長姉の次甥が、仕事の関係で(また転勤近いが)長岡在住ってこともあり。
その人物像には、非常に興味があったので。
NでHなK「その時歴史が・・・」の、河井継之助を取り上げた回を観る。
幕末期の長岡藩の財政を立て直した、改革者としての功労がある一方で。
維新では新政府軍と対立して、北越戦争を引き起こした当事者でもあり。
圧倒的兵力を持つ新政府軍相手に約二ヶ月も抵抗したとは、なかなか豪気な方よのお!。
とは、思ったのだが。
TVで映された、戦病死後暫くして長岡の寺に建てられた墓の墓石には、無数の傷が。
誰とも無く、墓石を金槌等で打ち付けたものらしく。
それは、長岡を戦場にした挙句、町を灰燼に帰した河井君への“怒り”の証である、との事らしい。
いやまあ、確かに“怒りたい”気持ちは理解出来るけどなあ。
新開地たる北海道生れで“第三者”である己の視点から見れば。
それは“怒りの矛先”が違うんでないかい?、とも思うのですが・・・。
・・・後にこの地は、国家権力の頂点にまで昇り詰めた「田中角栄」という巨魁を生み出すわけだが。
それはひょっとして、かつての薩長閥に対する“一種の意趣返し”でもあったのかなあ。
なんて突飛な事を考えてしまうのは。歴史の深読みし過ぎ~、でしょうか・・・。