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君子の生き方(『生きるための論語』 安冨歩著)

2019年10月30日 | 論語

子曰く、
君子、重からざれば則(すなわ)ち威あらず。學びても則ち固ならず。
忠信を主とし、己(おのれ)に如(し)かざる者を友とする無かれ。
(あやま)ちては則ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。

先生は言われた。
君子たるもの、もったいぶって重々しくなどせず、それゆえ、威張ったり威圧したりはしないものだ。学んでも、自分でよく考えて、固陋(ころう)にならぬように。
まごころに従い、言葉を心に一致させる人と交わり、ありのままの自分でいない者を友達にしない。
過ちがあればそれを改めることに躊躇してはなならない。

 

過(あやま)ちては則ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。
過ちを犯した時の対応の仕方でその人が「仁」であるかどうかがわかる。

学習の構えができているかどうかが、「仁」と密接に関係している
世界とのやり取りの中で、自分のあり方の変更を恐れないことが、学習の大前提である。

 

小人は、自分の過ちを認めてしまうと、全人格を否定されたように感じる。それゆえ、素直に過ちを認めることができず、「言いわけ」をする。

 

自分を常にモニタリングして、人の言うことに耳を傾け、自分の間違いに気づいたら、直ちにそれを受け入れ、更に自分の行動を改める、これが孔子の追求する人間としてのあり方の根幹にある。

 

君子は器ならず
君子は状況に柔軟に変化するので、固定した器ではない

 

夫子の道は忠恕のみ
君主には率直に考えを述べ、君主が立派に政治をすれば協力するが、そうでなければ協力しない

何があっても君子に付き従うのは、不忠である

 

道を以て君に事うるなり。不可なれば則ち止む
道を以て君主に仕え、道が行われないならば、さっさと辞職する

たとえ君主を相手にしても、自分の心を偽らないことが忠である

 

忠にして信
他人と交わるときには自分の心に言葉を一致させて、二枚舌を使わない

 

「自分がまえに述べたこととつじつまを合わせるのではなく、その時点において、自分にとって真理であると思われるところに一致させることである」(ガンディー1997)

 

己(おのれ)に如(し)かざる者を友とする無かれ

如己は如心(=恕)の書き間違いではないか(安冨さん説)
忠信に従う者に親しみ、恕ならぬ者を友としない。
または、己のままざる者を友としない。そういう者は自分自身を偽って飾り立てるから

 

顔淵(がんえん)、仁を問う。子曰く、
己(おのれ)を克(こく)して禮(れい)に復す、仁と為す。
 

自分が無意識にしてしまった間違った行為を恥じ、自分自身のあり方に向き合い、己の魂の隠された傷を明らかにし、悲しみ、さらにそれを乗り越えることで、礼にかなった振る舞いができるようになる、こうすることが仁だ。
このような行為は自分自身でするしかない。

己のままに生きないで、うわべをとりつくろっている者は、克己しない

 

克己・・・己を彫り刻むようにして、自らの在り方を作り変える行為

「克」木を彫り刻む器の形

人は往々にして無意識の衝動にかられて間違った行いをしてしまう。自分のその無意識の作動に気づき、それを認めてはじめて行いを改めることが可能になる。言うまでもなく、無意識の部分を意識するのは容易ではない、それは、自分自身の認めたくないつらい記憶と向き合い、恥じて、悲しみ、乗り越える行為である。これは厳しいことであり、己を彫り刻むようなつらさを伴っている。

 

 

君子は誰よりも謙虚なものである。

常に自分自身に向き合い、学ぶ姿勢をもち、柔軟である。

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