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礼とは(『生きるための論語』 安冨歩著)

2019年11月02日 | 論語

「失礼な!」「礼儀知らず」などという言葉を聞くことがありますが、そもそも「礼」って何だろう?わかって使ってますか?


「何が礼で何が非礼かを常に探求する態度」がすなわち「礼」である。
(つまり、何か決まった型があるわけではないということですね)

「礼」の内容とは、「学習の過程そのもの」
AB二人が相互に学習過程を作動させており、「仁」の状態(聞く耳を持ち学びの状態)にあるなら、Aの投げかけるメッセージをBは心から受けとめて自己を変革し、そこから生まれるメッセージをAに返し、Aもまた同じことをする。このときの両者の間のメッセージの交換は「礼」にかなっている。

「和」と「同」
違う人格がそれぞれに把握している「意味」が、相互に一致しているかどうかなど、原理的にわからない。そのわからなさを無視し、互いに「同じ何かを共有している」という思い込みを形成するのが「同」

小人は「同」がなければ不安でたまらない。

しかし、君子はこのようなことを必要としない。人は人、自分は自分である。人が自分の考えを共有してくれているかどうかなど、問題とならない。それはそもそも不可能なことだからである。それゆえ、君子の交わりは、相互の考えが一致しているかどうかなど問わず、むしろその相違を原動力として進む。

こうした相互の違いを尊重する動的な調和「和」という。

 

自分の都合のよい何かを押し付ける。これは「同」。
表面上、どんなに礼儀作法を守ったとしても「非礼」である。

 

対話する双方が共に学習過程を開いているなら、そこには「和」が存在する。そのような状態で取り交わされる行為は、それが対話であれ、舞踊であれ、儀礼であれ、「礼」にかなったものとなる。

礼にとって何よりも貴いのは、個々の振る舞いが約束事にかなっているかどうかではなく、そのやりとりの全体が「和」の状態にあるかどうかである。

 

和が礼の本質である

何かを”強制”したり”押し付け”たりするのは失礼だということですね。
礼儀正しい人というのは、謙虚で常に学びの構えをもち、和やかな雰囲気をもっていると思います。(そして安易に他人に流されない落ち着きがある)

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