まるちゃんの めざせ!快適シンプルLife

本当の幸せを見つけて・・・
  第2の人生を歩き出した
      まるちゃんの徒然日記
    
 

「仁」とは(『生きるための論語』安冨歩著)

2019年11月16日 | 論語

論語で大事なのはやはり「仁」でしょう。ドラマ「仁」もよかった

自分なりの理解では、「仁」とは

つねに学習の構えができている。すべての物事から学習しようとする柔軟な心をもっている状態や態度。いつでも聞く耳があり、謙虚で、物事をよく見て、自分を向上させ続けようという態度でいる、それが「仁」なんだと思います。

もし「勉強」を「勉めることを強制する」と読むならば、「仁」は勉強ではなく「学習」でなければならない。
学習の過程が開かれた状態や態度が「仁」。

外からの強制や押し付けではなく、自ら心を開き、自ら気づき、自分のあり方を変えていく。

変わり続けることを喜びとする。これは「無常」だからできるのですね。

 

では、安富さんの著書から、、、 

仁者は憂えず

自分と周囲が正しく構成されて、内にも外にも憂いがない状態が「仁」


なぜ仁者は憂えないのか?
 

「仁」の回路が適切に作動していない人がいると、
その人が他者とコミュニケーションをとろうとしても、
そこに「礼」の回路が作動しないため、調和を創り出すことはできない。当然そこには「和」も生じない。

仁者は周囲のコミュニケーションを正しく統御し、
自らと共に周囲の人々の学習過程の作動を常に活性化させている(仁)、
すると「和」が生まれ、
そこにおけるコミュニケーションは「礼」にかなっている。

人間関係が良好になるので憂えることがなくなるのですね。

 

人が「忠恕」の状態(仁)にある時、そこにたどるべき「道」が見える。
この「道」がはっきりと見えないのが「惑」という状態である。

惑いがなく、「道」がはっきりと見えている状態が「知」である。

「道」がはっきりと見えていれば、そこを歩けばよいのであるから、
何も恐れることはない。この恐れぬ心が「勇」である。

 

人々がこのまっすぐな「道」を歩む時、社会に秩序がもたらされる。
人が本来の感覚に従う(恕)とき、そこに秩序が生じる。

学習停止という悪の連鎖を断つことが、社会の安定にとって大切なこと


怒りを遷(うつ)さず
人にひどいことをされた場合に、それを直ちに自覚し、その当人に対してのみ怒りを向け、他の人に向けたりはしない

これは君子にしかできない。
いかなる状況においても、学習過程を維持することでのみ実現される。

さらに上の状態が寛恕。怒りがない状態。(個人的にはこちらになりたい)

 

八つ当たり、弱い者いじめの問題、最近多くないかな?
圧力、押し付け、自由という名の弱肉強食の競争を押し付ける社会(←不自由)。今の社会が息苦しいことの現れではないかと思います。

英語教育やらIT教育やら”道具”の使い方よりも、押し付けられない人間教育が大切なんじゃないのかな? 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 孝とは(『生きるための論語... | トップ | 日本社会の閉塞感(『生きる... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

論語」カテゴリの最新記事