さて、幕末の宮内には二人の全国的に名の知れた人物がいました。藤井高尚と真野竹堂です。一人は文学者でもう一人は実業家で、しかも素朴家で頼山陽などの学者のパトロンでもあったのです。此の二人の家はほんの数町しか離れていないいにもかかわらず、やり取りは総て手紙で行っていたのです。だからこそ、当時の二人が、どのような考えで、どのような行動を取っていたかがつぶさに分かるのです。現在、宮内には高尚から竹堂宛の数百通の書面が残っていていて、見ることができるのだそうです。
その二人の手紙のやり取りを紹介している最中あったのです。話を中断して、横道にそれておりましたが、その続きを今日から、又、始めます。
こんな書面を前に紹介しました。
“精進は御止めにてかきぞうすゐを弁当に被成候が可宜小屋へ被仰付候か宜候さかなは一種づヽ宵と更て二度に出し候か宜候。・・・・”
人をやって伝言でもすればいいものを、一々その都度、このような面倒な書面のやり取りをしていたようです。まだ鉄道も郵便も何もなかった時代の事です。たった250年の昔にですよ。