一月晦。江漢は、その前日の狩猟で得た鹿3疋、その肉でしょうか藩主木下利彪公から頂いています。ところが、それからたった5日後に、再び、この利彪公は、近くの山で鹿狩りをしています。よっぽど鹿狩りが好きなのだったのでしょうかね。
それにしても、あまりにももの好きといってもいいよな突飛な2月4日の鹿狩りではなかったのではないでしょうか。5日前の狩りは、帰国されたて始めの狩りだと思いますので、それはそれだけの意味があるように思われますが、その狩りを済ましてから、たった5日後の狩りです。どうもその辺りが合点がいかないように思えます。何か、一週間の間に、二回も狩りする必要があったのではないでしょうか。
こんな疑問を持ちながら、これ又、いろいろと調べているうちに、その理由ではないだろうか??と、思われる様なものが見つかりました。それは「春波楼筆記」に書いてありました。
「予鹿の生血を啜らん事を言う。領主俄に狩に出られけるに・・・・」
と、あります。これから推測できるのは、例の岩石聳たる処を見学して、「帰りて御殿に参る」と、ありますから、二月三日の事です。2度目の木下侯とのお目通りが適います。その席でも、話が弾み、先日、頂戴した鹿肉の話も、当然、吉備津神社氏子の料理人の話もですが、話題に上った事は間違いないと思います。その時、江漢は、木下公に
「拙者、あのように鹿肉さへ料理するのもいやがっておりますお国の料理人には相済まないのですが、エゲレスなど西洋の者どもは、鹿の肉は勿論、その生血でさえ、平気で啜って飲むのだと聞いております。私も、出来る事なら、西洋の者どもがするという鹿の生血を啜ってみとう存じます」
と、申し上げたのではないでしょうか。
それを聞かれた藩主利彪公も大いに驚かれたに違いありません。
「何、鹿の生血を!!!これは面白い事になるぞ。いい加減な事を申して。果たして、江漢め、本当に鹿の生血を啜ることが出来るのか。試してみるのも一興だ」
と、心の中で、思われたのかどうかは分かりませんが、急遽、「領主俄に狩にでられけるに」と、相成るのです。そこらあたりは封建領主です。御自分の料簡で、どうにでもなったのだと思われます。連れ出されるご家来衆に取ってはいい迷惑な話ですが、領主の一声で即決です。
ここら辺りにも江戸期の大名政治のおおらかさと言いましょうか、いい加減さが顔を覗かせています。現代では到底考えられない、教科書には乗っていない、封建社会の政治実態が存在していた事を示すいい例なのです。用人の黒宮氏の、口をひんまげ、苦虫をかみつぶしたような困り切った顔が想像できます。
どうでしょうか。この私の推量は??????ご批判願えればと存じます。
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