江戸時代の山陽道について調べてみました。 当時の地図など、余り詳しくは分りませんが、藤井俊先生の「吉備津神社」(岡山文庫52)によると、江戸中期ごろになると本陣、脇本陣が一軒づつ置かれ、はたごの数も70軒,その他茶屋も相当あったようです。飯盛り女も相当数いたようです。今はその面影は何処を捜してもなく、ただ、道に沿って続く軒の低い家並の中に、往時の面影をしばしとどめているに過ぎません。吉備津神社の付近の宮内と並んで、江戸時代の山陽道の中で、一番隆盛を極めていた宿場町であったということです。
この板倉の町には、当時芝居小屋が、例の「あたごさん」の下手に立てられていたと言う事です。この芝居小屋の火災予防のために、この祠が作られたのではないでしょうか。
このあたごさんの上手の家を最近になって壊したところ、軒垂木にやけだだれた跡が見られたと、その屋のご主人が言っておられました。
古老の話ですと、この地にはもう一軒の芝居小屋もあったと言う事です。宮内にも一軒あったそうですから、この地がいかに繁昌していたかがうかがえると思います。
“かき氷”と聞きますと、自然に遠く過ぎ去った昔が思い出されます。
もう何年も使っているのでしょうか、下の部分が少々破けて、軒の深い麦わら屋根のみすぼらしい店先の入り口に立てかけてある竹ざおの先に、ぶら下がているあの旗がまず目に浮びます。
その旗の赤い「氷」と言う字だけが、やけにぎらぎらと輝いていつも見えていました。
10銭かそこらあたりのの値段だでしょうか、でも、毎日買ってもらえるわけではありません。まあ10日に一回ぐらいあればいいほうです。それを手にしっかりと握り締め、小走りで懸けていった夏の日が、ついこの間のように思い出されます。
ねじり鉢巻をして、首にはいつも小汚いタオルをかけた『しいやン』と呼ばれていた初老のおじさんが、青ペンキかなにかを薄汚く塗ってある小さなガラス窓越しに、手回しの器械で、ガラスの一寸洒落た色つきのお皿に、ガラガラシャッシャ、ガラガラシャシャと削ってくれ、瞬く間に、その器に山もりにかき氷が積もって行くのをいつも眺めていました。
「もう少し高くなれ!」
子供心にいつもそんな思いで、うず高くなる白い氷を見つめていました。
それから、しいやんが、アルミの蓋がしてあるガラスの入れ物に入っている赤と黄の蜜を、これもアルミ製の小さいひしゃくで掬い上げ掬い上げして、かけてくれます。
白い氷の山が、その掛け蜜によってやや低くなるのを不思議な世界の中に引き込まれるようにして見つめていました
その出来た色のなんて美しいこと。スップンだったと思うのですが、そんな洒落たものが、私の田舎にあったかどうか記憶には残っていませんが、その赤と黄の色をした氷を掬い取り、一口、口に入れたときの感動はいつまでたっても忘れられないものです。
甘さと冷たさと同時に、私自身の幸福感も満足感もなんもかんも、みんなぐちゃぐちゃに、一緒くたになって味会うことができたように思われました。
この"かき氷"という言葉を耳にすると、いつも、こんな遠い昔の風景が、頭の中で、飛び回っております。
「あたごさん」こんな言葉聞いたことありますか。 JR吉備線と旧山陽道が交差している所にある板倉踏切の傍に小さな祠があります。それがわが町の『愛宕さん』のお社です。 江戸時代には、旧山陽道板倉宿は、この一帯に東西に約1000mに渡って位置していたようですが、今は、昔を偲ばせるような佇まいは何一つと言っていいほど留めてはいません。ただ、軒の低い家並みが、当時の宿場の賑わいを留めているに過ぎません。 その名残のひとつといっていいのが、この祠、『愛宕さん』です。今だに町内の人たちが、昔ながらに7月23日に、幟旗,提灯を掲げ、僅かながらにお祭りを続けています。
しかしながら、どうして、このお祭りをと言う事は、今では人々の口に膾炙されることもなく、ただ、形式的にお祭りだけが延々と続けられております。それで結構ではないかと思います。
「ものには形でなく心が留まっておれば、それが存続の条件になる」 と誰かが言っていますが、その通りだと思います。
理屈では説明でできない何かがこの世の中にはあると思います。そんな風習を大切にしたいものです。
(このいいようには少し自身がありません。ご意見をどうが)
地球温暖化を頭に描き、「一人一人の心が美しい未来の地球を作るのだ。私も」と、いつも心で思うのですが、自分の事となると、なかなか守れない弱い自分に遭遇しています。
行幸と言えば、わが町吉備津にも明治天皇が明治43年秋に行幸されています。JR吉備線吉備津駅に、陸軍の大演習の視察のため降立たれました。
その記念碑が「惣爪」の(足守川のほとり)小高い丘に立てられています。
この明治天皇は生涯に非常にたくさんの御歌をお作りになっていらっしゃいます。
明治43年だけでも、104首のお歌を詠みになっています。
(「明治天皇御歌」(文部省発行)と言う本によりますとご生涯に1687首の御歌お詠みになったそうです)
この行幸のとき、果たして、お歌を御読みになったかかどうかは定かではありませんが、吉備の国でお詠みになったのではと想像できるようなが御歌がありますので、ご紹介します。
旅宿雨、旅宿朝、旅宿夢と題して;
・草枕たびのやどりに着きて後うれしく雨はふりいでにけり
・このゑ人こまひきいづる音すなり朝だちすべき時やきぬらむ
・あすもとく軍ならしのさまみむと思えば夢のさめがちにして
また、この演習視察中の、足守川の小高い丘に御立ちになった時に御詠になったのではと思える歌も2,3首が見当たります。それを。
・をしねほすしづが垣根をみつつゆく秋の旅路のこころよきかな
・菊の花人見すべくなりぬるをまだ色うすし庭のもみぢ葉
・近かからぬ水のひびきもきこえけりけふしづまれるよはの寝覚に
吉備平野のど真ん中の、知られざる隠れた絶景地です。心のどかな、大変しずもれる場所です。
診断結果;順調なる成長振りとか、じいちゃんも診察室に一緒に入り、医師の検察を見守りました。
お医者さんの真剣なる診察の様子に、今更のように、感謝しながら小児科の存在をありがたく見つめました。
触れる手に やさしさの見え よしよしと
子に語り掛け 医師は若かり
赤ちゃんは 聞こえているよと 言う医師の
診察室の 声の優しさ
彼の著書を紹介します
1おくれし雁、2神の御蔭の日記、3消息文例、4松屋文集、5日本紀ノ御局ノ考
6浅瀬のしるべ、7伊勢物語新訳、8大祓後々訳、9松屋文後集、10出雲路日記
12松の落葉、13源平拾遺、14松屋文合、15古今集新訳 16松屋家集
など沢山の著書あり
なお、明治26年に出版された伊勢物語講義(今泉定介著)によりますと、高尚の伊勢物語新訳は、古来から解釈せられものの中で、兼良、季吟、宗祇、契沖、真淵、春満などと共に十首の中に入っています。
これだけ調べるのは大変でした。ああしんど
岡山市立高松中学生の皆さんが、今朝我町内の道路などに散らばっている缶類等のゴミ拾いをしてくれました。
その活動にあわせて、町内の人たちも彼らと一緒にゴミ拾いをしました。ありがたいことに、この運動の成果が現れ、年々拾うゴミの量は少なくなっています。
お蔭で、気持ちよい、きれいな町になっています。
梅雨空の中に、吉備の中山が緑に包まれ、どっしりとした雄姿を見せています。
新古今
常盤なる吉備の中山押なえて千とせの松の深き色哉 (読人不知)
緑なす吉備の中山雨に濡れ恋しき人の傘あらなくに
(昔、藤原成親が、このお山で恋しい人を待ちながら雨に打たれながら殺害さ れたと言う事を聞き)
この旧山陽道に沿って、山の南斜面一帯に墓地が広がっています。その墓地の一番上部に目立った墓石が並んでいます。
この墓石が藤井高尚のお墓です。
藤井高尚さんについては、次回にご紹介します。
この枝の張り出す道が、奈良時代の昔から設定された山陽街道なのです。
この道を人や物が行き来して多くの物語が生まれています。
奈良時代にはこの辺りまで海が入り込んでいたと言う事です。吉備の穴海と呼ばれていたそうです。その海岸べりに道が設置されたと言うことです。
現在、江戸時代の初期に作られたと言われている「真金一里塚」が、比較的当時の姿を比較的よく留めて残っています。松(山側)と反対側に榎を植えた塚が残っています。
その塚のにある松や榎は何代目かは定かではありませんが今も植え継がれています。
次は、吉備津宮参道を取り上げます。
梅雨の合間です。お天気の週間予報では、今日は雨でしたが、朝起きてみると雨は降っていませ。
早速延び延びになっていた生け垣の剪定をしました。サザンカも楓も徒長した枝が道路にもはみ出し不恰好そのものです。
どんよりとした曇り空ではあったが午前中を費やして剪定をする。「格好よい」とはいえないまでも、さっぱりとした感じに刈り込めたようで、自己満足しています。
おおいに