だれにでもわかることですよ。そういう教育をしなければいけないとぼくは思う。
小林、岡先生はそのように語っていらつしゃいますが、教える先生、授業を受ける生徒、どちらも対応できるのでしょうかね?
そんな教育を受けてみたいです。
>学者というものは、俗人じゃないのだから、偉い人なんだという教育
私は学者さんを尊敬していましたが、理化学研究所の学者さん達の対応で、「なんだ権力を守る集団なんだ!学者といえども普通の人間なんだ」とがっかりしました。
>西洋ではそれを自我といっております。仏教では小我といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです。
そうなんでしょうかね?
本を読まないとよく分からないです。
やはり読まなくては。(笑)