この小雪物語で、小雪の舞う熊五郎が主催する全国のやくざの大親分方の一大博打大会を「鳴竈会」と銘打って行うのですが、この「鳴竈」と言うのは一体なんだろうかなと思われたのではないかと思います。
そこで今日は、又又ですが、このお話を離れて吉備津神社にあるお釜殿に付いてそのいわれを小々説明しておきます。
このお釜殿は、吉備津神社の長い回廊のちょうど中間辺りに「御竈殿」と古ぼけた看板が懸かっています。釜ではなく、竈と言う字が書かれています。
この建物が完成したのは、この御竈殿の棟札に書かれている文字から、「慶長十七壬子暦九月・・・」であることが分かっています。この年は西暦に直すと1612年です。今年で、ちょうど400年になります。更に、この棟木には、この御竈殿を建立した人は、早島の住人安原備中守草壁真人知種であること記されています。
この地方の言い伝えによりますと、この知種は、元々、帯江銅山の経営者の一人として、その手腕を発揮していたのですが、どうして石見の国まで手を伸ばしたかと言うことはよく分からないのですが、多分、一念奮発してだと思うのですが、当時、将軍家康もその開発に力を注いでいた江洲石見銀山の開発に、その帯江銅山開発の技術を生かそうと出かけたのではないかと思われます。そして、やがて、石見銀山で一,二番と言われる「釜屋間歩」を発見します。(この間歩は現在のところは公開されてはいません。)その開発の功により、家康より、特別に「備中守」という称号も授かっています。なお、開発した釜屋間歩から上がる莫大なお金の一部を、知種こと安原伝兵衛は故郷の早島の鶴崎神社と吉備津神社に寄進します。その資金によて、その時、1612年、今からちょうど400年前ですが、吉備津神社の御竈殿は建立されます。
これは私の推量ですが、彼が見つけた石見銀山でもその第一級の埋蔵量を誇る間歩です、その名前も釜屋と言います。ひょっとすると、彼が石見銀山の開発に向かう前に、この御竈殿でその吉兆を占ってもらい、その時にこの竈が大変大きく鳴り、その前途の吉を暗に示したのではないかと思われます。そして彼が見つけた間歩も、この御竈殿にちなんで、わざわざ「釜屋」と命名したのではと思っているのですが。
明日は、この鳴る竈のいわれを少々ご紹介します。こうご期待!!!!